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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/4イースター礼拝説教「石をわきに転がす神」マタイ28:1〜10

☆説教
今日は聖歌隊の賛美を聞きました。時々申し上げますが、私たちの聖歌隊にはオーディションはございません。是非歌ってみたいなぁと思っておられる方がいらしたならば、加わっていただきたいと思います。

今朝はイースターですので、マタイの福音書の28章を開いていただきたいと思います。文字通りイースターの出来事が記されております。1節からもう一回読んで行きます。
1節「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、(つまり日曜日の明け方です)マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た」。

1)復活の出来事はこの墓場の出来事です。

短く3点でお話をしたいと思いますが、27章はイエス・キリストの十字架が描かれています。そして十字架の最後の記述はお墓で終わっています。27章の57節を見てください。
57節「夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた」。***このヨセフがイエスの遺体の下げ渡しをピラトに願い出ます。
58節「この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた」。
59節「ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、」
60節「岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入り口には大きな石を転がしかけて帰った」。

私たちの人生は、墓で終わります。散骨と言う人もいるでしょうし、しかし人の人生は必ず死をもって終わるのです。金曜日に、イエスさまの遺体は墓に納められ、土曜日のことは何も記されていなくて(当時は安息日だから動きがなかったのでしょうか?***T・Y)、そして、次は日曜日の朝、そこもやはり墓です。

1節の最後に、「マグダラのマリヤと他のマリヤが墓を見に来た」。この「見る」という言葉は、「じっと見つめる」というような、強い気持ちです。他の福音書では、女たちは、遺体に香料を塗って丁寧に埋葬をし直すために墓に出かけていったと記されています。しかしマタイは独特な記述をします。実はこの二人の女たちは、主イエスの葬られた墓を見つめるために出かけた、と。

これは、すでに2 7章6 1節 にも語られています。(アリマタヤのヨセフがイエスの遺体を墓に納めていたとき、)「そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた」。つまりここでも彼女たちは、主イエスの墓をじっと見つめていたのです。何をするでもなく、墓をじっと見つめて座っている二人の女性たちをマタイの福音書は描いています。愛する者を失い、その死の悲しみによって完全に心が砕けてしまった、日常の生活で何にもすることができないほど放心状態であった。

この「もう一人のマリア」は主イエスの母マリアではないか、という説があります。だとすれば、愛する息子の死、しかも非業の死を嘆き悲しむ母親の姿、何をするわけでもなく、墓を見に行く、実に象徴的です。マリヤたちが、墓に赴き、遺体に香料を塗り、丁寧に布に包み直したとしても、それ以上のなにものでもない。イエスさまへの追憶を深めるかもしれません。しかしそれが終わったら、またしばらく墓を見つめているのでしょう。人の人生は墓で終わります。そして、周りの愛する者たちは、亡くなった人を慕って、墓に向かう。しかし、墓を見つめる以外に何もできない。墓石に水をかけ、墓の周りの雑草を取る。しかし、私たちは、そうして人生を終わって行きます。人生のさまざまな出来事の中で私たちは頓挫し、絶望し、あきらめ、墓を見つめて生きているのです。

2 ) 神さまは、墓石を転がしてくださる。

2節をごらんください。「すると大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである」。神さまが墓石をわきへころがします。いったい誰のために石を転がしたのか?中に納められていたイエス・キリストを、外に出すためであったのか?いえ、死を克服された主に対して、こんな石など何の力もありません。いや、その必要さえもない。福音書の他の記事を読みますと、よみがえりのキリストは、戸が閉じられていた部屋でも、どこでもすり抜けて入って行かれる復活のからだを、霊的なからだを持っておられました(ヨハネ20章19節と26節でしょうね***T・Y)。

では、誰のために、この石が除けられたのでしょうか。明らかに、二人のためです。二人のマリヤのために神さまは石を転がされた。石が除けられたのは、イエスさまのためではなく、この忠実な二人(のため)、イエスさまが外に出るためではなく、二人が中に入って復活の力を味わうためにです。

イエスさまは天から、墓を見つめて、人生を頓挫して、絶望して、なすすべもなく、墓石だけを見つめている私たちに対して、天使に命じて石を転がしてくださるお方です。二人の行く手をふさぐぐらい重い石を取り除けてくださるのが神さまです。困難を、一つ、一つ、石を取り除けるように除いてくださる神を私たちは信じています。そうしてこの二人におっしゃったように、見てごらん、わたしの力だ、わたしの栄光だ。墓を見つめるだけの私たちに、墓石を動かして、天使を送り、墓の中がからっぽであることを見せてくださるお方です。

6 節をご覧ください。「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい」。女たちは墓がからっぽであること、それがいったい何を意味するのかは、よくわかっていなかったに違いありません。天使が教えてくれました。「イエスが死人の中からよみがえられた」と。しかしそう教えられたとしても、イエスの復活の意味さえも、まだ女たちはわからなかったに違いない。しかし、じっと墓を見つめていた女たちにとって、墓石が動かされた。中に入ることができた。中に入ってみたら、イエスの遺体はなかった。その事だけで、彼女たちにとっては世界が変わりました。

じっと墓を見つめている私たちに、神さまは何か小さな石を動かされる。その事によって、私たちは確かに神さまは私たちのことを心配していてくださり、私たちの祈りに応えてくださり、私たちの人生を阻むところの石を一つまた一つと、退かしてくださるお方だということが私たちにわかるのです。

学校の先生が地域のボランティアをしようと思って、地域の病院に申し出をしました。回ってきた仕事は入院している子どもに、何でも良いから、先生教えてあげてくださいというお仕事でした。小児病棟を回りながら、いろんな子どもたちの勉強の面倒を看ていました。ある時、先生が病院に行くと、病院のスタッフは、先生に中学生の男の子を紹介しました。先生に説明しました。この男の子に、宿題を手伝ってあげてほしい。回復したときに、あんまり後れを取らないために。そして、国語の文法を教えてほしい、という風に先生に依頼します。

先生はその病棟に行ってみると、驚きです。やけどの病棟で、火事で身体の6 0 % がやけどで、至る所に包帯が巻いてあります。痛みに耐えている少年、包帯で不自由な少年です。先生は、躊躇しましたが、背を向けて、帰るわけにも行きません。先生は、ベッドの傍らに腰掛けて、自分を紹介して、それから画用紙をだして、黒板に見立てて、マジックで文法を教えました。「大丈夫。私は学校の先生なんですよ。病院でボランティアをしていましてね、今日は君のところに来て、宿題を手伝うように言われたんです」。少年はあまりの痛みに、返事も出来ません。顔にも包帯がかぶっています。先生は、冷や汗をかきながらなんとか4 0 分、教えました。

次の日の夕方、病院に着くと、やけど病棟の看護婦さんに呼び止められました。「先生、あの子に何をしたというのです? 」先生は、すぐに謝りました。「申し訳ありません。意味がなかったですよね。私もなんであの子の隣に座って、文法なんか教えたのか… … 」看護婦さんは、一生懸命謝る学校の先生を笑顔で遮って言いました。「いえいえ、そういうことじゃないんです。あれほど人生にあきらめていた少年が、今朝から元気なんです。先生がいったい何を教えてくださったのですか?」

後から分かりました。少年は、大きなやけどを負って、生きる希望を失っていました。少年はひとことでいえば、墓を見つめていたのです。しかし、あの晩、先生が宿題を教えにやってきました。少年は思ったのです。助かる見込みのない人間に、国語の文法は教えないだろう。自分は助かるんだ! ― ― 少年には希望の光が見えて来たのです。

神さまは、墓だけを見つめる私たちに、小さな石、時に大きな石を動かしてくださいます。そして、神さまが石を動かしてくださったのだと思うと、私たちは同じように思う。終わりじゃない、これからだ、と言わんばかりに、神さまは石を動かしてくださる。そして中に入って少し見てごらん。違う世界を見てごらん。君は墓の外に立ち、そして墓の中は死の世界だと思っていただろう。私は君のためにちいさな墓石を動かした。中に入って見てごらん。そこには神の力と栄光があふれている(と言われる)。

4月に入りまして、新しい世界に踏み出そうとするとき、時に私たちはそこが墓石のもとで、中には死の世界であふれているかのように思います。自分では新しい世界に入って行く勇気もなく、ただ墓を見つめているだけかもしれませんが、しかしイエスさまはその墓石を動かしてくださる。それは小さな出会いかも知れない。不安を覚えて新しい世界に飛び込んで行ったら、何か一つ声をかけてくれる。誰かが声をかけてくれることによって、私たちは「なんだ、この世界で生きて行けるのか」と思うものです。

墓は空っぽでした。女たち二人は何かが始まるということを察知したに違いない。神さまの働きがいったい何かもわからない。しかし死の世界だと思っていた墓の中がからっぽであったということは、神さまの働きが始まって行くのだということが分かった。

キリストが死者の中からよみがえったのならば、そのキリストは、私の人生を変えてくださるというのがイースターの礼拝です。イースターの礼拝と言うのは、礼拝の中の礼拝で、すべての礼拝はこのイースターの礼拝から始まって行きます。その意味するところがすべてわかるのは、私たちがやがて死を迎えるときだろうと思います。そのときに、私たちも復活の力をすべて知ることができるのでありましょう。今は、わずかしかわからない。しかし、小さな石が動くだけで主は生きておられ、であるがゆえに、人生を投げて墓を見つめるだけの私たちのために、墓石を動かしてくださった主は、その栄光の力は、墓の中に入って行った時に見せてくださるということを私たちは期待する。

3 ) 喜びなさい

物語を素直に読んで行きたいと思います。7節から10節までを交読致します。
7節「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました」。
8節「そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った」。
9節「すると、イエスが彼女たちに出会って、『おはよう。』と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ」。
10節「すると、イエスは言われた。『恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです』」。

墓が空っぽであったということを確認した二人の女は、急いで弟子たちのところに走って行って、その事を知らせに行きます。すると9節に、イエスは彼女たちに出会って「おはよう」と言われた。この『おはよう』にご自分の聖書であれば丸をしていただきたい。もう一つは10節に、イエスは言われた。行って『わたしの兄弟たちに』、このことばに注目していただきたいと思います。

「おはよう」と言った。----「おはよう」って、皆さん、朝起きたら「おはよう」と言います?あんまり疲れていますと、あんまり眠いと「おはよう」ということばも出て来ないですね。私は時々、もう妻と二人だけで暮らしていますので、「おはよう」なくして朝が過ぎて行きます。(笑)一番最初に「おはよう」と言うことばを聞くのは、スリーエフの前の高津駅の改札のこちら側に立っている(笑)あの方は有名です。私はねぇ、東急電鉄はあの方に表彰状を渡してもいいと思う。それはこの(高津駅の)拡張工事で多大な迷惑をかけた。そしてこの町内でも、騒音、トラック、それから泥、もう私たちはさんざんな目に遭っている。でもあそこのあのおじさんの「おはよう」だけで私たちはすべて赦しちゃう(笑)。朝まだ疲れて眠い時に「おはよう」とこう言われるだけで、雨の日も風の日も寒い日も雪の日も、あの方の『おはよう』だけで生かされている高津の住人がいると言っても過言ではない。

しかしここの「おはよう」は特別です。「おはよう」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「カイロー」で、一般的に「喜べ」とか「喜び」と訳されます。これが、挨拶でも使われるのですが、有名な「カイロー」が挨拶の言葉として使われている場所として、たとえば、あの乙女マリヤに天使が現れ、そして、「あなたは聖霊によって身ごもった」と言う、あの受胎告知の場面で天使が一番最初にマリヤに言ったことばは何と訳されているのか?そこでは( ルカ1 : 2 8 )「おめでとう、マリヤ」です。(挨拶なのですが、)あの「おめでとう」が「カイロー」です。

ですから、この場面ではイエスさまが女たちに出会っているのですから、イエスさまの方から「おめでとう」ということばはふさわしくない。でもふさわしいことばがあるとすれば、そもそもの「カイロー」の意味、つまり「喜べ」です。大喜びで帰って行ったということは8節に書いてあります。しかし「恐ろしくはあったが大喜びで急いで墓を離れ、」です。まだ不安やあるいは恐れがたくさんある中で、女たちは帰路に着きます。そこに(復活された)イエスさまが出会って、そして、命ずるかのように『喜びなさい』(と声をかけてくださいます)。

礼拝に来た私たちは、『喜びなさい』と言われて帰って行きます。喜べない事情が沢山あるこの人生の中で、礼拝が終わって帰って行くときは、イエスさまは『喜びなさい』と語りかけられて私たちは帰って行くのです。その最大の理由は、1 0 節にありますように、『わたしの兄弟たち』と弟子たちに呼んでおられます。『わたしの兄弟たち』と言われているこの弟子たちは、十字架を前にしてイエスを否み、イエスを裏切り、イエスを捨てて行った弟子たちです。しかし、そういう弟子たちに、主は『わたしの兄弟たち』と呼びかけてくださいます。数日前にイエスを裏切りイエスを捨てて行った者たちです。

しかし彼らを『わたしの兄弟たち』と呼べるイエス・キリストは、弟子たちのその罪深さをご自身の十字架に背負い、その罪を担ったと。わたしは墓ばっかり見つめて、嘆いて怯んでいるあなたに、死の力から逃げることのできないあなたに代わって、わたしは死の力を打ち破った。自分の失敗や情けなさを見つめて絶望しているだけのあなたに代わって、その恥も罪もすべて担った。そしてあなたの人生の石を転がす。だから『喜びなさい』。イエスさまはそう言って、私たちに出会ってくださる。それがイースターであり、それが今朝の聖餐式であります。ご一緒に聖餐式の讃美歌を賛美いたします。393番(「しみもとがも」)を1〜3節まで歌いましたら、聖餐を分餐してくださる役員の方々は前に進み出てください。

☆今日の聖餐式中のお祈り
●天の父なる全能の神さま、私たちは今から、御子イエス・キリストの命じられた聖餐の礼典に与り、主イエス・キリストが受けられた、私たちのための御苦しみを覚え、新しい信仰を抱いて、その贖いを自らのものとし、献身を更新しようとしています。
今聖霊の光に照らされ、すべての罪を悔い改め、十字架の救いを信じ、御子イエスの血潮を仰いでいる御前にいる私たちを憐れみ、キリストの御体と血潮に与らせてください。このパンとぶどう液をみことばと御霊によって聖別し、信仰をもって受ける私たちをキリストのいのちに与らせ、私たちの人生にその行く手を阻む墓石があるならば、それを動かし、死の世界だと思っていた世界に光を当て、あなたの復活の力と希望にあふれさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。393番の4節から6節までを賛美いたします。

●だからこう祈りなさい。天にいます私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように。私たちに私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人を赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。(マタイ6:9〜14、主が弟子たちに教えられた、いわゆる「主の祈り」)

●天に宝を積みなさい。そこでは虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:20〜21)

●だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(マタイ6:25〜26)

●だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)アーメン。

●こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきりと見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ1:15〜19)

●こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その(愛の)広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。アーメン。(エペソ3:14〜19前半)


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