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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/4 聖さん式礼拝と説教「汚れも恥もはずかしめも」イザヤ53:1〜6
7/4 聖さん式礼拝と説教「汚れも恥もはずかしめも」イザヤ53:1〜6

☆説教
先週の日曜日、国府津(こうず)教会にて、奉仕をさせていただきました。講壇を埋めていただきました黒川先生に心から感謝致します。
国府津というのは、東海道線の小田原の手前にあります。駅前に付きましたら、ほとんど何もない、割とさびれた教会でありました。ごめんなさい、割とさびれた駅でありました(大笑)。教会からは海が見える、相模湾が一望できるという珍しい教会で、とても小さな人数でありますけれども、よい教会でした。
私は教会よりも駅に関心がありまして、昔丹那トンネルがなかった頃、東海道線はこの国府津から御殿場線に向かって、そして山側を通って沼津へ抜けて行く、ですから駅には当時の蒸気機関車の写真が沢山展示されています。いくつもの機関車が放射状に機関車をしまっておく建物がありまして、その放射状の中心に回転台がありまして、その上にレールが乗っている。そして機関車を出入りさせながら線路の方に送って行くという、昔は国府津は国鉄の町ということでありました。
今は、曽我の梅林があるぐらいで、あるかというほどの観光名所はない。そこに太宰治の『斜陽』という小説の舞台となった、雄山荘という古い別荘があった。これが国府津に残る唯一の名所だったそうですが、実は(注***2009/12/26に)全焼してしまいます。でも国府津館という昔ながらの旅館がある。そこには山本五十六の写真があったり、太宰もそこで執筆をした記念があるということを教会員の方がいろいろ話してくれました。何か遠い昔の私のほとんど知らない世界を感じましたが、私は太宰治の名前を聞きましたので、来週の聖餐式は恥とそしりをテーマにしてメッセッジをしようと思って帰ってまいりました。

イザヤ書53章から、十字架の話を致します。

1)恥と辱しめ、恥とそしり。
太宰治の一番最後の小説が『人間失格』で、彼はこれを完了したのち、1か月後に自殺をするのです。この人間失格の一番最初のことばが、「私は恥の多き人生を送ってまいりました」。書き終えて1カ月後、1948年、今ではそんな川では自殺はできないというぐらい小さな川ですが、玉川上水で女性と一緒に入水自殺を遂げます。

太宰治はここにいたるまで、何と5回も自殺を図っています。単独の自殺が2回、心中が2回。しかも最初の心中では、自分は助かって女性は死んでしまうという、そういう出来事でありました。21歳の時、江の島での心中事件でありますが、女性は死に、自分は生き残るという事態で、太宰は自殺ほう助罪で起訴されます。しかし、父親が貴族院の議員ということで実家が裕福な土地を持っているということもあって、起訴猶予となります。

この出来事が彼を辱しめる。心中相手は死に、自分は生き残る。しかも自分は父親の威光によって、起訴猶予になってしまったということで、そしられることになります。そうしたそしりを受ける当然の理由があるわけですけれども、しかし、人生は複雑だなぁと思います。一緒に死のうと思ったはずが、生き残ってしまった者に、世間のそしりが殺到する。自分自身の罪深さ、それがゆえの恥、世間からの嘲りが襲いかかって来ます。

先週の日曜日、高津教会での黒川先生の説教題は「ダビデとシムイ」でありました。息子アブシャロムに謀反を企てられ、ダビデは泣く泣くエルサレムを追われます。そこにシムイが石を投げます。呪いの言葉を投げつけます。息子に裏切られた父の心の傷に塩をすり込むかのように、中傷の言葉をシムイは浴びせ掛けます。ダビデはシムイの投げるそしりの言葉、嘲りをじ〜っと耐えます。ダビデは自分の家庭の難しい問題は、実は自分が作り出した罪の結果であることもよ〜く分かっていました。ダビデの恥、ダビデが受けた嘲り、いや私たちの恥、私たちの嘲りは何もそのような罪深さや、敵意、批判からだけ来るものではないと思います。私たち自身の弱さ、私たち自身の愚かさからも私たちの恥、辱しめはやって来ます。

アメリカのクリスチャン・ジャーナリストにフィリップ・ヤンシーという人がいますが、“Reaching for the Invisible God ”(2000年邦訳『見えない神を捜し求めて』いのちのことば社)という本を書いていますが、その中にこういうくだりがあります。

奥さんのジャネットは毎週近隣の老人ホームで、教会の友だちと一緒に讃美歌や聖書の学びをボランティアでやっています。そこにベッツィーという名前のアルツハイマーの女性が介護の方に付き添われてやってきた。毎週ジャネットは自己紹介をベッツィーにするのですけれども、彼女は記憶がほとんどありませんから、毎回初対面の反応なのです。その集会の中で、頭を少し回転させるために、聖書を輪読するということをするのですが、ベッツィーは単語をその通りに読むことはできるのですが、壊れたレコードのようにまた同じところに戻り、何回も何回も同じ行を読んで、一向に次の行に進まない。

ある日、みんながそれぞれ子どもの時から歌いなれて来た讃美歌を、歌詞を声を出して読んでみようということになりました。ジャネットがベッツィーのために選んだのは、先程賛美いたしました「丘の上に立てる十字架」です。-------丘の上に立てる十字架、苦しみのしるしよ、そこに君は人に代わり血を流したまいぬ-------ベッツィーは読めるのです。ところが、しばらくして、一番最後の--------恥とそしり受くるもよし、責めも死も厭わじ------という文になりますと、【恥とそしり】でいきなり奇妙な叫び声をあげて、そして取り乱してしまうのです。周囲のご老人も同席して口をぽか〜んと開けて、いったい何があったのだろうと。明らかにベッツィーは読んだ讃美歌の意味が分かる。だから叫び声を上げて泣いています。

ジャネットはベッツィーのそばに来て優しく言いました。「嫌ならそこは読まなくてもいいのよ」。ベッツィーは気落ちして、もう一度その節を読み始めました。しかし同じところに来ると声を詰まらせ、大粒の涙が今度はほっぺたを伝っていきます。そしてそれ以降は無理でありました。その作業が終わって、ヤンシーの奥様のジャネットが、このベッツィーの車いすを押して、部屋に連れて行こうとエレベーターに乗ったとたん、ベッツィーが静かに歌を歌い出しました。それは紛れもなく、先程の「丘の上に立てる十字架」でした。しかもその歌詞の言葉は、記憶にそのまんま残っていて、ベッツィーはほっぺたに涙を伝わせながらその讃美歌を歌っていたという話です。

彼女が叫び声をあげて苦しくなるのは、この4節の------恥とそしり受くるもよし-----、英語もそれと同じことばが入っています。どこかでアルツハイマーに侵されたベッツィーの頭の中に、この讃美歌の意味は繋がっていたのではないかという風に、ジャネットとヤンシーは理解しました。どういう風に繋がっているか?

ベッツィーにとって、アルツハイマーに侵されているということはどれ程の恥であり、そしりであり、不本意であるか?かつては元気であり、自由に生き生きとしていた一人の女性が今では記憶もなく、家族もわからず、聖書を何回読んでも同じ行にまた戻って読んでしまう、壊れたレコードのような自分の頭、それが人間の肉体の弱さであり、しかもそれは複雑な弱さです。自分が元気であった頃には考えることもできなかった自分の姿が、彼女にとっては恥であり、そしりであり、しかしそれを受くるもよし。なぜなら、その恥もそしりも主イエス・キリストが一番よく知っておられるから。そしてやがてイエスは再び来られて、私たちを迎える。父なる神の家において、その恥とそしりに耐えて来た私たちに栄光の冠をかぶせてくださる。だから、恥とそしりを受けるもよし、フィリップ・ヤンシーと奥さんのジャネットは、ベッツィーの涙をそのように理解したと言うのです。

2)イザヤ書53章
イザヤ書の53章を開いていただいて、十字架の辱しめというものをあらためて見ていただきたいと思うのです。53章の1節から3節まで交読しましょう。

1節「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか」。
2節「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」。
3節「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」。

『さげすまれ』ということばが2回出て来ますね。しかもそのさげすまれる状況は人が顔をそむけるほど。人からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。まさにこれがキリストの人生であった。

十字架刑というのは、ローマ帝国が始めた極刑です。生きたまま人を木に釘づけにする、磔(はりつけ)にする。その肉体的な恐怖以上に人々は、十字架刑の恥とはずかしめを恐れていました。刑を受ける人は、国家に脅威をもたらす革命的な政治犯が中心でした。ローマ帝国の植民地で、極悪非道の犯罪人もその方法で処刑されますが、一般のローマの市民が、この刑に処せられることはありませんでした。

エルサレムで十字架刑に処せられる者は、自分が掛る十字架を背負います。そして先ず街中を引き廻されます。イエスさまは、それを前にして鞭打たれ、背中じゅう血だらけで、その鞭には動物の骨やあるいは尖った石がはめ込まれていますので、鞭で肉がはぎ取られ、骨が見えて血だらけの状態で自分の十字架を背負い、エルサレムを引き廻されます。引き廻される途中、罵声を浴びせられ石を投げつけられ、つばきされる、そういう習慣なのです。

エルサレムの人々はほとんどイエスさまを知りませんでした。しかし道行く人を含めて、祭りに集まった人は皆、石を投げつけ、つばきし、そして罵声を浴びせます。やがて都の外の、ゴルゴタの丘という処刑場で磔になります。頭には茨の冠をがっしりとかぶらせられ、下着はすべてはぎ取られ、真っ裸にされて、釘打たれて十字架上で死を待つわけです。十字架にかかる者はいっそ槍の一突きで殺してくれと叫びます。でもそれは叶いません。なぜなら、この刑は晒し刑だからです。晒し刑というのは、肉体の痛みと共に、恥とそしりを浴びせられる刑だということです。ローマの兵士も、律法学者、祭司長、長老たちも群衆も道行く人々も、隣で十字架にかかった犯罪人でさえ、キリストを馬鹿にします。「おまえが救い主なら十字架から降りてきて自分を救ってみろ」。「キリスト、イスラエルの王様、万歳、たった今十字架から降りてもらおう。そうしたら、信じるから」。そういう、晒し刑です。

「人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」とイザヤ書(53章3節後半)には預言されています。この方は私たちが人生で受ける恥もそしりも、その傷ついた心もすべて受け取った。

私たちは一人で恥を恥じることはないです。私たちが恥を感じ辱しめを受けるのは人前です。人に何かを言われる。あるいは何か自分の恥を人前で晒されてこの心が傷つくのです。罪深さは神の形ではない。しかし、そう簡単に恥や罪は拭い去られるものではない。皆さんが自分の記憶を辿って考えてみますと、恐らく小学校の頃に先生に叱られて、皆の前で辱しめを受けたということは、覚えている方もいらっしゃるでしょう。もちろん、皆の前で褒められて大変誇らしく思ったという記憶もあるに違いない。

しかし私たちは職場で、あるいは親から、時に自分の家族から辱しめを受ける。それが時に性的な辱しめであるかもしれません。あるいは自分の罪深さゆえに、それが中傷され、陰口を言われ、それがそしりとなることもあるでしょう。その辛さを一番知っておられるのがイエス・キリストご自身なのです。

でもそれだけではありません。主が背負った、主が背負ってくださった恥、そしり、嘲りはすべて私たちのものでありました。4節と5節を交読しましょう。
4節「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと」。
5節「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。

もう一回、4節を見てください。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」。主が背負われた恥もそしりも実は私たちのものであった。5節、「しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。つまり、キリストは私たちの恥とそしりも知っておられただけではない。私たちの恥もそしりもキリストが実は代わりに背負ってくださり、私たちの恥とそしりを拭い去ってくださり、その傷を癒してくださるということです。

3)太宰の人生と私たちの人生、同じ所と違う所
「私は恥多き人生を送って来ました。」と太宰治の人間失格は始まります。「私は恥多き人生を送って来ました。」-----それは太宰治の人生を考えれば尤もだと思いますが、でもどうしてあの書物があれほど読まれるのか?太宰治は『走れメロス』という実にすがすがしい気持ちの良い、温かい小説も書いています。でも『走れメロス』は子どもに読み聞かせたとしても、大人が読むのは圧倒的に『人間失格』です。それは私たちの心の内に、どこか『人間失格』という烙印を自分自身で捺しているからです。そして自分には誇らしいところはたくさんあるかもしれない。でもそんな誇らしさも、たった一つの恥で粉々に砕かれるほど、私たちは恥とそしりでボロボロにされる人間なのです。自分よりも愚かで自分よりも罪深い人間はたくさんいるかもしれない。しかし一旦自分自身の罪深さを意識すると、自分こそは人間失格だと思うほど、この口は災いであり、この体は愚かなのです。

太宰治の『人間失格』の最後は「ただ一切は過ぎゆきます。」です。そのことばを2回繰り返して主人公は死んでいきます。「一切は過ぎゆきます。」------太宰という人物は芥川龍之介と同じく、文豪の中では最も聖書を読んでいた人物です。そしてその聖書には、ただ一切は過ぎゆきます。ということばが記されています。それはイエス・キリストのことばで、太宰が読んでいた聖書では、「天地は過ぎゆかん」(マタイ24:35、マルコ13:31、ルカ21:33)。太宰はこのキリストのことばを知っていたと言われています。だとしたら、このキリストのことばの後半も実は知っていたはずです。「天地は過ぎゆかん。」とおっしゃったときに、その後半のことばは続くのです。「されど我がことばは過ぎゆくことなし」。しかし、太宰治はイエスの後半のことばを葬り去り、「ただ一切は過ぎゆきます。」という恥とそしりの中に自分を投げ込んで、自分の人生を終わりにします。    

しかし、私たちは違う。私たちも同じように人間失格なのでしょう。私たちも同じように、恥多き人生を送るだけの存在なのでしょう。しかし私たちはその恥とそしりを知っておられるイエスを信頼している。そしてそのイエスは、私たちの代わりに、私たちの恥もそしりも、私たちを賤しめる非難の言葉もすべて背負ってくださり、荷ってくださり、私たちの心の傷を癒してくださる。私たちは、イエスキリストの十字架と憐れみの中に自分の人生を投げ込んで生きる。

「されど我がことばは過ぎることなし。」(マタイ24:35他)とおっしゃった主のことばは、「わたしは、天から下って来た生けるパンです」(ヨハネ6:51)、「私に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ6:35)、「わたしを信じる者は永遠のいのちを持つのです」(ヨハネ6:47、11:25-26参照)という、この過ぎゆくことのない主のことばに信頼して、人間失格と思われる私たちは今朝この聖さんに与ります。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、人はみな同じだと思わされる局面が多々あります。たとえ信仰を持っていたとしても、私たちは恥じることに弱いですし、私たちはそしりでボロボロにされて行きます。しかしながら、私たちはその恥とそしりを知っておられ、それを荷ってくださり、いやそれによってボロボロになった私たちを癒してくださり、恥とそしりの冠の代わりに、神の子どもとされ、天の御国へ迎えられる栄冠を被せてくださるあなたに信頼し、これから聖餐の恵みに与ります。どうか私たちの信仰を導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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