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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/18説教「パウロ(29)告別説教2」使徒の働き20:17〜24
7/18説教「パウロ(29)告別説教2」使徒の働き20:17〜24

☆説教
さて今日は「パウロの告別説教の第2」として、前回と同じ、セッティングはほぼ同じです。3年半の歳月を掛けて、最も長く伝道旅行の中では滞在したエペソをあとに、聖霊に縛られるようにパウロはエルサレムにと向かって行きます。彼はエペソの教会の長老たち、指導者たちをミレトという町に集めて話をします。そして最後は36節、パウロは彼らのために祈ります。そして37節、皆は泣きながら別れを告げます。第3次伝道旅行、いや、これが世界を巡って教会を建てて来た、パウロの伝道の最後を締めくくる説教なのです。ですからパウロのことばの中で、最も大切なことばと言ってもいいと思います。パウロの遺言と題します。

先週はここからパウロの人生を学びました。19節で「私は謙遜の限りを尽くし、涙を持って、-------(そして最後に)-------主に仕えました。」とあるように、迫害の中で涙を流し、また理解されない、誤解を受ける中で悔し涙を流し、あらゆることに耐えて、謙遜の限りを尽くして来ました。なぜそれができたのか?それは彼が人に仕えていたからではなく、主に仕えていたという話をしました。

第2に、パウロの人生に特徴があるとすれば、彼は聖霊に導かれて生きて来ました。その生涯、どんな門が開かれ、どんな門が閉じられるのか、それはすべて聖霊の働きによる。ですから、迫害が待ち受けているこのエルサレムに向かう時であっても、彼は聖霊に縛られるかのように、「私はそこに自分を委ねてそこへ向かうのだ」という話を致しました。

第3にこの個所からパウロの人生を学ぶとすれば、それは一番有名な24節、「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」。

[いのちを惜しいとは思わない。この走るべき行程をひたすら走る。]というこの自覚、覚悟がパウロをこれほどまでに勇敢な、冷静な、平安にあふれる人物、そして自由にあふれる人物としていたということを知りました。

今日はその続きで、告別説教の前には、彼は教会について語ります。前半が彼の人生の証しだったとすれば、後半は彼が、教会というものが何であるか、エペソの人々に改めて確認している場所を見たいと思います。

さて、後半はパウロの「教会とは何か?」、とっても大切なことですので、皆さん、声を上げて読んでいただきたいと思います。先ず教会は、(何であるとパウロが強調しているかを知るために)第1番目に28節を一緒に読みたいと思います。この28節を中心として問題といたしますが、沢山の要素が積みこまれています。そしてそれを全部見ることができませんけれども。(28節を一緒に読む)。
28節「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです」。

1)『神がご自身の血を持って買い取られた』教会―――以下『』を付けます***T・Y

聖霊は、『神がご自身の血をもって買い取られた』神の教会を牧させるために、......(と続きます)。教会とはいったい何か?教会とは、『神がご自身の血をもって買い取られた』者たちの集まりです。ちょっと気をつけて考えていただきたいのですが、教会はイエス・キリストのものなのです。『キリストがご自身の血をもって買い取られた』神の子供たちの会衆を教会と言います。

教会は建物ではない。そんなことはよくわかります。教会は牧師ではない。そんなことはよくわかっています。あなたがどんなに長くこの教会を牧会しても、あなたがどんなに犠牲をこの教会に注ぎ込んでも、教会はあなたのものではない。教会は主のものです。教会に召されたひとりひとりが私たちです。『イエス・キリストご自身が血をもって買い取ってくださった』この私たちが、キリストのからだの中に組み込まれて存在しているのが、教会なのです。教会とは何であるかということが、これほど鮮明に描かれている個所はないでしょう。

教会はイエス・キリストを信じた人々がひとりでいるよりは仲間と一緒に集まった方がいい、そう思って作っている団体ではない。教会は神さまが御子イエス・キリストの血によって、つまり主イエスが十字架にかかって死んでくださったことによって、私たちを罪と死の縄目から解放していただいて、その神さまの救いによって高津に生れたキリストのからだを(高津)教会と呼ぶ。教会に集って、礼拝している私たちは、他でもありません、このこと、つまり私は『キリストの十字架によって購われ』、この高津教会へと導かれ、神に属する神の民であるという自覚(が大切です)。

教会には厄介な牧師がいるかもしれない。教会には厄介な信徒がいるかもしれない。こんな暑い中教会に行くのか、という気持ちに往々にして私たちは駆られるかもしれない。であるからこそ、パウロは教会の本質とは何かということを、徹底的に知ってほしい。教会は『神ご自身がその血をもって買い取られた』者たち、それをご自身のからだの中に組み込んで、地上に世の光、地の塩としての礼拝共同体を作っていく(ものだということを)。

ちょっとイザヤ書の52章3節を見てみましょう。そこに「買い取る」、「買い戻す」ということばがあります。
イザヤ52:3「まことに主はこう仰せられる。『あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される』」。

新共同訳聖書では訳が違います。私は新共同訳聖書の方が正しいと思います。
『ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される』。

つまりですね、ただ同然で売られたあなたたち、というのは、私たちのことですが、神さまに背を向けて罪の奴隷となっている私たちは、もうただ同然、つまり、二束三文の価値もない者たちという意味。あなたたちは罪の奴隷として売られている、二束三文の価値もない一羽の雀だと言うのです。ところがその私たちを、神さまが「買い戻され」るときに、神さまは銀を使わなかった。銀によらずに「買い戻され」た。

では何によって「買い戻され」るのかというのは、この節を見ただけでは分かりません。しかし、イザヤ書の後の部分から分かります。二束三文の価値もない私たちを「買い戻す」のに、銀なんか要らないというのではない。なんと神さまは私たちを「買い戻さ」れる。銀よりはるかに尊いもの、なんと御子キリストのいのちをもって、いのちを支払って、私たちを「買い戻して」くださった。二束三文の価値しかないのに、神さまはとても高い価値を見い出した。単純にそれだけではない。

アメリカにお金のないカップルがいました。2006年のことで「世界仰天なんとか」という番組でインターネットで取り上げられていました。この二人はどうやってお金のない中、結婚式を挙げるか苦慮した。それで奇妙なことを考えた。そうだ、インターネットのオークションに「花嫁の付添人になる」という権利を出品しようと。入札権利は1ペニーから始まって、これを落札した人は私たちカップルが結婚する時に、花嫁の介添え人(付添人)になることができます、(としました)。見知らぬカップルの結婚式で、花嫁の付添人になるという権利はどんどん入札が入って、何と最後は167万円で落札される(!?笑)。1円から167万円。見知らぬカップルの結婚式の付添人になるなんて、誰が関心を持つと思います?二人は冗談でやってみたのです。一般の目からすれば二束三文の価値もない。しかし、目を付けたのは、落札したのは、ドクターペッパーというドリンクの会社だった。この会社は最初から、これをすれば相当な宣伝効果があると分かっていて、落札をした。

二束三文の品でもインターネットの世界では、とんでもない価値を見いだして落札する人がいるのです。しかしそれはあくまで銀による落札です。銀による落札というのは、お金さえ積めばそれを「買い戻す」ことができる、それが奴隷です。しかし神さまが私たちを見る目はそういうレベルのものではない。銀を使わないというのは、この世界の価値、この世界の所謂金銭で対応するようなことは神はなさらなかった(ということ)。奴隷に売られた私たちを「買い戻し」たのは、なんとご自身の御子イエス・キリストのいのちであった。それが教会なのです。ひとり子をさえ惜しまずに与えてくださった神の愛が、教会を成り立たせているということをどれくらい頭の中に留めているでしょうか?教会を成り立たせているのは、建物ではない。伝統ではない。牧師ではない。信徒でもない。教会を成り立たせているのは、ひとり子さえ惜しまず与えてくださった神の愛。

私はインマヌエルという小さな教団の、ある程度の責任を持っていますが、あまりインマヌエルの話をしない。私が話をしたいのはいつもこれです。教会を成り立たせているのは、牧師でもなければ、役員でもなければ、高津教会のしきたりでもなければ、教会を成り立たせているのは、ひとり子さえ惜しまずに、あなたを救うためにいのちを投げ出してくださった神の愛です。そしてこの神の愛を忘れた時に、私たちは教会がわからなくなります。そして教会の中に、生じるさまざまな問題や人間関係で私たちはつまずいてしまう。

2)指導者たちの自覚をパウロは強調した。

28節をもう一回見ておきましょう。
28節最後、「聖霊は、..........神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです」。

パウロが強調しているのは、指導者たちの自覚、聖霊があなたを任命した。監督というのは、牧師あるいは長老という意味で、まだ当時は教会制度が確立していませんから、長老が牧師であったり、監督が牧師であったり。まあ、後に行きますと、監督は司教、その地域の一番大きな教会の牧者のことになりますでしょうが、この段階では単に指導者と考えればいいです。教会は神さまのものだから、指導者なんか要らないとはパウロは言っていない。教会に秩序が与えられ、教会が神さまのものであるならば、神さまの霊が教会に指導者を立てるのです。

インマヌエルは監督制でひとりの指導者がいます。監督制というのは、そういうものです。監督制というのは何かと言うと、私たちの教団では代表と言いますが、牧師に按手(注***あんしゅ、霊的な祝福や、聖別、任命などのために手を置く行為)を授けることができるのは、代表のみなのです。それを監督制といいます。

会衆制の教会に行きますと、牧師に按手を授けるのは、会衆です。○○先生をこの教会の牧師に迎えました。その選定作業で、そして最終テストをする前に、その先生に按手を授けるのは、この会衆の中の主だった方々が手を振って按主を授けます。牧師として任務地に出るのです。

しかし監督制というのは、団体の一番上の人物だけが牧師に按手を授けるという制度です。ではその代表はどうやって選ばれるのか?私たちの教団では牧師の代議員が半数です。そしてほぼ同数の信徒の代議員によって、この監督を選挙します。そしてその選挙の結果を聖霊によって任命されたと受け取るのです。

この自覚です。日本の総理大臣だったら、選挙で第1党の党首に選ばれて、そして総理大臣になってますね。いつでも辞められるのです。皆がそんなに僕のことを批判するなら、僕は辞めてやるよってね、言えるのです。この総理大臣言いたそうだなぁって分かりますよね。いつ言うだろうって(笑)。でもね、教団の代表はそれは言えないのです。その意識、その自覚っていうのは、自分はどんなにか批判されるか分からない。しかし聖霊ご自身が、あなたの役はこれで終わりにしよう、という頷きをその人物に与えない限り、どれ程批判され、どれ程苦難を掻い潜っていたとしても、自分は人の選挙によって選ばれた、しかしこの職を任命してくださったのは神だという自覚がなければ、牧師も続かない。

先週紹介しましたよね。牧師は涙ながらに、忍耐する(笑)。そして高崎毅先生の引退の時の言葉、一番辛かったのは何ですか?一度でもいいから、悪いのは僕じゃない、悪いのは君なんだよという言葉を言っていたかった(笑)。それを言わないというのは、自分は主に仕えているからであって、尚且つ自分は主によって任命されているという意識があるからですね。

29節を読む。「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています」。
30節「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう」。
31節前半「ですから、身を覚ましていなさい」。

というのは、パウロは教会指導者たちに、あなたがたは聖霊によってこの教会を守るために立てられている、という自覚を与えようとしているのです。

3)教会を牧させるため

こうして牧師や長老が立てられて行くときに、彼らの働きを一言で言えば、28節、教会を牧させるためです。
教会を牧するというのは、イエスさまがペテロにおっしゃった、「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:17)というイメージですね。教会を牧するというのは、自分の好き勝手に支配したり、教会を操ってはいけないということです。羊飼いが羊の群れの世話をするように、羊を養い、守り、導きなさいと言う。イエスさまは救いに導き入れるひとりひとりを子羊と呼ばれました。イエスさまご自身はへブル人への手紙を読みますと、羊の大牧者(13:20)と呼ばれています。ですから牧師は自分の思い、自分の主張、自分の理想などで群れを率いるな。いつも大牧者である主のみことばに耳を傾け、それによって自分の牧師としての思いを打ち砕かれつつ、羊を牧する、それが牧会です。

この牧会するということばは他の聖書では、気配りとか、配慮と訳している場合もあります。教会の牧師になくてならないのは気配りと配慮だろうと思います。それで私たちの教会ではそれは私でなくして、圭子の役割分担になっています。

9月の講壇に大阪のフリーメソジスト教団の理事長、監督を長い間なさった、岩本助成先生をお迎えする予定なのですが、長年M兄と一緒に出席しておりますウェスレー学会の、会長をこの先生が務められまして、私が書記をしました。11年ぐらい。

ある時、この岩本先生が私にこんなことをおっしゃった。「藤本先生を見ていると、なんだか可哀想になる」。それは学会員に細かく気を遣って配慮して、見ているとさすが牧師の子どもだと、牧師の子どもの悲しい宿命を感じると、(大笑)妙に同情されたのですね。この先生は大胆で、教会総会とか、教団の総会で議長が話を丸く纏めようとして、「これは主の栄光のために」とか、「神さまの愛によって、これこれを捧げましょう」と、神さまの名前を出すのですが、この先生、後ろの方に座っていて、大きな声で「主の御名をみだりに唱えるべからず」(大笑)。「先生そんなことを言うの?」「先生、教団の総会でそんなことを言うんだ!?」と私は逆にびっくりして、「あのね、日本の教会はいろいろ問題があると、なんだかんだ神さまの御名を使って円く纏めようとするから、一向に問題が解決しない。だから私は堂々と言います」。「私にはそれはできません」。そんな会話をしたことを思い出します。

これが面白いもので、先日私は岩本助成先生の息子さんに会った。この先生は今、日本キリスト教団のメソジストの流れの教会の牧師をしておられる。更新伝道会の大会に講師として招かれた時に、岩本先生の息子さん、岩本聖史(きよし)先生が、その書記をしておられた。今N兄がおられて中心的な人物でありますけれども、この先生は最初に出会ったときから本当に腰が低い。そして先ずこの人は配慮の人です。そして悲しいぐらいに気を遣う(笑)。やっぱり牧師の息子の宿命です。

パウロが言ってるのはそういうことではない。これをよ〜く心に留めてください。つまり人の思いを実現し、人の考えでうまく纏めるための配慮をパウロは要求しているのではない。それは神さまの御心が第一とされるための気配り。神さまの愛が教会の隅々にまで行き亘るための気配り。自分の思いで教会を運営するのではなく、何とかうまく人の輪が作ることができるように気配りするのでもなく、御霊の一致を目指しながら、伝道に燃えて、そして世の光として輝く時に、神のみこころはいったい何なのだろうと気配りする。その気配りをもって、教会を牧会して行くということ、そのことにいのちをかけて来たのがパウロで、そのパウロがエペソの牧師に訴えています。

訴えているのは、そういう牧会ができるかできていないか、そういうことではない。そういう牧会という責任の自覚があなたがたにあるかどうか。なぜなら狼は必ずやってくる。そのために、あなたがたにそういう気概はあるのか?イエス・キリストの血をもって買い取られた神の教会を牧するという気概が、あなたにはあるのかという問いかけを、エペソの長老たちにミレトの港町でパウロは話をしているのです。

2001年の9月11日に同時多発テロがありました。たくさんの英雄が生まれました。その英雄のひとりに、ディック・レスポーラという人物がいます。彼は有名な人です。彼はツインタワービルの第2タワーの20階に2800人の従業員を抱えていた、大手証券会社のモルガン・スタンレーの経理の責任者でした。彼は軍隊出身のバリバリで1993年のワールド・トレード・センターの地下の爆発事件で、彼は会社側にしきりに進言していた。「マンハッタンから会社は引っ越すべきだ。このビルが一番危ない」。ところが会社側は全く耳を貸しません。そこで彼はこのワールド・トレード・センターで、もう一度敵の標的になった時に、どういう避難をさせるかという脱出計画を必死に作って、そして自分の部下たちに周知徹底させるのです。

9月11日飛行機がまず第1タワーに突っ込みます。その時に第2タワーの事務局からの指示は「待機していなさい」。しかし、ディック・レスポーラはそれを無視して、2800人の従業員の避難を誘導します。「絶対に生き延びよう。家族のことを考えよう。神さまはこの国を祝福してくださる」。彼は避難して行く人たち全員に呼び掛けた。2700人ですよ。第2タワーの20階にいた2700人の従業員を全員避難させた。なんと命を失ったのは、たった3人しかいなかった。20分後に第2タワーに飛行機が突っ込みます。非常階段を使いながら、着実に2700人が避難します。そして従業員すべてをビルから出した後、彼の姿が再度確認されるのは、残っている人がいないか、もう一度救助に第2タワーに戻って行くという姿が最後です。彼の遺体も出てくることはありませんでした。

アメリカでは、レスポーラは英雄で、グランド・ゼロに彼の記念碑が建っています。なぜ、彼はそれほどまでにこのことに命をかけたのか?それは彼は自分自身が従業員の命を預かっているという責任感です。責任感ゆえに危機を感じ、責任感ゆえに迅速な対応をする、責任感ゆえに自分の命を犠牲にしてまで助けようとする。

パウロは、そういう責任感を教会の指導者たちに植え付けようとしている。それをもって、パウロはこのエペソの教会を、次の世代へ、次の牧師へと渡して行くのです。どこまでも教会は神がご自身の血をもって買い取られたものだと言うことを心に留めておきなさい。自分の考え、自分の理想で、自分のものとするのではなく、神のみこころを第一として、この教会を神のものとするために、あなたがたは立てられているという責任感をあなたがたは持ちなさい。その自覚で、最後自分のいのちを犠牲にしてまで、いつも迫りくる危機、それに迅速に対応できるように、あなたがたは心がけなさい。

私たちは多くの牧会者に恵まれている教会です。この教会はひとりの牧師によって牧会されている教会ではない。古川先生もいらっしゃれば、また小林神学生もいれば、多くの役員、そして私の両親やまた圭子もおります。私どもそれぞれが牧会者です。

教会とはいったい何なのか?そして時に聖霊は、あなたにこの教会を牧する、配慮する、それは人間的な配慮ではなくして、神のみこころを第一とすることができるような配慮をするために、自分は涙をこらえて忍耐する、自分のいのちさえも惜しまず、この教会にどんな貢献ができるかということを考えて行く、そういう教会でありたいと思います。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、私のような二束三文の価値もない、こんな者のために、銀を払うのではなく、ご自身のいのちをもって私を買い取ってくださったことを感謝致します。あなたの愛は、この教会に集っておられるひとりひとりの上にも今も豊かに注がれ、人間的な問題やまたさまざまなしがらみや物の考え方で、この教会につまずくのでなく、あなたの愛が少しでも行き巡ることができるために、私はいったい何ができるのだろうか?もし、さまざまな係や、あるいは役員として牧師として立てられているとしたならば、この教会を聖霊さまご自身から託されているという責任感を、しかと受け止めるような者となさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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2013.03.23 - 15:33 
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