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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/1礼拝と説教「パウロ(30)告別説教3」使徒の働き20:32〜38
8/1礼拝と説教「パウロ(30)告別説教3」使徒の働き20:32〜38

☆説教

連続して、パウロの告別説教から学んでいます。ずっとこのことを忘れないでほしいです。来週もう一回行けるかなと思いますが。

パウロの3回に亘る、小アジア、ギリシャを巡る伝道旅行の中で、最も滞在期間の長かったのが、このエペソですね。パウロはこのエペソを拠点にして各地に伝道しますし、エペソの教会を建てます。そこを去るにあたって、彼はエペソの長老、役員たちをミレトという港町に集めて話をしたというのが17節からずーっと書かれています。

第一回目では前半部分から、パウロの生きざまということに心を留めました。
19節を見てください。「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀により我が身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました」。

とあるように、涙をもって、謙遜の限りを尽くして忍耐した。そのようにすることができたのは、パウロが人に仕えていたのではなく、神に仕えていたからだという話をしました。

私たちも同じです。マザーテレサが若い頃、カルカッタのスラム街で労していたとき、ジャーナリストがマザーに尋ねました。「よくできますね。こんな暑い、雨季には不衛生なカルカッタで、そのスラム街で労するようなことが、この若い白人の女性によくできますね。私なんか、1千万円もらってもできません」。
          
するとマザーの言葉は、「私とて同じです。私とて、1千万円もらってもできないことです。でも、主イエスのためならできるのですよ」。パウロはその意識で労して来た、と言います。別にエペソの教会の役員の人々の顔色をうかがいながら、謙遜の限りを尽くし、涙を流してこの教会を牧していたのではない。彼は主に仕えていたから、彼は涙し、忍耐することもできたという話をしました。

また、パウロの生きざまでは、彼は聖霊に導かれて生きて来ました。パウロの生涯、どんな門が開かれ、どんな門が閉じられるのか、それはすべて聖霊の導きによりました。それが成功の門であれ、苦難の門であれ、聖霊が導かれる時に、彼は聖霊に自らをゆだねて、その門をくぐります。だから、パウロは、この神さまからいただいた信仰生涯を走り抜くことができるなら、いのちさえも惜しくはないと、24節で語っています。

24節「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」。―――こういう聖句には必ずしるしをつけておいていただきたいと思います。

いのちさえも惜しくない、と自分の持つているあらゆる執着を放棄した時、パウロは実に自由で勇敢な人物となることができました。

第二回目は、先々週取り上げました、パウロの教会に対する熱い思いでした。28節、ご一緒に読もうではありませんか。主に、先々週は、この聖句に焦点をあてました。

28節「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです」。

(この聖句の)真ん中あたりに、教会というものは「神がご自身の血をもって買い取られた」、つまり、神さまのものだと記されています。

世の中の人は、私たちの教会をただの教会と呼ぶでしょう。ただの教会堂です。どれくらいただの教会か、高津駅に来る人、ここに教会があると、毎日この教会の前を通りながら知っている人はもしかしたら、2分の1ぐらいしかいないかもしれない。道行く人はまっすぐ歩きますから、わきに何があるか、ほとんど関心がないですね。時々関心を持って遊ぶ。

以前小さな子どもが、「お母さん、こんなところ、ここに十字架がある」。十字架は子どもでも知っているのですね。するとお母さんが、「そうだねぇ、ここは教会だねぇ」。「えっ、ここって妖怪(ようかい)が住んでいるの?」(大笑)。そういう会話がみんな牧師館に聞こえてくるのです。(笑)この人々の会話を聞いていますとですねぇ、ああここに教会があるとほとんど人は知らないんだなと思います。

ただの教会だとも呼ぶこともありますし、その中には、私たちのことをただの教会員と考えるかもしれません。そして確かに、私たちはその程度の存在価値しかこの世の中にはない。それは紛れもない事実でしょう。

しかし、神さまは二束三文の私たちに、なんと御子イエス・キリストのいのちを払って、罪と死の世界から買い戻してくださいました。それが教会です。つまり、この神の愛が教会を成り立たせていると考えている。

パウロは、エペソの教会の先生たち、あるいは役員たちにこの教会を牧会するように訴えます。牧会するというのは、良き羊飼いが羊のために命を捨てたように、いのちをかけて配慮しなさい。しかも人の思いが実現するように、人の和がうまくいくように、人の考えでうまくまとめるための配慮ではない。神さまの御心が第一となるような気配りをしなさい。ちょっと32節を見てください。ご一緒に読みたいと思います。

32節「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです」。
   
みことばにゆだねる。そして長老、牧師たちが、みことばによって羊の群れを養うように命じています。人の思いで、人の配慮で養うのでなく、神の恵みとみことばで羊を養えと。

さて、今日はパウロの告別説教の3回目です。パウロは、教会の指導者たちに、教会のあり方、信仰者の生き方を教えます。これを短く3つの点で調べて行きます。

1)働くことのすばらしさ
ちょっと聖書の個所を一緒に見ていただきます。33節と34節を一緒に読みましょう。これが第1のポイントです。

33節「私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません」。
34節「あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました」。

昨年、札幌で日本伝道会議が開かれた時に、私は地方教会の伝道の困難さ、地方の過疎地で小さな教会を牧会することの困難さを扱う分科会に出ていました。都会と地方の格差は日本社会の現代の特徴ですが、それが教会にも反映されていて、地方の教会が牧師        を支えることが財政的に難しい、という現状があります。

ですから、牧師が副業を持つ可能性が、この日本伝道会義の話題の中心にありました。その可能性というのは、インマヌエルではなかなか考えられない。でも逆に、そこに参加していたさまざまな日本のプロテスタント教会の中には、副業持たずして教会を開拓するなんてあり得ない、そう言っている教団もありました。だから教会を開拓するにあたってアプローチはいろいろなんだなぁと思いましたが、牧師が、副業をもって教会を牧会することが可能なのか?

聖書的に言えば、それは問題なく可能です。なぜなら、パウロは34節で、あなたがたも知っているとおり、パウロの両手は働いてきた、とパウロは伝道しながら天幕作りの仕事もしてきた、経済的には自立してきたことを訴えているからです。
          
もっとも、このパウロのスタンスが聖書のメインの教えにはなりませんでした。なぜならイエスさまも弟子たちも、他の副業は持っていませんでしたし、旧約聖書の祭司たちも、また初代教会の牧師たちも、みな専従的な働きをします。

牧師の専従的な働きのために、教会員が牧師を支えるだけ、教会が成長して行くと良いのですが、なかなかそのレベルに届きません。私たちが、国内宣教献金として特別な指定献金ですが、献げている金額は、インマヌエル全国で2千5百万ぐらいでしょうか。この教会からも月々10万ぐらい行きますでしょうか、それはすべて、支援の必要な全国のインマヌエルの教会に直接届けられています。

そういう中で、牧師の副業ということも当然議論になるでしょう。先日の役員会で、そういう話が出ました。すると、ある兄弟が、「必要に迫られて、働かなければならない、そういうことがあったとしても、教会員の目から見れば、うちの教会の牧師は、やっぱり        教会専任であってほしいと思います」と、「うちの牧師は外で稼いで来なくても私たちがうんと献金して、教会専従であればいいと教会員は思っているのですよ」と(言われました)。とても、心励まされる発言でした。私はその兄弟に思わず言いました。「そう言ってくださる役員がいれば、牧師は副業なんか持たずに、専任で行けるのですけどねぇ」と。なかなかそう言ってくださる役員がいないというのが、まあ自立できない教会の問題点なのかもしれませんよね。

最近は無牧でいいという教会もあるのです。役員会で皆で決議して、みんなで交替して説教しよう、あるいは先生方を単発的に招いて説教してもらって、お手当を出そう、でも牧師をこの教会に置くのは止めよう。なぜなら、牧師費が払えないから。いろんな事情があるんだなぁ、複雑な事情があるんだなぁという風に考えます。

さて話を戻して、パウロは、牧師の副業を勧めているのではありません。事実、牧師が教会専任で副業を持たないことを主張します。Tコリントの9章6節をご一緒に読みましょう。

Tコリント9:6「それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働きをやめる権利がないのでしょうか。」

生活のための働きというのは、パウロにとっては、天幕を作りながら生計を立てるということですね。それを止めてしまう権利は私とバルナバだけにはないのか?パウロは伝道の傍ら一生懸命働いている、自分としては止める権利を持っているということは、本来止めるべきだと思っているのです。牧師の副業を止めて、本来自分は教会の専従牧師となるべきだと思っている。そうなる権利を自分は持っている。しかし、あえて、それをしなかったのは、まだ教会が形になっていない。自分は伝道旅行のさなかにある。そして、生まれたばかりのクリスチャンに余計な負担をかけたくない。そういう思いがありましたから、彼は敢えて、自分の副業で生計を立てる道を進んで行くのです。

でも、理由は実はそれだけではなかった。Tコリントの9章にもう一回戻って来ますので、そこに何かを挟んでおいていただいて、もう一度使徒の働きの20章34節を見てください。

34節「あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました」。

パウロは働くことのすばらしさを伝えたいのです。どういうことか?それは、パウロが一生懸命伝道している世界は、奴隷が働いて、主人は遊んでいるような社会です。そういうローマ帝国の風習の中にあって、彼は肉体的精神的に可能なら、皆で働こう、そして、働くことの素晴らしさを皆で味わおうと模範を示したい。だから、あえて彼は働いているのです。

そして、この第一のポイントは、第二のポイントにつながります。それが、35節の「このように労苦して弱い者を助けなければならない」です。

2)彼は弱い者を助けたのです。自分が働いたことによって、弱い者を助けた。

【35節「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです」。】
  
先々週でしたか、ネパールから日本に来たラビンドラさんが無職で困っているというアピールを、私は講壇からしました。そして先週休みを取って帰国されました、韓国の文兄が、一生懸命に助けてくださいました。私は講壇でアピールをして、あの週になんと3人の方々が、ラビンドラさんが働けるような、インド・ネパール料理のレストランを見つけて来たという連絡を受けました。私は初めて高津教会ってすごいなと思いました。最終的には彼は、韓国の文兄(の友人?)が探してくださって、決まりましたが、彼はレストランですから、教会に行けそうもありませんが、皆さんによろしくお伝えくださいという連絡をいただきました。

彼は実は帰りたくても帰る飛行機の切符がなかった。ビザはあと1カ月で切れてしまう。それで友だちのところに居候しているのだけれども、帰りの切符がない。仕事さえあればいくらでもビザを更新できるという、崖っぷちに立っていたのを、文兄が何とか、同じように外国に滞在している異国人として、助けようとした。弱い者を助けるとは麗しいものです。

聖書で、「弱い者」とは誰を指します?孤児、やもめ、在留異国人というように、経済的な    拠り所を失った者たちですね。あるいは、身体や心が病める者を指しますね。でも、実はそれだけではない。パウロは特に心がけているのは、「信仰の弱い者たち」。で、もう一度信仰の弱い人たちのことを見てほしいと思います。それがよくわかるのが、Tコリント9:11−12ですが、先程のTコリント9章に戻って、交読しましょう。

11節「 もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか」。

12節「もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです」。
     
11節を見てください。『御霊のものを蒔いたのであれば』というのは、伝道しているのであれば、イエスさまの福音を述べ伝えているのであればという意味です。その代わりにあなたがたから、私は物質的なものを刈り取ってもいいのではないですか?あなたがたは私を物質的に支えてくださったもいいのではないでしょうか?これは行き過ぎですか?行き過ぎではありませんよね?

12節に、もし他の牧師たちがあなたたちの権利に与っているのなら---つまり経済的に支えてもらっているなら---私たちもまた、そのような権利を戴いて当然ではないですか?しかしそれをしませんでした。一番最後にそれは、『キリストの福音に少しの妨げも与えまいとして』とはどういうことか?それは教会員の方々に余計な負担をかけることによって、彼らを躓かせることのないためだ(と言うのです)。

信仰に入ったばかりで、教会の経済のこともよくわからずに、そして、自分が本来牧師を支えるべき存在であることも全く理解することなく、何とか教会に繋がっているような、信仰の弱い人がいるとしたならば、私はそういう人を躓かせたくない。信仰の弱い人、教会のことを、神のことをまだ十分に理解できていない人の躓きとならないために、自分は当然の権利を放棄した(と言うのです)。

パウロが示してきた模範というのは、自分の権利を主張する生き方ではなく、自分の権利を放棄する生き方を示した。これが難しいということを最後に話して、あっという間に終わりにしますので、話の筋の繋がりをちょっとお付き合いいただきたいと思います。私が申し上げましたのは、自分の権利を主張する生き方ではなく、自分の権利を放棄する生き方をパウロは示して来た。それが35節の有名なみことばに出て来ます。35節を先に読んで行きます。

35節「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです」。

3)、パウロが引用している奥深いイエスさまのことば。

「受けるよりも与える方が幸いである」――有名なことばです。-カトリック(作家)の曽野綾子さんはこの題で、書物を書いていますね。実はこれは、パウロが記している唯一のイエスさまのことばです。パウロは他に一つもイエスさまのことばを記していません。そして面白い事に、これは福音書に出て来ないのです。ということは、当時福音書以外にも、イエスさまについて記されたさまざまな資料があり、イエスさまのことばもさまざまに伝えられていたということがわかります。
            
福音書にない、パウロが残した唯一のイエスさまのことばは、「受けるよりも与える方が幸いである」。これぞ真理だと思わされる話や出来事は枚挙にいとまがありません。

「心のチキンスープ」にこういう実話が載っています。このチキンスープというのは、心が寂しくなった時に、風邪を引いた時に、チキンスープを飲んで心をもう一回温めましょう、というシリーズの本でアメリカで出て、日本でも随分出されていますが、その中にこういう実話が出ています。

ある日、ポールは兄さんから、クリスマスに新車のプレゼントをもらった。ピッカピカの新車で、ポールがオフィスから出てくると、街でよく見かける少年が、その新車のまわりを歩き回っていた。よほどその車が気に入ったらしく、話しかけて来ました。
「この車、おじさんの?」
「ああ、兄貴からのプレゼントさ」。

少年はそれを聞いてひどく驚いた様子だった。「えっ?おじさんの兄さんがくれたって?うわわぁ、すごいな!ぼく…」と、少年は何かを言いかけたが、そのまま口をつぐんでしまった。ポールは、きっと少年は、「ぼくにも、こんな兄さんがいたらなあ」と、言いたかったのだろうと思った。

ところが、少年からしばらくして出て来た言葉にポールは耳を疑います。
「ぼくね、おじさんの兄さんみたいになりたいなって思ったんだ」。

「この車に乗ってみるかい?」
「えっ、いいの?」
「ねえ、おじさん、ぼくの家の前まで乗せてくれる?」

ポールは思わずニヤッとした。きっとこんな大きな車で帰ってくるところを、近所の人たちに見せて、自慢したいのだな。しかし、その憶測もはずれました。

「おじさん、あそこの階段がついている家が見えるでしょう。あそこが僕の家。そこでちょっと待っててくれる?」
少年は車を降り、駆け足で家に入って行きました。しばらくすると家の中から出てきたのは、彼の弟でした。身体が不自由で、彼は弟を背負って階段を下りて、その一番下にちょこ〜んと座らせて、自分が彼を支えました。
  
「ほらバディー、見てごらん。言ったとおり、すごい車だろ。そこにいるおじさんの兄さんがあの車をプレゼントでくれたんだって。おまえも待ってろよ。兄ちゃんが、いつかあんな車をお前に買ってやるからね」。
少年の目は、その日が来るのを、自分が弟に、身体の不自由な弟にピッカピカの車をプレゼントする日が来るのを楽しみにするかのように輝いていた、という話なのです。

この話をクリスマスイブののキャンドルサービスの日にすると、皆さんはもう少し感動するかもしれないと思います(大笑)。私が申し上げたかったことはですね、「受けるよりも与えるほうが幸いである」ということは、私たちはよく知っているのです。そういう出来事や話は、実は枚挙にいとまがないです。私はその一つを紹介しただけなのです。

パウロはこのことを「万事につけ」自ら示してきた、ということは、もっと深い意味があります。第二のポイントで挙げましたように、パウロは弱い人のために、当然の権利を放棄したのです。弱い人に自分の当然の権利を与えた。あるいは、自分の自由を与えました。
 
もう少し具体的に言えば、パウロは、自分は神の道を伝える者だから、尊敬を受け重んじられて当然だ、という思いを捨てたのです。それを与えたのです。あるいは、これだけ犠牲を払ったんだから、コリントの教会の人々から感謝や賞賛を受けてもよいはずだ、とそういう思いも捨てて与えたのです。なぜか?彼らの信仰が弱いからです。
      
万事につけ、受けよう受けようとする私たちの思いは単純に言って一つです。それは物だけでなくていいのです。尊敬を受けたい、敬意を受けたい、評価を得たい。そしてそれを侵害されることは許せない、それが私たちです。ですから、私たちは、改めて覚えておかなければならない。それは「与える方が幸い」だと。評価されて当然な権利を放棄すること、尊敬を受け重んじられて当然だという気持ちを放棄してでも、与えることのほうが神の御前にはるかに幸いであると。それはなにも、ものだけではない。犠牲だけではない。自分の自由だけでも放棄することができるパウロに、私たちも少し倣って生きて行きたいと思います。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、「弱い人を助けなさい」、「受けるよりも与えなさい」、「万事につけてそうしなさい」と、言われたときに、パウロがどれほど自分が本来手にしていた権利も自由も、名誉も尊厳も、それらすべてを与え尽くして主に仕えていたかということに気が付かされます。

感謝なことは、この高津の教会にそのような兄弟姉妹がなんと多いことか!これだけしていたならば、尊敬され、重んじられて当然だろうと思われる方が、そのような働きをし、時に誤解され、痛めつけられ、それでも自分は人に仕えているのでなく、主に仕えていると立ち上がって行かれる姿を見ます時に、私たち皆は、ああ自分たちの信仰がなんと幼稚なことかとも考えさせられます。

主よ、どうか、私たちの先輩、私たちの信仰の模範になってくださる方々を、この教会にもっと与え、私たちがそれに倣うことができますように。そして万事につけ、与えることの大切さを知っている教会でありますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


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DATE: 2011.03.27 - 00:06
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