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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/5 パウロ(31) いのちをかける
9/5礼拝説教「パウロ(31)いのちをかける」使徒21:1〜14

☆説教
ようやく使徒の働きに戻って参りました。
(パウロの生涯を学び始めて、)今日で31回目でありますけれでも、ここに来て、他の説教が入り、私も2回講壇に立つことができず、1ヶ月も空いてしまいました。

使徒の働きの30回目のメッセージをしたのは、8月の第1の聖日でありました。その時に、ずーっとパウロの告別説教のシリーズを学んできたのですが、ちょっと思い出していただきたい。20章にパウロの告別説教がありますが、彼が第三次伝道旅行を終えて、エルサレムに戻って行く時に、長〜い間拠点としてきたエペソの教会の長老たちを集めて、ミレトという港町に集めて告別説教をします。

告別説教の第一回目で取り上げたのは、パウロの生き様でありました。
20章の19節に「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。」とあります。涙をもって主に仕えた――迫害の中で、時に人間関係の狭間で、悔しい涙を流し悲しい涙を流しました。しかし、そのようにして謙遜の限りを尽くして主に仕えることができたのは、パウロが人に仕えていたのではなく、自分は神に仕えているという意識で生きていたからだという話をしました。

第2回目で取り上げたのは、パウロの教会に対する熱い思いです。 
28節をご覧ください。「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです」。
教会は「神がご自身の血をもって買い取られた」(つまり、神さまのものです)。
ですから、この教会を牧会するために、良き羊飼いが自分のいのちを捨てるような、恵みの配慮が必要だったという話をしました。
私たちは自分では価値なき者と思っているかもしれませんが、神さまの目には、ひとりひとりがとっても高価で尊い。なぜならば、私たちを買い取るためにイエス・キリストの血が流されたからだという話をしました。

そして8月の第1の(聖日の)3回目、パウロが模範をもって示した、キリスト者としての生き方、それを35節から学びました。
35節「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与える方が幸いである。』と言われたことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです」。

「受けるよりも与えるほうが幸いである」――それが万事につけと言うパウロは、自分の牧師としての当然の権利、自分の自由もあなたがたに与えて来た。あるいは、これだけ犠牲を払ったのだから、感謝や賞賛を受けてもよいはずだ、という思いも捨てて来た。      
それを全部捨てることができたパウロに、その偉大さに私たちは圧倒されてしまいますが、本当はますますパウロを身近に感じたいという話をしました。

なぜなら、私たちも、受けることなく、与えることを強いられるような場面がこの日常生活、人生の中に多々ある。当然受けてしかるべき感謝も評価ももらえないで、逆に自分の方から注ぎ出すことばかりという局面がたくさんあるからです。パウロと同じように、それでもよしとしようではないか。なぜなら、与える方が幸いだと主がおっしゃったのだから、主が必ず、与えた人を祝してくださるから、私たちも与える道を選択できるという話をしました。

さて、今日は、その続きです。ちょっと最初聖書をざっと見て頂きたいのですが、使徒の働き21章で、パウロはミレトを離れます。そして出帆して、エルサレムに到着するまでの出来事が記されています。

まず、2節「そこにはフェニキヤ行きの船があったので、それに乗って、出帆した」。

そして、3節「やがてキプロスが見えてきたが、それを左にして、シリヤに向かって航海を続け、ツロに上陸した。」
ということは、(小アジアの先端から船出して)、フェニキヤ行きの船で地中海を南下して、そしてエルサレムに近いパレスチナ地方にパウロが到着した、ということです。

そして7節にはさらにツロを出て、

8節、「カイザリヤに着き、あの七人のひとりである伝道者ピリポの家に入って、そこに滞在した」。

あの七人というのは、使徒の働き6章(注***1〜7節)で、ステパノと共に選ばれた七人の内の一人、ピリポです。
ピリポは、8章でサマリヤで伝道し、その最後にカイザリヤまで行った(注***8章26節〜40節参照)、とありますので、ですから、それ以来ピリポはカイザリヤに留まって教会を牧会していたという状況です。 

ここから今日は2つのことに目を留めたいと思います。

1)どこにあっても、パウロのことを心配して、祈る人びとがいる。

20:36(〜38)をちょっとご覧ください。
36節「こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った」。
37節「みなは声を上げて泣き、パウロの首を抱いて幾度も口付けし」、
38節「彼が『もう二度と私の顔を見ることがないでしょう。』と言ったことばによって、特に心を痛めた。それから、彼らはパウロを船まで見送った」。

ミレトの告別説教の最後で、パウロはひざまずいて、みなとともに祈った――よくあるクリスチャンの別れのシーンかもしれません。そう思うと、愛する兄弟姉妹と家族と、別れるときには祈る。しばらく会わないのであるならば、ともに祈る。

パウロはツロに着いたときも、そこの教会の兄弟姉妹と別れ際に祈っています。ちょっと5節は声に出して、ご一緒に読みましょう。

5節「しかし、滞在の日数が尽きると、私たちはそこを出て、旅を続けることにした。彼らはみな、妻や子どももいっしょに、町はずれまで私たちを送って来た。そして、ともに海岸にひざまずいて祈ってから、私たちは互いに別れを告げた」。

海岸にひざまずいて祈り、6節で船に乗り込んでいます。町はずれに妻や子どももいっしょに連れて来て、パウロを見送ります。そして海岸にひざまずいて祈って送り出します。改めて、このことを大切にしようではないかと考えさせられます。
奥西兄姉が名古屋に引っ越した時に、(最近では西原兄姉が福岡に引っ越した時に、)私たちは礼拝の中でともに祈りました。

夏場、愛香がアメリカから帰って来まして、学期が始まるので戻って行きました。私も時間がありましたので、今回は成田まで一緒に行ってお昼ご飯を一緒に食べて、そして午後の飛行機で出るのですが、お昼御飯を前に、愛香が「ちゃんとお祈りしてね」と言うのですね(笑)。
私は食前の祈りは、“ひと息の祈り”と言って、それは息をスーッとはいて、息を吐くと同時に祈りが終わるというもの(笑)、ですから長くて7秒、これは簡単なお祈りなのですね。ですから、マクドナルドでもどこでも、一息の祈りでしたら、あんまりウェートレスさんの出入りを気にせず祈れるのですが、「ちゃんとお祈りしてね」と言われたら、やっぱり途中でウェートレスがお水を運んでくる、だからそのタイミングを見計らうのが難しいのです。お水が出てきて料理が出てくるその間、その会話の狭間にどういう風に祈りを挟むか。「じゃあお祈りをしよう」と、なかなかタイミングとしては簡単なことではないし、周りの人たちはじーっと私たちを見ている(笑)。

きっとパウロが船出するとき、当時は宗教的な世界でしたから、皆が祈っていたのかもしれない。でもパウロが船出するときに、ともに海岸にひざまずいて、そして妻も子供たちも連れて来てというその群集とともに、祈ってから別れを告げ船に乗り込む。改めてこのことを大切にする教会でありたいと思います。

英語で、グッドバイは、God be with youから来ていると言われます。さようならとは、「神があなたと共におられるように」という祈りです。
ですから、私たちも日本語で、別れの賛美歌で、♪♪神ともにいまして、行く道を守り、天の糧もて、祝し導きませ。また会う日まで、また会う日まで、神の守りなが身を離れざれ♪♪――また会う日まで神の守りがあなたから離れることがありませんように、神がともにいましてあなたの行く道を守り――「神ともにいまして」(インマヌエル讃美歌)625番の讃美歌です。荒野を行くときも、嵐吹くときも(2節)、いぶせき雲覆い、行き悩むときも(3節)、神ともにいまして、あなたを守ってくださるようにという讃美歌を、別れの讃美歌として、日本の教会は特に好んでこの讃美歌を歌います。それは、別れるときに、ともに祈るのです。

ミレトの港で、ツロの海岸で、家族を連れてきて、兄弟姉妹はパウロに別れを告げるのですが、その前にともに祈ります。
神がともにいて、行く手を示して、絶えず導いてくださる。光をもってあなたの道を照らし、天国に入るその時まで、御翼の陰に絶えずあなたを休ませてくださる。
あらためて、これを高津教会の伝統としたいと思いますし、友人の間でも、あるいは我が家の慣わしとして、しばらく会わない世界で、別れる時には必ず祈る。

私の妻は私が海外に行くときには高津駅まで見送りに来てくれます(大笑)。それ以外は玄関までというのもないかもしれない。ある時どうしてそうなの?と訊いたら、そしたらですね、「これが最後かもしれない」(大笑)。ああ、なるほどなと。それは現実ですよ。これが最後かもしれない。すべての別れがそうです。一週間の別れかもしれない。しかしすべての別れはこれが最後かもしれないという気持ちが必ず付いている。そう思いますとね、友人の慣わしとして、別れ際に祈るということが、どれほど尊いクリスチャンの習慣かということを、是非とも覚えておいていただきたい。

2番目、このポイントは長いので、付き合ってください。私は昨日圭子に相談しました。相談の結果、あなたが聖霊からそういう確信を得たのなら、その説教でもいいと思う。でも聞いた教会員の人々は、皆さんは大変ショッキングだと思う。ですから最後は大変ショッキングです。でもこの聖書をきちっと読んで行って下されば、そうショッキングではない。この聖書の間寝てて最後の話だけ聞いたなら(大笑)、あれはいったい何だったのだろうと、必ず頭中、黒雲に覆われたような気分になりますので、すみませんが寝ないで付き合っていただきたいと思います。

2)パウロがエルサレムにいく目的は何か?

パウロは至る所で、行かないように忠告を受けます。たとえば
(21章)4節の最後、「彼らは、御霊に示されて、エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告した」。聖霊に示されて、パウロにエルサレムには行くなと忠告しているのです。

あるいは、12節見てください。「私たちはこれを聞いて、土地の人たちといっしょになって、パウロに、エルサレムには上らないよう頼んだ」。

するとパウロは、その忠告や願いを振り切って、
13節「するとパウロは、『あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。』と答えた」。

パウロは聞き入れないのです。そして14節の最後に、
「彼が聞き入れようとしないので、私たちは、『主のみこころのままに。』と言って、黙ってしまった」。

『主のみこころのままに』というのは、『勝手にしろ』ということも含まれているかもしれない(笑)。そこまで言ってだめなら、そこまで言われて、それを振り切ってエルサレムになぜ行こうとしているのかは、実は使徒の働きでは分からないのです。使徒の働きにはそのまことの理由は書いていない。

パウロは聖霊に示されたので自分は行く(と言う)。でもなぜ行くか、何の目的のために行くかは書いてないのですが、ちょっと聖書を2カ所だけ、開いていただきたいと思います。他の所には書いてありますので、見てみましょう。Tコリントの16章、1〜4節、そこになぜ行くかが書いてありますので、交読致しましょう。

Tコリント16章1節「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます」。

2節「私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい」。

3節「私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう」。

4節「しかし、もし私も行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう」。

以前勉強しましたように、このコリントの手紙をパウロは、エペソに滞在中に書いています。そして、コリントの教会の人々に献金を集めるように勧めています。収入に応じて手もとにそれを蓄えておいて、日曜日にそれを持って来てくださいと。

その集めた献金は、16章1節、「さて、聖徒たちのための献金については…。」この聖徒たちと言うのは、3節の最後のエルサレムの教会の信徒たちのこと。初代の教会で、すなわち紀元35年から大体60年ごろまでの間で、初代にパレスチナ、小アジアやギリシャを含めていろんな教会ができますけれども、この教会を一つに結んだ出来事がありました。

それはエルサレムの教会の迫害下における貧しさ、彼らを助けるために、献金を集めるということを、パウロは小アジアの諸教会、ギリシャの諸教会、至る所で訴えます。そしてその献金をだれかがエルサレムに届けてもいいけれども、自分が直接行ってもいいということを彼は言っています。 

開きませんけれども、Uコリントの8章〜9章でも、パウロがマケドニアの諸教会でもすでにこの献金を始めていたことがわかります。この献金を携えて、パウロはあらゆる忠告を振り切ってでも、エルサレムに行こうとしているのです。ロマ書の15章を見てください。25節と26節を交替で読みましょう。

ロマ15:25「ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています」。
同26「それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金(きょきん)することにしたからです」。

コリントの教会の人々は、エルサレムの教会のことを知っているのか?何にも知らない。マケドニヤの諸教会、アカヤの教会の人々はエルサレムの教会のことを知っているのか?何にも知らないでしょう。エルサレムの教会の人々なんて、顔も知らなければ名前も知らないでしょう。パウロは知っているかもしれない。でも、マケドニヤとアカヤの教会の信徒たちはエルサレムの教会の信徒のために、喜んで献金を送ろうとしている。

ロマ書も、パウロが第三次伝道旅行を終えて、エルサレムに向けて旅立つ前に記した書物です。ですから、コリントに宛てた手紙も、ローマのクリスチャンに宛てた手紙も、どちらも詳しく、エルサレムのユダヤ教の国粋主義者たちによって弾圧に遭っている、エルサレムの教会のクリスチャンのために、困窮して家を失い、家を焼かれ、苦労している貧しい人々のために、エルサレムの愛する兄弟姉妹のために、何とか献金を集めようと、パウロは、ギリシャと小アジアの諸教会を巡りながら、このことを最も訴えて来たことがわかります。それは使徒の働きには書いていない。でも、TコリントにもUコリントにも、またローマ人への手紙にも同じように書いてあります。

そして今、彼らの愛の献金を携えて、エルサレムに行こうとしているのです。自分のいのちが危険にさらされることを知りながら、行こうとしているのです。

それでも、なぜ献金を渡すために、パウロはいのちをかけるのか?たかが献金です。それを渡すために、なぜパウロはいのちをかけるのか?それは、ロマ書の15章27節に書いてあります。

ロマ15:27「彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的な事では、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです」。

ちょっと表現はきついですけれども、パウロが言いたいことは、小アジヤやギリシャの異邦人教会、ユダヤ人でない教会は、そもそもはエルサレムの人々、つまりユダヤ人教会、(イエス・キリストはユダヤ人です。)そこから霊的な恵みを受けた。霊的なものとは、救いの恵みです。エルサレムから始まっている自分たちの救いの恵みを受けた。
だから、今パウロはそれに応えて、今度は彼ら異邦人が「物質的なものをもってエルサレム教会の必要を支えたい」と言っているのです。これを交わりと言うのです。

つまり、エルサレムの教会と小アジアの教会・ギリシャの諸教会は、ほとんどなんの交流もない。しかし、パウロは何とかして、こういう機会を捉えて、教会が一つであること、民族的には、ユダヤ人、ギリシャ人、異邦人と言うかもしれないけれども、しかし、同じキリストを信じる信仰は、たとえその教会の人々の顔を一度も見たことがなかったとしても、互いにいつくしみをもって接し、互いに助け合い、同じ恵みを相互に交流させることに努力を払うべきだと(言っているのです)。

パウロは教会が一つである、ユダヤ人であろうが、ギリシャ人であろうが、主イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは一つなのだと(強調してるのです)。時に、習慣も違うでしょう。日本の教会とボリビアの教会ではやることは同じではないと思う。でも実際は一つの教会なのだということを、パウロは体験してほしかった。      

この献金という働きを通して、救いはキリストを信じる信仰によること、そしてその信仰によって、私たちはだれでもが互いに兄弟姉妹であるという、目に見えない、この恵みの体験、福音の真髄をどうしても味わってほしかった。そして、その福音の真髄を携えて、彼はどうしてもエルサレムに行くと決意した。
       
だから、それはたかが献金ではなかったのです。それは、初代教会全体を左右するほどの、教会の一致、福音の一致、教会の交わりというものがかかっていたのです。


私は、今朝、みなさんにお願いしたいことは、今日の礼拝献金のすべてを、釧路教会に送りたいのです。私は先週の祈祷会ではこの話は皆さんにはしないで、祈祷会の皆さんだけに話をして、そのために祈ってほしいということを申し上げたのですが、せっかく私はこの個所から、今日メッセージをする恵みを神さまが与えてくださった。今まで小林武男兄と田中姉は(手書き聖書献本のために)いらしたことがありますけれども、私たちは行ったこともない、会ったこともない、でも試練のなかにある釧路教会のために祈りたいと思います。

(中略)

私は、釧路に二度足を運び、彼と話をし、また8月22日は礼拝を行いました。礼拝の説教の中で、私は釧路教会の7名の兄弟姉妹に申し上げました。この出来事を信仰を一つにして皆で乗り切ろうという話をしました。「皆で」とは、ここにいる皆さんだけではありません、私も、教団も、そして教団のすべての教会が一つとなって祈り、励まし合ったら乗り切れる。絶対に乗り切れると。教会の方々は涙する人もいて、また勇気づけられる人もいました。教会は不思議に明るく、元気でした。

それは自分たちが今直面している大変な問題の背後には、118の教会すべてが自分たちのために祈っている。北海道の一番端で、北海道にインマヌエルの教会は、わずか札幌、函館、恵庭、釧路しかない。そして釧路だけが妙に離れている彼らの孤独感の中で、彼らは戦って行くわけです。

(中略)

私は皆さんにこれに加わっていただきたい。事情は全然違います。でもパウロの気持ちを私たちは汲み取ることができます。
しかし、私たちが今朝の礼拝の献金すべてを釧路教会にというのは、パウロが考えていることと同じです。それは教会の危機にあって、日頃全く交流のない、牧師の顔も知らなければ、信徒の顔はまして知らない、でも私たちは一つの家族、キリストにあって、一つのからだ。今まで考えたこともない教会であり、恐らく眼中にさえなかった教会。しかし、この一大事に、私たちは、それがボリビアの兄弟姉妹であれ、ケニヤの兄弟姉妹であれ、釧路の兄弟姉妹であれ、同じ主のもとに救いの恵みに与り、同じ福音に与った兄弟姉妹として、この危機を乗り越えるために、私たちも祈っている。

私たちが二ユージーランドのクライスト・チャーチの日本人の群れのために祈るというのは、私たちは会ったこともないし、行ったこともない(人たちです)。もちろん主につながっていますけれども。何か機会あるごとに、キリストのからだは、天国は、この世界たった一つなのです。そして洗礼を受けているすべての人々を私たちは兄弟姉妹と呼ぶのです。

皆でともにこの危機を乗り越えましょうというのは、たとえそれが自然災害の危機であれ、人災の危機であれ、皆でこの危機を乗り越えましょう。そしてそのしるしとして、パウロはアジアの諸教会を巡り、手紙を書き、そして訴えて献金を募った。そして皆が「パウロ先生、エルサレムに行ったら捕えられますよ。」と言い、パウロも「それはわかっている。聖霊も私にその事を示している。でも私はいのちをかけてこの献金を届けることによって、ユダヤ人教会と異邦人教会、そして、ギリシャ、小アジヤに点々と開拓している教会が、実は一つなのだということを分かってほしい。だから、私はこの献金を届けることにいのちをかける。」(と言うのです)。

私たちは何にもまして、釧路教会のために祈ってほしい。7名の兄弟姉妹が同じ時間に(新任の福田先生の)メッセージに耳を傾け、賛美をしておられます。これから先のことがどれほど不安か?どれ程教会のリバイバルがなされたか?でも大丈夫です。この教会は主の教会。キリストのからだ。ハデス(注***死とかサタンを意味する)の門もそれに打ち勝つことができない(マタイ16:18参照)のが、教会のみなのです。教会は釧路単一ではない。インマヌエル全軍が祈っているというそのことばの通りに、私たちは今日の礼拝の献金を、釧路教会にすべて捧げたいと思います。

☆終わりのお祈り

恵み深い天の父なる神さま、この世界にいったいいくつ教会があるのかも、私たちは充分に認識していませんし、ましてや、その教会がすべてキリストのからだであり、私たちの主の祈りはひとつです。使徒信条は一つです。いつでも交わりをともにすることができるという事実を、さまざまな形で体験している高津教会です。

今日は釧路教会のために祈ります。何がどうしてそのようになってしまったのか、私たちには推し量ることもできませんが、あなたの憐れみを祈ります。――(中略)「わたしはともにいる、あなたの人生を導く」とあなたの愛を特別な形で、そのたましいの深〜いところに注ぎ続けていてください。

今日これから捧げます献金を、私たちの祈りと私たちのサポートを誓いつつ捧げますので、あなたがそれを、小さな献金ではありますが、幾倍にもなして祝福して用いてください。そして変わらずに、インマヌエルの家族として保っていてください。すべてのことを御手に委ね、あなたの慈しみ深き御手に委ね、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


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