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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/19礼拝説教「パウロ(32)道ありき」使徒の働き22:1〜21
9/19礼拝説教「パウロ(32)道ありき」使徒の働き22:1〜21

☆説教
今朝は使徒の働きの第32回。使徒の働きと言いますと、パウロの生涯をともに学んで第32回目。題は「道ありき」としました。31回目の前回は、先々週になりますが、エペソを中心とするパウロは、第3次の伝道旅行を終えてエルサレムに帰ろうとする。その中で周囲の人々は必死に彼を止めようとする、その場面を見て頂きました。周囲の人々はパウロのいのちの危険を感じたからです。21章の11節と12節を見てみましょう。

21:11「彼は(***という彼は、10節に出て来ますアガポと言う預言者ですが、)私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、『「この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。」と聖霊がお告げになっています。』と言った」。

21:12「私たちはこれを聞いて、土地の人たちといっしょになって、パウロに、エルサレムには上らないよう頼んだ」。

しかし、パウロはそれを振り切るように13節でこう言います。
20:13「するとパウロは、『あなたがたは泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。』と答えた」。

先々週、前回の学びでは、どうしてそこまでして、エルサレムに行こうとするのかということを学びました。それは、使徒の働きには書いてありませんが、パウロがエペソから書いた様々な書簡にはっきりとその理由を記しています。

それは困窮しているエルサレムの教会を支援するために、彼は小アジアに、あるいはギリシヤの教会に 献金を訴えて来ました。さらにその献金を集めて来ました。それをどうしても自分の手でエルサレムの教会に届けたいという思いがありました。その思いの背後には、そのようにすることによって、ユダヤ人クリスチャンの教会と異邦人クリスチャンの教会を、つまり会ったこともない、見たこともない地域の教会を、愛によって一つに結ばせて、福音は一つ、信仰は一つ、教会は一つ、ということを実感してもらいたいという切実な願いがパウロの中にあったからです。

そのようにして、先々週、私たちは礼拝献金のすべてを、今困難な中にある釧路教会に届けました。皆さんが捧げられました献金総額は恐らく、高津教会の、礼拝の献金総額としては過去最高の17万5千円になりました。その中に込められた皆さんの釧路教会を思う愛は、パウロがこの困窮の中にあるエルサレム教会に対する、注ぎ出すような愛と同じだったということを、私たちは改めて確認したことであります。

さて、今日見て頂きましたのは、22章ですね。学びは、21章の後半を飛びます。22章に入る前にほんの少し見て頂きたいと思いますが、たとえば27節28節こういう風に始まります。パウロはエルサレムに着いていたのですが、

27節「ところが、その七日がほとんど終わろうとしていたころ、アジヤから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると(***これはエルサレムの神殿です)、全群衆をあおりたて、彼に手をかけて」、

28節「こう叫んだ。『イスラエルの人々。手を貸してください。この男は、この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。そのうえ、ギリシヤ人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所をけがしています』」。

と言って、パウロを名指しで非難します。人々は一斉にパウロに駆け寄り、パウロに手をかけようとします。(そこに記されているのは、27−28節、ある日、神殿にいたパウロに言いがかりがつけられて、殺されかけるという場面です)。

30節「そこで町中が大騒ぎになり、人びとは殺到してパウロを捕え、宮の外へ引きずり出した。(***というのは、言うまでもなく、彼をリンチにしようとしている。)そして、ただちに宮の門が閉じられた」。

31節「彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた」。

神殿のそばにローマ軍の宿営がありました。神殿で何か騒ぎがあったらすぐに混乱を留めることができるように、エルサレムに駐屯していた軍隊です。千人隊長とありますように、軍隊の数はおよそ千人でした。その隊長が、衛兵にパウロを連行させることに致します。それはパウロを逮捕したというよりも、むしろこの騒ぎで危なくなっているパウロを保護したという意味合いの方が強いと思います。

パウロは、このローマ軍の兵営へ連行される途中、37節を見てください(〜40節)。

37節「兵営の中に連れ込まれようとしたとき、パウロが千人隊長に、『一言お話してもよいでしょうか。』と尋ねると、千人隊長は、『あなたはギリシヤ語を知っているのか」。

38節「するとあなたは、以前暴動を起こして、四千人の刺客を荒野に引き連れて逃げた、あのエジプト人ではないのか』」。

39節「パウロは答えた。『私はキリキヤのタルソで出身のユダヤ人で、れっきとした町の市民です。お願いです。この人々に話をさせてください』」。

40節「千人隊長がそれを許したので、パウロは階段の上に立ち、民衆に向かって手を振った。そして、すっかり静かになったとき、彼はへブル語で次のように話した」。
  
と言うのが今読んでいただきました、(22章から始まる)パウロの説教です。それは、一言で言いますと、私たちが良く知る、パウロがどこにあっても語っているパウロ自身の救いの証し――つまり、かつて自分はキリスト教会を迫害する者であった。そんな自分が、なぜクリスチャンになったか、という証しが記されています。

この場面から、今日は敬老の聖日ですから、そのことに合わせて、(22章)4節の表現を借りて『道ありき』という題でお話しをします。―私はこの道を迫害し―と言うのは、キリスト教のことでありますが、ご高齢の方々は皆さん人生の内側に(ある)、また信仰の道を辿って行った、その先輩方の信仰の道を思いながら、また自分自身のことを考えながら、「道ありき」と言うことで、一緒に学んで行きたいと思います。3点(ポイントが)あります。

1)かつてのパウロには、かつての道があった。

ユダヤ人たちの間で、パウロは有名人でした。それは3節をご覧ください。

3節「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について、厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした」。

という、彼は律法に最も忠実なパリサイ派のパリサイという、エリートとして育ったことをパウロは告白します。ガマリエルというエルサレムの優秀な教師の下で、厳格な教育を受けてきました。ユダヤ教について、熱心な者でした。
              
それがかつてのパウロであり、だれにでも、かつての自分があります。そこから大転換をする。つまり、イエス・キリストを信じるということは、パウロの頭の中では、かつての自分の頭の中では想像もできなかったことでした。

何しろパウロは、キリスト教迫害の先頭に立っていました。

4節「私はこの道(***と言うのはキリスト教ですが)を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです」。

このことは、大祭司も長老たちも全議会も証言してくれるほど、自分は有名なキリスト教迫害の先頭に立っていた人物であった。そんな私がクリスチャンになるとは、想像もしていなかった。彼は先祖伝来の信仰をかたくなまでに貫き、それを誇りとしていた人物です。
  
パウロという人物は、かつての自分を忘れたことはありません。キリスト教には“証し”というものがあります。“証し”というのは、もちろん最近起こった主の恵みを皆さんと一緒に分かち合うこともありますが、証しの一番の根本は、そのかつての自分、キリストに出会う以前の自分が、いかにしてキリストに出会ったかということを話すことを、本当の意味での“証し”と言います。

つまり私たちの人生はだれでもかつての自分があり、そしてかつての自分を考えたときに、クリスチャンホームの証しであるならば、おおよそ神の存在は信じていても、そのキリストの十字架、キリストの贖いがいかにして自分の罪と結びつくのかということがピンと来ない。子どもの頃はピンと来ていたとしても、やがて親に反抗するようになる。ということは、親の信仰に反抗するようになる。すると、自分が今まで教会に来ていたのは、そもそも親がクリスチャンだったからではないか、だとしたならば自分の信仰っていったい何なのだろうか、ってそういう風に迷っている自分が、まさか本当に信仰が与えられるとは思いもよらなかったというかつての自分がある。

皆さんの中には、教会に無関心であっただけでなく、むしろそれ以上に教会に対して反感を抱いて教会を訪れた人もいらっしゃれば、何回となく教会の前を通り過ぎてもここに教会があるということを知らなかったという方もいらっしゃれば、自分の宗教的な根源がどこにあるかといえば、まさかキリスト教とは答えられないという背景にいらっしゃる方もいる。ミッションスクール出身の方もいらっしゃるでしょう。中高一貫で6年間毎日礼拝で讃美歌を歌いながら、一曲たりとも覚えていない(笑)という方もいらっしゃる。

私の娘はミッションスクールでありました。そして毎朝、8時5分か10分から礼拝があるのですけれども、驚いたことに自分の隣にいる子は全部の讃美歌をニャーニャーで歌う。「いつくしみ深き」を歌い出すと♪ニャーニャニャニャニャニャニャーニャ♪と(笑)。6年間ミッションスクールに行って、一度もまともに讃美歌を歌わないで通した。そういう人が、まさか自分がクリスチャンになるとは想像もつかなかったと言う。その頑固なまでにキリスト教とは関係のない世界に住んでいる私たちのことを、パウロが(かつての自分を)忘れないように、私たちも忘れないです。忘れてはならない。パウロは忘れてはいない。

2)その彼がキリストに出会います。

キリストと言うのは、「わたしが道である」(ヨハネ14:6参照)という真(まこと)の道であるところにパウロは来ます。(22章の)6節〜8節をご一緒に読みたいと思います。

6節「ところが、旅を続けて、真昼ころダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです」。

7節「私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞きました」。

8節「そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』と言われました」。

ある日突然「わたしが道である」と言われるイエス・キリストがパウロの前にやって来ます。それは彼がダマスコに住むクリスチャンを迫害するために、教会を潰してしまうために、ダマスコに向かっていたその途上に、突然天からまばゆい光が彼を照らし、そして(復活のイエスさまは、パウロに)優しく声をかけます。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」サウロの名前(注***13:9以降パウロとなる)が呼ばれたのは一回ではない、2回でした。

前に申し上げました、聖書の中で2回名前を呼ばれると言うのは、とても温かなシーン(場面)です。ユダヤ教の世界で、ヘブル人の世界で2回名前を呼ぶと言うのは、とても愛情を込めた呼び方です。私たちもそうですね。本当に慕わしい人の名前は何度呼んでも温かさを感じる。

今我が家は孫ブームです。私も圭子も頭の中は孫のことばかり(笑)。そして親たちは何とも疎ましい顔で、いい加減にしてくれというそういう眼差しをくれるのですけれども、しかし孫を可愛がらせてくれてありがとうという気持ちですね。孫の名前はどう呼んでも幸せになりますね。翔太くん、翔ちゃん、翔太ちん(笑)、翔ちん、翔太、どんな呼び方でも、呼びたくて仕方がない。そして写真を見ては呼ぶ、動画を見ては呼ぶ(笑)。

イエスさまがこのパウロに語りかけて、パウロの名前を呼ぶというのはどういうことなのか?このパウロをどこまでも追いかけ、彼はイエス・キリストを迫害するために、追い回し、付け回すのですが、しかしイエスさまはいつもパウロのことを心がけてくださり、そしてとうとうパウロに出会い、優しく「サウロ、サウロ。」と呼びかけてくださった。

パウロはこのことによって、まさに天地がひっくり返るほどの衝撃を受けました。神への信仰の熱心によって敵対していた、ナザレのイエスこそまことの神であり、そのイエスを信じる者たちの群れである、教会を迫害することは、なんと神さまご自身を迫害することだった、ということをパウロはこの日示されたのです。

天からの光、主イエスの栄光の輝きによって、彼は目が見えなくなりました。手を引かれてダマスコに入った彼の目を開いてくれたのは、アナニヤというクリスチャンでした。アナニヤは諄々とキリストの恵みを語り、この方こそが旧約聖書に約束されている救い主であると教えます。

かつての自分は、この方に出会うための自分であった。かつてのパウロは、とうとう「わたしは道である。」とおっしゃったキリストに出会うのです。それがまた私たちの人生なのです。70歳であれば人生70年あり、80歳であれば人生80年ある。そのどこかにメリハリがあるとすれば、イエス・キリストに出会う前のかつての自分、それはもしかしたら70年かもしれない。しかし、主イエスに出会ってからは、私たちはキリストの道を行く、「わたしは道である。」とおっしゃるイエス・キリストに従って歩く自分に変えられて行くのです。

さて、今朝の説教には「道ありき」というタイトルを付けました。いうまでもなく、キリスト教文学者三浦綾子さんの自伝的小説「道ありき」にちなんでつけてみました。「道」というのは、先程の4節でキリスト教を当時「この道」と呼んでいるのです。「道ありき」とはどういうことなのか?
 
三浦綾子さん(旧姓 堀田綾子さん)は、戦前、小学校の先生をしていました。一生懸命教育勅語を子どもたちにたたき込み、子どもたちに戦争の素晴らしさを教え込み、日本のやっていることが、そして戦争のために天皇のために耐えることがどれほど正しいことかと信じて、子どもたちに向かって子どもたちに教育をして来て、そして敗戦です。堀田綾子さんはこれまで自分がやって来たことが、無残にも崩れて行くことを感じます。

敗戦とともに、以前自分は天皇を信じて、すべてが崩れて行った。これからの人生は何も信じるのを止めよう。すべてのことに臆病になり、とっても虚無的な人生を迎えます。教え子たちに間違ったことを教え、戦場に送り出してしまったということを悔み、悔み、悔やみ切れず、堀田綾子さんは教師の職を7年で去ってしまいます。

その後、彼女を襲ったのは、肺結核という病でありました。今でこそ薬で治る病気ですが、当時はまさに死の病と恐れられていました。それでも彼女は治療に専念せず、お酒や煙草を飲み、二重婚約をして、最後は両方の男性から捨てられて、孤独に生きて行きます。

「道ありき」ではじめに諄々と語られていることは、かつての自分です。かつて自分が歩んで来た道です。信じることを止め、疑い、病み、孤独で、しかも無気力に生きていた自分、かつての自分の道の中で、うずくまって、倒れて、傷ついている自分です。

そんな彼女の前に現れたのは、幼なじみの前川正さんです。パウロの前に現れたのは天からの光で、その声は復活のイエス・キリストでした。堀田綾子さんの前に現れたのは、キリストではありませんが、一人の誠実なクリスチャンでした。彼女は、誠実で愛にあふれた前川さんの言葉やその行動に心動かされて、「道ありき」の中でこう記しています。――――自分は一度信じて、子供たちを間違った方向に導いてしまった人間である。そう思いながらも、「この人の言うキリスト教を信じてみようか」と決心した。

かつての自分がいる。そのかつての自分の中に、うずくまって、傷ついて、倒れている。しかしその前に、前川さんという誠実なクリスチャンが現れたときに、少しずつその疑い、その恐れから引き出されて、かつて自分は子どもたちを間違った方向に導いてしまった人間である。しかし、今はこの人のいうキリスト教を信じてみようかと決心した。

一瞬の出来事ではなかったでありましょう。パウロの場合は、ある日突然に始まって、目が見えなくなって、ダマスコに入ってアナニヤという誠実なクリスチャンの説明を受けて数日の出来事として書かれています。往々にして私たちにしてみれば、数ヶ月、数年かかるのかもしれません。しかし、私たちの周りにも誠実なクリスチャンがいて、そしてある時、私たちの心に主イエス・キリストご自身が語りかけることによって、私たちは自分の今まで辿って来た道から、新しい道に行こうかと決心するのです。

前川正さんも、堀田綾子さんも同じ肺結核にかかっていました。そして彼は、綾子さんを残して、35歳の若さで天国に召されていきました。綾子さんはこの時、脊椎カリエスという病にかかり、お葬式に行くこともできず、ギブスベッドに固定され、仰向けになったまま号泣したと記されています。

私たち誰にもが、かつての自分の道があります。そして、どこかで、「わたしが道だ」とおっしゃるイエス・キリストに導かれて、人生の大転換をはかって、洗礼を受けるときがやって来ます。

パウロは洗礼を受けました。16節、いっしょに読みましょうか。
 
16節「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んで、バプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」

何という励ましでしょう。大転換の手前まで来て、もと来た道を戻って行く人もいるのです。空しさや矛盾にあふれた世界に住み、光を見ながらも、自分の道を引き返す人もいるのです。石橋を叩いて渡るという人もいる。信仰の大いなる決断は石橋を叩いて渡るぐらいの勇気があっていいと思います。

今私は中国人の張(チョウ)さんと一緒に洗礼準備会をしています。昨日も夜遅くまで彼と一緒にキリスト教の話をしました。昨日は10時間ほど話した後に、彼は矢継ぎ早に質問を浴びせて来ました。自分が渡る橋がどういう橋か、きちっと確かめていたいという気持ちがあるのでしょう。

彼が高津教会に来たのは初めてでありました。彼が信仰を持ったきっかけはなんとインターネットを通じて。インターネットを通じて、アメリカの女性から彼はとうとう救いの導きを得るに至り、その女性の伝道者から、彼は救いのお祈りまで教えてもらいました。私と一緒にお祈りしました時に、彼は空暗記で、自分の救いのお祈りをさらーっと言うことができた人物でありますが、教会に来たのは高津が初めてでありました。

その女性から、「救われたならば、あなたはどうしても教会に行かなければならない、そしてどうしても洗礼を受けなければいけない、そこまでいかないと、救われたことにならない。」と言われた彼は、なんと教会に来たその日に、(何かと世話をした)木村兄にどうやったら洗礼を受けられるのですか、と尋ねている。是非洗礼を受けさせてください、どうしたら洗礼を受けられるのですかと毎週のようにこの質問をした。

石橋を叩いて渡る。叩いているうちに、どうしても橋を渡りたいと言う人もいれば、石橋をさんざん叩いて、渡らないで帰って行く人もいるのです。石橋をさんざん叩いて、一歩二歩足を進めるのですが、結局は渡らぬことを決意して帰って行く方々もいらっしゃるのです。

ですからアナニヤは、パウロに言った。「さあ、なぜためらっているのですか?」これは私たち全員に届けられることばです。「立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい」。

このことばを聞き、私は洗礼準備会は、必ずこの2つが入ることにしています。@先ずお祈りです。お祈りからキリスト教のこの福音に入って行く道はとっても簡単です。なぜならすべての人は祈ります。祈らない人はいない。すべての人は祈るから、お祈りという入り口からキリスト教を覗いてみます。A2番目に、すべての人が自分にある何とも言えない罪深さというものを感じます。不思議なもので、聖なる神という概念をすべての人がどこかで持っている。それ以前に自分はまずい事をした、申し訳ない事をした、自分はこんな人間なのだろうかという、自分自身についての悩みがある。そしてやがて聖なる神という概念を示されたときに、誰ひとりとしてこの聖なる神の御前にそのままで立つことができないという自覚がある。

アナニヤは、このパリサイ(派中)のパリサイで、罪からおおよそ遠ざかって来たと信じているパウロに向かって、「あなたもまた罪人だ。だからキリスト・イエスの御名を呼んで、バプテスマを受けなさい。」と語りかけます。

キリストの名を呼ぶとは一体どういうことなのでしょうか。それはイエスさまの御名を呼んで生きる、イエスさまの御名によって生きるということです。洗礼を受けて、キリスト者になるということは、キリストの道を歩むということです。
          
「道」という言葉にもあるように、そこを自分の足で一歩一歩、日々歩んで行くことです。信仰は、単なる「心の持ちよう」ではありません。「思想」でもありません。「考え方」や「価値観」でもありません。それは、もはや自分の道ではなく、キリストの道を、自分の人生の続く限り歩んで行きたいという願いをもって洗礼を受けなさい。パウロの人生、私たちの人生と同じで、どこかまではgoing my wayです。しかし、どこからかはgoing His way、つまりキリストの道を行くという人生にどこからか転換する。そして問題があるとするならば、キリストの道を行くつもりでありながら、いつの間にか、自分の道が至る所に現れてくるというのが、クリスチャンが抱えている問題点であると言ってもいいでしょう。

2)復活のイエスさまは、パウロに行くべき(新しい)道を示されました。

ちょっと復習します。

第1番目のポイントはパウロには、かつて辿って来た道があった。その道には後悔とむなしさと疑いが染みついていた。

2番目は「わたしについて来なさい。」(注***マタイ4:19、8:22、9:9、マルコ2:14、ルカ5:27、9:23、18:22、ヨハネ12:26、21:19参照)と主ご自身が道となって、私たちの人生を導いてくださる、天国に至るまで導いてくださる、キリストの道を歩むということをパウロは決断した。

3番目は神さまは私に最善の行くべき道を示してくださる。
ちょっと21節を見てください。
 
21節「すると、主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。』と言われました」。

パウロが今この段階では想像もつかないことで、実際これが実現するのには数年かかるのです。でも神さまは遠い先のパウロの在り方を伝えるように、「わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。」とおっしゃいました。

ちょっと、詳しく見て頂きたいのですが、15節で、アナニヤは一般論をもってパウロの行くべき道を示します。

15節「あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから」。

「すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのです」というのは、一旦キリストに出会い、キリストを信じるなら、キリストの恵みの証人としてこれから生きるようになるのです。それは別にパウロだけではない。ここにいる皆がキリストの証人として召され、その道を生きているのです。
  
しかし、イエスさまは、アナニヤが伝えなかったもっと具体的なこと、それはイエスさまがパウロを特別に選んでお与えになった、パウロが行くべき道を示してくださる。あなたは、他の使徒とは違う、特別な使命を与えて、わたしはあなたを遠く、異邦人の地へと、小アジア、ガラテヤへと遣わす。パウロは、アンテオケから始まり、小アジア(トルコ)を回り教会を建て、さらにはエーゲ海を渡ってマケドニアとギリシャに伝道し教会を建て、さらに最後はローマへ、いや以前ご覧いただきました、彼の幻の中では、イスパニヤ(スペイン)さえも行こうと考えていたのです。

「道ありき」の中で、前川正さんが当時の堀田綾子さんにこんなことばを語ります。「綾ちゃん、人間はね、ひとりひとりに与えられた道があるんですよ。…… ぼくは神さまを信じていますからね。自分に与えられた道が最善の道だと思って感謝しているんです……」。

私たち誰もが、かつて辿って来た道を持っている。誰もが、キリストに出会って、真の道を願って、キリストの道を行くというその人生の大転換を経験している。そしてさらにいうならば、神さまは私たちひとりひとりに行くべき道を教え、そして神を信じる者はそれを最善の道として捉える。
            
私は大学時代に戸塚兄と同じ青年会にいました。当時青年会にはたくさんのメンバーがいました。私は献身しました。しばらくして、大下兄という、当時銀行員でありましたけれども、彼が献身しました。その中で一番献身しそうなのは、実は戸塚兄でした(笑)。 それは教会の皆さんが認めることではありましたが、 自分は子どもを教育する、学校の先生になるようにと神さまが召してくださった。そしてそれが自分にとって、最善の道だと信じる(と戸塚兄は言っていました)。

人にはひとりひとり神さまが最善の道を与えてくださる。時にその道が試練にぶつかり、なぜこんな道を選んでくださったのかと、神さまに不平不満を言うようになる。でも私たちが神に信頼しているならば、その道を5年10年行くときに、ああ、この道がまことに神さまが私のために選び与えてくださった、最善の道であると確信するようになる。

そう言った前川さんは、わずか35歳で天に召されます。クリスチャンとして真実な道を歩みながら、肺結核で天に召されます。それでも、それが神さまが私に選んで与えてくださった道であるならば、すべてのことを相働かせて益としてくださる神さまは、私に、私だけが行く道、私だけが主とともに行く道、最善の道を私たちひとりひとりに与えていてくださる。そのことばを信じて、やがて堀田綾子さんは三浦綾子さんとなり、そして小説を書くことにいのちを捧げ、小説を書くことでキリストの恵みを証しするようになるのです。

若い人たちは皆、イエスさまが自分をどの道に導いてくださるのか、時に不安があり、時に期待し、そして主の導きが確かであることを確信しようとしておられます。ご高齢の方々は、振り返ってみて、ああ、自分もさまざまに迷った時があったなぁ、しかし、かつて自分の道があり、そしてキリストに出会い、「わたしについて来なさい」という真の道を歩むようになり、そして尚且つ、主は私にだけしか味わえない、私の人生という道を備えていてくださり、それに期待して生きるならば、必ずその道は祝福に繋がっているということを、今日振り返って思い返されることでありましょう。

やがて、だれの人生も、この世界的なものの言い方をすれば、難しくなります。愛する者を先に天に送る。身体の自由が利かなくなる。しかしその中でも、主は私たちに感謝の心を与えてくださり、主の道を行く者を主は限りなく恵みをもって祝福してくださり、その恵みの意味合いは自分が20代のときには解らなかった。60代の時にも解らなかった。でも今になって考えてみると、まことに主は私とともにいてくださり、私を導いていてくださった(注***詩編23:1、創世記48:15参照)と実感することでありましょう。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、「道ありき」という、ひとりひとりの道は10代であれ、30代であれ、60代であれ、80代90代であれ、あなたによって与えられた特別な道であることを覚え、その道の先頭を切って歩いておられるのは、あなたであり、時に自分の道に迷い込んでしまった私たちに声をかけてくださり、あなたの道に引き戻してください。

やがてさまざまな意味で自分の人生が難しくなったとしても、あなたがこの道を行けと、最後までその道を行くことを全うする力を与えてくださることを信じています。

でもそのためには、しばらくすれば、介護の介護される身になるかもしれません。それでもその道を行くことができますように、介護してくださる方々を強めてください。そしてどうか一人になっても、「わたしは決してあなたを捨てない。」(創世記28:15)とおっしゃったあなたに依りすがる心を、私の心から奪わないで、信仰の道を全うすることができるように、よろしくお願いいたします。

先程ご高齢の方々のために祈りました。説教の最後に、ご高齢の方々を介護しておられる、家族の方々のために祈ります。どうかその方々の上にも、あなたが天から特別な恵みを今日注いでください。そのたましいを強め、その健康を祝福してください。

とってもしんどいなぁと、介護の人生に疲れ果ててしまうこともあります。でも振り返ってみますと、今までの人生のさまざまの出来事の中にあって何度も疲れ果てました。でもその度毎にあなたは新しい恵みを加えてくださいました。どうか今日、新しい恵みを加えてください。

自分もまた同じようにして人生の旅路を行くときに、自分もまた、介護される身になります。でもどのようなときにも、あなたはともにいて、愛と平安の心を注いでくださるばかりでなく、その試練に耐え得る力を与えてくださり(注***Tコリント10:13参照)、すべてのことを相働かせて益としてくださり(注***ロマ書8:28参照)、あなたの恵みを人生のあらゆる局面に表わしてくださるお方であることを心から信じ、今の課題に向かうことができますように力付けを与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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