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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/3献児式、洗礼式、聖餐式と説教「差し出す勇気」ヨハネ6:1〜14
☆説教――――(この日はパウロシリーズではなく、ヨハネの福音書6章1節〜14節)
ヨハネの福音書の6章、読んでいただいた個所は、いわゆる5000人の給食と呼ばれる、聖書の中でもっとも有名なイエスさまの奇蹟ですが、最も有名と言ってもいいでしょう。

イエスさまと弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸に渡ったと始まり、それが1節。2節に大勢の人の群れがイエスにつき従っていたと。その大勢の人々とは一体どれぐらいだったのか、その数は10節をご覧いただきますと、男だけでおよそ5千人であったということは、女性も子どもも勘定に入れたら1万人。そうこうしているうちに夕暮れになります。

他の福音書の記録を見ますと、弟子たちはイエスさまにとりあえず「群衆を解散させてください。」と願っています(マタイ14:15、マルコ6:36、ルカ9:12)。ところが、マタイの福音書でもマルコの福音書でも(ルカの福音書でも同様に)、イエスさまは弟子たちに信仰の挑戦を突き付けるために、「あなた方で彼らに食べる物を与えなさい。」とおっしゃる。ヨハネの福音書ではその個所がもう少し詳しく書いてありまして、イエスさまは弟子のピリポに5節でこうおっしゃています。

5節「イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。『どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか』」。

それを聞いてピリポは7節、「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリ(百八十万円ぐらいでしょうね)のパンでは(足りません)。無理です。」とイエスに答えます。無理です――いや、そういう金額があったとしても、パンは手に入らない。

私たちはよく午後のフェローシップにサンドイッチを使います。最初私は、高津の周辺にあれだけコンビニがあれば、そのコンビニのサンドイッチを全部さらってくればいいだろうという発想で、注文を取らなかった時期があった。コンビニの方にとっても嫌がられた(笑)。高津の周辺に5つのコンビニがあるのですが、そのサンドイッチを全部さらっていくというのはとても迷惑です。一万人分のパン、たとえ二百万円あったとしても、それをかき集めるなんていうことは不可能ですよ。

8節にペテロの兄弟アンデレがいますが、こんなことを9節、イエスさまに言います。
9節「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」。

ここに描かれている出来事は、四つの福音書すべてに記されている出来事で、恐らく教会の講壇から一番多く語られる聖書の話です。なぜならこの出来事こそが、私たちの人生を取り扱ってくださる主の恵みの象徴と言えるからです。

いつも圧倒的な必要に直面していて、いつも自分の力は圧倒的に乏しい。私たちを囲んでいる状況は、必要は、自分の能力では到底追いつかない。そういう問題に取り囲まれている。それを前にして、私たちは五つのパンと二匹の魚をぶらさげて、これしかありませんと呆然と立っている。これが私たち個人の生活レベルではなく、高津教会が日本で直面している問題でもあり、皆さんが職場において直面する問題でもあり、キリスト教が世界の問題に直面する時もおんなじなのです。

私たちが持っているのは、五つのパンと二匹の魚にすぎない。しか、私たちの前に立っておられるのは、主イエス・キリストだという、この場面ほど私たちに勇気と励ましを与えるものはない。三つの点から短くお話します。

1)それが何になりましょう。(9節最後のアンデレの言葉)―――静かなる絶望

大麦のパンというのは、小麦のパンよりも安い。大麦の方が沢山とれます。そして、安い粗末な庶民的なパンの代表が、大麦のパン、それが小さく5つ。小さな魚と言うのは、塩漬けにされている小魚です。それがたった2匹。この少年が、お母さんに持たされたお弁当です。ある面ではひとことで現状を言い切りました。それが9節の最後の「それが何になりましょう」。

「それが何になりましょう。」というのは、「静かなる絶望」です。「静かなる絶望」と言うのは心理学の言葉で、英語では“Quiet Desperation”です。世の中の多くの人は、特に都会的な環境に住んでいる多くの人は、心の隅に絶望をいつも抱えている、これが心理学の「静かなる絶望」です。騒ぎ立てることはない。焦って周りに相談することもない。日常生活が普通に進んで行く。でも心の底には絶望がある。騒ぎ立てることもないし、焦ることもないし、なぜなら、そんなことをしても無意味だということを、よ〜く知っているからです。

なぜなら自分の手の中にあるのは、五つのパンと二匹の魚だけだと、たったそれだけで、どうしたら大きな挑戦を受けて立つことができるのだろうか、自分の仕事も将来も、人生のさまざまな悩みも、この世界の問題も、積み上がって行くのは、静かなる絶望。

でも、この大きな課題を弟子たちに突きつけたのは、イエスさまなのです。弟子たちは「解散させてください」と願った。でもイエスさまの方でピリポに(5節)「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と(言っておられる)。6節をちょっと見ていただきたいのですが、

6節「もっとも、イエスはピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」。

イエスは、ご自分のしようとしていることを知っておられた。ということは、神さまは、五つのパンと二匹の魚しか持っていない私たちの前に、敢えて膨大な挑戦を置いて、私たちの反応を見ておられる。それは、ためしておられる。何をためしておられるかというのは、私たちの信仰をためしておられる。

イエスさまは、そのあなたの大きな課題を、そのあなたの小さなresource(注***リソース、供給源・手段)、五つのパンと二匹の魚を、私のところに持って来なさい。それ以外にないではないかと。じっとそのパンを見つめて、その魚を嘆いて涙して、「静かなる絶望」に沈潜していったい何になる。「静かなる絶望」に浸るくらいなら、私のところにそのパンと魚を持って来いと(ためしておられる)。

2)主は五つのパンと二匹の魚を祝福してくださる。――これが希望

一番目のポイントは、いったいこれだけで何になりましょうという静かなる絶望。
二番目のポイントは、いったいこれだけで何になりましょうという、その小さな小さなものを主のところに持って来ると、主は祝福してくださる。――これが私たちの人生の希望です。11節をご覧ください。11節を一緒に読みたいと思います。

11節「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた」。

ここに『感謝をささげる』という動詞が出て来ますが、『ユーカリスティオー』(注***と聞こえたのですが***T・Y)という動詞なのですが、これは他の個所では『祝福する』という風に使っています。主はその五つのパンと小さな二匹の魚を祝福された。圧倒的な必要を前にして、「これしかない。これだけだ。それがいったい何になりましょう。」とつぶやいている私たちの前で、主は私たちが持って来たその五つのパンと二匹の魚を、その手に取り祝福してくださる。そして、それを膨大な恵みと変えてくださり、増やしてくださり、用いてくださる。

よく献金の感謝の祈りで、「今捧げた私たちの小さな、しかし信仰を込めた献金を、幾倍にもなして用いてください。」と祈ります。実際には、magic(注***マジック・魔法・手品)ではないのですから(笑)、金額から言えば幾倍にはならないでしょうね。でもそれが主の手の中に入れば、主はそれを信じられない方法で増やして用いてくださる。その同じ千円の効果、それは人の想像でははかり知ることができない。

掲示板に福田先生からの感謝のお便りが貼ってありますが、封筒の住所はスーパーホテルになっておりました。まだホテル住まいなのだとよくわかる。私たちの献金総額も決して小さなものではなかった。しかしそれは小さなものです。でもそれが主の手に握られて、主が祝福してくださったとしたならば、それは金額の問題ではない。主はそれを大きな恵みとして、釧路教会のその心すべてを温めてくださる。実際に私たちの小さなリソースは大きく膨れ上がり、用いられるということもあるでしょう。実際に私たちのリソースの金額はそのままです。そのままでも、それが違った形で、膨大な恵みと変えられるということがありますでしょう。

弟子たちは、こんな小さな弁当では、何の役にも立ちませんと嘆きました。私たちもまた自分の持っているもの、自分の力に嘆きます。この世の現実の前に、自分自身こんな存在、何の役にも立たない、どうすることもできないと思わざるを得ない。あるいは私の持っているものを、人のもの、人の力と比べて、自分はなんとみじめなのだろう、なんと価値がないのだろう、なんとちっぽけなものしか持っていないのだろうと嘆きますが、イエスさまは私たちのちっぽけなものを、何の役にも立たないと思われるものを、ここに持って来い、私の手の中に持って来なさい(と言われ)、そしてそれを手にとって、その手をもって主は祝福してくださる。その時、五つのパンと二匹の魚としか思えないような私たちが、思いもよらない恵みとなります。

今朝颯太くんの献児式がありました。お父さんの証しがよかったですねぇー!私はまことにその通りだなぁ(と思いました)。小さな小さないのちですから、献児式の祝福をもって、そのちょっとした危険や病でいのちが脅かされるような、小さな小さな颯太くんを守ってください。あなたが育ててくださいとお祈りします。イエスさま、あなたの手の中に,この子を捧げます。あなたが抱いて、あなたが手を置いて祝福してくださったように、この子を捧げますと言いますと、これはご主人がおっしゃったように、“お宮参り”をはるかに超えている。

颯太(そうた)くんの名前の「颯」は風が立つと書きます。風が起こる、私は詩編の147篇の18節を引用してお祈り(注***献児式のための祈り)しましたが、18節はこうです。「主が、みことばを送って、これらを溶かし、ご自分の風を吹かせると、水は流れる。」というのは、主はご自分の風を吹かせて、私たちの人生の氷や雪や霜を吹かせてくださる。

主が颯太くんを祝福されると、神さまご自身の風として用いられる。それは五つのパンと二匹の魚のように小さないのちですが、主が祝福してくださると、その力は何倍にもしてやがてあなたの幸いを運ぶ風となしてください。そういう祈りが込められて、私たちは小さな子どもを、ちっぽけな自分を、五つのパンと二匹の魚を、主の御前に持って行くのですね。

3)差し出す勇気
1番目はこれが何になりましょうという、静かなる絶望。
2番目はそんなものでも、主の手の中で、幾倍にも祝福してくださるという希望。
だとしたならば、私たちが持っている小さなパン、小さな自分、小さな心配、小さな課題、小さな恐れ、小さな願いを、心を込めて主の御前に差し出す、その勇気が試されているということで、その勇気が、信仰が試されているということで、「わたしのところに持って来なさい」と言われたときに、それを「はい」と言って差し出すのです。五つのパンと二匹の魚を差し出した人物が少年だったとは、ヨハネ福音書だけに記されてります。他の福音書にはこれが少年だったとは書いてないです。すると、これは小さな小さな、お母さんが持たせたお弁当だったということがよく分かります。

少年は、「えっ、お母さんがせっかく作ってくれたんだけれども、これ全部持って行っちゃうんですか?」と躊躇したかもしれない。結局、あるだけ全部がイエスさまの手の中に握られる。「五つのパンがあったので四つ、二匹の魚があったので一匹、それがイエスさまのところに持ち去られて、イエスさまはそれを祝福し、何倍にもし、一万人の腹を満たした。」でもいいじゃないですか、それでも成り立つと思います。だけどあるだけ全部、主の手の中に入った時に、主はそれを祝福して用いてくださったということは、小さな私、小さな自分の人生、矛盾だらけの自分ですが、全部そのままそっくりそのまま、あなたの御手に差し出しますという勇気と信仰(が尊く、試されている)。

こういう話があります。
灼熱の砂漠でひとりの男が道に迷っていた。コップ一杯の水を求めて、砂漠の丘を上り下り、上り下り。やがて遠くに寂れた小屋が見えた。人の気配はない。屋根は剥がれ、ドアは壊れて垂れ下がっているような廃屋です。そして、そのドアが砂漠の風にあおられてバタバタ言っている。彼はせっかく見つけた家でも、呆然とその前に立ちすくむ。

でも、家からすぐ離れたところに、古い寂れた井戸を見つけた。もしやと思って、期待をかけて井戸に行き、よろめくように井戸のポンプに行き、その取っ手にしがみついて、力いっぱい押してみる。引いてみる。でもむなしく、ギ―ギ―とただ単純に金属がきしむ音しか聞こえて来ない。いつまでたっても水が出て来ない。

彼は呆然として、井戸のそばにしゃがみこんで、ふっと横を見たら、天からの助けか、水筒が横たわっているのを見つけた。水筒から砂埃を払うと、こんな言葉が浮かび上がって来た。「水を汲み上げようと思うなら、この水筒の水を全部パイプ(ポンプのことでしょうか?***T・Y)の中に流し込め。終わったらこの水筒に再び水をいっぱいにしておくように」。彼は水筒のコルク栓を抜いて見ました。なるほど上まで水が一杯入っています。

彼は決断を迫られます。この水筒の水を飲んでしまえば、今のいのち、今のこの渇きはなんとか潤う、でもその先はない。この水をあるだけ全部井戸に流し込めば、もしかしたら深いところからそれが呼び水となって、地下水を汲み上げることができるのかもしれない。でも、もし出て来なかったらどうなるのか?この水筒のメッセージを真に受けてやってみようか?でもこんなメッセージ、本当に疑わしいものだ、飲んでしまおうか?

迷った末、彼は水筒の水を全部井戸にパイプに注ぎます。そして、力いっぱい取っ手を握って上下に動かし始めた。息が切れるほど(動かしても)、何の手応えもなかった。しかし、しばらくすると、突然ごぽごぽという音とともに、濁った水が上がって来た。そしてしばらくするとその濁りが消えて、透明感をたたえた地下水がものすごい勢いで上がって来て、彼は冷たい水で喉を潤し、頭からそれをかぶり身体を冷やし、そして彼は次の人のために、水筒いっぱいに水を入れ、コルクで蓋をして、先のメッセージにひとこと加える。「本当だぞ(笑)。間違いなく水は上がって来る」。

先程見て頂いた11節のイエスさまのことば、イエスさまは五つのパンと二匹の魚、これに『感謝をささげた』というのですね。私はこれをギリシャ語の『ユーカリステオー』で、そしてこれは『祝福した』ということばに、他の個所では訳されると申し上げました。この『感謝をささげた』という、あるいは『祝福した』という、『ユーカリスティオー』という言葉から、『聖さん』という言葉が出るのです。『聖さん』という言葉はギリシャ語でラテン語で米語で英語で、『ユーカリスト』です。耳慣れない言葉だなぁと思いでしょうが。

すると、今日ともに与ろうとしている『聖餐』はいったい何か?それは、私たち自身を主にささげて祝福して頂くという意味でもある。『聖さん』を通して、十字架の罪の赦しの恵みをいただき、復活の新しいいのちを頂き、いのちのパンに与り、永遠のいのちにつながる者となる。これはもちろん『聖さん』の本当の意味です。

でも『ユーカリスト』という言葉をここから見ますと、同時に、私自身を、私の持てる五つのパンと二匹の魚、そっくりそのまま、自分の今ある矛盾に満ちた人生、時に罪深い、弱い、足りない自分、どうせ塩漬けの2匹ですよ、でもそれがそっくりそのままイエスさまの手の中に差し出されると、主はそれを握り祝福してくださると約束されているのです。

ですから今日は、秋の私たちの人生を始めるにあたり、秋の高津教会の営みを祝福していただくために、私たちは主の十字架の血潮と恵みと裂かれた肉体に与り、同時に私たちは自分自身を主の御手の中にささげる。ちっぽけなつまらない少年の弁当、それにすぎない自分をささげる。イエスさまは、祝福してくださいます。


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