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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/10礼拝説教「パウロ(33)批判の渦の中で」使徒の働き22:30〜23:11
10/10礼拝説教「パウロ(33)批判の渦の中で」使徒の働き22:30〜23:11

☆説教
今回はパウロの33回目。そして「批判の渦の中で」という風にタイトルが付けてあります。前回の32回目では、「道ありき」というタイトルでお話を致しました。

それは、第3次伝道旅行からエルサレムに戻って来たパウロは、予想通り、予告通り、大変な迫害に遭います。そして、エルサレムの人々は、パウロを捕えようと願って、暴徒と化して行きます。危ういところで、パウロはローマの千人隊長に身柄を保護され、神殿のそばの兵営に連れて行かれる所を、千人隊長に頼んで、自分の立場を弁明させてくれと、パウロは神殿の階段の上から、自分をエルサレムの人々に話している個所から、「道ありき」と題して話をしました。

それは「道」ということばが当時のキリスト教の記録であったからです。弁明というよりは彼の証しで、その中で彼は自分がかつて歩んできた道を説明し、どのようにして真の道であるキリストに出会ったかを証しし、最後にそのキリストが彼に、新しい道、行くベき道を示してくださったことを語りました。

「道ありき」、それはパウロだけでなく、私たちにとってもそうで、かつて辿って来た道が、キリストに出会う前の道を本当にじっくり考えてみると、後悔とむなしさと疑いに染まって来た道かもしれません。しかし、どこかで私たちはだれもが、「わたしについて来なさい。」と、主ご自身が道となって私たちの人生を導いてくださる。のみならず、この方は私たちにそれぞれ最善の道を与えていてくださる。それはパウロだけでなく、私たち信仰者だれにでも当てはまることだと、ともに主の最善の道を感謝致しました。

そして今回はその翌日のことで、22章の30節を読んで行きたいと思います。

30節「その翌日、千人隊長は、パウロがなぜユダヤ人に告訴されたのかを確かめたいと思って、パウロの鎖を解いてやり、祭司長たちと全議会(イエスさまを十字架にかけた70人議会ですね。)の召集を命じ、パウロを連れて行って、彼らの前に立たせた」。

そうして始まるのが、23章なのです。これから先、一緒にパウロの生涯を見て行くのですが、彼は何度も議会やあるいは裁判の前に立たされます。その度毎に、弁明し証しをしているパウロの姿を繰り返し繰り返し見るようになります。23章1節を見てください。

1節「パウロは議会を見つめて、こう言った。『兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました』」。

それはかつて、ペテロもヨハネもステパノも同じ議会に立ちました。言うまでもなく、イエスさまもまた私たちの信仰の先輩たちも、何らかの方法で言いがかりをつけられ、世の圧迫の前で自分たちの信仰を弁明することを求められています。それは必ずしも信仰の弁明だけではないです。遠からず、それは人前に立たされ、批判の矢を浴びるとき、私たちはどうするのか、それを今日はこの場面からパウロとともに学んで行きたいと思います。

1)正しい良心で神の前に生活してきたパウロ

まず第一に23章1節をご一緒に読みたいと思います。

1節「パウロは議会を見つめて、こう言った。『兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました』」。

まあ、私は人前で「私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」とはなかなか言えないです。難しい。躊躇すると思います。しかし、彼がここで大切にしているのは、自分は神の御前の良心を第一として生きているのだと(いうこと)。これはねぇ、ちょっとじっくり見て行きたいと思いますが、とても面白い事が浮かび上がる。

2節で「大祭司アナニヤは(そのことばを聞いて、いきなり)、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じた」。

「口を打て」とはどういうことか?何か棒を持って来て、パウロの口を「この口が〜」(笑)と言って、思い切り叩くのでしょうね。あるいは、平手打ちを喰らわすような調子で殴りつけるのか、パウロの口を打てと(言う)。パウロは事情が分かりません。ですからすぐに3節にこう言います。

3節「そのとき、パウロはアナニヤに(大祭司アナニヤと知らずに言うのですが)向かってこう言った。『ああ、白く塗った壁(注***マタイ23:27参照)。神があなたを打たれる。あなたは律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか』」。

つまりこれから、私は律法に従って打たれる、あるいは裁きの座に着いているのに、何の審議もなしにいきなり私の口を打つというのは、律法に反していることではないのですかという風に、パウロは、3度相手の攻撃を迎え撃つのですね。そうしますと、4節を見てください。

4節「するとそばに立っている者たちが、『あなたは神の大祭司をののしるのか。』と言ったので」、

また非難の矢が飛んでくるのです。つまり最初の非難の矢が飛んできてそれにパウロが応じると、また全然違う非難の矢が飛んでくる。パウロは5節に、

5節「パウロが言った。『兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、「あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。」と書いてあります』」。

それでパウロは、私は言い過ぎましたと(いう気持ちで)一歩下がります。しかし分かっていただけることは、パウロはこの先どこへ行っても、批判のるつぼの中にいる。つまり、どんなに抗弁しても矢はさまざまな方向でパウロに放たれる。もう抗弁することが無駄ではないかと思うぐらい、しんどい思いをします。

ある時、お爺ちゃんが孫を連れてロバを連れて、少し離れた村に用事があって出かけようとしていた。そしてお爺ちゃんは、孫をロバに乗せ、最初の村を通り過ぎた時、村人の陰でささやく声を聞きました。「まあなんてこった。元気な子供がロバに乗って、老人が歩いているよ。可哀想なものだ」。

そこで村を通り過ぎた所で交替します。「あのように言われるのだったら、お爺ちゃんがロバに乗るよ。」と言って、孫がとぼとぼ歩くようになります。次の村を通り過ぎる時にまた違う村人がささやく声が聞こえてくるのです。「おやまあ、いい大人がロバに乗って、あんな小さな子が歩いているよ。子どもが疲れて可哀想だね。」とそういう声を聞く。

仕方がないので、今度はお爺ちゃんは、「じゃあ帰りはふたりで乗ろうか?」ということで、お爺ちゃんは子どもを抱っこして一緒にロバに乗ります。そうすると次の村でささやきが聞こえて来る。「可哀想なのは、二人を乗せて歩かされているロバだ。あれじゃ動物虐待だよ」(笑)。

二人は村の真ん中でロバから降りて、今度は彼がロバを担いで帰ったという話です(笑)。

これねぇ、この世界の象徴だと、時々考えさせられますね。要は何をしても、批判されるのです。そんなに君たちは僕を批判したいのかと思うくらい、そういう世界にパウロは立っている。立たされているのです。イエスさまはやがて議会の中で口をつぐんでしまうのが分かるくらい、何を言っても十字架につけることは決まっているのかというくらい、厳しい世界にパウロは立たされようとしている。そういう世界でパウロに勇気を与えているのは、やはり1節です。―――わたしは神の御前にきよい良心をもって生きている。

きよい良心をもって生きている。―――人の批判の矢が刺さることもあります。しかしそれに耐えられるのは、それを避けることでもない。自分を防御することでもない。自分がある意味、そういう世界に立っていることを自覚しながら、どんなに避けても防御しても、矢が飛んでくる世界で、大切なのは、自分は果たして神さまの御前に正しく生きているのだろうか、神さまは自分のしたことをよしとしてくださるのだろうか、もしよしとしてくださるのならば、私はどんな批判をされてもそれを受け止めよう。飲み込もう。ある意味抗弁するのを止めよう。どうせ抗弁しても違う矢が飛んで来ると思った時に、それを飲み込むことができるとすると、それは神の御前に正しい良心を貫く以外にはないですね。

2)批判のるつぼの中をパウロはどうやって生きていたのか?―――復活の希望によって。

またこの場面をじっくり見てみようではありませんか?

6節「しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。『兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです』」。

と言うのは、ちょっとしたパウロの策略ですね。パウロは、この全議会というものの中に、パリサイ派とサドカイ派が共存して全議会が構成されていることをすぐ見て取るのですね。この二つは当時の宗教指導層でも、実は対立していた。そしてなんで対立しているのかというと、復活に対する見解で対立していた。ちょっと8節を見てください。

8節「サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである」。

サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、パリサイ派がこのすべてを認めているというこの宗教対立があるということを彼は見極めて、その対立を利用して、「私はパリサイ派なのだ」と、そして「死者の復活というこの希望で裁きを受けているのです」と発言したら、案の定、議会は、サドカイ派とパリサイ派で混乱します。パリサイ派はまるでパウロの肩を持つように、9節見てください。

9節「騒ぎがいよいよ大きくなり、パリサイ派のある律法学者たちが立ち上がって激しく論じて、『私たちは、この人に何の悪い点も見いださない。もしかしたら、霊か御使いかが、彼に語りかけたのかも知れない。』と言った」。

敢えて「霊か御使いかが」と言って(笑)、自分たちの立場を主張し始めるのです。パウロが死者の復活を語ったことは議事を混乱させる策略でありましたでしょう。でもそれだけではない。パウロは全議会を前にして、キリスト教の中心である復活の希望を是非証ししたいと、こう思っていました。自分自身がどんな困難や苦しみ、いのちの危険さえも怯むことなく乗り越えて伝道を続けることができるのは、この復活の希望による。自分はこの人生の成功だけのために生きているのではない。自分は永遠の道、永遠に至る道を歩むキリスト者で、十字架によって罪赦され、神の子どもとされている私たちが、どんな悲しみや失望にも負けることなく、明日に向かうことができるのはこの希望によるのだ。パウロはまずこれを一番最初に表に出す訳ですね。

さて、今日はこういう風に考えて頂きたいのですが、サドカイ派の人たちは復活の希望を認めないということは、徹底した現世主義者です。神さまへの礼拝を司る祭司が現世主義者であるということは、とっても妙なことだと思えるかもしれませんが、実はそんなことはない。殆どの宗教が現世主義でご利益宗教なのです。だから祭司であろうが、司祭であろうが、どんな神秘的な、摩訶不思議な儀式、あるいはご祈祷を行ったとしても、皆さん日本の宗教を考えてみてください、どんなに神秘的な宗教儀式をやったとしても、最終的に行き着くのは、家内安全、商売繁盛、学業成就、そして病気の癒し、こういったこの世界の御利益に最終的に行き着くという。宗教というのは、求められているのは、この人生における欲、幸福、平安、成功、満足しか見つめていないのは、現世主義的なご利益宗教で、もちろんキリスト教というものもそれに陥る可能性は充分あります。そしてユダヤ教の中ではサドカイ派というのが、現世主義でありました。私はある意味で、現世主義をあまりにもこき下ろすのはやめた方がいいと思います。

キリスト教信仰をこういう言い方で分けることができます。一つは、現世主義、この世主義。その逆は何かというと、あの世主義。あの世主義のキリスト者はどういう風にして生きるかというと、全ては天国です。すべてが天国だから、この世界の責務を全うしない。どうせ真面目に生きていても、あるいはどうせ政府と論じても、どうせこの世の諸悪を改善したとしても、結局この世は滅びて行く。すべてのことが全部天国的になって行くというのが、あの世主義ですね。

このあの世主義的キリスト教を一番批判した人物は、第2次世界大戦中、ドイツの国内の教会がナチスドイツに吸収されていく中、その抵抗運動で戦ったボンへファーがそうでした。当時のドイツの教会は徹底したあの世主義で、この世界がどんなに苦しくもがいていたとしても、それに目を瞑るかのように、自分たちはやがて来る天国ばかり眺めていた。ボンへファーはこの世の責任を果たさずに、あの世主義になることを危険視した人物です。

でも今の私たちがどうかと言われれば、この世界のキリスト教の潮流は徹底した御利益信仰です。アメリカでは1970年代の後半から、キリスト教は健康と繫栄を説けば信徒が集まると言われていました。健康はhealth、繁栄はprosperity。それでhealth and prosperity というのはもうキリスト教会の用語になった。礼拝のすべてのメッセージがあなたの病気が癒され、あなたが長生きし、あなたの仕事が業績を上げ、そしてこの世界において神の栄光が顕されるようにという風に、礼拝のメッセージがそこに集中して行くのです。それはいわば、パリサイ人ではなく、サドカイ派の価値観です。

パウロがこれほどの苦難に遭いながら、パウロを支えていたもの、あるいは非難のるつぼにありながら、それをなんとか支えていたものは死者の復活という希望だった。私たちは時に、ほんとに希望の持てない世界に生きていると思う時があります。飛び来る非難の矢の中で、批判のるつぼにあって、でも私たちは復活の希望に生きる。ピリピの手紙をちょっと見て頂きたいと思いますが、3章の20節をご一緒に読みたいと思います。

ピリピ3:20「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」。

私たちの国籍は天にある。これを私たちは待ち望んでいる。――これが私たちの最終的な希望です。で、一番最初に行きますが、20節の一番最初に「けれども」とあります。すると思わず19節を見ますと、

ピリピ3:19「彼らの最後は滅びです。(***彼らというのは現世主義の人々です)。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」。

これはキリスト者である私たちも気を付けなければならない。時に私たちの欲望が神になって行く。神のみこころを求める以上に私たちの願いを叶えてくださいということを神さまに言い続ける。「彼らの欲望が彼らの神となる」。19節の欄外を見て頂きますと、この「欲望」は原語を文字どおり訳しますと、文語訳がそうでした。「おのが腹を神とした」。自分の「腹」、自分の「おなか」というのは別に食欲だけではない。自分の腹の中にあるもの、自分の心の中にあるもの、それが神となって、地上のことだけを求めて神を礼拝して行くという、このサドカイ的な現世主義に対して、パウロは「私は死者の復活という永遠の世界を夢見ながら、やがてキリストがそこから来りて、この私を迎えてくださる、このことを望みとして生きているのです。」(ときっぱり言うのです)。

「けれども」(20節)で私たちは世の流れとは逆に動いているのです。―――君そんなことをしたら損だよ。最終的に会社の中で主流を行くことができない。君はどこまで行っても副流的な、中流的な立場でしか動くことができないねぇ。そういうまっすぐな君の考え方っていうのは、世の中で受け入れられるはずはない―――きっとそう言われることもあるでしょう。しかしどこかで私たちは「けれども、私たちの国籍は天にあり」なのです。そりゃこの世界ばかりで住んで生きていたとしても、所詮それはあと10年か20年です。それから先は、私たちは自分の死を見つめながら、その死の向こう側にある、永遠の世界を見て行かねばいけない。だから私たちは、「けれども、私たちの国籍は天にあり」ということばを、どこかで自分自身に言い聞かせて行かねばならない。

北の海を航行する船から、氷山が流れて来ると、船乗りたちはその氷山の美しさに見とれながら、海に漂う氷山をじっと見ていた。するとなんと氷山は風とは逆の方向に動いている。明らかに強い風が正面から氷山を押している。にもかかわらず、氷山はその風よりももっと強い力で風とは逆の方向を動いている。考えてみたら、理由は簡単です。それは海面から出ている氷山は、氷山の一角というように、わずか1/10、1/20、1/50です。そこにどんなに強い風があたっても、実際氷山の流れを留めているのは風ではない。海面の深いところにある、海の流れ、潮の流れで氷山は動いているのですね。

*****ここで、先生はいつものように今日のポイントの復習に入る*****T・Y

私たちがこの世界に生きて行く時に、パウロのように四方八方からその矢が射られて行く。それをかわすってことは、恐らく意味がないでしょうね。それに抗弁するということも恐らく意味がないでしょう。一つ抗弁を出せばもう一つ矢が飛んでくるような世界に、私たちは生きているのです。でもその風を受けながら、その矢を受けながら、基本的に同じ方向を向いて流れて行くことができるのは、神に対してまっすぐな良心を貫きたい―――自分のしていることを、これが自分の願いなのか、神のみこころなのか、ということをいつも検証しながら、いつも確かめながら、神の御前に何をすることが正しい事なのかということを、自分で判断するような良心を持つこと。【***これが1)】


2番目に、どんなに矢でボロボロになったとしても、自分は天国に向かう潮流で(動かされ)、海面を動かしている風で(動かされているので)はない。天国の潮流に乗りながら、神の方向―――死者の復活の希望、永遠のいのち、天国の御国、やがて来るイエス・キリスト―――これを信じて私たちは神の御国という方向に向かう。

パウロはキリストの復活のことを、復活の初穂(はつほ)と言いました。初穂、キリストは初穂だと。初穂というのは、今の時季言うまでもない事ですが、初穂の後に大収穫が待っているのです。初穂で終わっちゃったと言ったら(笑)、ほんとに何の意味もない初穂です。一番最初に収穫できるものが初穂だとすると、そのあとに大収穫が待っている。パウロがキリストが初穂である復活を信じるということは、私自身もその復活につながるということを期待していた。【***これが2)】

3)批判のるつぼの中でパウロを支えていたものは?――ともにおられる勝利の主

11節これは一緒に読もうではありませんか。

11節「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。』と言われた」。

私には「その夜」というひとことが味わいがあります。その夜、主はパウロのそばに立って、パウロを励ますのです。「勇気を出しなさい。あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをすることになるだろう」。

疲れた日、本当に人の批判の声で疲れた日、あるいは抵抗勢力によってことごとく疲れた日、まあ、男性は家に帰って奥さんにそのことを言うのでしょうね。そして奥さんはそのことを聞いてくれるのだろうと思います。あるいは家族に電話するのかもしれない、その夜。でもその夜、もし私たちがみことばを開くなら、主は私のそばに立って、「勇気を出しなさい。」とおっしゃってくださる。

パウロには、その夜、分かった。何が分かったか?それは十数年前、イエスさまは同じエルサレムの全議会の前に立って審議された。そして、イエスさまはどんなことを言っても、偽証を立てる人々が次から次に現れて、この人物はこんなことをした、あんなことをしたと、自分がしていないことも含めて、さまざまな批判の矢を射られるのです。だれも事実に基づいて話をしていない。その時、イエスさまは一つ一つ抗弁なさらなかった。抗弁しても無駄だなぁと思ったのでしょう。ほふり場に引かれていく羊のように(注***イザヤ53:7)、イエスさまは口を閉ざされた。そのイエスさまが、十数年後に、同じ全議会に立たされたパウロの傍らに、その晩現れた。そして、「勇気を出しなさい」と(励まされた)。

これは家族から得るところの慰めも偉大です。ほんとに辛い事があった日、最後に孫の顔を見て、一日をまぁこれでいいかなぁと終わる。でもその場に、もし私たちが主の御前に座って祈るならば、私たちと同じ境遇の中で批判の矢を受け、その痛みも悲しみも辛さもすべて理解しておられる主が、あなたのそばに立ってあなたを慰め励ましてくださる。

パウロは全議会に立って堂々としていたに違いない。しかし、堂々としていてもその心中は恐れで一杯です。そしてその後の展開に不安だったに違いない。私もまたこのエルサレムで十字架につけられるのか?と。イエスさまはおっしゃいました。「勇気を出しなさい。エルサレムはあなたに被害を加えない。あなたはやがて、ローマへ行く」。パウロが待ちに待ったローマ。ローマの信徒への手紙で、私がどれほどローマに行きたいか、そしてローマで福音を証ししたいかと、パウロはもう心を込めて書いています(注***ロマ書1章9〜15節参照)。

あなたはやがてローマに行くと主は励ましてくださいました。この批判のるつぼがいつまで続くのか?自分はどうなるのか?しかし彼は強められています。これまで通り、神の御前に正しく生きることだけを考えて淡々と進んで行きます。地上において、どれほど逆風を受けるとしても、自分自身地上の世界では見ることのできない、復活の希望という人生の潮流によって流れている、生かされていると確信することができた。そして、同じ苦しみを通られた主が傍らに立っておられることを実感し、励まされてその夜も寝ることができた。(私たちも)その夜も寝ることができますように。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、辛い目に遭う日、それは必ずしも人から来る批判の矢ばかりではないでしょう。何をしてもうまく行かない日もあるでしょうし、自分の失敗、小さな失敗だと思っていたものが、100倍の糾弾を受ける時もあるでしょうし、この世の中にはこんな人もいるのだというような人物に罵倒される日もあるでしょう。しかし、私はあなたの御前を歩みます。

私の人生を導くのはこの世界の風ではない。天国に至る、大きな大きな潮の流れです。復活の希望によって、私を動かしてください。そしてどうか、その夜、私の傍らに立って、勇気を出しなさいと、私の肩に手を置いて、イエスさま、私を、小さな貧しい私を励ましてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


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