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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   石を枕に祈るヤコブ(祈りのシリーズ9)
石を枕に祈るヤコブ
        
 ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。(創世記二八・一〇〜一三)

 イサクには双子の息子がいました。エソウとヤコブです。お母さんのお腹から先に出るエソウに、「先をこされてなるものか」とばかり、兄さんのかかとをつかんでヤコブは生まれます。ヤコブはいつも兄さんをライバルとして、育ちました。そしてヤコブは、父イサクの死に際に、野山に狩りに出ているエソウを出し抜き、エソウになりすまして、父から祝福の祈りを授かり、祝福を相続してしまいました。状況を知ったエソウはヤコブを恨みます。創世記二七章には実に詳しく赤裸々に、このときの出来事が記されています。
 エソウの祝福の権利を奪ったヤコブは、兄の殺意を逃れて、遠い母親の実家へ逃げていきます。その途中の出来事が、この二八章です。
  旅の途中、荒野で過ごした夜、ヤコブは神に出会います。父の死、兄を裏切った心の痛み、いつも自分のそばにいて守っていてくれた母との別れ、旅そのものの不安、そして見知らぬ土地の不安。それら全部を秘めた緊張の夜でした。石を枕にしての野宿でした。しかし、まさにその晩、神さまは彼に現れてくださいました。旅の途中、不安と孤独で悶々としていた夜、主は夢の中でヤコブに現れてくださったのです。

                               ●眠りから覚めて

 一六節に「ヤコブは眠りからさめて」とありますが、それは二重の目覚めでした。それは夜の眠りからの目覚めであり、同時にそれは霊的な、信仰的な目覚めでした。この日までヤコブは、神を個人的に知りません。父イサクから神の話を聞かされ、父イサクの祈る姿を見、神の祝福にあこがれはしますが、このときにいたるまでヤコブは、自分の信仰に目覚めてはいませんでした。少なくとも、そういう記録は聖書にはありません。
 ここに至るまで、ヤコブが「主」の名を口にしたことが、少なくとも聖書の記述では一度だけ(二七・二〇)あります。兄のエソウに成り代わって、父イサクから祝福の相続権を奪い取ろうとしている場面です。野に獲物を捕りに行ったエソウになりすまして、ヤコブが料理を運んできたとき、父イサクは目が不自由でしたが、あまりにも早く料理が出てきたことを不信を抱きます。「こんなに早く出てくるはずがない」。そのときヤコブは答えます。
 「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです」。
 ヤコブは主の名を口にしますが、それは人をだますためのものでした。しかもヤコブは、「あなたの神」とは言っても、「私の神」とは言いません。
 そのヤコブが、いま不安におののいて、一人荒野で夜を過ごしています。真っ暗な夜、岩場で自分を被うものもなく、石を枕に、無造作に、疲れて寝ています。石を枕に、自分とは遠い存在にしか過ぎないの御名を呼んで、助けを求めて、眠りについたことでしょう。
 詩編五〇・一五に「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」との神のことばがあります。まさにその通りにヤコブは石を枕に祈って眠りについたのではないでしょうか。
 『ロビンソン・クルーソー漂流記』というだれもが知っている物語があります。主人公ロビンソン・クルーソーは、親の言うことを聞かない青年でした。家出をして、船乗りになって、航海に出ます。嵐に遭遇して、難破して、無人島にたどり着きます。
 島に漂流してまもなく、彼は熱病にかかって苦しみます。一人で熱にうなされる不安と苦しみの中で、彼はかねて船からもち出してきた荷物の中にあった聖書を思いだし、それを取り出してきて、ともかく読み始めます。そして、この「苦難の日にわたしを呼び求めよ」という神のことばを見つけるのです。
  小説にはこうあります。
 「私は生まれて初めてひざまずき、神に、悩みの日に呼べば救ってくっさるというその約束を守ってくださるように祈った」
 「このとき、私は一生のうちで、初めて本当の意味で神に祈った」と書かれています。
   まさに石を枕に荒野で一夜を過ごしたヤコブの心境でしょう。

                  ●「見よ」

 この晩の出来事を、ヤコブは三つの「見よ」ということばで説明しています。「見よ」――聖書の中に、何度も登場する言葉です。それは、私たちの注意を喚起する言葉です。視野の狭い・目の前のことしか考えられない私たちが、主を見上げるように呼び覚まされているときなのです。
 第一の「見よ」は一二節出てきます。
 「見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」
 普通梯子は、どこかに上るために、下から上にかけられています。ところがこのはしごは、天から地上に、上から下に向けられて立てられていました。それは、信仰的にも行いの面でも、とうてい天に上ることのできないヤコブが、「さあ、努力して上ってこい」と言われたのではなく、神の方で、彼の真っ暗な孤独な現実へと下りてこられるための梯子だったのです。
 神の祝福は、はしごを無限に上って勝ち取るものではなく、心貧しき者へと神が降りてきてくださることによって与えられると言うことが、わかりました。神の祝福は、努力して得る報酬ではなく、あわれみの故に注がれる贈り物であるとわかったのです。
 第二の「見よ」は、一三節に出てきます。
 「見よ。主が彼のかたわらに立っておられた」
 天使ではありません。最初に見たときには、天使が梯子を上り下りしていました。しかし、気がついてみると、主ご自身が彼の傍らに立っておられたのです。ここにあるのは、暖かさです。母親が子どもの枕べにいて、「だいじょうぶ」と一緒にいてくれるように、主はヤコブの傍らに来てくださいました。
 そして三番目の「見よ」です。一五節。
 「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」
 一五年前、玉木兄、松枝姉、そして小さな美穂ちゃんが、玉木兄の研究プロジェクトのためにアメリカに行かれました。そのとき、礼拝で証しされたときのみことばが、これでした。良く覚えています。あらゆる予想される困難に信仰の勇気をもって立ち向かうことができるような、力強い神の約束でした。当時早稲田大学の研究チームにおられた兄弟が、日本を離れるということには、アメリカでの生活と研究だけでなく、将来の就職に関する不安もあったことでしょう。しかし主は、研究を終えたとき、青山学院大学の門を開いて、そしてお約束通りに、高津の地に戻してくださいました。
 二番目の「見よ」が主の暖かな思いであれば、この三番目の「見よ」には主の力強さがありました。

                 ●ヤコブの誓願

 さて、ヤコブは翌朝早く起きて、自分が枕をした石をとり、それを石の柱として立て、その上に油を注ぎます。神の臨在に目覚め、信仰を呼び覚まされたこの場所を、彼は聖別し、信仰の記念とします。
 そしてヤコブは誓願を立てます(二一〜二三節)。
 「それからヤコブは誓願を立てて言った。『神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。』」
 二〇節〜二一節は、神の約束です。それを受けて、二二節はヤコブの神に対するヤコブの約束です。
  その二つをつないでいるのが、新改訳聖書では「……ので」、新共同訳聖書では「……なら」という接続詞です。「ので」というのなら、ヤコブはこのとき約束を受けた段階で、それが実現することを堅く信じていたことになります。まだ一日も始まっていないうちに、すでに神は与えてくださる、守ってくださると信じて、誓約を立てているのです。
 それに対して、「……なら」と訳したら、まだわからない、もしそうなるのなら、と神に期待しつつも、不安定な要素が入った信仰になります。
 調べてみましたら、どちらの訳も可能です。そして、そこに意味があるのではないでしょうか。なぜなら、この出来事から数十年先、やがてヤコブは言います。

 三五・三「そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」

 はじめの信仰――私たちに関して言えば――洗礼を受けたときの信仰が確かなものであったとしても、不安が混じっていたとしても、神の真実な約束は変わらないということです。
 ヤコブの苦難の日に、あのベテルで現れ、約束してくださった神は、そこから始まった人生に、いつもヤコブとともにおられました。そのときの信仰が強くても弱くても、その後の自分の信仰生涯がまっすぐでも少々曲がっていても、あの苦難の時に信仰をもって以来、その歩んできた道のりを振り返ってみたら、ああ、いつも主はそこにおられたと、私たちも実感を込めて告白するのです。

                ●ベテルとしての教会

 真っ暗で、孤独で、不安だった私たちに、神が突然現れてくださり、私たちの信仰が目覚めた場所を、ヤコブはベテル・神の家と呼びます。そこは天の門であって、梯子があり、その梯子の頂は天に届き、その上を神の御使いが上り下りしています。「見よ」ということばとともに、自分は信仰に目覚め、そこから自分の生涯が始まり、そこにヤコブは何度も戻ってきて礼拝をささげます。  
 言うまでもなく、このベテルこそ教会なのです。そこで石を枕にして祈った苦難の日の叫びに、神が答えてくださいました。イエスは、ご自分のことをベテルの梯子だとおっしゃいました(ヨハネ一・五一)。主の十字架というはしごを通して、神の愛と平安が私たちの所に下りてきます。ここで私たちは信仰に目覚め、神の約束を受けて洗礼を受け、やがて、キリストという天への梯子を上り、私たちは天の御国に帰っていきます。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2003.03.03 - 10:00
LAST UPDATE: 2003.03.11 - 19:46

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