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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   11/21礼拝説教「パウロの生涯(36)アグリッパ王の前で」使徒の働き26:1〜29
11/21礼拝説教「パウロの生涯(36)アグリッパ王の前で」使徒の働き26:1〜29

☆説教

ちょっと復習しますと、第3次伝道旅行を終えてエルサレムに帰ったパウロはすぐ捕えられます。一週間以内に捕えられます。しばらくして、カイザリヤというユダヤ地方の北に護送され、そこでローマの総督ペリクスによって裁判をされます。

ペリクスは、キリスト教に関心を寄せていましたので、パウロの説教に耳を傾けますが、パウロの説教はとても厳しいアプローチをしましたので、脅え、裁判を2年も延期します。

その2年後に、ペリクスの後任フェストがローマからカイザリヤに就任致します。そのフェストの前でパウロは再び弁明し、最後にパウロは、この裁判については自分はローマ市民だから、ローマ皇帝に上訴する、直訴すると宣言して、ローマに護送されることになります。

前回は、こうした裁判の中で、パウロが「神の前にも人の前にも、責められることのない良心を保つように全力を(最善を)尽くしていた」ということを学びました。

さて、フェストによってローマに護送される前に、パウロはユダヤの王であったアグリッパの前で弁明の機会を得るというのが、26章です。ちょっと、25章の13節をご覧ください。

25:13「数日たってから、アグリッパ王とベルニケが、フェストに敬意を表するためにカイザリヤに来た」。

そこから話は始まります。当時ユダヤは、ローマの植民地ですね。ローマ帝国によってフェストと言うローマの高官が総督としてこの国を統括し、その下に傀儡(かいらい)政権が存在する。それがユダヤ人の王アグリッパなのです。ですから立場的には、帝国から直接遣わされているフェストが上です。しかしユダヤの王アグリッパは、その傀儡政権としてよい関係を結ばなければいけないので、奥さんのベルニケと一緒に、新しい総督に表敬訪問をした時に、このフェストは、この二人にパウロのことを話をします。

すると、アグリッパは飛びつきます。

25:22「すると、アグリッパがフェストに、『私も、その男の話を聞きたいものです。』と言ったので、フェストは『では、明日お聞きください。』と言った」。

25:23「こういうわけで、翌日、アグリッパとベルニケは、大いに威儀を整えて到着し、千人隊長たちや市の首脳者たちにつき添われて講堂にはいった。そのとき、フェストの命令によってパウロが連れて来られた」。

“大いに威儀を整えて”というのは、王さまとしてあらんばかりの威厳を身につけて(という意味)。さぁこれから、パウロの弁明が始まります。ここでパウロは自分の回心の証しをします。

9章には回心の出来事が、出来事として記されています。パウロの口から直接、自分の人生にいったい何が起こったのか、つまりかつてはキリスト教を迫害し、教会をたたきつぶし、クリスチャンであれば、男も女も大人も子供も皆徹底して迫害してきた自分が、どのようにして復活のキリストと出会ったのか、そこからキリストを証しする伝道者としてどのように派遣されて行ったのか、それを直接に語っているのは、ここにある26章(のアグリッパを前にして)と、かつてエルサレムの神殿の階段で、エルサレム市民を前にしてパウロが証しをした22章の、3箇所だけです。9章は出来事そのもの。パウロの証しは22章と26章に出て来ます。

私は何度か、この26章のパウロの証しから説教をして来ました。私が、26章の証しから説教をするときは大体ですね、14節のキリストがパウロに声をかけられ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」(というみことばからで、)人生、これでいいんだ、これだ充分だと思って最善を尽くしていながら、実はあなたの人生は神のみこころに逆らって、とげのついた棒をけっているようなものではないか、あなたの人生痛くはないか、というイエスさまの温かい語りかけ(が中心主題)です。

しかし今日は、私は『アグリッパ王の前で』と題しました。この視点から掘り下げてみたいと思います。それは、この26章は、パウロは妙にアグリッパを意識しているからです。

2節「アグリッパ王。私がユダヤ人に訴えられているすべてのことについて、きょう、あなたの前で弁明できることを、幸いに存じます」。

と始まりますね。

19節「こういうわけで、アグリッパ王よ。私は、この天からの啓示にそむかず」、

と話をアグリッパ王に集中してまとめて行きます。

27節「アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います」。

と、大勢いる中で、何度も何度も、彼は意識して「アグリッパ王よ」とアグリッパ王に語りかけているのです。

これはいったいなぜなのかということも含めて、今日は3つの短い点で勉強したいと思います。

1)アグリッパ王とは、どういう人物だったのでしょうか。

あまり詳しくはわかりません。でもこれだけで何となくわかってしまうというほど、有名な人物です。彼の正式名称は、ヘロデ・アグリッパ・2世です。ヘロデがついているということは、新約聖書に何度も出てくるヘロデ王の家系にあったということです。

アグリッパの曾祖父は、ヘロデ大王で、イエス・キリストの誕生の時に自分の地位が揺らされることを懸念して、幼子イエスを殺すためにベツレヘム周辺一帯の幼子を皆殺しにした人物です。
アグリッパのおじさんは、ヘロデ・アンティパスで、バプテスマのヨハネの首をはねたヘロデです。
アグリッパの父親は、ヘロデ・アグリッパ1世で、使徒の働き12:1に出てきます。

12:1「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし」、(12:2)「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」
 
つまりアグリッパの家系は、王の地位に昇りつめた人物はほとんどと言って、キリスト教を迫害しているのです。クリスチャンの命を奪ってきた家系です。キリスト教とこれほど遠く離れた人はいなかったのが、このヘロデ・アグリッパ2世。家系の中に、イエス・キリストを嫌うという伝統が刷り込まれている。しかも幼児虐殺、バプテスマのヨハネの首をはねる、ヤコブの殺害と、生々しい話がいくらでも転がっているところに登場してくるのがアグリッパです。パウロはこのアグリッパをよーく知っているのです。そして、このアグリッパに直接に語りかけて行くのですね。

2)パウロはこのアグリッパに、あたかも自分を重ねるかのように語ります。

パウロは何度も「アグリッパ王よ」と個人的に語ります。友人でもあるかのように、共通点でもあるかのように近寄って、いつになく直接的に語りかけます。

なぜでしょうか。このイエスを迫害してきた家系の、キリスト教とは縁遠いアグリッパには、実は自分と共通点が多いからです。3節をちょっと見てください。

3節「特に、あなたがユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるからです。どうか、私の申し上げることを、忍耐をもってお聞きくださるよう、お願いいたします」。

と一番最初に、彼は相当なユダヤ人だということを念を押して、話を始めます。パウロもそうなのです。5節を見てください。

5節「彼らは以前から私を知っていますので、証言するつもりならできることですが、私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました」。

ということは、パウロ自身、アグリッパと同じように、ユダヤ人の慣習や問題に精通していた。いや私はおそらくあなた以上にユダヤ教にこだわり、私はパリサイ派のパリサイでしたと(言うのです)。アグリッパは、曾祖父以来、キリスト教を迫害してきましたが、パウロもそうです。9節をご覧ください。
    
9節「以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました」。

(10節)「そして、それをエルサレムで実行しました。(エルサレムで実行するのに飽き足らないので、)祭司長たちから、権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました」。

というラディカルな原理主義者だった。今で言うならば、原理主義者過激派のリストに載っていたのがパウロですね。エルサレムでは、ステパノを処刑する時に賛成し、まだ若かったために、パウロは石を投げてステパノを殺すという役割は回って来なかった。でも彼は石を投げた人々が返り血を浴びないように、その上着を預かる番をしていた。まだ若―いパウロですよ。でもその頃から、彼には過激派のレッテルが貼られていたのです。

アグリッパ王よ、あなたほどキリスト教に縁遠い人はいないのかもしれない。ひいお爺さんの時代から延々と。しかし、私とて、パリサイ派のパリサイとしてキリスト教を弾圧し、私はイエスの名に強硬に敵対すべきだと、この信念で生きて来たのですと(パウロがアグリッパに訴えているのです)。

それは多くの日本人に言えることでありますが、自分の家族に親戚にクリスチャンは一人もいない。私は一人いればいいなぁといつも思います。(笑いながら)一人いますとね、洗礼を受けるって話になると、その一人のおばさんが必ず味方するのです。ある時には、ひとりもいない。おまえだけ家を捨ててキリスト教に飛び込んで行くのかという、そういう印象。別に家を捨てるわけじゃない。むしろクリスチャンになれば家を大事にするでしょう。だけど、そういう印象をどうしても与える。クリスチャンっていったい何者なのだろうか。そんなに宗教にはまって怖くはないのかと、そういう印象の中で、(クリスチャンが)ひとりいるだけで家族の理解が全然違うのです。私たちがそういう言い訳をしますと、パウロは私もそうだったと(言うでしょう)。

パウロは自分の親のことは話しません。だけど、パウロには、後々ペリクスがねらっていたように、遺産があった。パウロは相当な遺産を持っていた。ペリクスはそれを狙って、パウロを敢えて2年間拘留するわけですけれども、遺産を持っていたということは、まともな家の出身ですよ。すると、彼がエルサレムでガマリエルという、まぁ一番有名なユダヤ教の主任教授ですね、その下で勉強させ(られ)、将来は律法学者になれるほどの人物を期待して、親は彼を送りだした。その彼がその道をまっすぐに行っていたところ、ある時、急にイエス・キリストに回心した。ということは、彼は家から勘当的な扱いを受けたに違いない。パウロは私たちに向かって、おおよそキリスト教から縁遠い存在だとしたら私がそうだった(と言うのです)。

しかし、アグリッパ王よ、その私にイエスさまは現れてくださいました。それが14節。14節はやっぱり皆さんと一緒に読みましょう。

26:14「私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、へブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ』」。

あたかも、パウロが今度はアグリッパに言っているかのようです。アグリッパに向かって、あなたの人生は“とげの付いた棒”をけるようなものではないかと。“とげのついた棒”とは、牛2頭をくびきに繋いで畑を耕す時に、その後ろに耕作機械と飼い主がいるわけですけれども、牛は後ろ足でけるのですね。下手をすると、耕作機械や脇にいた主人を蹴り上げます。そこで、牛の足の後ろにとげのついた棒を置いて、後ろ足で蹴らないようにしていたのですね。(牛が飼い主に逆らって足を蹴り上げようとすると、この棒についたとげによって痛い目にあうのです)。
       
あなたが自分の好きなように生きているその人生は、牛が飼い主に逆らって足を蹴上げて、結局は自分を傷つけてるような人生ではないのかと。神の御心に逆らって足をけり上げても、結局は傷を負うのは自分ではないか。それを復活のイエスさまは教えてくださった。そしてそこで私の人生は急転回して行った。アグリッパ王よ、あなたはユダヤ人の王として贅沢の限りを尽くし、自分のほしいままにふるまい、しかしそのほしいままにふるまっているあなたの人生というのは、幸せなのか?それとも所詮神のみこころに足を蹴り上げて、自分を痛めつけている人生なのか?というパウロの迫り方ですね。

裏を返しますと、復活のキリストは、あの私に現れたとするならば、あなたにも現れることができる。あの私は、ダマスコに行く途中、ダマスコの教会を叩き潰すために、私は過激派の先頭に立っていた。でもそこに神さまは現れてくださったということは、あなたの行く手に神さまは立ちはだかって、神さまのみこころはいったい何であるのか、もう一回考える機会を与えてくださるのではないですか?(と言っているのです)。

高津教会のお墓に、高津教会に一度もいらっしゃったことのない、皆さんは相模原で持たれた葬儀に行った人以外はお会いしたことのない、臼井キクさんという百歳で天に召された方が入っています。これはもう亡くなられました、臼井健二兄のお母さんです。

ある時臼井姉からお電話をいただきました。それで、私も事情がよくわからなかったのですが、家で癌の末期で介護をしていた姑が、急に讃美歌を歌い始めたので、すぐに来てほしいと(いう話でした)。このお母さんというのが、キリスト教に大反対、臼井健二兄と奥さんと同じ家に住みながら、ものすごい迫害していた(人です)。

久里浜のご自宅に圭子と伺いましたが、着くとすぐに、反対して来た理由が見えてきました。「ここに止めてください」という駐車場が、お宅のそばにあった神社の境内でした。鳥居をくぐってふと見ると、鳥居に大きく臼井家という名前が書いてありました。あっ、そうか、臼井家というのは、この一帯では旧家でこの神社の氏子で、この鳥居はお爺さんだか、その前の世代だかわかりませんが、臼井家が建てたのだ。かくしゃくとしたおばあさんでいらして、百歳ですけれども、若い頃はほんとにご立派な着物を着ておられました。

その長男の健二さんがクリスチャンの奥さんをもらい、お付き合いを始めた時には、まだ(臼井姉は溝の口の)帝京病院で看護婦さんをしておられた。お付き合いをなさる条件として、あなたが教会に行くならという条件で(笑)。そしていつの間にか、イエス・キリストに出会い、そして洗礼を受け、毎週毎週久里浜から高津教会にいらっしゃったわけです。

お母様は格式のある立派な方でしたから、ことさらそのことが絶対に許せなかったのでしょう。臼井姉は、結婚したときから、お姑さんがキリストの救いに預かることを祈り続け、そしてひたすら病床で介護しておられました。

そしてお母様が百歳になって、ある日、言いました。
「私も、あなたの信じている神さまを信じようと思う」。
でもその時は、臼井姉は何となく漠然としてその言葉を捉えた。それからしばらくして、百歳のおばあさんが、布団の中で讃美歌を歌い始めた。これは奇跡だ。私もその奇跡の意味は当時わかりませんでした。

一度も讃美歌なぞ歌ったことがないおばあさんが、6節ある「山路こえて」という讃美歌が歌えたというのです。それで、臼井姉は、「姑は昔鎌倉に住んでいたことがあって、宣教師の英会話教室に通っていたことがあるそうです。もしかしたらその頃に讃美歌を習って、そしてその讃美歌が今頃になって脳のどこからか出て来たのかもしれない。でもおおよそ教会に一度も行ったことがない、讃美歌を聴いただけで身の毛がよだつ姑が、いきなり百歳の病床で讃美歌を歌うというのは奇跡だ。」(と言っておられました)。

私は後に青山学院の短期大学の礼拝に呼ばれたときに、校長先生とそのお話をしたら、校長先生が言われるには、「山路超えて」というのは、讃美歌の中でただ一曲、歌謡曲のような歌で(笑)歌謡曲で明治のころの大ヒットしたのだそうです。四国の方が四国の山を越えて旅する、それを讃美歌にして6節。私たちはそれを洗礼式のために、「山路超えて」の入っているCDを探しまして、皆で歌ったら、なんとお姑母さんは6節までほぼ間違いなく一緒に歌うんですね。歌詞なんか全く見ずに歌い切れるのです。そういう点はやっぱり神さまの奇蹟だなぁと思います。そして、私は讃美歌の意味を説明して、罪を悔い改めるお祈りをして、十字架を信じて、お姑母さんは洗礼を受けました。

あれほど、キリスト教を毛嫌いし、お嫁さんを迫害して来たようなお姑母さんにも、主は現れてくださいました。パウロの時のように。そして19節ちょっと見てください。

19節「こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず」、

背くことなく、神さまの光に自分の人生を沿わせるように、光を受け入れて行く。私たちがキリスト教に出会うきっかけはいろいろです。パウロのように、キリスト教に反対して、教会の門をくぐる人もいれば、あるいは臼井兄のように、奥さまに結婚するならあなたも一緒に教会に行ってねと言われて教会の門をくぐる人もいる。だけど、そこで与えられる光に自分の人生を添わせるなら、光を徐々に受け入れて行くなら、18節、見てください。

【18節「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである』」。】

彼らの目を開いてくださる――私たちの目を開いてくださり、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせて、わたし(キリスト)を信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって、御国を受け継がせるためにパウロは遣わされるわけですけれども、

アグリッパ王ももしパウロの福音を聞くならその目が開かれ、ああ自分はサタンの支配の中を生きていたと、そこから神に立ち返り、キリストを信じる信仰によって罪を赦していただき、聖なるものとされた人々の中にあって、(これは教会です)天の御国を受け継ぐことができるものとなる(これは神の子どもとなる)。(注***18節のみことば、つまり復活のイエスさまがパウロに啓示されたことばの解釈)

神に敵対していたあなたが、その罪深いあなたが、罪赦されて、神の子どもになれる。というメッセージをアグリッパに送っているのです。そのメッセージの根拠は、パウロは「私がそうだったのだからあなたもそうなれる」。

3)パウロは弁明からいつしか、アグリッパに悔い改めと信仰を迫ります。

27節「アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」

というこの一行から始まる文章は実は書いてない。しかし大体想像がつきますね。「では旧約聖書にあれほど預言者がイエス・キリストのことを預言しているのを知っていますか?旧約聖書に預言されているあの預言の成就は、イエス・キリストによってなされたのです。」と話し始めるわけです。すると、とたんにアグリッパは身を引きます。
   
28節「するとアグリッパはパウロに『あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。』と言った」。           

これでアグリッパは背を向けるのです。

私も洗礼を受ける方に、洗礼準備会、大体30分、30分×4回、それで洗礼を受ける方はこんな短くていいのですか?と言われる。それで「私はわずかなことばであなたをキリスト者にしようとしている」と言います(笑)。何かのことをもし詳しく知りたいのなら、本を読んでください。そんなに礼拝の後しゃべるほどの力は残っていない(笑)。わずかなことばであなたをキリスト者にしようとしているのだと…。

アグリッパはそう簡単に信じられるかと応じるのですね。これは分かりますよね。でもパウロは淡々と応じますよね。29節見てください。
  
29節「パウロはこう答えた。『ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです』」。

言葉が多い、少ないなど私にとって問題ではない。まして何か“弁明する”ということも、私にとって関心がない。私が関心があるのは一つで、アグリッパ王であろうが、フェストであろうが、ペリクスであろうが、高官であろうが、等しく福音を信じ、罪赦され、神の子どもとなる。御国を受け継ぐ者となる。私はそれだけ考えて、イエスさまの前に立っているのです、と(言っているのです)。

キリストを証しする者の大胆さですね。大胆なゆえに通じない場合もある。

マザー・テレサは、私はよく言いますが、広島でマスコミに核廃絶の問題に意見を求められると、日本が中絶大国であることをあなたがたは知っていますかと逆に切り返すのですね。あなたがたは原爆で失われた多くのいのちを嘆きながら、どうして中絶で失われるいのちのために涙を流さないのか?という(悔い改めを迫ります)。

マザー・テレサはハーバード大学で講演に招かれます。講演の内容というのは、「大学生諸君、男女の仲というのは聖書に書いてあるように、聖く正しくあるべきです。」という、おおよそ受け入れて貰えそうのないことばを、淡々と話す。

マザー・テレサはTVに招かれますと、「マスコミの世界で一番必要なのはキリストの愛ですね。」と、おおよそ通じないだろうなぁと、世界を巡るマザーにとって、ことばが多かろうが、少なかろうが、願っていることはただ一つ。人々が神さまを見上げて、キリストの愛に触れることができるように、それだけを考えて彼女は話をするのです。

マザーはインタビューに答えて、こう述べています。
「マザー、あなたのなさっているお仕事は、世界中に知られ、どこの国の大統領でも、あなたを尊敬されているのではないでしょうか」。
マザーは、答えます。
「いいえ、これは主の働きです。主は私の小ささを用いられることで、ご自身の偉大さを示そうと望んでおられるのだろうと思います」。
主はあなたの小ささを用いることで、ご自身の偉大さを示そうと望んでおられる。
 
「マザー、あなたはご自分に特別な賜物があるとは思っておられませんか?」
「いいえ。私ではありません。これはイエスさまの働きで、私はイエスさまの手に握られた小さな鉛筆にすぎないのです」。
主は考えてくださる。主は書いてくださる。私は、主の手に握られた小さな鉛筆で、私にできることは、ただ使って頂くために、私が自分自身を主の御手に明け渡すだけです。 

私たちの生涯も、主の手に握られた鉛筆に徹することができたら幸いです。パウロの大胆な演説はこれが最後です。これから先これほど長い演説は出て来ません。そしてパウロは見事なまでに、おおよそ福音に耳を傾けないアグリッパに、自分自身もアグリッパと同じであった、けれども神さまの恵みによって、自分もまたキリスト者になった。あなたもキリスト者になれるという、この大胆不敵な証しをするのです。そして怒られますね。――あなたは少ないわずかなことばで私をキリスト者にしようとしていると。パウロには関係ない。自分はあくまで神の手に握られた小さな鉛筆で、自分の小ささを用いて主の栄光が顕われれば、本当に素晴らしい。

先ほど読みましたね。アグリッパとベルニケは多いに威儀を整えて(25:13)、講堂に入って来た。パウロは自分の鎖は別として、私と同じようになってくださいと言ってるわけですが(26:29参照)、彼は鎖につながれているのです。片や、王さまの豪華な威厳に満ちた洋服を着ているアグリッパの前で、パウロは実に堂々と、自分の小さな信仰告白をする。救いの証しをする。私たちもそういうクリスチャンでありたいなぁとつくづく思います。

☆終わりのお祈り

パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」。(使徒26章29節)

恵み深い天の父なる神さま、「以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。」(26:9)と言うこのパウロの告白と同じように、私たちもどこかで以前、アグリッパのようにキリスト教に無関心であり、私たちも以前、パウロのようにキリスト教を偏見に包まれていました。

しかし、そんな私たちに、あなたは現れてくださり、このたましいを捕えてくださったことを心から感謝致します。罪赦され、神の子どもとされた、聖なるものとされた人々の中にあって、御国を受け継がせられる者となった(26:18参照)ことを、心から感謝致します。そしてこの喜びを、何と言っても、自分の人生の第一の喜びとすることができますように、主よ、私たちを導き助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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