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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   11/28桂町教会伝道礼拝の説教「主はあなたのすぐそばにおられる」
11/28桂町教会伝道礼拝の説教「主はあなたのすぐそばにおられる」詩篇139:1〜12

☆ご紹介とご挨拶
(聖書個所の朗読を終えた後、小林佳神学生)今日は特別伝道礼拝と致しまして、高津教会より藤本満先生をお招き致しましたので、拍手をもってお迎えしたいと思います(拍手)。

(藤本先生)おはようございます。横浜桂町教会によく来てくださいました。皆さんのお顔を拝見して、私にはわかりませんけれども、今日初めていらっしゃった方もあるのではないかと思います。○○さんお久しぶり(笑)。ほんとにお久しぶりの方もいらっしゃいますし、私はこの教会の前身の南横浜教会が栄区にありましたときに、わずか数カ月でありましたけれども牧師をしておりました。その後で、矢木先生ご夫妻が遠く金沢の地から牧師として赴任されました。そのころの方でお見受けするのは、佐渡さんがそうであろうと思いますけれども、本当にお久しぶりだと思います。

☆始めのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、アドベントのろうそくが一つ灯されました。毎週この礼拝に来るたびに、もう一本もう一本とろうそくの火が灯される中で、私たちはクリスマスを迎えようとしています。あなたはすでに私たちの心に住んでおられるか、あるいは私たちはすぐあなたの傍に立っているか?しかし、このクリスマスに向けて、ろうそくの火が一本一本灯されるごとに、あなたをよく近く、より深く味わうことができますように、よろしくお願いいたします。

格別に今日初めてこの教会にお出でになった方、いつもとは違う牧師がここに立っておりますが、次の日曜日には、再びもう一度この教会にいらっしゃることによって、矢木先生ご夫妻にお会いすることができますようにあなたが導いてください。

さまざまな犠牲を払って、この日曜日の時間を聖別されたお一人お一人に、天からの報いが豊かにありますように。これからの時を御手に委ねてイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆説教
今日は詩篇の139篇を見て頂きました。その1節をもう一回ご覧いただきたいと思います。今日は聖書から離れませんので、できる限りついて行って頂きたいと思います。

1節「主よ。あなたはわたしを探り、私を知っておられます」。

神さまというお方が全世界を知っておられる。これをキリスト教では神の全知と言います。神がすべてを知っておられるというのは、世界のすべてを知っておられるからではなく、神はあなたを知っているから全知なのです。1節に『あなたはわたしを探り』とありますが、別の訳では、「あなたはわたしを極めている」です。2節をご覧ください。


2節「あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます」。
(3節)「あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。

仮に人間同士の話ですと、これは大変厄介な話になります。若いお嬢さんがそこに座っておられますが、僕は君の名前を知っている。携帯電話を知っている。携帯のメールアドレスを知っている。そして君が立つのも座るのも、君が伏すのも知っていると言いますと、すぐに警察に電話が行く(大笑)。これはもうストーカー行為ですね。

人というのは、あまり知られない方がいい。誰もが自分自身のプライベートな部分を持っていますし、まして1節にありますように、私は君のことを極めている、そんなものの言い方をしますとですね、そんな不遜な態度はありませんし、またそういう人物がいたとしたならば、恐れを抱きます。

私は牧師という職業をしていますけれども、牧師という仕事は人の前に立って話をする仕事です。これはある意味、時々大変疲れますね。人の前に立っているときに、人は私を見ますし、それは話し方や、あるいは素振りや、髪型や服装やすべてを見られるというのが人前に立つという仕事です。私の教会では、礼拝が終わりますと、牧師が玄関に立って皆さんをお送りするということなのですけれども、玄関でちらっと挨拶しますと、時々「先生、今日はお疲れのようでしたね(笑)。」(と言われます)。「いいえ、全然疲れていません。」と、こういう風にシラを切りますけれども(笑)、私は元気にしているつもりなのですけれども、しかし、前に座っている、あるいは気を抜いたときに、何とも言えない疲れが漂っているというのを、皆さんやっぱり見ているのですよね。そこには心配の思いもあるかもしれませんけれども、改めて自分が人前に立ち、また見られる仕事であるということがよくわかります。

神学校に行きました時に、牧師として「説教学」という、こういう授業を受けました。そのときに、先生が開口一番3つのことを教えてくださいました。牧師となった限りには、3つのことを覚えておけと。
1つは、トイレに行ったら必ず手を洗え(大笑)。これは、アメリカの教会ですと、単なる挨拶ではなくて握手をするわけですね。そして、信徒の方が、あの先生、トイレに行った時に手を洗わなかったというのを、一度でも見られたら、そんな奴と誰が握手をするかと(笑)、まあ、ひとことで言えば、清潔感を保ちなさい、ですね。
2番目に、しましま靴下は履くなという風に教わりました。男性というのは、姿見で自分を見ることはないです、多分。ほとんどの場合が洗面台の鏡の前で、このあたりしか見ない。ところがですね、人前に立つということは、あるいは人前に座るということは、あなたの靴から靴下から全部見られるのです。それくらいのことを考えて、自分の身なりを整えなさいということを、教えてもらいました。
3番目に、これが一番貴重なのですけれども、どんなに気に入った女性が会衆の中にいても、その人ばかりを見て話をするなと(大笑)。するとその人は、次の週には来ないぞと。ここで教わったことは、視線というのはものすごく大切なのだと。新しい人に挨拶をするときに頭のてっぺんから足先までじろじろ見つめるように見てはいけないと。またある方に挨拶をし話をしながら、次の方にすでに目を移してはいけない。自分が話している人物を無視してはいけないし、同時にその人物を極めるかのようにじろじろ見てはいけない。視線というのは、自然が理想的ですね。

サルトルという哲学者は、この視線ということを大変よく考えた人物であります。彼はこういうことばを記していますが、じっと見る、じろじろ見る、極めるということは、ものに対してすることであって、人に対してすることではない。人は虫眼鏡でものを観察するように人を見てはいけない。人は探るような視線、極めるような視線を嫌うという観点から、彼は最終的に無神論に行きます。それは神さまというお方が、あなたを極めているのです、あなたのすべてを知っていると(したら)、そんな神さまは自分にとって恐れでしかないと(考えた)。であるがゆえに、実存主義の哲学者は、ほとんど神を否定していたのです。

サルトルが面白い事を言いました。そういう視線を持って相手を見るときに、そういう視線には、人を裸にする力があると。実はこの「見られる・裸」というのは、私たち人間が抱えている根本的な問題だとサルトルは理解しました。それは、フランスの哲学者でありますから、明らかに聖書を背景としていることも確かです。

ちょっと創世記を見て頂きたいのですが、創世記の3章にエデンの園に暮らすアダムとエバがいます。神さまに「園の中央にある木からは絶対に実を食べてはいけない」と言われながらも、やがて二人は誘惑に落ちて、神さまの命令に背くのですね。6節をちょっと見てください。

6節「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に麗しく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた」。

まあ禁断の木の実をたべてしまったのですね。その次を見てください。

7節(前半)「このようにして、二人の目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」。

これは象徴的なものの言い方です。というのは、この木の実を食べるまで、彼らは目が開かれていなかったのか?自分たちが裸であることを知らなかったのか?いや、そんなことはない。その前にも目は見えていましたし、自分たちの裸が分かっていたに違いないですが、一旦罪を犯し、自分の内側にやましさを抱きますと、人の内側に恥ずかしいという感情が生まれて来ます。ですから、

7節(後半)「そこで、彼らは、いちじくの葉をつづりあわせて、自分たちの腰のおおいを作った」。

と、自分の弱さ、恥ずかしさ、やましさを隠して行くのですね。そして、

8節「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は(アダムとエバは)、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」。

ということは、神に対して罪の意識を持ったとたんに、自らの恥を意識し、そして人と人との間で洋服をもって自分の恥を隠すのみならず、神の視線を避けるようになるのですね。
そのアダムとエバに対して、神さまは

(9節)「(神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。)『あなたは、どこにいるのか』」。

というこの声をかけます。あなたは、どこにいるのか。これはわずかこの聖書で5ページぐらいのことですけれども、どこまで行っても全く同じことが書かれています。それはいつも神に背を向け、神の視線を避けて生きている私たちのやましさ、恥ずかしさ、弱さ、それと共に、隠れている私たちに向かって、「あなたは、どこにいるのか?」と私たちを探し呼びかけてくださる神さまの姿ですね。私たちはありのままの自分を見られる、知られるということを恐れます。そして申し上げましたように、自分に恥ずかしい部分があると自分で思ったその瞬間、その瞬間から人前であろうが、神の御前であろうが、一生懸命隠すのが私たちです。 

ところが面白いもので、私たちは同時に、恐れずにありのままの自分をさらけ出せる、安息の場を探し求めていることにも事実があります。恐れず、ありままの自分をさらけ出す、安息の場を求めているのですが、そのありのままの自分を出す瞬間に走る(のは)緊張感、独特な緊張感ですね。それは、果たして相手はそれを受け止めてくれるのだろうか?果たしてそれを相手は許してくれるのだろうか?(という躊躇からくる緊張感でしょうか?)。

男女の付き合いでも、あるいは夫婦でも、どんな人物にも隠している過去もありますし、あるいは敢えて隠していない自分の姿もあるかもしれません。自分は幼いころに、こういう不遇な境遇に育ったとか、あるいは学生であれば、小学生のころにいじめられたとか、自分の心の奥底に貯めている悲しみ、失望、自分の家族にはこういう不幸があったとか、それを私たちは出会う人、出会う人にみんなに言う訳ではない。まして親しい間柄になったとしても、そう簡単に言う訳ではない。でも何かの瞬間に私たちはそれを言いたいというか、あるがままに自分の内側にある矛盾、葛藤、苦しみを言ってみたいという気持ちにかられるのですね。ところが相手はそれを受け止めてくれるだろうか?

私は今は大変元気なのですけれども、私は京都で生まれ,牧師の息子なのですが、私の両親が神学校を卒業した後、京都の教会に赴任してそこで生まれ、次に福岡の教会を開拓し、そこに引っ越し、私が小学校に上がるちょっと前に、今の川崎に引っ越してきたのです。当時川崎というのは、四日市に並ぶ公害の町で、私はご多分にもれず、とんでもないぜんそくにかかるようになります。そして小学校3年生の時には、母の実家の桑名に、もうお医者さんから「藤本くん、君は川崎に住んでいる限り、この病気は直らないよ。」と、そして「もう中学になったら、一年間の半分は入院していることになるよ。」と言われて、私は一人で転校して、おじさんおばさんの家に住みました、一年間。結果、もっとひどくなって帰って来るのですけれども(笑)、これは辛かったですね。桑名の山の小学校に、ただ一人関東から転校して行く小学校3年の少年。よく夜泣きましたよ。それはよく覚えていますね。とっても寂しい思いがしたのを、今でも思い出します。私はそのときからず〜っとぜんそくの病を抱えています。

今はとってもよい薬がありますので、ほとんど発作は出ませんけれども、それが出る前は23年前、私は2年間で3回救急車に乗ったことがありましたね。私は小さいころからぜんそくが出なくても、ぜんそくの吸入器というものを持っているのです。これはカバンの中に一つ、枕辺に一つ、車のダッシュボードに一つ、カバンが5つぐらいありますと、5つ全部に入って、スーツのポケットにはほとんど入っていますから、我が家に15個ぐらいあります(笑)。でも使わないのです。使わないけれども持っています。

小学校5年生のある日、給食が終わってポケットを探したら、この吸入器がないのです。(実物をポケットから出して見せながら)当時もっと大きかったのです。ない。そしてそう簡単に医者は出してくれない。私はこれがなくては1カ月生きて行けない。しかし医者はそう簡単に出してくれないのです。こういうものに頼るからぜんそくが悪くなる。お母さんが甘やかすから子どもはぜんそくになる、そういう論理ですね。とっても厳しい。

私は、昼休みと5限、6限と、廊下や教室をくまなく探しました。自分の行ったところを。どうしても見つからなかった。そして帰り道、同じ方向に帰る片山くんに、ポロっと「ぜんそくの吸入器を失くした。」(と漏らしました)。私はひどいぜんそく持ちでしたけれども、友だちの前で吸入器を使うことはなかった。いつも隠れて、あるいはトイレの中で吸入していた。でも自分がぜんそくであることは皆も知っている。

片山くんにポロっと漏らしたのですね。すると、片山くんはその場にしゃがみこんで、ランドセルを降ろして、ふたを開けて、中から「おい、藤本、それってこれか?」と出すのです。私はびっくりしまして、「片山、なんでお前それを持ってるの?おまえもぜんそくなの?」と訊くと、「ううん、俺はぜんそくじゃない。俺は、今日はそうじの当番で、そのゴミ箱にあるゴミを焼却炉に持って行く係だった。ゴミを捨てている内に、何か面白いものがあったから拾ってきた」(笑)。「おまえは命の恩人だよ。ありがとう、片山」ですよね(笑)。

でもその次の瞬間、片山は目をキラキラ輝かせて、「藤本、俺にもやらせてくれない?どうやるの?」(笑)「こうやってやるんだ。」「それを吸い込むとどうなるんだよ?」私は彼を親友と思いましたね。それは自分自身として、人に見せない一番恥ずかしい部分と思っていた、この吸入器に、彼は目をキラキラさせて、ものすごい関心を払っているのですよ。私が恥ずかしいと思っているものを、彼は何の恥ずかしさも感じていない、むしろ興味を感じて私の病気を受け止めていてくれたというのは、まさに親友ですね。人間って不思議なもので、自分の弱さや弱点、あるいは恥ずかしさというのは、できることなら隠しておきたい。あるいは人に見せたくないと思いながらも、でもある瞬間、自分のありのままの姿を知ってほしいという思いがある。

ダビデはこの139篇を記す前に、32篇を記していますので、ちょっと32篇を見て頂きますでしょうか?これは交替に読めればと思います。一節ずつ交替に読んで行きます。

1節「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」。
2節「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」。
3節「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました」。
4節「それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです」。
5節「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう』。すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」。

彼は神さまの御前に大きな罪を犯した。それを3節見てください。彼は黙っていた。黙っていながら、3節の一行目、「一日中うめいて、私の骨々は疲れ果てました。」ということは、どんなに黙っていても、神さまは知っているということをダビデは解っていたのです。
どんなに黙っていても知っているということは、4節に書いてあります。「それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです」。神さまの御手が昼も夜も私の上に置かれているということは、どんなに黙っても隠しても、私のすべてを神は知っておられるのです。彼は疲れて、そして5節に、自分の罪を告白するのですね。「私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう』。この緊張、この迷い、あるがままの自分を神さまの御前に出すことの、この躊躇、ためらい、これは私たち皆持っているのですね。でも次の瞬間に、「すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」と(記されています)。
    
イエス・キリストの十字架のゆえに、私の重い罪も赦して下さった。神さまはず〜っと知っておられたのです。でもダビデが自分の口から告白するのを待っておられた。そして、自分の口から告白しない限り、どんなに神さまが知っていたとしても、その赦しは彼の心には届かない。その赦しを彼は受け取ることができない。ありのままの自分を果たして神さまは受け取ってくださるのだろうか?迷いに迷って打ち明けた時に、なんと神さまはそれを赦して受け止めてくださる。ですから、32篇の1節は、「幸いなことよ、そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」と、2節「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に(その霊に)欺きのないその人は。」と、『幸いなことよ』が2回連続出て来ますでしょう。

この世界にはさまざまな幸いがあります。私たちが衣食住に満ちているということも幸いです。こんな厳しいものの言い方をすることはないですけれども、もし私たちが明日をも解らないいのちで、瀕死の状態だったとしたら、衣食住に満ち足りているという幸いは、いったい何の意味になるのですか?私たちの人生の果てに、それは30代40代50代の時には、衣食住に満ち足りていて、60代になれば孫に囲まれていて、70代になれば伴侶者と別れ、80代になれば一人孤独にこの世界を去っていく私たちにとって、衣食住に満ちている、そんな幸せで果たしていいのだろうか?そんな幸せ、一つ一つ剥がれて行きますよ。

ダビデは自分にとって最大の幸せは、ありのままに神の御前に立ちながら、その自分の弱さも自分の恥ずかしさも罪深さも全部知っていて、受け止めていてくださる神がおられる。そしてその神は、私を子どもとして神の御国に迎えてくださる。それ以上の幸せがいったいあるのだろうかというのが、ダビデの告白なのです。もちろん、充分に食べるものがある。愛する人とともに生きることができる、それは大きな幸いですよ。それを否定している訳ではない。しかし人間、究極の究極を考えて行った時に、あなたの幸いはこの地上のすべてではない。むしろこの地上を超えたところに、あなたの幸いはあるのですね。

さて、139篇に戻って頂きますと、ダビデはこのようにして自分の隠れた所を知っておられる神に出会ったのですね。ちょっと4節から私の方で読んで行きますので、目で追ってください。

4節「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます」。
5節「あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました」。
6節「そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません」。

さて、ここから逃げるのです。

7節「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう」。
8節「たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます」。
9節「私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも」、
10節「そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます」。

もう逃げられないのです。8節に天に上っても、よみに床を設けても、9節に海の果てに住んでも、ということは、どこまで行ってもあなたは私の傍から離れない、ついて来る。だから、ダビデはサルトルのように、この神を抹殺しようと思っているのか?こんなにまで私を知り尽くし、私の後から離れない神さまを、ダビデはサルトルのように厭がりながら、突き放そうとしているのか?いやいや、そうではないですね。

先ほどの32篇を見ましたように、あれほどの自分を受け止めてくださる神さまに出会ったダビデは、この139編の一番最後23節を見てください。

23節「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください」。
24節「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」。

というのは、23節の頭、もっと探ってください。隠しているのではない。私をもっと調べてください。そして何とかして、私の思い煩いを全部知ってください。思い患いだけではない。24節も、私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私を諭して導いてとこしえの道に導いてください。つまり、自分の罪を赦して下さり、ありのままを受け止めてくださった神さまの前で、彼は自分自身をもっとさらけ出し、もっと明らかにしようとしているのです。

皆さんは教会にいらっしゃったときにお祈りをされますが、お祈りをされるときに、ありのままの自分をどれ位出しておられると思います?これはなかなか難しいのです。自分の内側には、今ひとつわからないことがあるでしょう?疑いがあるとか、あるいは子どもの悩みだとか、自分の内側に抱えている病気のこととか。

たとえば私たちの教会でも、病気で入院された方、その方のために祈りましょうと言ったときにですね、皆さんの場で公開してもいいですかとか、週報に書いてもいいですかとか、必ず許可を取ります。牧師だけの胸の内に秘めてお祈りしてくださいというお祈りもあれば、ぜひみなさんに伝えてお祈りをしてくださいというお祈りもありますね。でも中には、牧師にも伝えることもできずに延々と一人で抱えているというケースもあるわけじゃないですか?私は、それがいい、悪いの問題ではないですね。

2005年にアカデミー賞を取った「ミリオン・ダラー・べイビー」という映画があります。もしまだ見ていなければ、これアカデミー賞7部門ですから、見なきゃいけないですね。見終わった後は、何とも言えない、絶句するような思いに駆られますので、皆と一緒に観るような映画ではない。

貧しい女の子が老齢のボクシングトレーナー、クリント・イーストウッドのところに尋ねて、クリント・イーストウッド監督、主演男優、モーガン・フリーマンが助演男優、みんなアカデミー賞を取りましたが、この貧しい、でも自由な、屈強な女性がボクサーになって、ミリオンダラーを稼ぐようになる。だから(タイトルが)「ミリオン・ダラー・ベイビー」ですね。でも、話はそんなに単純ではない。残りの部分は皆さんが、実を言うと、考えながら観て頂ければいいのですが、興味深い場面があるのです。

それは世の中の酸いも甘いもおおよそ全部味わって来た、とっても虚無的なこのクリント・イーストウッドが、地道な生活をしながら、毎日、カトリック教会のミサに行くのです。私たちはプロテスタント教会ですから、礼拝(***言わば祈祷会?T・Y)に行くのですね。時折、ミサの最後に司祭さまを捕まえて、奇妙な質問をします。その奇妙な質問は、キリスト教では三位一体の教えがあって、それは不可解だけれども、先生は分かっているのですかとか。聖書の中にイエス・キリストは乙女マリアより生まれた(となっている)、そんな乙女マリヤより子供が生まれる、そんな馬鹿馬鹿しい事を先生は本気で信じているのですかと。

司祭さまは青白い、人生の方向をあまり知らない、神学校を出たての若い司祭さまです。それを捕まえて、老齢のボクシング・トレーナーが延々とそういう質問をする。司祭さまは嫌がらせかと(思い)、あなたはいったい何のためにこの教会のミサに来るのだという問いかけをするのですね。しばらくすると、私たちは彼がなんで行くのか分かる。

ある日自宅に帰ってきて、ポストから郵便物の束を受け取って、家の中に入って、ほとんどがダイレクトメールですから、ゴミ箱に捨てちゃうのですね。一枚だけ取って、クローゼットの段ボールの箱に入れようとした時に、段ボールが落ちる。箱の中から同じような封筒、同じようなしるしの付いた封筒が床にザーッと広がる。全部、転居先不明で、そしてそれは自分の娘に宛てた手紙なのです。神さまどうか娘に会わせてほしいと。

自分の人生のさまざまな展開の中で、離婚し、そして娘と難しくなり、いつの間にか、もう娘とも連絡が取れないこと何十年。しかしどうしても娘に会いたいというのが、老人の叫びです。彼はそれをもって礼拝に行くのですけれども、しかし礼拝に行った彼は、素直になれないのです。そして司祭さまを捕まえて、いやというほど皮肉っぽい質問をする。私はあの映画を見て思いました。教会に来ても、私たちは自分のありのままの姿を出さずに帰って行くのだなと。人は人に対してありのままの自分を出せないのみならず、神に対しても出せない。

先ほど、礼拝が終わった後に帰り際に、皆さんに挨拶をするのだと申しましたが、挨拶の切り出し方が難しいので、まあ「行ってらっしゃい」とか「最近いかがですか?」とか、言いますね。間違って「お久しぶりです」って言っちゃいますとね、「いえ、先週も来ましたよ」となるので(大笑)、ああ、お久しぶりっていうのは、だめなのだなぁと、ただ単に私がこの方を見ていなかっただけで来られていたのだなぁと(思う訳ですが)、「初めまして」というのもダメで、「初めまして」と言うと、「先生、3回目です」(笑)と言われるので、「初めてでしょうか?」という風に下から行かないとだめですね。

一番多いのが、「いかがですか?」「お元気ですか?」。すると皆さん、10人いれば9人が「まあまあです」と、こう言い返されますね。あるいは「ぼちぼちです」とか、「ええまあ」とか。そんな会話で果たして牧師が、ひとりひとりの信徒さんの心の中、その重みや苦しみがわかるかと言うと、全然わからないです。

私はよく言うのですけれでも、アメリカに矢木先生も同じように留学していた時に、初めて病院に行ったことがあるのです。調子悪くて。すると病院のお医者さんが“How are you?”って訊かれたのです。もう小学校、中学校の頃からずっと英会話で習った通りに“I’m fine thank you, and you?と言ったのですよ。そしたらお医者さんが、“I'm fine”じゃないだろうと、fineじゃないから病院に来たんでしょう(大笑)と(言われ)、でも挨拶ですからね、そういう風にするものだと思っていた。でも病院の場合は、挨拶ではなくして、「いかがですか?」とか「何ゆえ病院にいらっしゃったのですか?」とそういう意味だと(分かり)、あぁなるほどなと(納得した次第です)。

私は、礼拝が終わった後の牧師と信徒との挨拶というのも、”How are you?””I’m fine thank you, and you”で終わっているのではないかと思います(笑)。これは仕方がないのです。そんなところの立ち話で、自分の内側にある心や悩みや相談事を打ち明けるなどとんでもないですよね。でも是非、いつでも矢木先生ご夫妻に電話してください。あるいは礼拝の最後に「先生、週日来ていいでしょうか?」と尋ねてあげてくださいよ。牧師というのは、皆さんのために祈りたいと心底思っています。それを聴きとったときに、誰彼に言うことはないですよ。とっても丁寧な対応だと思いますよ。

でも一旦その悩みを聴いたら、その悩みが牧師の心から離れるということはないですね。いつでも祈るときに、その方のことを覚えて祈るでしょう。その方の名前や顔を覚えるその度に、礼拝でその方の顔を見る度に、あぁあのことはどうなっているのだろうなぁと、そしてその瞬間神さまに祈りますよね。牧師に自分の内側をなかなか明かすことができなかったとしても、礼拝にいらっしゃったならば、心を注ぎ出して主に祈ってほしいです。

聖書の中に何回も「心を注ぎ出して祈る」という表現があります。先ほど申しました。人はなかなか自分自身を人に明かさない。そして神にも明かさない。にもかかわらず、聖書の中には注ぎ出して祈っている人たちが沢山いるのです。「注ぎ出す」というのは、コップに入ったあるいは壺に入った水を、もうすっからかんになるまで全部出してしまう、それが「注ぎ出す」ですね。

ダビデはベツレヘムの井戸の水を飲みたいと言ったときに、その親衛隊が遠いベツレヘムのへき地を通りぬけて、(ペリシテ人の陣営を突き抜けて)水を汲んで来る。その水を受け取ったときに、ダビデは「これを私は飲むわけにはいかない。あなたがたが、いのちをかけてこれを取って来た。これはあなたがたのいのちだ。だから私はこれを神に捧げる。」と言って、彼は地面に全部出してしまうのです。(注***T歴代誌11:17~19参照)これが「注ぎ出す」です。一滴残らずすっからかんになるまで、注ぎ出す人が聖書の中でいるのです。そうやって祈る人がいるのです。

詩篇の次のしばらくしたところに、イザヤ書53章がありますが、そこに「注ぎ出す」ということばが、こういう所に出て来ます。イザヤ書の53章の12節をちょっと見てください。イエス・キリストの十字架の預言をした章ですが、12節だけを一緒に読みたいと思います。

12節「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」。

さて最後の2行、(***彼は多くの人の罪を負い…)これが重要です。イエス・キリストは多くの人の、私の罪を背負い十字架にかかり、神にそむいた私のためにとりなしをし、私の罪を赦し、私を神の子どもとする。

さて、この12節に、「注ぎ出す」という動詞がどこに出て来るのか?それは、3行目の「彼が自分のいのちを死に明け渡し、」です。キリストが自分のいのちを注ぎ出し(という言葉は、明け渡しという言葉と同じです)。

「注ぎ出す」という動詞はあんまり出てくるわけではない。でもここに出てくる。イエスキリストは私たちの罪を荷い、私たちのためにとりなしをするために、ご自身のいのちをすっからかんになるまで、一滴残らず注ぎ出したのです。ということはこういうことです。

私たちはいったいだれの前なら、自分の悩み苦しみを注ぎ出すことができるのか?私たちはいったいだれの前なら、ありのままの自分を注ぎ出すことができるのか?
それは人前なのか、神の御前なのか?時に神の御前だと、なおさら遠く感じることがあるでしょう。

私たちがありのままの自分を注ぎ出すのは、十字架の主イエス・キリストの御前で。この方は私のいのちを救い出すために、すっからかんになるまでご自身のいのちを与え尽くされた。あなたのために。

私のすべてを受け止めてくださる主イエスの御前で、私は自分の痛みを、自分の傷を、自分の悩みを、自分の疑問を、自分の不信仰なその思いに至るまで、すべて注ぎ出せる、注ぎ出したいのはイエス・キリストしかいない。

なぜなら、この方はあなたのために、ご自身のいのちをすっからかんになるまで注ぎ出した(から)。

そろそろ話を終わりにしますが、もうクリスマスですよね。クリスマスっていうと、(そのキャラクターは)サンタクロースではないですか?私たち(にとって)はイエス・キリストの誕生日。でもクリスマスっていうのはサンタクロース(のイメージ)ですね。サンタクロースっていうのは、セント・ニクラウスという、あのアフリカ系の東方教会の4世紀か5世紀のお偉い人です。それで、もっぱら哲学や神学の修業をしていたのですが、逸話がありまして、近所に住むお宅が貧しくて二人のお嬢さんがお嫁に行けない。嫁に出すためには、お金が必要なのですが、それを不憫に思ってセント・ニクラウスが、その家にお金をこっそりプレゼントしたという逸話が残っています。

恐らく事実だろうと思いますが、それでだんだん貧しい者たちに慈悲深いセント・ニクラウスということを聞きます。15世紀ぐらいに彼が、フルーツのバスケットをもってクリスマスに出て来るという絵が残っています。でも必ずしもセント・ニクラウスがクリスマスのキャラではない。本格的にクリスマスのキャラに仕立てたのは、コカコーラです(大笑)。コカコーラが確か1930年代の宣伝で、クリスマスの時にサンタクロースのキャラを作った。それがトナカイのそりに乗って、赤い帽子、洋服をかぶっておもちゃがいっぱいの袋を肩にかけ、そしていろんな家を訪ね歩くというキャラを作られたサンタクロース。

私はサンタクロースほど、クリスマスの意味を伝えているキャラはいないと思います。イエス・キリスト以上に、サンタクロースというのは、もしかしたらクリスマスの意味を私たちに伝えているのではないかと思う。なぜかと言いますとね、私の寝ている部屋というのは、隣のアパートに密接している北側の部屋です。窓を少し開けますと向こうも開いていたら、向こうの新聞をめくる音が聞こえるのですよ(笑)。そんな部屋に住んでいる藤本満という少年が何が欲しいかなどということを、世界中に知っている人がいると思います?一人もいないでしょう。

この藤本満という少年が、どこに住んでいるのか、クラスのだ~れも知らない。ましてこの少年が寂しい思いがあるとか、辛い思いがあるとか、そんなことに気をかけている者がだ~れもいない中、サンタクロースだけは、毎年一回絶対に忘れることなく、その少年の家に夜中に来て、少年の欲しいものを枕辺に置いてくれるでしょう。サンタクロースは世界のだれよりも少年の近いところにいるのですよ。絶対に忘れない。それがイエス・キリストですよ。

イエス・キリストは私たちがだ~れも知らない、その家の一角の中で、心痛めて傷ついて、悩んで涙して、絶望している、しかし世界中のだ~れもそんなことを気にかけていない、そのあなたの心を知っている。そして、わたしはあなたの前にわたしのいのちを一滴残らず注ぎ出した。あなたはわたしに注ぎ出せ、と言ってくださるイエスさまです。

私は昨年、教会のある姉妹からメールをもらいました。忙しい時にもらったのですけれども、難しい質問で「私には十字架の贖いがよくわかりません。どうしたらわかるようになるのでしょうか?」まぁ、そのうちわかるよ(笑)とも書けないですしね、本人は知りたいのでしょうしね、すぐに返したメールはこうです。「いや、わかっているはずです。自分の罪深さがわかるなら、イエスさまの愛にすがろうとするなら、わかるはずです。だからわからない、わからないといつまでも言わない方がいいですよ」。少しでも分かっているなら、しばらくしたらもっと分かるようになるのだし。しかし、その姉妹は本当にわからなかったらしいのです。

それはどういうことかというと、世界中に何億人という人間がいる中で、どうして神さまが、こんなつまらない私を愛してくださるというのか、それがわからない。
神さまは純粋無垢な子どもを愛されるでしょう。神さまはマザー・テレサを愛されるでしょう。神さまは高貴な人を愛されるのかもしれない。とっても貧しく、しかしそうでいながら素朴な人を愛されるのかもしれない。しかし、そこそこ何でもできながら、自分の心の内側には、沢山の欲望もあり問題もあり、曲がりくねった人生を歩んで来た自分が、どうして愛されているのかが分からない。

なんと、イエスさまは、この姉妹に夢の中で現れました。まさにその日ですね。この方はぼーっとしてリビングに座っていたのですね。寝ていたわけではない。翌日メールが来たのですね。

「先生、4月7日の深夜、私はなぜか不思議な幻を見ました。(よかったねぇ!笑)数百メートル先が丘の頂上になっており(実際彼女の家が上り坂で上が公園なのですね)、そこで、イエスさまが十字架にかかっておられるのです。膝を曲げて、冴えない姿で。あたりには誰もいません。聖書のなかに出て来た群衆も犯罪人の十字架もありません。誰もいませんでした。私は丘の上に上がりました。そこにおられたのは、ただ私のためだけに十字架にかかったイエスさまでした。わかりました。人間が私ひとりでも、この世界に人間が私ひとりしかいなかったとしても、キリストは私のために十字架にかかってくださった。それほど私のためにいのちを注ぎだしてくださった主の愛がわかりました。」というメールでした。

正直、私の人生で夢の中でイエスさまが現れたことはない。現れてほしいなと願っていますが、現れてくださったことはない。でも私は、私の知っているその姉妹がその幻を見たことに、とっても感激しました。それは同じ主が同じ思いで、私に愛を伝えようとしておられることが分かるからです。どうかこのクリスマスの時期、主の愛に触れられますように。私以上に私のことを知っておられる、私がどんなに隠してもすべて知っておられる(その主の愛に)。

「さあ、わたしのところに来て、あなたの不信仰も、あなたの疑問も、あなたの悩みも、罪も、恥多きあなたの人生も、わたしの前に注ぎ出して、神の子となりなさい。そのためにクリスマスはあるのです」。そうおっしゃってくださる、キリストのもとに行きたいと思います。

☆終わりのお祈り

恵み深い天の父なる神さま、本当の自分、それは自分でもわからない自分で、ある意味、自分は本当に主を信じたいのか、洗礼を受けたいのか、それを躊躇したいのか、踏み出せないのか、踏み出そうとしているのか、それさえも自分の中で逡巡して、わからなくなっていくような私を捕えて、「わたしはあなたのためにこのいのちを捨てた。さあ、わたしの手の中に飛び込んで来い。」とおっしゃるあなたを心から感謝致します。

たとえ世界に私ひとりしかいなかったとしても、それでも十字架にかかってくださるあなたのご愛を深く味わうクリスマスでありますように。

小さな小さなクリスマスかもしれませんが、しかし、誰もあなたはどこに住んでいるか、何がほしいのか、どんな悩みを抱えているのか、解らなかったとしても、必ず忘れずに顧みてやって来るサンタクロースのように、主よ、どうか私の心の中に来てください。

私の心をほんの少しだけ素直にして、あなたを受け入れることができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。



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DATE: 2011.03.27 - 00:54
LAST UPDATE: 2011.03.27 - 21:55

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