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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   12/12礼拝説教「主の熱心が私の上に輝く」マタイ11:20〜30
12/12礼拝説教「主の熱心が私の上に輝く」マタイ11:20〜30

☆説教
今朝はマタイの福音書の11章をお開き頂きました。私は来週のクリスマス礼拝は、ヨハネの福音書から「光は闇の中に輝いている」というテーマでメッセージすることを考えています。
なんとかパウロの生涯は終わらせるつもりです。それは年末の最後の礼拝にすべてを集中したいという風に、考え方を変えました(笑)。やはりアドベントの時期にアドベントのメッセージを外しますとですね、私もしっくり来ないし(笑)、皆さんもしっくり来ないのではないかと思いまして、このマタイの福音書の11章を開いて頂きました。

クリスマスは、二千年前のパレスチナの地でもまた今の日本でも、やはり闇の中に輝く光として理解することができます。それは、クリスマスの出来事だけではなくして、キリストの到来というのは、闇(の中です)。その闇は私たちの外の世界にもあり、時に私たちの心の内側の中にもありますが、その闇の中に光がやってくる、光が輝き始める、輝いているというテーマに、クリスマスもキリストの到来もキリストの救いもすべてこのテーマに収れんされています。

「光は闇の中に輝いている」これはマタイの福音書の11章によく表れています。この闇の世界がイエス・キリストというこの光をどのように受け止めたのだろうかとか、どのように受け止めようとしているのだろうか、それはとっても現実的にマタイの福音書の11章に記されていますので、今日はここの11章全体を少し簡単に見て頂きたいと思います。

1)そこで描かれているのは闇の世界、闇の心

11章の始めには、バプテスマのヨハネが投獄されている記事が書いてあります。2節をちょっと読みます。

2節「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いていたヨハネは、その弟子たちに託して」、

(3節)「イエスにこう言い送った。『おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか』」。

バプテスマのヨハネは当時の王ヘロデを批判したがゆえに、ヘロデに捕えられて牢獄にいました。闇の力によって捕えられたヨハネは、獄中の闇の中で、本当にこのイエスこそが、キリストなのだろうかという疑問をもつようになります。もしこの方がキリストなら、どうして自分は投獄されたままなのだろうか、どうしてこの方は政治権力をひっくり返して、私を牢獄から救ってくれないのだろうか、と悶々と牢獄の日々を過ごしています。

かつては、この方こそ『世の罪を取り除く神の子羊』(***ヨハネ1:29)と宣言したバプテスマのヨハネ。そのバプテスマのヨハネは、「私はこの方のくつのひもを解く値うちすらない」(***ヨハネ1:27参照)と、イエス・キリストをあがめていた人物ですが、しかし、牢獄の中に閉じこもっていると、本当にこの方でいいのだろうかと考え始めるようになります。かつては、順調な時は、この方こそキリストだ、この方こそ神だと確信していたヨハネの心が、この闇に捕らえられそうになって揺れて行く。
            
イエスさまは、彼におっしゃいました。6節「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」――ということばはバプテスマのヨハネにだけでなく、また私たちにもかけられていることばだと思って頂きたいのです。私たちも、日頃から、イエス・キリストを礼拝していても、闇のトンネルの中に捕えられると、本当にこの方なのだろうかと、イエス・キリストにつまずき始める。

イエスさまは、この闇の世界を実感しておられました。16節をご覧ください。有名なことばです。

16節「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて」、

(17節)「こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった』」。

この闇の世界は、イエスさまは当時のことわざのような、流行の表現を引用したと言われますが、この闇の世界は、笛を吹いても踊らない。弔いの歌を歌っても悲しまない。預言者が喜びの知らせの笛を吹いてもあなたがたは喜びもしないし、預言者が悔い改めの歌を歌っても、あなたがたは涙一つ流そうとはしない。そういう無感動な世界だと、イエスさまはおっしゃいました。
自分のことで一生懸命なのか、一握りの幸せを掴むことに必死なのか、イエスさまの語りかけに耳を傾けることもせず、自分の小さな世界から出ようともしない。それが日本のクリスマスだと(イエスさまはおっしゃるかも知れません)。

私はよく引用しますが、加藤周一という有名な評論家のエッセイの中に、「余はいかにしてキリスト教徒とならざりしか」というのがあります。明らかに、「余はいかにしてキリスト教徒となりしか」という有名な内村鑑三のエッセーの逆をもじって、自分はどうしてキリスト教徒にはならなかったのかという弁明(をしているのです)。彼は、その弁明を要約してこう言います。

「一人の日本人が、キリスト教徒になった場合には、自他に対してその理由を説明する必要があるだろう。しかし、自分がいかにしてキリスト信徒になっていない場合には、誰に関しても、その説明をする必要がない。なぜなら、これほど日本人にとって当たり前のことはない(からである)」。

私は、これが多くの日本の方々にとってのクリスマスではないかと思うのです。クリスマスという一つのお祭り、そのロマンチックな雰囲気はイルミネーションに飾られ、わたしたちは沢山の買い物をし、おいしい食事をし、プレゼントを買い揃え、そうしたことには心が奪われても、クリスマスそのもの、つまりキリストの到来には全く関心を寄せないです。

私は昨日、或る、まぁブラックユーモアと言うのですかねぇ、あまり笑えないなぁと思いながらも思わず笑ってしまったストーリーがありまして、それを教会の皆さんに言った時に皆さんはどういう印象になるかなと思って(笑)、私の原稿にはないのですが、とっても日本人のクリスマスの話を代表していると思いましたので、ちょっとご紹介しますね。英語で読みましたので、アメリカかイギリスの話なのですけれども。

おばあちゃんが子どもを連れてデパートへ行った。そして子どものためにクリスマスプレゼントを買い、家族のためにクリスマスプレゼントを買い、途中で子どもは騒ぐのですが、おなかは減るわ、もう疲れて汗はかくわで、たくさんの荷物を抱えてエレベーターを待っていた。エレベーターがなかなか来ない。ようやく来たら、そのエレベーターは一杯だった。そしてたくさんの荷物と、子どもと一緒に、そのエレベーターにすし詰めの状態で入った。

そして思わず、おばあちゃんはこのクリスマスの、お祭り騒ぎの不平を言った。
「全くいったい誰がこんなクリスマスなんて始めたんでしょう!」(大笑)
と言ったのですね。もう荷物をいっぱい下げて、汗をかいて(忌々しそうに、)そう言ったのですね。そしたらですねぇ、エレベーターの後ろの方から、ある男性が、
「おばさん、心配することはないよ。私たちはその始めた人をもう十字架に掛けちゃったから」。(大笑)

すごいブラックユーモアだなぁ(笑)と、半面凍りつくような思いになりながら、半面笑えるのですね。この世界は、このクリスマスを始めたイエス・キリストをすでに十字架に掛けてしまった。そのクリスマスの意味も何にも分からずに、私たちはクリスマスの出来事を喜び、忙しく振り回され、そしてその中に、何とも言えないロマンチックな感傷的な思いを抱いて、幸せに浸ろうとするのです。

イエスさまはおっしゃいました。「この時代を何にたとえたらよいでしょう?」(16節)。というのは、2000年前のパレスチナも今の日本もおんなじですね。それは、神さまの視点から言えば、それはデパートの視点からではないですよ、一言で言えば「笛吹けど、踊らず」ですよ。天からどれほどこのイエス・キリストのご生誕の意味を語ったとしても、この世界に讃美歌が溢れたとしても、「笛吹けど踊らず」なのです。それは霊的に非常に無関心で、無感動な世界であります。

この世は、たとえキリストの奇蹟の御業を目にしたとしても、心動かされることはない。それが20節から記されています。ちょっと見てください。

20節「それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた」。

(21節)「ああコラジン。ああベツサイダ。(おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう)」。

コラジン、ベツサイダとは、ガリラや地方の町々です。23節には、

23節「カペナウム。(どうしてお前が天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。……)」。

カペナウムもイエスさまは多くの奇蹟を行われた町々です。ところが、これらの町々で多くの人々は却ってイエスさまへの反感を、批判を強めて行きます。キリストの到来をもって、心動かされ、自分たちの罪深さを悔い改めるどころか、笛吹けど踊らず、弔いの歌を歌っても涙一つ流すことなく、むしろ彼らは神さまに逆らって立ち続けようとする、かたくなな世界が、ず~っと11章の頭から24節まで続いて記されています。

バプテスマのヨハネを捕えて牢獄に叩き込む世界、その牢獄の中で確信が揺らいで行くバプテスマのヨハネ。そしてもっぱら笛吹けど踊らず、神さまの視点からそのメッセージを受けとることをしない、無感動、無関心な世界。そしてキリストの教えを聞き、そのみわざを見れば見るほど、キリストに対する批判を寄せて行くこの世界。

2)闇の中で輝く人がいる

25節はご一緒に読みたいと思います。

25節「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました」。

イエスさまは天の父なる神に対する賛美の言葉がここに記されている訳です。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます」。これらのことを――神の国の出来事を、イエスさまの教えを、闇に輝く光のことを――「賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。」――幼子というのが、私たちのことです。力ある者、権力の座に着くもの、知恵のある者には隠して、貧しく、愚かで、罪深く、小さな、私たちに示してくださいましたというのが、クリスマスの出来事ではないですか?

神さまは、乙女マリヤを選ばれました。10代のひとりの女性を選んで、イエス・キリストを宿す母とされました。神さまは、そのいいなずけであった大工のヨセフを選ばれました。神さまは、クリスマスの夜、このキリストの誕生を祝うために最初に選ばれた人々は、野原で羊の番をしていた羊飼いでした。幼子イエスを受け止めるために、神さまは馬小屋の飼い葉桶を選ばれました。

それらは何一つとして、この世の力、この世の富、この世の成功を臭わせるものはありません。闇の中に輝く光、その光を受け止めることができたのは、私たちのように貧しく、わたしたちのように、愚かで、罪深い、小さな者たちです。

しかも、そうすることは、26節。父なる神さまの「御心であった」というのです。

(26節「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした」)。

父なる神さまの御心であったとは、神さまの定めであったということです。人が何と言おうと、誰がどうしようと、神さまは小さな私に目を留め、私のたましいを呼び覚まし、私を救いに導くことを、計画しておられたというのです。

いや、それだけではありません。ちょっと難しいことばですが、27節をご一緒にお読みください。

27節「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません」。

まぁ日本語の語順もギリシャ語の語順も難しいので、深いところはいいのですが、27節の最後の部分、「子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません」(を見てみましょう)。

父を知らせようと心に定めた人―――誰の心に定めたのか、それはイエスさまの心です。イエスさまは父なる神のことを知らせようと心に定めた人のほかは、神さまのことはわからないといいます。つまりこのクリスマスの時期に、高津教会に座っているみなさんお一人お一人は、イエス・キリストが、父なる神さまのことを知らせようと心に定めた人だ、と言うのです。あなたがそこに座って、説教の何がしかでもわかるなら、あなたがそこに座っていながら、神の救いを求めて、何がしかの恵みを求めて礼拝に来ることができるとしたならば、それはイエス・キリストが心に定めて、聖書のことを、救いのことを、神さまのことを、あなたに知らせようとしているからだと言うのです。

イエスさまは、当時の漁師であった弟子たち、取税人であった罪人、社会からはじかれていた病人、訳のわからない、素性のわからない、どこの馬の骨だからわからないような人びと、教育もなく、財もなく、育ちもない人びとに、こうおっしゃいました。

「恐れることはない。怖じ惑うこともない。あなたが父なる神の力と愛、わたしキリストの十字架と復活、あなたの救い、永遠のいのち、神の世界のこと、それらすべてをわかることができるように、わたしは心に定めている」。

ひとことで言いますと、私たちの救いは私たちに依存していないと(いうことであり)、私たちの救いは神のご計画と、キリストが心を定めておられるこのキリストの力にすべて依存していると、(いうことです)。

それがイザヤ書の9章7節(に記されているのです)。これは開いていただきたいと思います。先ほど、(交読で)読んでいただいた個所ですが、イザヤ書9章はクリスマスの(イエス・キリストの誕生の)イザヤの預言ですね。

イザヤ書9章をちょっと読んで行きたいと思いますが、クリスマスの始まりが
記されています。

2節「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に 光が照った」。

6節「ひとりのみどりごが、私たちのために生れる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な預言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」。

このキリストの誕生をず〜っと描いていますが、7節の最後を見てください。この7節の最後に、すべてが掛っているのです。――「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」。

7節「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」。

つまり、闇の世界で光が輝き出るとしたら、それは万軍の主の熱心による以外にない。
あなたの心の闇の中で、神の光が輝き出て、私たち自身の罪深さ、私たち自身の愚かさが分かる、(それは万軍の主の熱心が成し遂げられたこと。)
弔いの歌に涙を流し、喜びの笛に心を躍らせることができるとしたならば、(それも万軍の主の熱心による)。
聖書を隅から隅まで読んだこともない、キリストのことはよくわからない私たちが、キリストの愛に触れることができるとしたならば、(それも)万軍の主の熱心によるほかない。

どんなに書物を読み漁っても疑う人は疑う。どんなにキリスト教の講座に通ったとしても、解らない人には解らない。しかし神はその真理を幼子に現わすことをよしとしてくださった。それは賢い者や権力あるものではなく、幼子のような素直な心を持っていた人のところに、神さまは光を輝き出してくださる。それらすべては神さまのご計画によるばかりでなく、キリストはそのように心を定めて遜る者の心のうちに、真理が輝き出るように、心を定められたということは、どういうことか?

万軍の主の熱心があなたの人生を支え、万軍の主の熱心があなたの救いを成し遂げるということです。あなたによるのではない。主の熱心がこれを支える。

さて、そう考えますとね、3番目のポイントはとても大事だと思います。

マタイ11章に戻っていただいて、これでマタイの福音書の11章を全部カバ―したことになりますが、28節〜30節を交替に読んで行きましょう。

28節「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。

29節「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」。

30節「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです』」。

******ここで、いつものように、3番目のポイントに行く前におさらいをしてくださる先生です。******(T・Y)


1番目に見て頂いたのは、闇の世界。そして、闇の世界に足を取られる私たちの姿です。
2番目にそのような闇の世界にあって、光を受け止める人々がいる。それが今日、ここに座っている私たちです。
光を受け止めた人々が、真理の知識に増し加えられて、より深く神の力と神の愛、キリストの十字架と復活を知ることができるようになる、そのようにイエス・キリストは心を定めておられる。
小さき私たちが、知識の及ばぬ私たちが、救いの恵みに完成されることができるように、万軍の主の熱心が私たちを支えておられる。

であるがゆえに、28節が来る。であるがゆえに、(28節、)すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(29節、)わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

クリスマスの一つの特色として、クリスマスというのは、納得できないことばかりなのです。

3)納得できないことばかり

●バプテスマのヨハネの父親になりました、ザカリヤは言いました。祭壇のところで仕えていたザカリヤに天使は言いました。あなたの妻エリサベツは子どもを産むようになる(***ルカ1:13参照)。「どうして、子どもが?私も妻も老齢になっていますのに」。納得できないニュースを告げられます。

●マリヤのところに現れた時に、マリヤも天使の挨拶に驚きます。「どうして、そんなことがあり得るでしょう。私は男の人を知りませんのに」(***ルカ1:34参照)。

●そしてヨセフは当惑しますね。「自分があれほど信頼していた、愛していた許嫁のマリヤが、どうして妊娠しているのか?私たちはまだ結婚もしていないのに。」(***マタイ1:18参照)

●出産を迎えようとしているのに、どうしても宿がない。(***ルカ2:7参照)どこか泊まれる宿があるはずだが、どう捜してもない。そして辿り着いた先が宿の裏側の馬小屋でしょう。自分たちは天使のそのメッセージを聴き、神さまに信頼してここまでやって来た。そして今出産を迎えているマリヤはどうして馬小屋なの?

●東方の博士たちは、救い主の誕生を祝いにやって来ます。遠~い旅路を経てやって来ますけれども、ユダの王宮に行ったら、ユダの王の誕生はない。そのニュースは届いてもいない。どうして王宮ではないのか?(マタイ2章参照)
        
私たちの人生も同じで、納得できないことばかりです。クリスチャンでないことが当然のような日本にあって、どうして私が教会に導かれたのだろうか?聖書もろくろく知らない私が、どうして洗礼を受けたのか?

問題課題も納得できません。どうして就職がなかなか決まらない?自分はなぜこんな問題にはまっているのか?どうして事態は展開しないのか?いつになったら自分はトンネルを抜けるのだ?
  
主はおっしゃるでしょう。必ず展開して行くよう、私は心に定めていると。
あなたが納得できるように、あなたの救いが完成されるよう、なかなか叶えられないあなたの願いがわたしの恵みに添って叶えられるよう、あなたが恵みに支えられて生きることができるように、私は心に定めている。
おおよそ世の中の人が耐えることのできない、絶望に浸るような試練をあなたが受け取ることができるように、私の熱心があなたの人生を支えている。
クリスマスの不思議が現実となったように、納得できない事柄の数々が、やがてばらばらのジグソーパズルのピースがが統合されて行くように、あなたの人生を輝かせて行く。
わたしの熱心がそれをなす。あなたの努力がそれをなすのではない。わたしの熱心がそれをなす。

そう、イエスさまはおっしゃって、イエスさまは、招いてくださいます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。“わたしが”あなたがたを休ませてあげます。」(注***マタイ11章28節、“”で強調しました。***T・Y)

つじつまの合わないこと、納得のできない問題課題、 自分で背負うことができない出来事、それらを主のところに持って行く。万軍の主の熱心がそれらをどうにかしてくださる。それが私たちの信仰です。それが私たちのクリスマスです。

ある教会で、こんなことがありました。日曜日の夜、教会の見回りをしていた伝道師が、教会の椅子の端に紙切れを見つけます。メモには買い物リストが書いてあって、明らかに女性のものです。それがくしゃくしゃに丸めて、椅子の端においてあるのです。彼はそれを見て、ゴミ箱に捨てました。
  
ところが次の週も、そのあたりの席に、先週と同じような紙切れを見つけます。また同じです。今度は誰かの名前があって、病気のことが書いてあって、伝道師は興味を抱きました。次の聖日に、誰がそこに座るか、誰が紙切れをおいていくのか、後ろから見ることにしました。確かにいました。その婦人は、礼拝が終わるとじーっとそこに座ってお祈りをして、それから、握っていた紙をくしゃっと丸めて、椅子のところに置いていました。

伝道師は、別に咎めるわけではありません、でも尋ねてみました。「姉妹、先週も、先々週も、同じでしたよね。どうして、この席にその紙を置いて行かれるのですか?」「先生、散らかしてすみません。これは全部、私の祈りの課題なんです。私の力ではどうしようもない苦しい祈りの課題なんです。だから重荷を降ろしなさいと言われる主の前に置いて行きます」。
          
紙くずです。皆さんが置いて行かれたら私は捨てます(笑)。でも置いて行かれるのは自由です。私はそれを集めて捨てます。イエスさまは捨てない。皆さんが教会に置いて行かれたら、祈りのメモがあるがあるとしたら、イエスさまは捨てない。

なぜなら、私たちは自分のどうしようもならない問題課題を、自分の力で握ったのではない。それを手放して、主の熱心の手の中に預けた。闇の中に光は輝いている。闇にはおおよそ、その光の意味がわからない。でも私たち遜った者に、その光が分かったとしたならば、イエス・キリストはその分かった心を徹底的に大事にしてくださる。
あなたの救いをわたしは完成に導き、あなたの問題課題、わたしは全部面倒をみる、その熱心さがわたしにはあるというのが、クリスマスに現れている恵みではないですか?

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、(イエスさま、)あなたが父を知らせようと心に定めて(***マタイ11:27参照)くださいましたがゆえに、私は信仰を持つことができました。あるいは信仰を持とうとしています。あるいは信仰が揺らいだ時もあなたは私を捕まえようとしてくださいました。

私の頑張りなんか、そのかけらもありません。あなたの熱心こそが、私の人生を、私の信仰生涯を、今の私を、かつての私を支えてくださいました。

もし、今朝、心の中に自分ではいかにせん、どうしようもないということがありましたならば、この万軍の主の熱心のゆえに、それらを委ねることができますように。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい」(マタイ11:28前半)というこのあなたの招きに応じることができるように、あなたの恵みに寄り添う信仰を授けてください。 


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