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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   祈りの格闘をするヤコブ(祈りのシリーズ10)
祈りの格闘をするヤコブ

 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」(創世記三二・二二−三一)


 ヤコブの生涯には、二つの決定的な恵みの体験がありました。その二つとも、彼は、地名として残すほど、大きく彼の信 仰のあり方を変えた体験でした。一つは前回見ましたベテル、そしてもう一つはペヌエルです。
 ベテルは荒野です。兄エサウの祝福の権利を奪った彼は、兄の殺意を逃れて、遠い母親の実家へ逃げていくその途中でした。痛み、悲しみ、不安、それら全部を秘めた緊張の夜。真っ暗闇の中で、そこら辺に転がっている石を枕にしてヤコブは祈りました。まさにその晩、不安と孤独で悶々としていた夜、主はヤコブの枕べに下りてきてくださり、「わたしはあなたと共にいて、あなたを捨てない」との約束をくださいました。
 翌朝彼は、信仰を告白して、神さまを礼拝します。こうして彼の信仰生涯が始まりました。
 それから数十年後が、ここペヌエルです。ヤコブは以前とは違います。かつて杖一本でヨルダン川を渡ったヤコブは、いまはふたりの妻、その妻につくふたりの女奴隷、子ども11人、多くの家畜、しもべたちとその家族、多くを引き連れ、ベテルに帰る途中でした。兄エサウに会いに帰るのです。
 富んではいましたが、数十年前、何にも知らない青年が野原に野宿したときよりも、実はさらに大きな不安と悩みをヤコブは抱えていました。

               ●エサウの顔

 ペヌエルというのは、「神の顔」という意味です。この場所は顔がテーマなのです。しかし、神の顔を云々する前に、ヤコブの頭いっぱいに広がっていたのは、兄エサウの怒りに満ちた顔でした。
 以前テレビで、人間は、物理的ストレスと精神的ストレスのどちらに弱いか、という実験をしていました。実験台になるのはネズミです。二つのプラスチックの箱に別々にネズミが入れられます。一方の箱には、電球が点灯すると、同時に軽い電気ショックが与えられる仕組みになっています。電球が点滅する度に、ネズミが飛び上がります。隣の箱は、電球の点灯だけで、電気ショックはありません。しかし、隣のネズミがショックで飛び上がっている様子を見ることになる、つまり精神的なストレスが加えられています。
 なかなか興味深いですよ。どちらのストレス値が上がるのでしょうか。最初は、物理的ストレスを与えられたネズミのストレス値が急上昇します。でもこれには慣れがあります。慣れるに従って、その値が下がってきます。ところが精神的ストレスの方は、下がりません。最初はその値が小さく、しかしどんどん上がってくるのです。
 人間にたとえてもよくわかります。例えば仕事で自然豊かな田舎から、大都会に移り住んできたとしましょう。毎朝通勤のためにラッシュにもまれます。こういう物理的ストレスは、最初はすごいと感じても、半年もしたら慣れるものです。ところが、会社の中の人間関係でストレスを感じると、それには慣るものではありません。上司にちょっといびられたりすると、それは最初は軽い感じでも、時間が経つにつれてますます重くなります。その顔を見ただけで、嫌悪感がこみ上げてきます。
 新しい世界へ旅立っていったヤコブには、様々な物理的なストレスがかかりました。しかし、それには慣れ、克服して、やがてヤコブは成功を収めます。しかし、エサウの顔は十数年間消えたことはありませんでした。彼の記憶の底にいつもありました。故郷を思うたびに、殺意に燃えた兄の顔が思い浮かぶのです。そして、兄をだまして長子の権利を奪った自分の醜さも思い出します。ヤコブにとって、エサウの顔は人生で最も思い出したくない体験を意味していました。そのエサウに十数年ぶりで対面しようとしています。

                     ●ヤボク

 そもそもこの場所は、ヤボク「格闘」という意味の地名でした。川の渡しがあって、川幅は狭くても、季節によってその流れが強いときもあったのでしょう。この場所で、ヤコブはエサウの顔格闘して、もがきます。
 エサウは、四〇〇人を引き連れて、向こうからヤコブを迎えにやってくる情報が入ると、ヤコブは自分の宿営を二つに分けて、生き残る方法を考えはじめます。そしてヤコブは、エサウの怒りをなだめる作戦として、贈り物をたくさん用意します。それを三段階に分けて届けます。そうしてはじめて彼は、エサウの顔を見ることができると告白しています(二〇節)。
 こうしたことは、すべて一つのヤボクでした。しかしそれは人間的な格闘です。それをどんなに積み重ねても、不安は消えることがありませんでした。贈り物を送りだして、先に家族を渡らせ、自分だけがその地に残って、彼は一人祈りの格闘を神とします。
 私たちの人生はヤボク(格闘)です。仕事も、健康も、学びも、家族も、すべてヤボクです。しかし、最大の格闘は、神との格闘、祈りの格闘、霊的な格闘なのです。
 兄のエソウは、これができませんでした。彼は野に狩りに出かけ、おなかをすかして帰ってきたとき、レンズ豆の煮物に我慢ができなくて、長子の権利を煮物と交換してしまいます。そのときエサウはこういいました。

 ヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った(二五・三一〜三二)。

 腹が減っている現実を前にしたとき、霊的な祝福など木っ端みじんに吹っ飛んでしまうのがエサウでした。現実の必要のため、たましいの理想を売った人間です。私たちも気をつけなければなりません。人生の一時期に、受験にしろ、就職にしろ、さまざまなことに没頭するのは仕方がないことです。しかし没頭している内に、いまの自分には神を礼拝することなど何になろうと言って、信仰を捨ててしまうのでは、それはエサウです。現実の必要のためには躍起になり、必死になり、いくらでも犠牲を惜しまないのに、霊的な成長のために、たましいのいのちのために一向に努力を向けないのもエサウです。
 神は、完ぺきな人を愛されたわけではありません。欠けだらけで、罪深いありながら、そして多くの苦労を背負い、長い人生の旅路を歩みつつ、ヤコブはどこまでも神さまの祝福に手を伸ばす人でした。こうして祈りの格闘ができるヤコブを、神は愛されたのです。

                    ●あなたの名は?

 さてヤコブは祈りの中で何を体験したのでしょうか。鍵となるのが、二七節の神の問いかけです。祈りの中で、神はヤコブに尋ねられました。
 「あなたの名は何というのか」
 英語では、ワット・イズ・ユア・ネーム?です。こんな単純な質問を神はヤコブに投げられました。全能の神が、彼の名前を知らないわけがありません。神は、ヤコブのことをすべて知っておられる。その過去も現在も、将来も、その行動もその心の中も、すべて知っておられます。その神が、ヤコブに尋ねる「あなたの名は何というのか」と尋ねるのです。
 このときヤコブは、かつて同じように神の祝福を求め、同じようにこの質問に答えたときのことを思い出したはずです。父がエサウに変装しているヤコブを変に思い尋ねました。「おまえはだれだ?」
 そのとき、ヤコブは「私はエサウです」とうそをつき、祝福を横取りしたのです。その後十数年、彼は自分の歪んだ人生のために、逃げ回り、最後、神の御前に遜り、祝福を求め、そして神さまが彼に向かって、「あなたの名前は何か?」と尋ねられたとき、ヤコブには、その質問の意味が、よくわかっていました。
  もともと、ヤコブという名前は、「つかむ」という意味です。双子の弟ヤコブは、生まれてくるとき、自分が先だと言わんばかりに、兄エサウのかかとをつかんで生まれてきました。それ以来、常に彼は、兄をライバルとして、隙をねらって生きてきました。
 「あなたの名は何か」との質問に、ヤコブは、すなおに「ヤコブです」と答えます。それは、自分の本当の姿を直視する答えでした。彼は、神の御前に遜って自分の本当の姿を認めました。問題の根本は、エサウではなく、主よ、私です。このこじれた人間関係、ストレスの原因となっているのは、エサウの顔ではありません。自分です。自分の中のプライド、ごう慢、勝ち気、それが問題でしたと。エサウの怒りを膨大な贈り物でなだめようとするきわめて人間的な小細工も問題でした。主よ、私でした。私の中のヤコブが「掴んで引きずりおろす」心が問題なんです。
 ヤコブは、それをまっすぐに認めました。そのとき、神さまはおっしゃいました。
 その通りだ。あなたはヤコブだ。あなたは、その名の通りに生きていた。どこへ行っても、隙をねらい、狡賢い人間として生きてきた。しかし、今、あなたが自分の本当の姿を認めたのだから、私はあなたを変えよう、祝福しよう。あなたはもはやヤコブではない。イスラエル(神の皇太子)となる。
 これがペヌエルの体験です。神の御前に真実に、きよく生きるためには、まず私たちが自分の本当の姿を認めて、遜ることです。自分を直視することなしに、この恵みはありません。周りのせいにしたり、状況のせいにしたりする人の心に神は、心をきよめる恵みを与えることはありません。

                          ●言い訳なしに

  自分が、神の御前に罪人であることを認めること、自分の本当の姿を認めることです。言い訳なしに認めることです。
 私は、アメリカで一度だけ法廷に立たされたことがあります。それは結婚して、子どもができて、はじめての母の日でした。日曜日の午後、妻と息子が昼寝をしている間に、当時持っていた原付のバイクにのって、ニュージャージーの町に花屋を探しました。
 しばらくしていると、パトカーが後ろからやってきて、赤色灯をつけられ、メガフォンで停止の命令を受けました。
 「君、ヘルメットがないよ。それから、強制保険の証書」
 「えっ、そんなもん、いるんですか? いや、ケンタッキーから引っ越したばかりで、あちらではそんなもの、必要ありませんでした。自転車と同じだと思っていました」
 アメリカは州によって法律がちがいます。ケンタッキーの田舎では、ドアのない車とか、窓ガラスが割れた車とか、平気で走っていました。車検がないのです。
 「そんなことお巡りさん、初めて知りました」
 「じゃあ、しょうがない。罰金の額は、裁判所で決めてもらえ」
 しばらくして、裁判所に出頭する予定の紙が後に届いて、出廷しました。そこにはいろいろな人が並んで裁判を受けていました。中には弁護士同伴の人もいます。私の番が回ってきて、いつ、どこで、なにをという訴状が読み上げられます。そして、いわゆる罪状認否です。「これに間違いはない。自分の違法行為を認めますか?」
 最後に、判決が下る前に、裁判官がこう言います。
 "Is there anything you want to say?"「申し立てはありますか」
 私はこのときばかりと、
 「えー、右も左もわからない日本人にあわれみを」
というのなことを、べらべら話しました。
 「君。そんなことを言っても通用しないよ。はい罰金は、二〇ドル」
 当時では、5千円ぐらいです。こんなことのために、わざわざ裁判所に来なくても良いじゃないかと思いながら、罰金を払って裁判所を出ました。
 そのとき以来、しばらく、この裁判官のことばが耳に残りました。
 Is there anything more you want to say?
 言い分です。申し立てです。罪状が読み上げられた後の、言い訳です。しかし全地なる神は、私たちの言い訳を聞きたいと思っているのではありません。私たちの言葉も、心も、行いも、すべてをご覧になっている神です。神が聞きたく願っておられるのは、私たちの言い訳ではなく、告白です。
 ヤコブは、すぱっと自分の罪深い姿を認めました。すると神は、「気に入った!」とばかり、ヤコブに新しい名をお授けになりました。
 神が、私たち人間を最も気に入ってくださる部分があるとしたら、それは、私たちに教育があるとか、品性があるとか、私たちが何をしたとか、何が出来るとか、そういうことではないでしょう。神が、私たち人間を最も気に入ってくださる部分は、(一)祈りの格闘ができるほどの情熱ある信仰、そして(二)あるがままの自分を認める砕かれた心です。
 私たちが自分の罪や弱さ、欠けや失敗、プライドや自己中心、それらをヤコブのように素直に認め、そして子どものように素直になってキリストの十字架の中に飛び込んでいくとき、神は、ヤコブの名前を変えたように、私たちを新しくすることができるのです。それが十字架の力です。

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DATE: 2003.03.09 - 21:57
LAST UPDATE: 2003.03.11 - 19:46

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