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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   12/26礼拝説教「パウロ(38)目標を目ざして一心に走る」ピリピ3:10~14
12/26礼拝説教「パウロ(38)目標を目ざして一心に走る」ピリピ3:10~14

☆お知らせ
●元旦礼拝は1月1日、今年(来年)は土曜日になります。日頃の礼拝は10時半からですが、この日は午前11時からで、教会学校はございません。聖餐式を行います。明けた2日の日曜日はお休みです。週の初めの日曜日にまさって、年の初めの元旦を主の御前に聖別することを、1日2日と連続する場合に限って高津教会はそのようにしています。是非お間違えのないように、覚えてください。

●1/10(月・祝)午後に、関東新年聖会がございます(聖会と宣教会)。教会にチラシが置いてあります。場所は中目黒の駅そばの、インマヌエル中目黒教会です。
  http://www.igmtokyo.com/tract/2011/01/2011-01-10.pdf

●福井武兄(84歳)は先週の日曜日に肺炎で入院されました。突然でしたが、クリスマス礼拝にいらっしゃることをとても楽しみにしておられました。どこかで肺炎の菌をもらってこられたようで、抗生剤が効かずに肺がまだ真っ白な状態だそうです。火曜日に人工呼吸器を付けられ、(***牧師夫妻もお時間を作ってくださって22・23日とお見舞いに行かれましたが)、病床で聖餐も授けられました。少し状況が落ち着いて来ました。主が兄弟と奥さま、ご家族の皆さんを助けてくださいますように、みこころなら、人工呼吸器をはずしてお話がお出来になるよう回復させてくださいと、教会一同お祈りしています。(*****福井兄は27日(月)に召されました。ご家族に主の慰めをお祈りします。)

●Y兄姉は、1/15日に「とよはし音楽祭」(心の病・チャレンジ音楽コンテスト)の最終選考(10組)に残り、作詞作曲演奏されるそうです。ベストを尽くすことができるようお祈り頂くとともに、こうした音楽が用いられて、私たち心を病む者たちに、主の安らぎ、平安が届けられるように、ぜひお祈りに覚えて頂きたいと思います。

●29日(水)の夜の祈祷会はお休みになります。5日(水)の夜は新年祈祷会です。
(*****福井兄の葬儀がこの日午後2時からあるため、夜の新年祈祷会はお休みになります。)

☆始めのお祈り
あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。
私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。
私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。
(この日の交読詩篇90篇より1~2節、12節、17節)

恵み深い天の父なる神さま、愛する兄姉と共に、また今日高津教会に初めていらっしゃった方々と共に、年末最後の礼拝をともに迎えることができた恵みを心から感謝致します。

あっという間に過ぎ去ってしまった一年、しかし振り返りますとその中に、多くの困難、課題、多くの出来事、悲しみ、失敗もありました。しかしあなたの恵みはそれらに増して、豊かにこの一年に詰まっていたことを、♪数えてみよ主の恵み♪(注***イ讃美歌538「望みも消えゆくまでに」)と賛美しながら、思い起こすことができました。漫然と流れていく時の時間ではなく、あなたは私たちに区切りをつけさせてくださり、後ろのものを忘れ、前のものに向かって走る(注***ピリピ3:13参照)姿勢を与えてくださいます。

ですからこの年末年始、ほんとに忙しい時間を過ぎ超して行きますけれども、その中で豊かなあなたの恵みに感謝し、また来るべき年に、さらに増し加わるあなたの祝福を信じ、期待しつつ過ごすことができますように、よろしくお願い致します。

病と闘っておられる方々、特に私たちは今日、福井兄のために、その家族のために祈らなければなりません。どうか兄弟の健康を支えてください。もしあなたが赦してくださるのならば、人工呼吸器が外され、そして会話することができますように。何にもまして寒い時でありますから、毎日看護しておられる奥さまの上にも、私たちは祈らなければいけません。どうか、複雑な思いでこの年を越して行かれると思いますけれども、いつでもともにいてくださるあなたの恵みが、兄弟の家族全部を包むことができますように。また私たちも祈ることができますようにしてください。

小林武男兄はご高齢でありながら、毎週日曜日に通っておられることを、心から感謝致します。どうか兄弟の健康をこの冬特別に守ってください。おなかに来る風邪やまたインフルエンザ、どうか私たちの教会のご高齢の方々、小さな赤ちゃんに至りますまで、受験生に至りますまで、あなたが徹底して守ってくださり、なすべきことをなすことができるように、そして元気に年を越すことができますようにお導きください。

しばらく聖書のみことばに耳を傾けます。どうか私たちの心を開いて、あなたの恵みを吸収することができる柔らかな者となしてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆説教
週報には、パウロの38回目と記してあります。パウロの生涯から連続して学ぶことを始めましたのは、2009年の8月でございました。ですから、1年と5カ月の間にこんな特別な礼拝が入りまして、一貫してパウロの生涯から学んで参りました。その学びを今日で閉じてしまいますことは、いささか拙速であります。

パウロの学びは実はその3分の2は「使徒の働き」を中心に学んでいます。今日は、使徒の働きの28章を一緒に見て頂きますが、実はパウロの生涯というのは使徒の働きの28章で終わるのではない。

その後ローマに行きましたパウロはローマの獄中から書簡を沢山残します。エペソ、ピリピ、テモテ第1、テモテ第2、コロサイも含めますと延々と続きますので、パウロが獄中から出した手紙によって、私たちは初めて彼の心境、あるいは彼の信仰というものを学ぶことができます。でもそこまで行きますと、このシリーズを延々と続けなければなりませんので、私はパウロの獄中書簡から、今日はピリピだけを取り上げて、そのパウロの晩年の生涯で、恐らくこのみことばが一番象徴的だろうと思う、それ(ピリピ3:10~14)を今日は学ぶことによって、シリーズを閉じたいと思います。

その前に使徒の働きの28章をご覧ください。28章はこう始まります。

1節「こうして救われてから、私たちはここがマルタと呼ばれる島であることを知った」。

前回、パウロの船旅を私たちの信仰の旅路に重ねて考えて頂きました。乗っていた船は最後座礁しますね。そしてパウロとともに船に乗っていた人々は、地中海のマルタ島に上陸し、しばらくそこに滞在し、そこから船を乗り継いで――16節見てください。――とうとう護送された行ったローマに着きます。

16節「私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された」。

30節をちょっと見て頂きますと、

30節「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて」、

と書いてあります。彼は監禁状態ではありましたけれども、自費で家を借りたということは、そこそこの住み心地が許されたということでありましょう。そして番兵付きではありましたけれども、外に出ることはできませんでしたけれども、多くの人々がパウロのところに訪ねて来た。そして彼らにパウロは書簡を渡して、エペソやピリピやコロサイの教会、あるいはテモテにその手紙を書き送る。テトスもそうですね。ピレモンもそうでしょう。ですから壮大なパウロの獄中書簡というものはこの時期に生れているのですね。やがてパウロは、ローマ帝国の皇帝ネロの迫害の下で殉教したと言われています。その日が来るまで約2年ですね。そして、パウロは裁判に立たされることもありました。その裁判の様子はUテモテに記されていますが(注***4:6~8,4:16~18でしょうか?T・Y)しかし多くの彼を訪ねてくれる人たちに、

31節「大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」。

とこういう風に記されています。それは、単純に尋ねて来た人だけでなく、ピリピに戻っていただいて、今日読んで頂いたところは3章ですが、ピリピ1章13節になりますが、ちょっと1章12節から読んで行きます。

ピリピ1章12節「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います」。

13節「私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊(ということはローマ帝国の親衛隊)の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり」、

というのは、監禁状態の間、自分の番をしているその兵士に彼は伝道したということで、その伝道がかなり広範囲に広がって行ったということが分かります。パウロにとって、ローマで福音を語ることは特別な意味がありました。それは単に辺境の地エルサレムから、とうとうローマ帝国の首都、つまり世界の都で福音を語るという、宣教の拡大、その事だけではなかった。確かにエルサレムから始まった福音が世界の都に届いたということは素晴らしい事ですが、恐らくパウロの頭の中ではその視点がむしろ逆だったのではと思います。

つまり、エルサレムは普通の歴史の観点から言えば世界の辺境の地です。でも旧約聖書を知っているパウロにしてみると、エルサレムというのは実は世界の中心です。旧約聖書の民、イスラエルのその中心地エルサレムから、逆にローマが地の果て、世界の果てですよ。つまり神さまに最も近いエルサレムから、神さまから最も遠いローマで彼は福音を伝えることができたということは、彼にとっては独特な意味合いがあったと思います。それはパウロ自身、かつてはこのエルサレムで教育を受けたパリサイ人だったからです。

イスラエル民族だけに凝り固まり、異邦人を最も嫌っていた人物、その彼がイエスキリストに出会い、彼は心底分かった。彼が神の子とされるのは、ユダヤ人に生れたからではない。エルサレムの神殿に関わるだけではない。律法によって生きる自負心からでもない。主イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかってくださり、父なる神がそのイエスキリストを復活させたことによって、私は罪の赦しと新しいいのちを得ることができたという大逆転、パウロの発想の大逆転を経験します。彼はその大逆転を荷って、世界を旅した。そしてその大逆転の最も顕著な姿が、神さまから一番遠いと思っていたローマで福音を語った時に、パウロはまさに神の福音は、民族種族、あるいは富んでいるか貧しいか、弱いか強いか、そんなことに全く拘わりなく、信仰のみによって、私たちは神の子とされるという福音の力強さ、福音の真理を経験したのだろうと思います。

そして彼が当時の信仰を吐露している文章に目を留めようではありませんか。それが、(ピリピの)3章の10節から読んで頂きたいのですが、あまり時間がありませんので、12、13、14節をもう一回、目を留めたい思います。ご一緒に交替で読みましょう。これこそがパウロが2年間を過ごした獄中の書簡の中で、一番の姿勢・信仰を凝縮していると思います。

ピリピ3章12節「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです」。

13節「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」、

14節「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」。

これこそがパウロの心境であり、恐らくパウロを学ぶにあたって、一番ふさわしい最後の聖句になるだろうと思います。

1)目標を目ざして一心に走っているパウロ

第一番目に彼は目当てを目ざして走っている。まだ走っている。獄中にあっても、病院にあっても、人生最後の時を迎えていたとしても、いまだに目標を目ざして走っているのです。パウロには大きな目標がありました。たとえばアジアの諸教会に、アンテオケから始まって福音を伝えたいというのは、パウロの一つの目標ですね。そして、困窮しているエルサレム教会を知った時に、アジアの諸教会にアピールして献金を集め、何とかしてその献金を命がけでエルサレムに持ち帰りたいというのも、パウロの一つの目標ですね。でも彼の人生の究極の目標というのは、そうではない。14節を見ますと、「キリスト・イエスにおいて、上に召してくださる神の栄冠を得るため」、この目標はパウロの手紙には必ず記されています。

自分の生涯の目標は、上に召してくださる神の栄冠を得ること。なぜならパウロはイエスさまによって救われ、イエスさまによって召され、イエスさまによって派遣され、イエスさまによって世界を巡る。しかしその召しの根幹にあるのは、自分は地上のことではなく実は上に召されている。神の子どもとして、天の御国を継ぎ、義の栄冠を得ること、これこそが自分の究極の目標だということを、パウロほど強く認識していた人はいない。

いつでしたか、クジラの大群が何十頭、日本のある地方の入り江に入りこみ、そして出られなくなってしまった。必死で釣り舟が先導して、クジラを沖へ沖へとやろうとするのですけれども、最終的にクジラは何十頭と浅瀬に乗り上げて死んでいきます。クジラが、あんなに賢いクジラが、なぜそんな浅瀬に、そんな入り江に入って出られなくなってしまったのかというのが、当時大変話題になりました。そしてこういうことは多々ある。私たちの得ている情報は、クジラはあんなに利口な海の哺乳類でありますけれども、イワシの群れを追いかけて入り江に入ると、出られなくなってしまうということです。

これは一つ私たち人間を象徴しているかのようです。イワシの群れというのは、自分たちにとっての餌です。その餌を追いかけて追いかけているうちに、というのは、私たちはひたすら自分の目の前におかれた餌、目の前の問題で生きていると、そのうち方向が分からずに、浅瀬に乗り上げてそこで息を絶えるというのが、私たち人間の典型的な生き方ですよ。

受験生はあれほど受験という目標に集中して、全神経をそこに集めて行きますね。そして大学に入ると、糸が切れた凧みたいに(笑)、自分は果たしてどうなるのだろうと考えてしまう。仕事人間であったお父さんが、その仕事から切りはなされたら、毎日置き物のように、リビングに座っているとか(笑)。私たちいろんな課題がありますが、その課題を次から次に消化して行った時に、いったい自分の目標はどこにあるのだろうか?そして、その最後の目標は果たしてこの地上を去るという自分の死の間際に、自分の人生の目標はいったい何であったと把握するのか、私たちはそういうことを年末に考えても悪くはないですね。

私たちは目の前のイワシに自分の視界を奪われないように、礼拝を大切にしているのです。礼拝というものを抜いてしまいますと、私たちの人生というものは、この地上の出来事だけになってしまいます。ですからこの礼拝というものは、どこかこの日常から離れた世界、それは天の御国におられる神を賛美し、この神から私たちは霊的な糧を戴くわけですよ。パウロにとっては上に召してくださる神から得る栄冠、その栄冠を目ざして生きていた。

2)パウロはすでに捕えたとは考えていない。

そのためにパウロは、13節を見てください。―――「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。」―――すでに達していると考えてはいない。12節、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません」。そのためには、自分が得ている恵み、自分が味わっている祝福というのは、神さまの恵みの大海原にとっては、一滴の大海原の水にすぎないのです。私の霊的な成長がここで止まってしまうのでなく、私はいまだかつて、主の恵みの大海原を捕えたことなど一度もない。毎回毎回、そのほんのわずかな水を戴いているにすぎないので、来るべき時には、また深く、また広く、この主の恵みを味わうことができる。

また目標を目ざして一心に走るためには、13節には、『うしろ(のもの)を忘れ』ということばがあります。私たちが年末に考えなきゃいけないことの一つは、後ろを忘れるということ―――年を忘れる、年忘れですか―――これが一番難しい。1年間抱えてきた課題というのは来年も抱えるわけですよ。あるいは一年間に遭った自分の苦しみ、厭な思い出、失敗、キリストにある者にとって、日々新たであると言われても、私たちはこういう鎖をなかなか断ち切ることができない。私たちはいつも過去を引きずって生きているのですから、そう簡単に自分にふりかかったさまざまな出来事を忘れることはできない。

私はある意味で逆に考えるべきかなと思う。つまり、後ろのものを忘れないと前のものに向かえないのではない。後ろのものを断ち切らないと前に向かって行けないのだったら、人はいつまで経っても進めない。そうではなくして、前に向かっていくという姿勢のゆえに、後ろを断ち切れるのです。おおよそ私たちは後ろを断ち切れない。過去の延長で生きていますから。でも私たちが前に向かおうとする時に、その目標を目ざして一心に走るという姿勢を自分自身が保とうとする時に、私たちは自然に、恵みによって後ろの鎖を切ることができる。

アメリカのクリスチャン・ジャーナリストにフィリップ・ヤンシーという人がいます。彼の書物はほとんど日本語に訳されていますね。彼の奥さんは、大都会シカゴの貧しい区域で住宅を供給するプロジェクトに携わっています。まぁ、ボランティアですね。その時、プロジェクトに助けに来るボランティアの中で、あることを考える。まぁ、ホームレスですねぇ、住宅を市に求めて来る人の、シカゴでは半分が白人で半分が黒人だと。そのほとんどが年齢からいうと、世界大戦を体験していて、アメリカの大恐慌という貧困の時代をある程度知っていて、労苦を重ねて来た人ばかり。年齢は皆さん80歳以上ですか。そして死というものを意識せざるを得ない。そういう方々ばかりで、ボランティアの方の話によるとですね、白人と黒人では死に向き合う姿勢が全然違うと。もちろん個人差はあります。

彼らが言うには、白人の多くは年齢と共に、死に対してだんだん強い恐れを抱くようになる。クリスチャンであっても。そして不安にさいなまれる人が、それから白人のほうが昔を振り返る。子どもが小さかった頃、家族が一つだった頃、自分が健康で好きなことができた頃、そしてそれとかけ離れた現実に対して愚痴をこぼすのは白人に多い。

対照的に黒人は恨みや辛みや絶望に捉われても全くおかしくないほど、悲惨な境遇を生きて来た人ばかり。つまりその世代の黒人というのは、皆人種差別を味わい、経済的にも社会的にも苦労し、ようやく公民権が勝ち取られた頃には、すでに退職間近。しかし黒人の方のほうが見事なユーモアと明るさがある。傍から見ていて誰でもわかる違いはいったいどこから来ているのだろうか?ということを考えた。

それで、フィリップ・ヤンシーの奥さんの言葉ではその答えは、希望にある。黒人の骨の髄まで沁みついた天国の希望というのは、こういう時に役に立つ。黒人の方々はどんなに努力しても上に上がることのできない社会。どんなに真面目に生きていても、それを乗り越えることのできない差別ですね。そして奴隷制を引きずって生きていた中で彼らは黒人霊歌、ゴスペルというものを産み出す。そしてゴスペルというのはほとんどが天国の希望を歌いますでしょう?

希望という時に、単純に黒人は苦境の中で生きて来たので雑草のように強いというだけでなくして、彼らはこの世界に、つまりイワシの群れに、基本的には目を付けなかった。そして自分たちの望みを最終的には、上に召してくださる天国への希望というものに、心を注ぎ込んで行った。そういう人たちは後ろを振り向かない。過去の自分の人生に捕われなくなって行く。そして年を経て、死が近くなっても、なればなるほど上に召してくださる主の希望が力強く、そういう人たちの前に描かれて行く。

私たちの多くは、自分が死ぬ時には苦しんでいたら、牧師が来たら、「一時も早く天に召してくださいとお祈りしてください」(笑)と考えるものですね。でもそれだけではないですね。先に愛する家族、ご主人とか奥さんを天国に送っていたら、やはり再会を求めて早く天国に行きたいと言うでしょうね。それは地上の不自由さや痛みから解放されるだけではない。それはもうほとほとこの不自由さを味わっていますから、その苦しみや苦労から全部解放され、自分が背負っている肉体的なこの重さ、それを全部取り払われて、愛する者がいる天国にどれほど行きたいか、だから牧師をせっついて、「早く私が召されるようにお祈りしてください」(笑)と言えるようなクリスチャンになりたいですね。そういう風に前を見ていたら、自然に後ろの鎖は消える。ということは、どれほど目標を目ざして一心に走ると言った時に、その目標をきちっと見ているか?そしてこの目標をきちっと見るためには、礼拝に来なければ私は無理だなぁと思います。(笑いながら)それほど、私たちは日常生活のさまざまなことに捉われて生きていますもの。

3)捕えようとして追及しているパウロ。そして、それができるようにとキリスト・イエスがパウロを捕えておられる。

3番目にこの目標を目ざして一心に走るパウロは、12節にこういう言い方をします。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです」。―――つまり自分で最善の努力をして追求している。でもそれができるようにと、キリスト・イエスが私を捕えていてくださる。

私たちが一年間礼拝に集い、上に召してくださる神の究極の目標を見失うことのなかったのは、それはキリスト・イエスがあなたを捕えておられるからです。パウロが走っているのは、自分の頑張りでも努力でもない。過去の償いでもない。自分の願望の追求でもない。

上に召してくださる神は、私のために道を備え、その道を行くようにと、私を捕えていてくださる。だから暑い日も寒い日も、雨の日も風の日も教会に来ることができた。私たちはこの一年、それぞれの課題とそれぞれの責任を負って、走りぬくことができました。主に感謝します。そして果たすべき責任、走るべき道のり、返すべき負債、これらの根底にあるのは、上に召してくださっている神があなたを捕えておられる。だからそれらの重荷を背負いながら、目標を目ざして一心に走りぬくことができるわけです。

パウロは自分を捕えておられるキリストを、どのような方として把握していたのか?パウロは召しておられるキリストを、どのような方として理解していたのか?

それは第一に、クリスチャンを迫害するために血相を変えて、ダマスコに向かう途中にパウロに突然現れて、「パウロ、パウロ。」と優しく呼びかけられたイエス・キリストでした。そして、教会とキリスト者を迫害することに情熱を燃やしていたパウロに、棘のついた棒をけることは、あなたにとって痛いことではないのか?と、自分のこの一つの目標に全神経を集中し、神のことを忘れ、天国のことを忘れている私たちに、「あなたのしていることは棘のついた棒を蹴るようなことだ。痛くはないのか?」と優しく声をかけてくださるイエス・キリストです。

そして罪人のかしらであった彼の過去を全部赦し、まだ周囲のクリスチャンの誰も、彼を信用しない、そういう中で彼を信用して、彼を用いてくださったイエス・キリスト。

エルサレムでそして、地中海の船の中で、「勇気を出しなさい。パウロ、あなたはエルサレムで私のことを証ししたように、ローマでも証しをすることになる。」と、その旅路の中で、いつでもともに歩んでくださった主。

突然現れてパウロと出会い、優しく語りかけてパウロの心をひるがえし、そしてパウロが行く道を導き、いつでもともに歩んでくださったイエス・キリストが、私の一年の道を導き、ともに歩んでくださり、捕えていてくださるから、私たちは新しい道にも、人生の究極の目標を目ざして一心に走ることができる。この主に心から感謝して、一年の終わりにしたいと思います。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、一年を振り返りますと、あなたの恵みを数える以上に、今年一年の出来事、またその苦悩や問題課題ばかりに心を捕われて、重い荷物を引きずりながら年を越して行くかのように感じます。しかし私たちひとりひとりは、強烈に天国の恵み、あなたが授けてくださる栄冠、この目標を目ざして一心に走っています。

天国への希望を骨の髄まで沁み込ませて、今日この礼拝に集っている私たちでありますから、どうかこの一年の苦労の鎖をあなたが断ち切ってくださり、新しくされて新しい年を迎えることができますように。

そして私たちが地上に生かされている限り、私たちを捕えていてください。そして私は力弱く、迷い出易いような小さな存在でありますけれども、天国の希望に生かされて、地上の最後の一日まで歩み続けることができるように、力を注いでください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆感想をひとこと
偉大な信仰者、伝道者であるパウロの生涯の学びが、ここで終わってしまうのは、本当に残念ですが、この学びをもとに、パウロの書簡の数々をまたじっくり読んで行く恵みが与えられたと思うと感謝でもあります。

パウロはそのようにひとことで“偉大な”という形容詞がぴったりの人ですが、その日常はいったいどれほど祈りの人だったのだろうかと思われます。書簡を読んでいると、時々手紙文ではなくて、頌栄や祝梼のような祈りの文に出くわしますから。きっと説教していても、ともにいます神に祈らずにはいられない人だったのだろうと思うのです。その姿は真摯で美しく、とても伝道的でインパクトがありますから、私もそうであったらいいのになと思います。目標を目ざして一心に走っているパウロなのだなぁといつも思います。

イエスさまの山上の説教の、後半を思い出します。
8節 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
9節 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
10節 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
11節 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪
    口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
12節 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。
あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

福音書を書いたイエスさまの直弟子たちとは違う形で、主に出会ったパウロですから、生存中に、福音書を読んだ可能性はあるのかどうか知りませんが、やはりパウロの生きる姿勢というものが、主の教えにぴったり一致しているので、主と劇的に出会って以来、当時の主にある交わりのあった弟子たちから、聖霊から、あるいは主ご自身から示され、主のみこころを知ることができた人なのだろうと思います。

パウロが主の平和、平安を愛したという意味では、私たちがこの時代によくいう平和運動の意味とは違うのかもしれないのですが、人間の平和へのうめきがあるなら、必ず主は祈りを聞いておられるし、不確かな人間の政治的な平和ではなく、真実なる主に心を明け渡すことによる主の平安が、何にもまさって善きものだと思います。そういう時に、「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)という心境に達するのではないでしょうか?福音書に書いていない主のみことばだと、以前このシリーズで学びましたが、みことばに感銘を受けて、生活のモットーとなったと言う声も、高津で何人かから聞くことができましたので、共感が持てて感謝でした。

ついでに、これも以前藤本先生の説教で登場したスーザン・ボイルさんですが、最近のこの方のCDに“Make MeaChannel of Your Peace”という歌がありました。「私をあなたの平和の道具にしてください」と始まるアッシジのフランチェスコの祈りの最初の一節だと思います。どうでもいいことですが、個人的には「平和の道具」と訳すより、「平和の注ぎ込む水路」と訳したいなと思った次第です。私たちが主の御前で祈りを注ぎ出すなら、主が平和を私たちに注ぎ込んでくださるので、まるで大海原の豊かな水のような平安が恵みとして与えられると、藤本先生の普段の説教を聴いていて思ったからです。

パウロがイエスさまから啓示を受けて、迫害者であった者が回心し、逆にキリストを伝える者となり、主と同じように迫害を受ける者となる。しかし、その後、キリスト教が迫害の度に多くの殉教者を産み出し、その殉教者の血潮ゆえにさらに勢いを増し、全世界に広がって行くという歴史の事実、そして何につけても主に従うならば、迫害を覚悟するように言われたみことばの成就を見る思いがします。

アウグスティヌスやフランチェスコなど多くの聖人、ルターやウェスレーなどの神学者、日本の26聖人、公民権運動のキング牧師や、マザーテレサなどの修道者の生き方、そして私たち一信徒にまで、その影響は広がって行きました。スーザン・ボイルさんは教会で讃美歌を歌っていた、美声だけが取り柄の、冴えない独身のおばさん(?)だったとのことですが、コンテストで勝ち残り、CDデビューも為し得て、その賜物で神さまの栄光をあらわしたのでした。事実、主を求める気持ちが切実に伝わって来る歌い方で、たましいが揺さぶられます。立派な伝道です。

パウロがその生涯で強調した、「信仰義認」「十字架と復活」「信仰、希望、愛、とりわけ愛」というようなものは、現代のキリスト教神学を学ぶ上での重要なポイントであり、そして、今日学んだことからも、「上のものを追求してひたすら走り続けている」というパウロの生きる姿勢から、聖化の恵みの思想も受け取れました。聖化というのは、自分の思いや頑張りではなく、私を捕えてくださった主の真実と愛が初めにあって、その主に導かれ、主と共に日々の出来事の中を歩み、人生の究極の目標を追及して生きているときになされる信仰の恵みでしょうか?それを始められたのは主なのだから、主は必ず私たちに報いてこの地上生涯を終わらせてくださるという、確信に満ちたパウロの信仰を覚えて感謝が一入でした。

当時のローマ帝国の支配の世界から飛び出して、今や日本こそが辺境の地でありますが、これまで多くの宣教師によってキリスト教信仰が伝達され、しかし笛吹けど踊らず状態の日本人。イエスさまに出会ったかどうかで、人の一生は雲泥の差が出るのですから、私たちも自分ひとりの信仰に満足していないで、パウロのように先へ先へと伝道を夢見て、最後までこのすばらしいイエスさまの福音を宣べ伝えたい。しかし先ずは、自分がキリストを生きる者として、周囲に対して、つまづきの石、ほころびの穴になっていないか、自分を吟味しつつ足元から伝道するという自戒も必要かと思いました。

このシリーズの学びを通して、先生ご自身も、わかりやすいことば、和やかな雰囲気、しかし真摯な語り口で、初めて来た方にも理解できるように、深くなりすぎずにかみ砕いて教えるという、大変な課題を背負われて、また、体調もどうにか守られてここまで到達できたと思いますから、このシリーズを始められた主に感謝して、先生に心からおめでとうございますと申し上げたいです。

私も大変楽しい説教まとめの時間を過ごさせていただきましたので、自分の信仰の糧でありましたし、確信も増して、汲めど尽きない主の恵みに感謝するばかりです。毎回熱心に読んでくださり、時には励ましの言葉も戴いた皆さまには、主が(藤本先生を通して)私のような半端な信仰者をこの奉仕に用いられたので、おひとりおひとりにこれまでのすべての感謝をささげ、主にここまで守られましたことを感謝致します。

2010年も終わりに近づきましたが、また希望の新年も近づいてまいりました。新しい連続講解説教の学びも始まることですし、私たち教会一同の信仰を支え続けてくださいますように、主にお祈りしつつ終わります。


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DATE: 2011.03.27 - 01:00

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