名前検索
メール送る

名前検索
メール送る

名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


394 933 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   1/1元旦礼拝説教「使徒信条(1)私たちの神、主は」ヨシュア24:14~18
1/1元旦礼拝説教「使徒信条(1)私たちの神、主は」ヨシュア24:14~18

☆お知らせ
●みことばのしおりが週報にはさんであります。一年間大切に使ってください。(***お二人に感謝の拍手)

●高津教会のパンフレットが新しくなりました。新しくいらした方に是非お渡ししたいと思いますし、皆さんは是非バッグや本のどこかに挟んでおいていただいて、教会のパンフレットとして、「私が行ってる教会はこんな教会ですよ」とお知らせ頂きたいと思います。これも渡辺兄に作ってくださいました。なかなか礼拝だけでは教会の伝道はできません。是非私たちひとりひとりが教会の活動に入りこむような一年でありますように、ご案内いたします。

●関東教区新年聖会のご案内のチラシがありますのでご覧ください。1月10日(月・祝)午後1:30から、インマヌエル中目黒教会で、聖会と宣教会があります。聖会の講師はホーリネス教団の小林和夫先生、宣教会はインマヌエルの野田禎(ただし)先生がメッセージをしてくださいます。是非覚えてお出かけください。
  http://www.igmtokyo.com/tract/2011/01/2011-01-10.pdf

●1月の4日5日と連続して、福井武兄のご葬儀を致します。4日は家族葬で溝の口のセレモニアを使いますし、5日はこの教会堂で告別式を致します。兄弟は大阪伝法(おおさかでんぽう)教会から高津に転会されて丸4年が経過したところでありました。年齢は84歳で最近は少しおぼつきませんが、しかし、クリスマス礼拝にいらっしゃることを楽しみにしておられました。普通の肺炎球菌であったそうです。しかしどんなに抗生剤を投与しても回復することはありませんでした。年末静かに天に召された中、葬儀場火葬場がいっぱいで年を越すことになりました。ご家族に神さまの恵みが豊かにありますように。また壮年会の方々にはご葬儀にご出席いただきたいと思います。

●(小島兄のお証しも聞くことができました。)小島兄は4月から4年生になり、インターン実習生として、どこかの教会に派遣され奉仕されることになります。小林佳神学生は、今日は(横浜のJR本郷台駅近くの)桂町教会で奉仕をしておられます。

このお二人が私たちの教会から献身した神学生で、小島兄は東工大准教授でいらっしゃいましたが、50歳少し手前で、すべてを捨てて牧師の道へと進まれました。これは私たち教会にとって誇りであります。若い方も、熟年の方も、また退職された方も、主の御前に仕えることができたならば、どんなにか祝されるかと思います。

●今日は同じ神学校(インマヌエル聖宣神学院)で学んでおられるフリーメソジスト教団の星川兄が、来ておられますのでちょっと拍手でお迎えしましょう。

●それでは、年に一回の挨拶タイム。讃美歌の40番「飼い主わが主よ」を1節起立して歌い、その後4節あたりまで間奏を弾いていただいて、その間にできるだけ多くの周りの人とお互い自己紹介というか、名前を名乗りあって新年を祝おうではありませんか。

☆始めのお祈り
彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。
彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
わたしは、彼らを長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。 
(この日の交読詩篇91篇より14節~16節)

恵み深い天の父なる神さま、私たちは365日、いと高き方の隠れ場に住んで参りました。全能者であるあなたの陰に宿って参りました(詩篇91篇1節参照)。そして新しく始まります2011年も日々、仕事の労苦があり、健康の課題があり、また時に眠れぬ夜があり、しかし、いかなる問題課題の中であったとしても、全能者であるあなたの陰に宿り、またあなたのもとに身を避ける(同4節)小さな小さな市民であることを思い出していただけますように。決して自分の頑張りである事柄を貫き通すことはせず、むしろ「私の信頼するわが神」とあなたを崇めることができるように、私を導いてください。

私たちの教会で、ご高齢のゆえか、あるいは風邪をひいてか、またさまざまな事情で、この元旦礼拝に来ることができない方の上に、ひとしく恵みを与えてください。また受験生の上にも等しくあなたの御守りと助けが豊かにあることを心から信じて、しばらくの間みことばに耳を傾けますが、このみことばを理解する力を私たちに授けてくださることを、心から願いながら、愛するイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆説教
時は紀元180年、7月11日。北アフリカの小都市、シーリーにあるローマの管轄の裁判所での出来事であります。裁判官サトルビ―ナスの前に、6人のクリスチャンが立っていました。紀元180年のことです。容疑はローマ皇帝を礼拝しなかったことによる皇帝冒涜罪。検察側は死刑を要求していました。裁判官のサトルビーナスは、何もこの6人をそれがゆえに死刑にする必要はないだろうという態度でありました。一生懸命裁判官は6人を説得します。
「君たち、正気に戻ってよく冷静に考えなさい。皇帝を礼拝しても別にいいじゃないか。命を犠牲にしてまでこだわるようなことではないだろう。おまえたちの宗教にこだわって、愚か者になりなさんな」。

その時、クリスチャンのひとり、スペラティウスは弁明致します。先ず自分たちは何の犯罪行為もしていないこと、ローマに対して税金を納めているということを話し、次にローマ皇帝を崇拝することは、戦争を崇拝することにつながるという批判を述べます。そして最後に、自分たちはまことの神だけを礼拝し、この世の皇帝を礼拝するつもりは一切ない事を宣言致しました。
「私たちは皇帝は皇帝として敬います。しかし礼拝するのは、天地万物を創造された神だけです」。

裁判官サトルビ―ナスは再び冷静を促しました。
「分かった。わかった。君たちの主張はよくわかった。しかし、今しばらく時間を上げよう。頭を冷やして考え直しなさい」。
するとその時、スペラティウスは6名を代表して言いました。
「これほど明確なことを考え直す必要はありません」。

生きるか殺されるかを突き付けられ、「どちらが得策かを考えてみろ、おまえたちのいのちが掛っているのだぞ」という説得を前に、6人のクリスチャンは明確に「これほど明確なことを考え直す必要はない、再考する必要はない、考え直す必要はない」と言うほど、自分たちの信仰がいったい何であるのかを捉えていた。自分たちが信じている神がどのようなお方であり、その信仰に基づいてどのような生き方が求められているのかということが、明確に捉えられていた。であるがゆえに考え直す必要はない。

私たちは自分自身の信仰を明確に捉えているだろうかという、私たちの信仰はいかなるものなのか、その信仰の中身を最も端的に表現しているのが、キリスト教信仰告白の中で最も古いと言われている、私たちが礼拝の度に唱える使徒信条です。私たちはさまざまな人生の岐路にあって悩むことはあります。また頭を抱えるようなことは沢山あったとしても、自分がどのような神さまを信じ、それによって、どのような生き方が求められているのかに関しては、考え直す必要がないほど、信仰を明確に把握しておきたいと願っています。

キリスト教信仰の真髄を明確にとらえたい、そういう観点から、今年は前半、使徒信条の説教の充実を始めてまいります。で、その学びを始めるにあたり、元旦の朝、ヨシュア記24章から、信仰告白って何だ、よく聞きますが、信仰告白って何だ、そのあり方を学びたいと思います。

もうヨシュア記の最後で、モーセの後を引き継いで、指導者になっていたヨシュアは、24章の1節をちょっと見てください。彼自身も年老いて来ます。

1節「ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、そのかしらたち、さばきつかさたち、つかさたちを(***つまり代表者たちを自分のもとに)呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき」、
2節「ヨシュアはすべての民に言った。……」。

と始まります。そこから始まるヨシュアのことばは、今に至るまで神さまは、歴史の中でどのような係わりを私たちと持って来られたか、神さまが歴史の中で働いて来られた出来事を総括致します。

であるがゆえに今日の説教は3つのポイントですが、

1)信仰告白とは歴史的な出来事を通して、あるいは私たちの人生の出来事を通して、自分が信じている神がどのようなお方であるのかを明確に捉えることです。

信仰告白というのは、私たちの生き方の告白ではない。信仰告白とは、私たちの価値観の告白でもない。信仰告白とは、このキリスト教の歴史を通して、旧約聖書以来、また私たちの人生を通して、神が、ご自身がいかなるお方であるかを、私たちにどのように示してくださったか。信仰告白とは、自分の告白ではなく、神の告白です。

24章をじっくりと見て頂きたいと思いますが、3節から13節までヨシュアがこれまでどのようにして、神さまが助けてくださったかを記しています。ちょっと5節を見てください。24章5節。

5節「それからわたしは、モーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがその真中で行ったとおりである。その後、あなたがたを連れ出した」。

この“わたし”は神です。神は、エジプトで奴隷になっていたイスラエルの人々を解放するために、モーセとアロンという指導者を立てた。5節から7節まで奴隷のエジプトからの脱出の出来事が割と克明に記されています。
そして8節からはモーセからヨシュアに交代し、ヨシュアを先頭にイスラエルの人々がカナンの地を占領した出来事が克明に記されています。
歴史の実際の出来事、実際の人生の中で、モーセがヨシュアがイスラエルの民がどのように神を経験して来たか、神がご自身をどのような存在として明らかにされて来たのかが記されています。

そしてそのヨシュアのことばを聞いたイスラエルの民全体は17節を見てください。自分たちも同じように神さまを捉えたという告白をします。この17節はご一緒にお読みしたいと思います。これが私たちの今年の聖句です。

17節「私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行い、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです」。

民全体はヨシュアが語った歴史的な流れを受けて3つにまとめます。
@私たちの主は私たちを奴隷の家から導き上られた方。
A私たちの目の前で数多くのしるし、奇跡を行われた方。
B私たちの旅路、行く道、多くの敵の中で私たちを守られた方。

それが、私たち並みに言い換えるとすれば、
@キリストの十字架によって、罪の奴隷となり死に至る人生から、神は私たちを永遠のいのちの世界へと導き上られた。
A神はキリストの復活という大きな奇蹟を行われ、しかしそれだけでなく、私たちの人生に幾度となく、不可能を可能とするような奇跡を行ってくださったこと。
B私たちのこれまでの生涯、困難や課題から守ってくださり、時に私たちが罠にかかったとしても、その罠を破って私たちを守ってくださったこと。

信じている神がどのようなお方であるかを明確に捉えるのが、信仰告白。告白は自分のことではない。告白は神さまについて。

現代の日本人に「あなたは神さまを信じていますか?」と尋ねますと、徹底した無神論者はほとんどいないと言われています。1960年~70年ですと、「私は神など全く信じてない」というのがかなりのパーセンテージを持っていましたが、今では徹底した無神論者は10パーセントを切ると言われています。

むしろ日本人の多くは、心の中でこの世界には、この宇宙には神はいると思っている人が多い。もちろんですよ、神はいないと断言するよりは、神はいるのではないかと考える方がはるかに意味がありますが、しかし、信仰告白というものは、この世界に神はいるはずだと、神のような存在はおられるはずだと、その程度のことを信仰告白とは呼ばない。

有名な哲学者、数学者、フランス人のパスカルは、「神を信じることは人生最大の賭けである」と言いました。“賭け”ということは、パスカルの言葉を借りますとですね、「神がいて信じる、神はいないから信じない、それを数学的に、哲学的に考えるならば、fifty-fifty(***フィフティー・フィフティー、五分五分)、どちらも証明することができない。だから(神が)いるかいないかという問題は一種の賭けのような世界で、それを右か左か選ぶのはあなたの自由ですよ」と。しかしパスカルは、「その結果がこれほど隔たる選択はない。神を信じる者の可能性は無限大であり、神を信じない者の可能性は最終的にはゼロに至る」(と言う)。

このパスカルがいう神は、神のような存在が恐らくこの世界にはいるだろうというような神ではない。訳はわからないけれども、言葉にはできないエネルギーのようなその神がこの世界にいるはずだというような神ではない。なぜなら、パスカルが言う神は、私たちがその人生を賭けてしまう、私たちの人生の拠り所とするような絶対的な存在。その神は、パスカルにとっては明確な存在でありました。

フランスの国立図書館に、彼がある時を境にして一生涯、自分の上着の襟の部分に縫い付けていたという紙が保存されています。その紙にはこう記されています。「1645年、恵みの年。11月23日月曜日夜10時半から12時半までの出来事。哲学者の神ではなく、学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が私の心に火を付け、私の心に平安と喜びを満たした」。その後、ずっ~と聖書のみことばが続いています。

パスカルは、自分は人生を賭ける、それは数学的に哲学的に両方とも証明し切れない、fifity-fifity かもしれない。しかし自分はこの方に自分の人生を賭けることによって、自分の可能性を無限大に開かせて頂く。そう言った神は、いるのかいないのか、見てるのか見てないのか、私の人生に関心があるのかないのか、私を愛してるのか愛していないのか、わからないような存在ではない。この方は、キリストの十字架によって、私を奴隷の家から導き上り、キリストを復活させた力と同じ力をもって、私の人生のさまざまな問題課題をひっくり返し、私の行く道すべてで私を守られた方である。

自分の人生の拠り所としている神はどのような方か、私たちはしばらく時間をかけてこの神を捉えて行きたい。再考の必要がないほど、明確にこの神さまがいかなる方であるかを把握したい。そして、心から信仰信条を、使徒信条を告白できるような者とさせて頂きたい、ですね。

2)信仰告白とは、その信仰に基づいて自分の生き方を選ぶわけです。

ヨシュアは、3節から、アブラハムに始まって今に至る神さまの働きを、全会衆の前で説明します。そしてその説明の一番最後に、15節の一番最後に、「…きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」という信仰者の道を選び取っています。そしてヨシュアは民全体にも同じことを求めました。15節に、その自分自身が選ぶその前に、「あなたがたが仕えようとしているものを、あなたがたも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは主に仕える」(と言っています)。それを聞いたときに、民全体は、自分たちの言葉で簡潔に、神さまがいかなるお方であるのかを要約したのです。3つのポイントで(注***17節)。どれ程恵みを与えてくださった方であるかを告白したあと、その告白に基づいて18節の一番最後に、「私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです」(と言っているのです)。

ちょっと丁寧に見て頂きますと、17節のこのみことばは一番最後に「(このお方は、)……すべての民の中で、私たちを守られた方“だからです”。」というのは、つまり信仰告白が根拠となって、であるがゆえに、私と私の家とは主に仕えるという生き方が出て来るのです。信仰告白、使徒信条ってのはね、週報の裏にも書いてありますし、それから讃美歌の裏表紙にもありますから、ほとんど意味がわからなくても、皆と一緒に言うことはできるのです。でもそういう信仰告白が、それが自分たちの生き方に直、通じて来ないです。

ヨシュアもまた民全体もこの神がいかなるお方であり、私たちを奴隷の家から導き出し、私たちの前で奇跡を行い、そして私たちの行くすべての道で私たちを守られた方だからです。であるがゆえに、私と私の家とは主に仕えると言う。神を明確に捉えれば捉えるほど、その神を知れば知るほど、告白すればするほど、私たちはそのような信仰に基づいて生きる、行動するようになる。それが礼拝です。

始めにローマ帝国にあって、皇帝礼拝を拒否したスペラティウス以下6名のクリスチャンの話をしました。彼らは私たちがこれから学ぼうとしている使徒信条をよく知っていたはずです。使徒信条はすでにこの時代、洗礼を受ける人は皆の前で、この使徒信条を唱えていたという歴史的な記事があります。紀元100年にすでに洗礼式で使徒信条が使われています。この6人はローマ帝国の皇帝崇拝がどのようなものであるか、よくわかっていました。

当時ヨーロッパに、中東アジアに羽を広げていたローマ帝国には、多くの植民地がありました。そしていくつもの植民地の中で、土着の宗教があり、土着の神々が祭られていました。そして土着の神々に加えて、公のローマの神々、そしてそのローマの神々を集約するような意味で皇帝が神として立てられていました。ですからローマの人々は、ちょうど日本人の神感覚と同じですね。宗教と宗教を混合させ、神々を混在させることが平気でできた。神仏混合、それにキリストを加えることもまた可能じゃないかというのが、あの裁判官のコメントなのです。「冷静に考えてみなさい。みんな一緒に拝んでいるじゃないか。あなたがたもそうしてどこが悪い。沢山の神を抱えれば抱えるほど、またあなたも信心深い、信仰心の篤いローマ市民になれるよ。」と(言っているのです)。

どうしてそういう発想ができたのか?それは彼ら、そして私たち日本人が、意志と人格を持つた絶対者としての神を知らなかったから。私たちも聖書に出会わなければ、意志と人格を持った絶対者なる神、この存在は解らないです。この神はあなたに私に明確なみこころを持っておられる。この神は私たちの行く道に目を留め、私たちの道を導いて行かれる。明確なみこころを持った絶対者である神を知らない世界には、皇帝と土着の神々という両方の選択も両方の折衷案も可能でした。

でもスペラティウス以下6名はそうではなかった。彼らは自分たちを愛するあまりに、ご自身のいのちを捨てられたイエス・キリストを知っていた。天地万物を創造された神を知っていた。そして彼らは救いをローマ帝国ではなく、神の国に求め、究極の価値をこの世界ではなく、永遠の世界に見出していた。であるがゆえに彼らは選んだ。私は天地万物を創造され、私たちを救うためにイエス・キリストを十字架につけ、私たちに奇蹟の力を見せるために、キリストを復活させられた神の愛に、神の力により信頼して自分たちは生きるという道を自分たちは選び取った。それは言うまでもなく、自分が信じている神を明確に把握していたから。私たちがこの神を礼拝において告白すればするほど、この神を知れば知るほど、自分たちの人生の道が確かなものとなる。

3)信仰告白とは皆ひとつで告白して、互いに結び合わされることを意味します。

16節をちょっと見てください。
16節「すると、民は答えて言った。『私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません」。

16節の主語は“私たち”ですね。17節の主語も“私たちの神、主は”です。18節も「“私たち”もまた、主に仕えます」。15節の最後にあるのは、「“私と私の家”とは、主に仕える」という有名なヨシュアの告白で、これはヨシュア個人の、彼の家族の信仰告白。でも16節から始まるのは、民全体のそしてその家族すべての信仰告白、言わば教会の信仰告白です。

初めて教会の礼拝に出席されてびっくりするのは、恐らく皆で口をそろえて出す主の祈り、そして、皆でことばを同じくして唱える使徒信条の告白でしょうね。初めて教会に来たら、何か皆で呪文を唱えていると思わざるを得ないほど、奇異に聞こえるかもしれない。信仰を告白するという、聖書でもとのことばは、コモロゲイン。ロゲインということばは、語る、コモというのは、一つ、同一という意味。つまり告白というのは、同じことを一つになって言う。同一のことを告白する。私たちの教会では、「ともに告白します使徒信条」という文言から使徒信条の告白が始まって行きます。これはともに告白して意味がある。つまりこういうことです。

エジプトの奴隷の家から、モーセによって導き出されたイスラエルの民は12部族でありました。彼らはヨシュアに率いられて約束の地に入りますが、この約束の地に住む割り当て地はくじで決まります。どういう規模の展開か(というと)、ある部族は北海道、ある部族は九州、ある部族は関西、(というように)土地柄も違えばその土地の問題も気候も違う。そしてそれぞれに違う土地に派遣される12部族は、これまたこういうような特色を持つ12部族です。それが一つの民だと言われても、果たしてどこまで一つの民として存在しているのか。ましてひとりの指導者モーセを失い、ひとりの指導者ヨシュアを失ったら、12部族の連携は一気に崩れてあっという間に皆ばらばらになる。ですからヨシュアは彼らのアイデンティティーを一つにまとめるのです。これまでの背景も、現在の問題課題も、今後の展開も皆それぞれ違う。それぞれ違うのですが、信仰を一つに、コモロゲイン、皆一つになって告白するときに、12部族は一つになる。

私たちの生きている世界は、ナショナリズムによって分断され、国のエゴによって分断され、分断された歴史によってますます分断され、キリスト教会も同じようにある意味分断されていると同時に、いや、私たちはイスラエルの12部族ではありませんが、そもそも私たちは皆違うのです。仕事も違えば、年齢も違うし、背景も違うし、そういう現状の中で、誰も同じように考え、悩み、苦しんでいるのではない。しかし、一つの礼拝に集う時に、この教会の信仰告白は世界の教会の信仰告白とつながり、同じ神を信じ、同じ救いに与る一つの民とされる。私たちは2011年、それぞれが別々の問題課題へとつながって行くのです。でも今日ここで元旦礼拝でひとつとなって、聖餐式に与り、一つとなって2011年に踏み出す心境というのは、こういう心境です。

1630年、話を飛ばしていますが、1630年、イギリスから新大陸アメリカへピューリタンの乗り合わせた船がもう岸間近で、ボストンの岸間近に着いています。その船に乗っていた移民のリーダーでありました、牧師のジョン・ウィンスローという人が上陸しようとする皆の前で説教します。そのウィンスローの説教を引用して終わりにしたいと思います。

「私たちはこれから先、ひとりの人として結びあわされなければなりません。兄弟愛をもって互いをいたわり、互いの存在を尊び、その人の境遇を自分の境遇として捉え、一つの共同体として、互いに喜び、互いに苦労をし、ともに闘い苦しむのです。そのようにして、私たちは平和のきずなで結ばれ、主イエスが私たちの神となられ、私たちのことを必ず喜んでくださいます」。

これはね、ヨシュアもスぺラティウスもウィンスローも私たちも同じ心境なのです。12部族がばらばら。高津教会のそれぞれの背景でも、ひとりの神を信じ、同じ救いに与り、同じ聖霊を受け、同じ聖書を読み、同じ讃美歌を歌い、同じ主の祈りを唱え、同じ信仰を告白する私たちは、今日ひとつとされて、多くのチャレンジ、多くの課題にあふれている新しい年へと踏み出して行く。それが信仰告白、コモロゲイン、一つのことを告白していくということばの意味するところです。

聖餐式の式文に「私たちはともにパンを食し、同じ杯から飲む」(とあります)。私たちは皆それぞれ違う。今同じ聖さんに与り、兄弟姉妹とも一つにされ、一つ体につながっていく、この恵みに与りたいと思います。

☆終わりのお祈り
私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行い、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。(ヨシュア24:17)

恵み深い天の父なる神さま、元旦の朝、私たちはこの一年を見つめることは致しません。自分自身の問題課題を見つめることも致しません。ひたすら、私を罪と死から導き上られた、私の人生の中で数多くの奇蹟を行われ、私をあらゆる危険から守ってくださったあなたを見つめ、あなたに目を上げ、どうか同じ信仰を持った私たちを一つにし、同じ賛美を歌い、同じ信仰を告白する私たちを一つとなし、ひとりを祝福し、そのひとりの家族を祝福し、そして、それらの者たちが集まっているこの教会を祝福してください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆聖餐式
讃美歌の393番を賛美します。1節から3節を歌って聖餐式を準備します。3節を歌いましたら、配餐をしてくださる役員の方は前に進んでください。――

☆感想をひとこと
使徒信条は、神の信仰告白であって、自分の告白ではないと聞いて、アーメンと頷けました。クリスチャンが所謂”証し”をする時に、自分のことを語るのではなくて、神さまが自分にどういうことをなされたかを語るのだとよく言われますが、それが、全体として共通の信仰事項の告白がなされるときに教会の信仰告白とか、使徒信条とかになるのかなと思いました。

そして、いつも思うことは使徒信条の全文を見渡して、とてもよく父なる神と御子なるイエス・キリストと聖霊の三位一体が順番に簡潔に説明なされていて、ひとりひとりにとっても完璧な信仰告白だと思えます。

エホバの証人の人がその辺で、三位一体など聖書にはどこにも書かれていないと言われたことを思い出しました。神さまのことは聖霊さまが教えて下さらなければわからないことばかりなので、彼らが正しく神さまから啓示を受けるように祈ります。

イギリスから新大陸にやってきたピューリタンの移民の牧師、ジョン・ウィンスローという人の説教が印象的でした。<<私たちはこれから先、ひとりの人として結びあわされなければなりません。兄弟愛をもって互いをいたわり、互いの存在を尊び、その人の境遇を自分の境遇として捉え、一つの共同体として、互いに喜び、互いに苦労をし、ともに闘い苦しむのです。そのようにして、私たちは平和のきずなで結ばれ、主イエスが私たちの神となられ、私たちのことを必ず喜んでくださいます。>>

これを実践するために、使徒信条もあるのではないかと思います。まさに感情に頼っては、めいめいが自己愛ばかりで、他人を愛することなどできない私たちですが、<<一つの礼拝に集う時に、この教会の信仰告白は世界の教会の信仰告白とつながり、同じ神を信じ、同じ救いに与る一つの民とされる>>ことを覚えて、きよくされるように思います。

ちょうどパウロがTコリント6:19で、こんな汚れた私たちのからだを、私たちのうちに住んでくださる聖霊の宮だと言うように、私たちが自分はキリストの贖いにより神に買い取られた者と自覚をすれば、その一致して神への信仰を告白したことで神の栄光を現わすこともできるのだと思いました。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2011.03.27 - 01:01

219.45.134.199 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 6.1; Trident/4.0; YTB730; GTB6.6; SLCC2; .NET CLR 2.0.50727; .NET CLR 3.5.30729; .NET CLR 3.0.30729; Media Center PC 6.0; .NET4.0C)

prolleyreandy 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 192.151.156.234
www.shopforconfirmjp.pw,・ケ・ト ・キ・罕ト,ヒョラナ ・・、・
2013.08.17 - 17:59 
carpinteyrotpf 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 192.151.158.203
Thank you! You really did a great job! I will support you all the time.
2014.12.29 - 20:17 
Name   E-Mail   Password

 前文 1/9礼拝説教「使徒信条(2)天地の造り...
 次文 12/26礼拝説教「パウロ(38)目標を...
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
298Simple view *^^*3/13礼拝説教「そこから学ぶこと」ナホ... T・Y 2011.03.27 5002
297Simple view *^^* 3/6礼拝説教「使徒信条(7)我は、聖霊... [1] T・Y 2011.03.27 6995
296Simple view *^^*2/27礼拝説教「使徒信条(6)我は、独り... [1] T・Y 2011.03.27 5722
295Simple view *^^*2/20礼拝説教「使徒信条(5)我は、イ... T・Y 2011.03.27 4898
294Simple view *^^*2/13献堂記念の聖日、蔦田就子師宣教報... [4] T・Y 2011.03.27 8575
293Simple view *^^*2/6玉川聖学院聖歌隊の音楽礼拝と説教「... [1] T・Y 2011.03.27 6080
292Simple view *^^*1/30教会総会の日の説教「耕地を開拓せ... T・Y 2011.03.27 6854
291Simple view *^^*1/23礼拝説教「使徒信条(4)父なる神... T・Y 2011.03.27 5964
290Simple view *^^*1/16礼拝説教「使徒信条(3)全能の神... [1] T・Y 2011.03.27 5930
289Simple view *^^*1/9礼拝説教「使徒信条(2)天地の造り... T・Y 2011.03.27 39111
288現在参照中の文章です...1/1元旦礼拝説教「使徒信条(1)私たち... [2] T・Y 2011.03.27 2184
287Simple view *^^*12/26礼拝説教「パウロ(38)目標を... [1] T・Y 2011.03.27 6241
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
前へ戻る 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*