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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/16礼拝説教「使徒信条(3)全能の神を信ず」創世記18:9~15
1/16礼拝説教「使徒信条(3)全能の神を信ず」創世記18:9~15

☆お知らせ
●1月30日が、私たちの教会では教会総会です。これは単なる総会である以上に、昨年度の伝道の方針に関して、また今年の教会のあり方、まぁ、そういうことを考えたいと思います。直接の教会員でなくても、(出席されて)結構です。
礼拝の後に行います。その代わり礼拝が30分早く始まりますので、その事を覚えて頂き、12:45分にはすべて終わりたいと思っておりますので、ご協力を戴きたいと思います。なお、当日の教会学校はありません。

●次聖日は予算決算のことを役員会で承認したいと思いますので、役員会があります。御欠席の役員はご連絡ください。

●教団の機関紙『インマヌエル教報』、それから信徒教養誌『つばさ』が毎月一回定期購読で、半年ごとのまとめて払い込みになっていますが、申し込まれますと、週報ラックに自動的に入るようになっています。申し込まれる先は英仁子(はなぶさ・ひとこ)姉です。日本のキリスト教界を巡るニュースや、私たちの宣教地、神学校のニュースも入っておりますので、ぜひご協力いただきたいとお願い申し上げます。

●今日の讃美歌は、16年前の阪神淡路大震災を覚えて、479番「遠き国や海の果て」を歌いました。今年高津教会は少し耐震問題を話し合わねばならないということで、年末に役員会で話が出ました。
私たちの会堂は木造建築で、大きな部分には鉄骨の梁が掛っていますが、後は全部木造ですので、果たして震度6ぐらいの地震に耐えうるだろうか、という大きな問題があり、少し耐震補強の専門家を招きながらやっていきたいと思います。
あまり値段が高いようなら、会堂を建て変えた方がいいという意見もあります。追って考えていきたいと思います。簡単なことであれば、例えばガラス飛散を防止するためフィルムを貼るとかはできますが、しかし大きなことになりますと、これはおおごとになります。壁の外に壁とか、天井に大きな梁をわたすとか…。単純に「死なばもろとも…」(笑)と言うのは通用しないと思います。
これはキリストの福音の証しのために、少々の揺れでも立ち得る建物を私たちは考えて行かねばならない。しかし、この使い心地の良い会堂を壊すというのは忍びない事ですから、いかにしたら補強できるかということを真剣に考えて行く必要が出て来ます。いろんなところで知恵を出し合っていただいて、ぜひご協力をお願いしたいと思います。
そのためには、もしかしたら特別献金をお願いするかもしれませんが、まだまだそこまで予定は立たない、調査も進んでいない。でも、その事が一つの大きな課題であることを覚えてお祈りください。

●さて、(週報に)1月、2月(初め)の予定が書いてありますが、祈祷会は私たちの教会では3会あります。ひとつは、第一聖日の礼拝の後の「祈りの時」、もうひとつは、毎週水曜日の夜、もうひとつは、第1と第3の木曜日の「朝の祈り会」。どの祈祷会に出席されるのも自由であります。祈るためにいらっしゃり、また聖書のお勉強もあり、大体祈祷会は1時間20分位。どの集会も20人ちょっとですので、遠慮せずにお越しください。

☆始めのお祈り
私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください。私を救い出してください。
救い出す者がいない間に彼らが獅子のように、私のたましいを引き裂き、さらって行くことがないように。(この日の交読詩篇7篇より1~2節)

恵み深い天の父なる神さま、私たちは小さな一歩をもって、信仰の一歩をもってあなたに近づきました。しかしあなたは、深さ増し行く大河の流れのような恵みを、私たちの前に用意しておられ、そこに入るように、いやもっと深く入って来るようにと、招いてくださるお方でありますから感謝致します。

やがて恵みの水かさは膝ほどになり、やがて私たちはその流れに身を委ね、泳ぐまでにもなる。いったい自分はどれほどの時間を岸辺に立って、水を眺めているのだろうかと深く反省させられます。一歩でも近づき、また一歩でも恵みの流れの中に足を浸して行けるように、入れたり出たり、そんな私たちでありますけれども、しかし、いっそあなたの恵みの流れの中に飛び込んでしまうような、勇気も大胆さもあなたが備えていてくださることを信じています。

小さな小さな信仰者でありますけれども、大胆な大きな信仰を授けてください。世の中で私たちがなしていることは、ほとんど周囲に影響を与えないような小さな事かも知れませんが、しかしそれを信仰をもってなすなら、神の国には大きいと手を貸してくださる、あなたの尊いまなざしをしかと受け止めて、今週一週間も歩んで行くことができますように導いてください。

とっても風邪の厳しい時期でありますから、受験生、小さな子どもたち、ご高齢の方々の上にあなたのみ守りを与えてください。私たちは、毎週礼拝に来ておられる小林武男兄のことを最も心にかけて祈っています。あなたご自身がそうだからです。ですから、どうか兄弟の身体の内に、日本ではすでに早春と言いますが、春の息吹をいつも与えてくださり、悪い風邪から守ってくださり、この春無事に過ごして行く事ができるように。また一日でも長くともに礼拝を捧げるこの恵みを、私たち皆が感謝することができるように助けてください。

今日もあなたの助けを必要とし、またあなたの足元に荷を降ろす信仰を必要としています。ですから信仰も与えてください。今私たちの愛する学生たちが、ある問題で頭を抱えていましたならば、あなたが天を見上げる期間を与えてくださり、通常の私たちでは考えられない頷きを授けてくださり、また何度考えても思い出せないようなことでありましたなら、ふっと思い出すことができるように、神さま、小さな小さな力を天から注いでくださり、彼らを助けてください。そして何よりもすべての道を定めてくださるのはあなたであります。不思議なほど、どこか深~いところで人生を決めてくださるのはあなただという、その信仰に立つことができるように助けてください。

しばらく耳をみことばに傾けます。私たちのことばに意味を与えてくださり、しばらくの時間でありますから、それを吸収することができるようにお助け下さい。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆玉川聖学院の聖歌隊にご期待下さい
二月の第一聖日(2/6)は玉川聖学院の聖歌隊を招いて礼拝をしますので、礼拝の順序を全部変えてしまいます。これはまたとない機会だと思っていらっしゃるといいです。玉川聖学院の中学校の生徒さんは20名ぐらい教会学校に来ています。ご父兄の方々にも招きます。聖歌隊はもしかしたら15名か20名来るとすると、恐らく私たちの教会に全部マックスで座って180入ってしまうかもしれない。まぁ少しでも早めに来て、そして、彼らには充分な時間を差し上げていますので、ほんとに清らかな、詩篇ばかりです。好きな詩篇に自分たちで曲を付けた、それはそれは見事です。是非2/6日曜日もお楽しみに。

☆説教
今日は創世記の18章を開いて頂いて、そして使徒信条の3回目。前回は「天地の造り主を信ず」で、天地を造られた神を信ずでした。今週は、その続きで、「全能の神を信ず」です。

神の全能性は、旧約聖書の神を信じるときに、その信仰の本質にありました。なぜ神を信じるか?神が愛であるからか、神が聖であるからか?いいえ、神が全能であるからイスラエルの人々は神を信じたのです。

奴隷でエジプトに捕えられていたころエジプトを脱出して、モーセを先頭に、そして紅海に追い詰められた時に、何十万という民を前にして、神さまは紅海を真っ二つに分けられます。(***出エジプト記14章参照)そしてその真ん中に乾いた道を備え、人々はその道を渡って行きます。
まぁ単純に、そんなことがあり得るのだろうか?―――彼らの両側で、海が堰となって立ち止まり、壁のように海が(そそり立つ)。

潮の満ち引きの関係で、何年に一度、海の底にあった陸地が隆起して行く、そういう場面を皆さんはTVの報道で観て、大体そういう説明を聞きますと、旧約聖書のモーセの出来事はこれに類似していたに違いないですが、海から陸地が上がって来るという意味では類似していたのかもしれませんが、神さまが紅海を真っ二つに分けた、しかも水深何十メートルという紅海を真っ二つに分けた、というのとは、おおよそ話が違いますね。

全能の神をもってすれば、海を二つに分ける(***出エジプト記14:16参照)ことも、天からパンを降らせる(***出エジプト記16:4参照)ことも、荒地に水を湧かせる(***イザヤ43:20参照)こともどんなことでも可能でありましょうけれども、しかし普通の人が読んでみたら、それは神話であり、馬鹿げているということになるのでありましょう。しかし、イスラエルの民の信仰も、民族のアイデンティティーも、紅海を二つに分けられた神、ここにすべてが乗っているのです。

イスラエルの民族が優秀であるから、これぐらいの宗教性をもって生き抜いて来たとどこにも書いてないし、イスラエルの神信仰というのは、さまざまな神を礼拝する中で究極の神と出会ったということも書いてない。聖書に書いてあるのは、イスラエルという民族が存在するのは、神は奴隷のエジプトから民を引き出して紅海を二つに分けてその真ん中を渡らせたという、この奇蹟に乗っかっているのです。

キリスト教会も同じです。それはキリストの教えというのは素晴らしい。しかし私たちは、キリストの素晴らしい教えを聞きに教会に来ているのではない。あの弱弱しい信仰を持っていたクリスチャンたちが、やがてキリストを信じ、キリストのためにいのちを賭けることができた理由は、ただの一点の事に絞られる。それが、キリストの復活です。

死者の中から人がよみがえるなんて話は見たことも聞いたこともない。そのキリストが十字架に釘づけされた掌を見せて、槍で突かれたわき腹を見せて、あなたの指を私のこの穴に差し込んでみなさいと言われたときに、あのトマスでさえ、「ああわが神、ああわが主。」と言って、イエスさまの前に跪くのです(ヨハネ20:24~29参照)。

キリスト教の信仰の原点はどこにあるかといえば、それはキリストの教えにもあるし、キリストの働きにもあるし、しかしそれによってキリスト教ができたのではない。キリストが復活したから、キリスト教というものが誕生したのですね。そう考えますと、神の全能というのは、これは旧約聖書信仰の一番の中心にありますし、そして今年のしおりに書きました、標語聖句、「私たちの神、主は、私たちを奴隷の家から導き上り、私たちの神、主は、数々の大きなしるしを行われた方」(***ヨシュア24:17参照)という、この数々の大きなしるし、つまり神が全能であり、大きな奇蹟を行われるということは、全能の神を信じる私たちにとって大切な事実なのだと、受けとめなければならない。

しかし、神の全能性を信じることは、も〜う少し深い。つまり考えてみますと、神さまというお方がおられるとすれば、その神は何でもかんでもできるであろう、だから神は全能なのだ、そうではない。聖書が語る神の全能性というのは、もう少し深く、私の人生と関わってくる。それを、短く3点から見て行きたいと思います。

1)神の全能性は、人間の有限性・人間の限界と対になっています。

イエスさまのことばに一番よく表れていますが、イエスさまはこうおっしゃいました。「それは、人にはできないことですが、神にはそうではありません。どんなことでも神にはできるのです」(***マタイ19:26、マルコ10:27、ルカ18:27参照)

「それは人にはできないことですが、」というのが、コインの表側です。そして裏側が「しかし、神にはそうではありません。どんなことでも神にはできるのです。」で、(一対をなします)。
つまり、私たち人間は有限であり、限界があり、出来ないことばかりで、いや実は本当に無力だと認めない限り、 神の全能性は私たちには全く無関係になって行ってしまう。

ある年の2月、受験の季節になると思い出しますけれども、私たちの教会の門のところに一通の手紙が置いてありました。鉛筆で、可愛らしい女の子らしい便箋に、封筒の表書きに「神さまへ」と書いてありました。

神様へ
私は受験生です。来週の日曜日から、高校入試がはじまります。今まで、私なりに高校に合格できるように勉強して来ました。でも、合格できるか心配です。
だから毎晩、「合格しますように」とお祈りしています。でも、私なんかの願いを神様が聞いてくださっているのかわからないので、教会に私の願いを持って来ました。

名前は書いていない。住所も書いていない。でも祈祷会では、この女の子のために一生懸命祈りました。この女の子は手紙の中で、「私なりに勉強して来ました・・・でも不安です」と訴えています。

私たちは、私たちの「私なりに」が、人生の解決にはならないことをよく知っています。つまり、最善を尽くしても上手くいかないことばかりですし、ベストを尽くしても空しい状況は残りますし、いや、ベストを撤収しても、所詮どうにもならない問題が山のようにあり、そして私たちは、全能の神が、果たして小さな私のような存在に手を差し伸べてくださるのだろうか?差し伸べてくださることを期待して、神のもとへ来るのです。

そしてほとんどの方が、この神に何らかを尽くすことで、この神の助けを借りようとする。たとえばお賽銭を投げて、神さまの助けを借りようとしますし、自分がこの神さまの前にお百度参りをして、ベストを尽くすことによって自分の誠実さを表し、神の力を得ようとしますし、でも聖書の神はそういうことを望んでいるのではない。

聖書の神が望んでいるのは、私たち人間が、自分はできない、自分には無理だ、自分は乏しい、自分は罪深い、自分は情けない、自分は苦しい、自分は悩んでいる、という私の有限性・限界性・無力性を認める時に、初めて全能の神と関わることが出来る。これは私たちは覚えておいた方がいい。

つまり全能の神がおられる(と言うことはできる)。でも私たちは自分がどれほど罪深く、どれほど情けなく、どれほど苦しく悩み、この無力性、有限性、限界性というものを認めない限り、私たちは全能の神の傍らに立つことはないです。人は、そこまで自分の乏しさを認めることが出来るのだろうか?なかなかできるものではないですね。

今日は、創世記の18章を開いていただきましたが、この前後に年老いたアブラハムとサラに子どもが生まれる、約束の子どもなのですが、この時点で実はアブラハムは100歳なのです。アブラハムが初めて神さまの声を聞き、「あなたを大いなる国民とする」という、(子孫への祝福の)約束を受け、約束の地へ旅立って行ったのは、彼が75歳の時です(注***創世記12章4節)。しかし、その後、一向に子どもは与えられない。

85歳の時に、神さまは再び彼に現れて、彼を夜の闇路に連れだし、「天を仰いで星の数を数えてご覧。あなたが星の数を数えることができないように、わたしはあなたの子孫を増やす。」と約束し、彼はそれを信じ、神の前に義と認められます(注***同15章5~6節)。でも子どもは与えられない。

そして、17章1節を見てください。これは一緒に読みましょう。

17章1節「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、完き者であれ』」。(注***5節でアブラハムとなるまで、名前はアブラム)

神さまはここで初めて、「わたしは全能の神」としてアブラハムに接しておられるのです。その全能の神の前で、17章の17節をご覧ください。

17節「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか』」。

旦那は百ですよ。そして妻は九十。さすがに無理でしょう。これはギネスにもない事です(笑)。アブラハムは礼拝するのです。でも彼らは笑って、心の中で「いやいやいやいや、それは無理だ」と。神さまはアブラハムが百になるのを待っておられた。何ゆえ待っておられたか?それはアブラハムの可能性をゼロにするために待っておられた。

私たちは百歳になるまで待つ必要はないでしょう。しかし、覚えておこうではありませんか。自分は乏しい、自分は罪深い、自分は情けない、自分には無理だと絶望の淵にあるときに、全能の神はあなたに近づく。それ以外のときは、全能の神はこの全世界を支配しても、あなたには近付かない。これは私たちはよ〜く考えておかねばならない。

どんなに、私たちが全能の神を信ず、信ず、信ずと何度告白しても、全能の神と関わりを持つことにはならない。単に天地万物を創り出した神がおられるのだろうなぁと告白するだけなら、イエスさまはおっしゃった、サタンでも告白できると。(注***ルカ4:41参照)

2)私たち信仰者が告白するのは、全能の神に信頼して、初めて平安を得る。

全能の神に信頼する場面をちょっと見て頂きますが、もう一回創世記18章に戻ってまいりますので、何かを挟んでおいて、詩篇の46篇をご覧ください。こういう風に始まります。

1節「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」。

2節「それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも」。

3節「たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても」。

この詩篇の作者の置かれている状況は、取り巻く世界が揺れ動いて、それに翻弄されているのです。 
2節には、「地は変わり山々が海のまなかに移る」。3節には、「水が立ち騒ぎ、泡だって、その水かさが増して山々が揺れ動く」。6節を見てください。「国々が立ち騒ぎ、諸方の王国が揺らぐ」。そして、戦争で国が疲れ果てていく。

そういう中で不安におびえる私たちに、全能の神が命じられていることばがこの10節です。

10節「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。(わたしは国々の間で崇められ、地の上であがめられる)」。

有名なことばです。私たちは毎日のように聞くのです。あわててバタバタ、バタバタ、子どもが病気だ、ご飯ができてない、この問題課題どうしよう、アッ、またやっちゃったと。時に神さまは「いい加減にしろ」と言われるかもしれませんが(笑)。

“やめよ”とは、ヘブル語で「ラファー」ですが、旧約聖書ではさまざまに翻訳されます。たとえば、開きませんが、イザヤ5:24では、炎が枯れ草を「なめ尽くす」と訳されています。水分を失った草が、火を付けると、メラメラと炎によって溶けてなくなる様子です。

あるいは、ヨブ12:21で「力ある者が腰の帯をとく」と訳されています。ギュっと引き締まっていた緊張を、緩めてリラックスすることです。「やめよ」と神がおっしゃるときに、ぐっと入れこんだ力を解放しなさい。力んでいる身体を、焦っている心を神によりかかって力を抜きなさい、という意味でしょう。

あるいは、Uサムエル24:16では、ダビデが犯した罪に対して天使がエルサレムに手を伸べて、神の裁きを下そうとしたその瞬間、神さまがおっしゃいます。「もう十分だ。あなたの手を引け」。「やめよ」とは、その問題について、手を引きなさい、御手にゆだねて、手を引きなさい、耐えがたい重荷を背負うのをやめて、全能の神であるわたしにあなたの問題をゆだねなさい。

*******ここで2番目までのポイントのおさらい*******

私が申し上げたいのは、全能の神というその存在の概念をどんなに把握しても、全能の神と関わりをもたない限り、私たちとは何の関わりもない。関わりを持とうと思ったら、いくつかの条件が必要で、一つは最初に申し上げましたように、神の全能のコインの裏側には、自分自身の無力さ、情けなさ、罪深さというものがない限り、全能の神はあなたとは関係がない。そんなに自分が立派なら自分でやってみたら?(と神さまは言われるでしょう。)

2番目にこの全能の神は至る所であなたに「やめなさい」と信仰の促しのことばをかけてくださる。
鷲(わし)って、宮保姉が溝の口のご自宅の大きなマンションに鷹(たか)が飛んでいる。えっ!溝の口に鷹が飛んでいる?!宮保さん曰く、鷹を餌付けをしたら面白いだろうなと、飛んでいる鷹に餌を投げ、ぱくっと食べたならば新聞に載るだろうな?(笑い)と。ある時宮保さんが書いたものを読ませていただいて、ああそうか、鷲は自分の翼で天高く舞い上がるのではない(と思い出したわけです)。

イザヤ書に、私たちが全能の神を仰ぐ信仰によって、翼を駆って天高く上ることができると書いてある(40章31節)。けれど、鷲はそのでかい翼をわっさわっさがんばって天高く舞い上がるのではない。それは鷲を見たことのない人が言うことであって、鷲や鷹はあのように大きな翼を駆っています。あの鳥はあの翼で風を捕まえて上ります。

私たちの信仰というものが、私たちの能力というのは、小さなひよこのような翼でそれをバタバタバタバタと動かして、その翼では神の風を捕えることができない。その状態では全能の神の力を私たちは捉えられないです。しかしどんな小さな翼でも、大きな鷲のような信仰の翼を広げるならば、神の全能の力を捕えることができる。

風を捕える信仰ってどんな信仰なのでしょうか?これは私たちの究極のテーマです。そして風を捕えるような信仰をもって初めて、全能の神が私たちの人生と関わりがあるようになる。

3)全能の神を信じる私たちは、冷笑主義から解放される。

冷笑主義というのは、英語ではシニシズム(cynicism)と申しますが、冷たく笑う不信仰な笑いです。もう一回創世記の18章に戻って行きます。これを見て終わりに致します。

17章から18章に冷笑、不信仰な笑いが2回出て来ます。
最初は先ほど読みましたところです。

17:17「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。』」

今度この神の使いは、18章の10節で妻のサラに現れます。

10節「するとひとりが言った。『わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。』サラは、その人のうしろの天幕の入り口で、聞いていた」。

12〜15節までを交替に読んで行きましょう。

12節「それでサラは心の中で笑ってこう言った。『老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあるだろう。それに主人も年寄りで』」。

13節「そこで、主がアブラハムに仰せられた。『サラはなぜ【私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年を取っているのに。】と言って笑うのか」。

14節「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている』」。

15節「サラは『私は笑いませんでした。』と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。『いや、確かにあなたは笑った』」。

17章の1節で「私は全能の神である」と、アブラハムが99歳の時に現れました。「全能の神である」、それに類したことを、主の使いはサラに言いました。「主に不可能なことがあろうか」。どういう境遇の中で言われているのか?それはふたりともが心の中で笑っている時です。

アブラハムは主の前にひれ伏し、しかし心の中で笑います。「百歳の者に子どもが生まれようか」と。18章の12節、「それでサラは心の中で笑ってこう言った」。心の中で笑うと言うのは、どういうことなのか、ものすごく大切です。それはアブラハムもサラも神さまの前にひれ伏して礼拝しているのですね。つまり、神さまを礼拝しながら、心の中では笑っている。ここに私たちの姿を見ますね。

つまり私たちは往々にして人間の常識や感覚によって、現実を見つめますよね。人間の常識と人間の感覚でほぼ毎日現実を見つめますよね。日常生活に入ると神さまの恵みとみことばは絵空事にしか見えない。そこに皮肉な笑いが生まれて来る。
日常生活のことを考えたら、みことばを正面から受け止めることができなくなってしまう。みことばを軽くいなして笑いながら、適当にあしらってしまう。
「神さまのみことばは確かにありがたい。説教された先生は確かに、それが間違っているとは思わない。でも現実はそんなに甘くない。私の抱えているこの現実はそんなものでは解決しない」。―――そう考えると私たちは、神を礼拝しながら秘かに笑いますでしょう。それがアブラハムであり、それがサラですね。

地中海のある島に干ばつが続いたということです。ひどい干ばつで、何カ月もの間、雨が一滴も降らない。村の牧師はある日曜日に、村人たちに命令します。「一週間おまえたちは断食しろ。断食して祈れ、毎日皆で心を合わせて祈れ。次の日曜日に礼拝堂に集まろう。そこで私が雨乞いの祈りを捧げよう」。

次の日曜日、村人は少しやせ細って、礼拝堂に集まって一杯です。でも牧師は講壇に立って不満です。
「皆の者、家に帰りなさい。私は雨乞いの祈りはしない。あなた方には信仰がない」。
「しかし先生、私たちは一週間断食して祈ってまいりました」。
先生は言います。
「本当に信じているのか?それならどうしてひとりも傘を持って来ないのだ!」(笑)

それと同じですね。ひとりも傘を持って来ない。誰も雨が降るなんて思ってない。一生懸命祈って一生懸命断食しながら、所詮雨は降らぬだろうと皆思ってやって来る。
確かに「このことばは真実だ、そしてこの聖書のことばをおっしゃった神さまは尊い」と、十字架を見上げて、礼拝をささげ、賛美をするのですけれども、アブラハムもサラも私たちも心の中で秘かに笑っているというのが冷笑主義という。
どこかで人間の常識と感覚が出てしまう。そして、「現実はそう甘くない」と言って秘かに笑ってしまう。(全能なる神さまのみことばを頼りにはしないのです)。

さて、そう考えますと、マリヤは偉大ですね。聖書の中で、「神にはできないことはひとつもありません」というのは、もう一つはマリヤにですね。(ルカ1:26~38参照)

天使はマリヤに現れて言いました。
「おめでとう、マリヤ。あなたは聖霊によって身ごもっています」。
マリヤは(驚いて言いました)。
「どうしてそんなことがあり得ましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」。 
 
それはあり得ないです。そんなことは常識的に考えて、マリヤでもわかっています。人間的に考えてあり得ないです。

天使はマリヤに説明します。「神の力は大きい。子どもがなくて年を取っていたエリサベツにも子どもが与えられましたよ」。  

でもその説明を聞いてもなかなか難しいです。でもその説明の最後のことば、それは、「マリヤよ。神にとって出来ないことは何一つない、何一つないのだ。」と言った時に、マリヤはあの有~名なことばが出て来ます。もっともその有名なことばをもっと有名にしたのはビートルズですけれどもね(大笑)。
  “Let it be (unto me as you have said.)”
日本語で「みことばどおり、この身になりますように」。
   
後に、このことを聞いたエリサベツは感動して言いますね。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、なんと幸いなことでしょう。」(同1:45)

まさにその通りです。そしてこの世界には、神さまの全能の力のみことばに溢れています。そして私の心にはシ二シズム((cynicism冷笑主義)の思いが溢れています。でもマリヤには、冷笑のかけらもありませんでした。

全能の神を信じるとどんなに告白しても、私たちの日常生活には、さまざまな障害が立ち並びます。そしてすべての障害が取り除かれるわけではないことを、私たちは経験的に知っています。それは別に冷笑主義ではなくて、現実的に私たちは知っています。マリヤもそうでした。マリヤは考えたはずですね。

神さまが聖霊によって身ごもったというのなら、なぜ旅の途中で馬小屋で出産しなきゃならないか?なぜ神さまによって誕生させられる特別な子どもを、飼葉おけに寝かさなきゃいけないのか?いったいどこに神の全能が働いているんだろう?しばらく子どもが大きくなると、ヘロデが近隣一体の子どもを全部抹殺する。彼らはエジプトに逃げていく。マリヤは後ろ髪を引かれるような思いでエジプトに行ったでしょうね。私たちは逃げて助かっても、この村の子どもたちはいったいどうなるのだろう?神さまが全能であるならば、それを神さまが止めることができるに違いない、そう思ったに違いない。

でもマリヤは一貫して告白できた。すべてのことにあって、「おことばどおりにこの身になりますように」。神さまのご計画、神さまのご支配に自分の人生を委ねる。主よ、私の人生を、私の人生に起こるすべての難題課題を、全能なるあなたの御手に委ねます。そうするときに、マリヤのような素直な信仰を得ることができます。
それで初めて私たちは、礼拝ごとに「我は、全能の父なる神を信ず。」と告白するわけですね。そこに至らなければ、全能の父なる神を告白していることにはならない。ご一緒にお祈りしたいと思います。

☆終わりのお祈り

主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。(創世記18:14前半)

恵み深い天の父なる神さま、全能なる神がいるに違いないと思いながらも、そんな神とどのようにして、この小さな、愚かな、嘆かわしい、情けない私が関われるのだろうか?
そして、その神さまを信じて救われた後でさえ、私たちは現実の問題にとらわれて、あなたを礼拝しながら、全能の父なる神を告白しながら、心の中で「そんなに甘くはない」と笑っている自分自身を深く悔い改めます。主よ、どうか私を赦してください。

そしてマリヤと同じように、生涯かけて、「主が語られたことは必ず実現するのだ」(ルカ1:45)と、何らかの自分の想像を越えた形で実現して行くのだという信仰を私たちに持たせてください。

そして、あまりすべてのことを握らず、すべてのことをなそうとせず、できることをさせて頂き、主の御手に委ねるところの信仰を持つことができるように、「やめよ。わたしこそが神であることを知れ。」(詩篇46:10)と何度も何度も私たちに語りかけてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆感想をひとこと

先生がわざわざ最後に「ご一緒にお祈りしたいと思います」とお声をかけてくださって、私たちにありがちな冷笑主義を、代表して神さまに赦しを請うてくださったお祈りを、心に刺し通されるような思いで聞いておりましたが、心から感謝します。

私たちのほとんど全員、雨乞いの断食までして祈っていたが、二度目にそこへ来た時、傘も持っていなかった人たちと同じような者です。全能の神を信じると告白して礼拝をしながら、その実、心の中は、秘かに、言葉にはならないのですが、疑いに満ちており、神へ捧げた祈りそのままに、全能の神への全幅の信頼を置いていない、不信仰な者であることがお見通しだと思いました。

神さまへの態度だけでなく、普段から接する人にもこのような2枚舌のような生き方ではなく、もっと神の御前に生かされているお互いであることを意識した、祈ったことが信仰の態度に表れるような生き方、余計な飾りのないストレートな感覚、マリヤのような素直な姿勢で生きたいと思うのです。

カトリックではありませんから、マリヤを礼拝する訳ではないのですが、このマリヤの全能の神への信仰だけは私にはとても魅力的であり、生活面すべてにおいてあこがれであった頃もあったほどです。

それは、全能の神への信仰があったとて、決して、平たく言えば、この世で楽な生活が保障されたわけではないし、事実大変なところばかり通らされた人生でした。が、それゆえに、いっそう、私が苦難の時、特に女性として母として、神の子を授かったゆえに、尋常ではない苦しみを味わった方として、しかしいつも“Let it be "の精神で平安のうちにみこころに従ったので、何よりの慰めを与える方だからです。

マリヤは、自分は「卑しいはしため」と遜り、目を留めてくださった主を崇めると言って受け入れる信仰が輝いています。マリヤのような方がまさに、初めのお祈りであった、「あなたの恵みの流れの中に飛び込んでしまうような、勇気も大胆さもあなたが備えていてくださると信じている」方なのだと思いました。

だから、もの悲しい、苦悩の旋律が美しいアベマリアの曲が大好きです。アベマリアとは「喜べ」とか、「おめでとう」とかいう意味だと、以前教えて頂きましたが、戸惑いの中でとても悲しいはずなのに、全能の神を信じて平安のうちに主を喜び、賛歌を歌うマリヤは健気で本当に清らかです。

それに引き換え、アブラハムとサラの秘かに笑ったところ、そして、恐ろしさのあまり、サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消しても、主は「いや確かにあなたは笑った。」と指摘されたところは、ものすごくリアルな情景に思え、私もサラと同じに、身ぶるいする思いで読んでおりました。

聖書って面白い本ですね。英語ではthe Bookというと聖書のことを言うらしいですが、ほんとうに手軽に読むことのできるものであり、理想にしたい人間の姿はもちろんのこと、人間が犯している罪もあからさまに描いているところが、ほかの宗教とは違うのではないかと思いました。

初めのお祈りにもあったように、神さまの恵みの流れをただ見ているだけではなく、たたずんでいることを止めて流れに入って行くべきこと、またみこころにそった何かをやっているつもりのときでも、絶えず神さまの「やめよ。わたしが神であることを知れ」という促しに従わなければならないのだと分かりました。でもいつももっとよくみこころを知りたいと思いました。

全能の神を信ずという告白を実体のあるものとするには、自分が小さく乏しい者だと知ることが最も近道だとわかり、血の流れるような、温かいことばで心を開かれて感謝でした。

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DATE: 2011.03.27 - 01:05

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