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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/23礼拝説教「使徒信条(4)父なる神を信ず」マラキ書1:6、ヨハネ3:16
1/23礼拝説教「使徒信条(4)父なる神を信ず」マラキ書1:6、ヨハネ3:16

☆お知らせ
●来週の日曜日は私たちの教会では、教会総会を開きます。これは少し頑張って礼拝は10時から始まりますが、そのあと2時間ぐらいかかります。
私たち一年間の教会活動、そして決算、また来年度の予算、活動など、皆さんの承認を戴いて働きを進めて参りますが、まぁ量的な部分もありますが、教会の中身、それから教会の方針、教会の実質、それらすべてを見ることができます。
教会員の方々は総会に出席する義務がありますので、欠席される場合は委任状を出してください。教会員でない方も是非ご出席頂きたいと思います。
なるべく午前中に終わることができるようにと、当日は教会学校をお休みにいたしまして、礼拝が10時から始まり、11時15分位で終えて、11時半から教会総会を始め、12時45分を毎年目標にやっています。是非お集い頂きたいと思います。

●2月の礼拝予定が出ましたが、第1の聖日2/6が玉川聖学院の聖歌隊を迎えての、特別の音楽礼拝になりますので、礼拝のプログラムを全部組み変えてしまいます。是非これは出席されるといいと思います。
日頃からさまざまな聖歌隊や合唱隊の声を聞いておられますが、この高校生の女性の声というのは独特です。
学校の(教育の)一環で、詩篇に自由に曲を付けて作曲をしてごらんなさいということで、皆さんがなさってその中からとてもすばらしいものだけを厳選して、詩篇ですからみことばそのものです。
素晴らしい作曲された全く新しいものばかりですので、聴いていただきたいと思います。

●(2月)第2の聖日2/13は「献堂記念の聖日」となります。この日は、ケニヤの宣教師の蔦田就子宣教師を迎えて午後にフェローシップがあります。20日の礼拝後には役員会となります。週報を訂正してください。

●Y兄姉は、1/15に豊橋市民文化会館で開かれた『心の病・チャレンジド・音楽の祭典』で金賞を受賞されました。皆さんのお祈りの賜物です。Y兄姉は今日はお休みですね。また次回いらっしゃったときにご紹介したいと思います。HPに出ておりますが、是非掲示板へ励ましの書き込みをしてあげてください。

●2月は受験シーズンですが、皆さんもお聞き及びのように、インフルエンザが流行っていますね。そして、私たちの兄弟(***福井兄)も先日肺炎で亡くなられました。予防接種、その他もあります。もし可能であれば、接種されて元気で礼拝に集うことができるようにお願い致します。

☆始めのお祈り
主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。(この日の交読詩篇5篇より12節)

恵み深い天の父なる神さま、あなたは私たちのような者を今朝みもとに引き寄せてくださいました。

「こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちが、あなたを誇りますように」(同11節)。

私たちはあなたに身を避けることによって、喜びを見いだし、さまざまな試練や挑戦の中で、あなたがわたしたちをかばってくださるから、私たちは明日に向かうことができます。どうか私たちを祝福してください。

大盾で囲むように、あらゆる危険から、敵から、病から、試練から私たちを囲んでくださり、あなたの愛で私たちの前に盾を張り巡らせ、あなたの愛をもって、私たちが失望し、嘆き、悲しむようなさまざまな出来事の中にあって、私たちのいのちをひとみのように大切に守っていてください(注***申命記32:10、詩篇17:8参照)。

一年で一番寒い時期を迎えようとしています。あなたは今日も、北国の教会をことさらに愛して、温かく祝しておられることでありましょう。しかし、この2月の受験のとき、私たちの家族の受験生を守ってくださり、その健康を祝福してください。小さな子どもからまたご高齢の方々に至るまで、特別にその弱さを背負いながら、毎回礼拝に励んでおられる小林武男兄の上に、あなたが身体を支えてくださり、その病を遠ざけ、よみがえりのいのちを注いでくださり、暖かい春を迎えることができるように祝福してください。

今日は昨日結婚式を迎えられました山本兄姉を皆さんの前で紹介することができました。どうか、この3人の家族の中にあなたがいつもいてくださり、あなたの栄光と愛を存分に味わい、またそれを世にあって、表わすことのできるような信仰者の家族として、育てて行ってください。

今日初めて高津教会にお出でになった方々の上に、特別なみ恵みが豊かであり、今週一週間みことばが心に留まり、あなたがともにいてくださることを実感することができるように、導いてください。すべてを御手にお委ねし、愛するイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆説教
使徒信条の4回目を学びます。元旦礼拝のときに、使徒信条、信仰告白とはどういうことかを学びました。それから次に「天地の造り主」、3回目に「全能の神を信ず」。そして今日は4回目で、「父なる神を信ず」です。

前回、「全能の神を信ず」というタイトルで話をしました時に、ある年、高校生の女の子の手紙が教会の玄関のところに置かれていたという話をしました。今日もその一通の話から話を進めて行きたいと思います。名前はございませんでした。手紙はこういう風には始まっています。

神様へ
私は受験生です。来週の日曜日から、高校入試が始まります。今まで、私なりに孝行に合格できるように勉強してきました。でも、合格できるか心配です。だから毎晩、「合格しますように」とお祈りしています。でも、私なんかの願いを神様が聞いてくださっているのかわからないので、教会に私の願いを持って来ました。

前回は、この女の子のように人は全力で自分の課題に当たる。しかしその課題に当たる中で、自分の足りなさ、情けなさ、無力さ、罪深さを感じる。それがゆえに私たちは、全能の神を訪ね求める。私たちの試練が私たちの無力さ、私たちの罪深さが、全能の神を訪ね求める扉となるというお話をしました。

しかし、もう一つ注目したい言葉があります。それは、この女の子の「神さまへ」という呼びかけです。
日本人一般は、「神」ということで、どういう存在を思い浮かべるのでしょうか?日本人にとって、「神」とは、どういう存在なのでしょうか?

日本には、たくさん神々がいます。私たちの教会のそばに神社があります。境内の駐車場には沢山、この神社をお参りするとこういうご利益がありますということが書いてありますが、何が祭ってあるのかは分かりません。実は私は小学生の時に、何が祭ってあるのか、友だちが探検しに行こうというので、(笑)神社の中にこもった。とても申し訳なくて、あまり人前で言えることじゃないのですが。

神主さんのいないところでこっそり忍び込んで、(笑)そして奥にある赤い布のかかった御神体らしきものを開けてみたのですよ。そしたら中から鏡が出て来ました。そして鏡に映っていたものは、紛れもなく私自身でした(大笑)。まぁもう少し深い意味があるのだろうと思いますけれどもね。こういうことはあまり笑いの種にしてはいけないと思いますが…。

・伏見の稲荷はきつねを祭っています。商人の神さまになっていて、お金が儲かるらしいです。
・不動尊、不動明王は、溝の口にもありますね。これはインドの神さまが仏教に取り入れられて日本に来ました。恐い顔をして、必ず後ろに火の輪があり、鉄の棍棒を持っている。厄払いができると言われます。ですから優しい顔はしていない。恐ろしい形相で、あなたの後ろにいる厄を払うという意味で、これはインドのヒンズー教から来たものですね、
・こんぴら山が祭るのは、クンビーラというガンジス川に住むワニになぞらえています。水の神、海の神で祭られていると言われます。

日本中どこへ行っても、どんな神様を祭ってあるのかは、よくわからない。しかし拝む対象はわからなくても、看板にはっきりと書いてあるのは、御利益です。何を拝んでいるのかわからない割には、妙に御利益だけは明確です。

そうした神々を拝む日本人はどういう感覚なのでしょうか?皆さんが本屋に行きますと、有名な禅仏教のお坊様で中野東禅さんという方がいらっしゃいますが、この先生は日本の仏教や、特にそれに基づくいろいろな新興宗教を盛んに批判されている(本があります)。

この先生によりますと、大きく日本人の宗教観は、こういう風にでき上がっているそうです。
@    自分の人生に不都合なことが起こる。病気・受験の失敗・事故・結婚できない・仕事が成功しない。要するに、人生が思うように行かない。自分が願っているように人生が開けて行かない。これを体験すると、
A    その原因を、自分以外のところに持っていく。そのほとんどが、先祖に持って行くのです。話されることは、不幸だった先祖はいないか、悲惨な事故や病気で浮かばれない先祖はいないか、その供養はちゃんしているのかという話になる。

女性は、なかなか厳しいですね。日本は軟水の国ですから、流産というのは、硬水のヨーロッパに比べれば、率ははるかに少ない。でも、おなかに赤ちゃんはできたけれども、しかし出産に至ることができなかったという負い目を、多くの女性が背負っていますね。すると新興宗教の多くが、その水子と言うものを作り、その背負っている重荷と言うものを突っついて、何百万出して供養すれば、災いがあなたの人生から去って行く、逆に今まで災いをもたらしてきた霊はあなたを守護霊として守ってくれると言う、みんなそういう論理に行く。

そういうのは、中野東禅先生によれば、人生を思うように動かしたいと願う気持ちから発した、人間と「等身大の神様」を拝んでいると言います。人間の願望が神々を創り出した。人生を自分の思うように動かしたいという願いをもって、何でも神様にしてしまうのが日本人だと言うのです。

この発想は、西欧の哲学で、フォイエルバッハがいます。そしてそれに続くマルクスが同じようなことを言いました。それはキリスト教批判を含めてですけれども、そもそも神とは人間の願望が投影されたもの、外に映し出されたものというのです。そうなると、神が天と地と人間を創造されたのではなく、その逆だというのです。人間の願望が神を創造した。
            
でもこの当時そういうものなのだろうか。確かに、日本人の神々を見ていますと、中野先生のおっしゃること、あるいは、フォイエルバッハのいうことが該当しますね。それはお守りとなって、私たちが行くところに神々を連れて行く。旧約聖書に出てくる偶像がそうですね。あなたがたが追われるときに、あなた方が偶像を荷車に載せて、家畜がそれを引っ張って、偶像はあなたがたのお荷物となる(注***イザヤ46:1)。でも偶像を人々は連れて行くのです。行くところどこへでも。そして自分たちを守ってもらうのです。でも聖書の神は羊飼いとなって、あなたを連れて行くのです。あなたが神々を連れまわすという人生でなく、神があなたを導き、そしてあなたの願望以前に、神のみこころが私たちの人生に形となって実現して行く。それが全能の神です。

私たちはそのようにして、天地万物を創造された全能なる神を信ず。そしてその神を「父」と呼ぶ。これは独特ですよ。使徒信条で始まる文言、「我は天地の造り主、全能の【父なる】神を信ず」、しかし、そこに【父なる】ということばが入っています。お父さんということばが入っているのは、キリスト教だけです。

今朝は、この「父」ということばに込められた豊かな概念を、なんとかとらえたいと思います。私がよく引用するクリスチャンの詩人八木重吉の「桃子」と題された詩があります。八木重吉がまだ若い頃、自分の娘、小さい桃子を見て、八木重吉は娘に対する父親の思いをこんな風に記しました。

 「桃子よ、
  おまえがぐずって仕方がないとき、
  父さんはおまえに、げんこつをくれる。
  でも、父さんの命がいるときがあるなら、
  喜んで、おまえにあげる。」

この詩に基づいて、今日は2つの観点からお話をしたいと思います。

1)まず第一にゲンコツをくれる、権威、その厳格さです。
この詩にうたわれているのは、ひとつは父の厳しさです。「おまえがぐずって仕方がない時に、おまえにゲンコツをくれる」という厳しさを父親は持っている。

マラキの1章6節を選びました。
マラキ1:6 「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。(もしわたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか……)」。

私は先週床屋に行きまして、いつも行く10分千円の床屋さん(笑)ですが、それで、床屋さんのお兄さんに、「大体一カ月だから、1か月前(のスタイル)に戻してくれ」と言いました。「ええ、わかりました」。床屋さんは「バリカン入れますか?」と言うから「よろしくお願いします」と(言いました)。私は”バリカン入れますか”という意味がわからない(笑)。言われてね、まぁよろしくお願いしますと日本人は言うじゃないですか。そしたら一気にバリカンでもうざーっと(大笑)、この一列入ったってことはもうアウトですね(大笑)。この一列入っちゃったわけですから、これはもう、で、私は潔いですから、もう神さまにお任せ(大笑)と、髪の毛の薄い人用の髪型で、ベストな髪形を知っているに違いない(笑)と、だからすべてをお委ねして、この寒い時期にですねぇ(大笑)まあるくなっちゃったのですね(大笑)。

息子が私の髪型を見て言うには、「おやじ、ひどい事になっているなぁ」と(大笑)。今日皆さんが私を見て「先生、なかなかお似合いですよね。」と、こう言ってくださる。誰も皆さんの中に、「ひどい事になっている」と、こんなことを言う人はいないじゃないですか!(笑)私はこのことばをほんとに思いますよ。
「子は父を敬い、(爆笑)しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか」。現代のお父さんはみ〜んなこれを味わっていると思いますよ。少しはねぇ、お父さんをいたわった方がいいですよ(笑)。

現代社会で、父ほどあやふやな概念はないでしょうね。なにしろ、わがままな父、頑固な父、家にいない父、家を出てしまった父、これらは尊敬の対象にはならないのかもしれませんが、しかし旧約聖書の世界では、モーセの十戒の中に「あなたの父と母とを敬え」(***出エジプト20:12)とありますように、父は尊敬の対象でありました。父は子どものために命を呈して子どもを守ります。

イスラエルの人々が、エジプトを出て、荒野を旅して、カナンにつくまでに、神さまは、彼らをご自身の子どもとされたと聖書に書いてあります。ちょっと申命記の32章を見てください。どういう姿勢で神さまがイスラエルの民を愛されて来られたかがよくわかります。10節と11節をご一緒に読みたいと思います。

申命記32:10「主は荒野で、獣の吠える荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた」。
同32:11「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように」。

これは神さまが、奴隷となっていたイスラエルの人々をエジプトから連れ出し、アロンを引き連れ、約束の地に入れようとされた、その神さまがどれほど民を、自分の子どものようになさったか。獣の吠える荒地で彼を見つけ、これを抱き、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。奴隷の巣の雛を呼び覚まし、その雛の上に舞いかけり、そろそろ出掛けようと、なかなか足の重い彼らを、翼の上に広げてこれを取り、羽に載せて行くように、神さまはイスラエルの人々を約束の地に導いてくださった。

ひとことで言いますとね、神さまはイスラエルの人々にこれほど近くに近づき、温かく、力強く育てて来られたということですね。
それが長〜い歴史の中で、父が近づけば近づくほど、父が犠牲を払えば払うほど、その結果、父は子どもから何を受けたのかというのが、旧約のマラキの一番最初のことばです。

マラキ1:6「もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。」

それはイスラエルの人々が、私たちが、尊敬の念もなく、恐れもなく、単なる気安さだけで父なる神に接する。父と呼ぶなら、その尊敬はどこにあるのか?これは私たちは、使徒信条で「父なる神を信ず」と告白するたびに、果たして自分は父なる神に尊敬を払っているのかということは考えさせられます。

父なる神に対する尊敬―――天地万物を創造され、私たちを贖い、全能の神に信頼し、私たちはさまざまなことを神さまに訴える。ではあなたは本当に心から神を恐れ、神を敬っているのか?「はい、敬っています」と言うならば、その「はい」のしるしが、どういう形で実際に、あなたの生活の中に出て来るのか?

これは私はよく申し上げますように、「苦しい時の神頼み」は正しいです。それは聖書の中に、「苦難の日には、わたしを呼べ」(注***詩篇50:15参照)と神さまはおっしゃった。「苦難の日にはわたしを呼べ」と言う限り、「苦しい時の神頼み」は間違ってはいない。しかし、苦しみが過ぎた後に、その神に対する尊敬も感謝も全部吹き飛ばして、あたかも何にもなかったかのように、自分の好きな生活に行く、その姿、それが「もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか」。(と神さまに言わせる不信仰な私たちの姿です)。

イエスさまは、「あなたがたは人を恐れるな」とおっしゃいました。「人を恐れるな、でも神を恐れよ」と。その神は、―――人というのは、あなたがたのからだを殺すことはできても、たましいを滅ぼすことはできない。しかし、神は―――ゲヘナ(***地獄)であなたがたのたましいさえ、滅ぼすことができるよ。からだを殺しても、たましいを殺せない人間など恐れるに値しない。それよりも、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

【注***マタイ10:28 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。】

この恐ろしいまでの権威が、天地の創造主、全能の神の権威です。その方が私たちに近づかれるとき、私たちはひれ伏すのです。だから礼拝には礼拝の態度がある。この方を前にするから、私たちは心を込めて、力強く賛美するのです。ただ歌を歌っているのではない。この方を前にしているから、私たちは厳粛に座るのです。この方を前にしているから、静かに耳を傾ける。そして、この方のおっしゃることを誠実に行おうと決意するのです。
              
父なる神さまを恐れかしこむというのは、単なる言葉の問題ではない。それが一番表れて来るのが、礼拝ですね。ですから礼拝で私たちは、父なる神を告白するのです。

2)「父」と言う時に思い出すのは、ヨハネ3:16の有名なみことばです。

ご一緒に読みましょう。

ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。

私たちは使徒信条で、「父なる神を信ず」と告白するときに、私たちは努めて、主イエス・キリストが教えられた、父なる神の愛を心に留めます。
「あなたがぐずって仕方がない時に、父はあなたにげんこつをくれる。しかし、もし父さんのいのちがいるときがあるなら、喜んでそれをお前に上げる」とおっしゃる、父なる神の愛に私たちは心を留めます。
 
父なる神は、私を愛し、私を救うために、イエス・キリストの栄光とイエス・キリストの栄光の姿を犠牲にされました。
父なる神は私たちの恐れを和らげるために、私たちの罪(恥)を担ってくださるために、私たちの弱さに寄り添うために、私たちの罪を赦すために、私たちの罪科のすべてを御子イエス・キリストの肩に載せ、そのいのちを犠牲にしてくださいました。

父さんのいのちがいるときがあるなら、―――私たちはみんな父なる神のいのちを必要としているのです。―――喜んでおまえにそれをあげる、との父なる神は、私に直接に御子イエス・キリストを与えてくださいました。御子イエス・キリストは十字架にかかり、私の罪のために十字架にかかり、ご自身のいのちを与えてくださいました。

御子イエスのいのちを犠牲にし、父なる神ご自身も犠牲になってくださった目的は、ただ一つです。
それが16節の後半に書いてあるのですね。「御子を信じる者が」、滅びることなく、永遠のいのちを持つため、です。
私の生涯に莫大な祝福を注ぎ、後の世にあっては神の国を相続するために。

ひとことで言えば、私たちのような者も、天地の創造主、全能の神を、イエスさまと同じように「お父さん」と呼ぶことができるように。私のような者も、神の子どもとして、御国を相続する者となるために、父は御子イエス・キリストを十字架にかけられた。

「父なる神を信ず」と告白するたびに、御子を与えられたお方を、御子とともにすべての祝福を与えてくださる神さまを、私は信じているのです。御子を信じる者はすべての祝福に与るのです。

「息子」と題された話があります。ちょっと長いですが、この話を最後にして終わります。実話かどうかはわかりません。私はずいぶん前にこの話をしましたので、二度目の方はお許しください。

あるところに、大金持ちとその息子がいて、この二人は絵画の収集に情熱を燃やしていた。現代のピカソからルネッサンスのラファエルに至るまで、財を惜しまず、絵だけに全財産を注ぎ込んでいた。二人は仲良く暮らして、よくいっしょに座って、家に飾られた名画の数々を堪能していた。

やがてベトナム戦争が始まり、息子の方は戦争にとられます。彼は勇敢で、仲間の兵士を助けるために命を投げ打って、戦死しました。お父さんは、その死を嘆き悲しみます。何しろ、一人息子です。

戦死して1ヶ月経った後、その家のドアを叩く者がいました。若い一人の男がドアのところに立っていて、大きな紙包みを下げています。
「はじめてお目にかかります。ぼくは、ベトナムであなたのご子息に命を助けられた男です。息子さんは命をかけて、ぼくを助けてくれました。あの日、ぼくが戦場で倒れ、ぼくを助けようとぼくを背負っていた彼に銃弾が当たったのです。即死でした。
戦場で、よく彼は、お父さん、あなたの話をしていました。そして、あなたがどんなにか絵が好きか、ということも」。

青年は、パッケージを差し出して言いました。
「大したものではないんです。ぼくは名のある画家ではありませんから。でも、それが息子さんの意志であろうと思いますので」。
そうして差し出された、パッケージを開けてみました。なんと描かれているのは、亡くなった息子でした。それを描いたのは、この青年でした。父は、その絵に感動しました。無名の画家が、よくぞここまで、自分の息子の人格をキャンバスに描いてくれたものだと。
「ありがとう。是非、お礼をさせてください」。
「いや、とんでもないことです。プレゼントです。彼は、僕のいのちを救ってくれました」。

父親は、その絵を応接間の真ん中に掛け、客が来るたびにその絵を自慢げに見せては、息子の話をしました。しばらくして、その父も他界します。さて、その後残ったのは、莫大な数の絵です。
          
そして、世界中が注目する絵画のオークションが、ニューヨークで開催されたのです。
この家にあった絵、すべてが売りに出され、世界中から、それを落札するためにブローカーが集まり、オークションが始まります。
「まず、これから行きます」。
そうして、始めに出てきたのが、戦争で亡くなった息子の肖像画でありました。会場はもうシーン(と静かです)。誰もその絵を知らない。誰もその絵を買おうとは思わない。
 
しかし、主催者は、その絵を降ろしません。
「100ドル? 200ドル?」
「ちょっと、いい加減にしてください。私たちは、レンブラントを、ゴッホを買い付けに来たのです。ちゃんとやりましょうよ」
しかし、主催者は無視します。
「息子さんの絵が先です。さあ、いかがでしょうか。どなたか落札される方はいらっしゃいませんか?」

とうとうフロアの後ろから、手が上がりました。その男は長年、この家の庭師でありました。10ドルーー―貧しい男には、それで精一杯です。
「どなたか、20ドルはいらっしゃいませんか?」
誰も手が上がらないのか、10ドルで落札されました。  
「さあこれから。いよいよ始まりだな」とブローカーの声がした途端、主催者は言いました。

「これにて、オークションは終了です」。紙が配られて、「これは故人の遺言です。それを今の今までだれにも漏らしてはならない、というのも故人の遺言でありました。実は今日、オークションにかかっていたのは、息子さんの肖像画、一枚だけです。遺言によりますと、残りの絵すべて、そして財産のすべては、息子さんの肖像画を落札した人が譲り受ける、と言っています。息子を迎えた者が、すべてを相続する、というのが亡きご主人の遺言でした」。
       
で全部がおしまい。
神さまのご計画は一つですね。それは、御子キリストを信じる者が、天の御国のすべてを相続するのです。神の祝福、天の御国のすべてです。
それは父なる神がどれほど御子イエス・キリストをご自身とひとつにされ、御子を与えるということが、神ご自身のいのちを十字架にかけるということであって、キリストが苦しむ時、御子のみならず父なる神がその苦しみを味わう。御子イエス・キリストを信じる者は、わたしのすべての恵みをあなたに相続させるという、それが父なる神。

かつて、全能の神を父と呼ぶことができたのは、イエス・キリストだけでありました。しかし今私たちは、イエス・キリストを信じることによって、全能の父なる神を父と呼ぶことができる。なぜなら、あなたは神の御子であり、あなたに神の国の祝福のすべてを相続できる権利が、あなたに与えられているから。

私たちが「父なる神を信ず」と言ったときに、この厳格で聖なる権威ある父、しかし同時に限りなく優しく私たちを愛しておられる父を思い浮かべて、「天のお父様」と呼ぶことができたならば、私たちの信仰は変わるでしょうね。

☆終わりのお祈り
恵み深い父なる神さま、もうあなたのことを父なる神さまと呼ぶことが当然であるかのように、そのことばに込められた恐れ多いほどの、驚くばかりの恵みを忘れてしまうようなクリスチャンとなってしまいました。

使徒信条を学び直すことによって、天のお父様であるあなたに呼びかける時、あなたの眼差しを、時にあなたの厳しさを、しかし限りなく深いまなざしを心に留めることができますように。同時に、そのすべての祝福を相続された、私たちひとりひとりが、心底神の子であるということを、紛れもなく神の子であるということを、しっかりと受け止めることができるように導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆感想をひとこと
今日も日本人の神感覚を、初めの方に少し入れ込んで話を進めてくださいましたが、私たちがイエスさまを信じることによって、神の子とされていることを思えば、受け継ぐものの大きさが他とは全然違うことが分かりました。天の御国のすべての恵み・神の祝福を相続できるという計りしれない恵みに、感謝と喜びが心の底から湧いて来ました。このような喜びは、ご利益宗教の神は、人間の願望と等身大の神でしかなく、絶対に授けることができないものだと思います。今日のメッセージを聴いて、それらの神々は人間の弱さに付け込んだ、サタンの使いだとさえ思えるようになりました。

そもそも、計りしれない恵みというのも、父なる神さまの大きな犠牲のゆえに、罪深く汚れた私たちでさえも、イエスさまに続いて、同じ親から生まれた兄弟姉妹にしていただいたことに始まりますから、父なる神さまにも感謝です。
ヨハネ3:16に記された犠牲の大きさは、本当にキリストの父なる、また私たちの父なる神の愛の大きさだと言えると思います。
愛というものは、相手にかけた言葉や行いの犠牲で表わされ、その極致が、イエスさまがおっしゃり、実行された、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)でしょう。しかし、愛を受けた者には感謝の気持ちが湧いて来て、次には人のために犠牲を働くことができるように、聖霊により力が与えられていると思います。

ただ信じる行為が大切なのではなく、どういうお方を信じているのか、そのお方と自分とどんな風に関わり合っているのかが最も大切だと改めて思いました。以前アーサー先生のメッセージだったと思うのですが、キリスト教がいわゆる宗教(religion)というのでなく、キリストと自分との関係(relation)だと言われていたことが、こういうことかと思い出されました。私たちの神さまは受けるよりも与えるほうが幸いと、愛に駆り立て、私たちをキリストの愛に成長させてくださる神、力ある天のお父さまではないかと思います。なるほど神さまを、「お父さま」と信頼と尊敬を込めて呼ぶことができるのは、キリスト教だけのように思いますから、この恵みを心から主に感謝します。

申命記の32:10~11は、なんと慰めに満ちたことばだろうと、その文章がとても詩的なのに驚きます。「ひとみのように守られた」とか、わしが雛に優しく翼に載るよう教えているところの描写とか、大きな主の愛に信頼して歩める私たちを描いていると思います。旧約の時代は、恐ろしい神さまという印象で読むことが多い聖書ですが、その恐ろしさと同じぐらい、本当に神さまは愛なのだと、また神さまの真実も同時にここに見たように思いました。それは、説教の中の八木重吉の詩でもあり、一般的に、親がたとえどんなに子どもができが悪くても、いつも心にかけて、見返りを求めずに愛するのと同じような、真実の愛の重みのような気がしました。

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DATE: 2011.03.27 - 01:06

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