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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/30教会総会の日の説教「耕地を開拓せよ」ホセア10:9~12
1/30教会総会の日の説教「耕地を開拓せよ」ホセア10:9~12

☆説教
1月に入りまして、ずっと使徒信条の学びをしておりますが、(教会総会の)今日は少し中断をします。今日見て頂きましたのは、ホセア書というあまり開かない聖書。ホセア書の10章11節と12節を交替で読みましょう。

11節「エフライムは飼いならされた雌の子牛であって、麦打ち場で踏むことを好んでいた。わたしはその美しい首にくびきを掛けた。わたしはエフライムに乗り、ユダは耕し、ヤコブはまぐわをひく」。
12節「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる」。

「耕地を開拓せよ」というのは、新共同訳聖書ですと、単に土地を耕せというよりは、「新しい土地を耕せ」ということですが、いきなりホセア書を開きましたので、この聖書の個所の歴史的な背景をほんのかいつまんで話しますので、ちょっと聞いてください。

ホセアは北のイスラエルの預言者でありました。イスラエルという国は、ソロモンが死んで以降、北と南に分かれます。12部族のうち10部族が北イスラエルを構成し、そして、ヨセフとベニヤミンの部族が南のユダという王国に分かれて行きます。ホセアは北で活躍した預言者でありました。王さまはヤロブアム2世という王さまの時代で、国は安定していて、生活物資は豊かでありました。

アモス書というのがあります。ホセア書の次の(注***ホセア書、ヨエル書と続くその次の)アモス書の6章4節を見て頂きますと、こういうことばがあります。ちょっとご一緒に読んでみましょうか。

アモス6:4「象牙の寝台に横たわり、長椅子に身を伸ばしている者は、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている」。

というのは、とっても豊かな時代です。食料が豊かであり、そして、その次のことばを見ますと、楽器を楽しみ、お酒に酔いしれていた、このヤロブアム2世の時代は実は国は末期状態でありました。

ヤロブアムの後、ゼカリヤという王さまはわずか一年の在位で暗殺されます。次の王さまは七年続きますが、その次は一年、そして国はあっという間に終わってしまいます。北イスラエルの繁栄は永久に終わります。アッシリアに攻められ、そして北のイスラエルは散らされ、またその土地には他のアッシリアの植民地から多くの人々が移り住んで来たり、イスラエルの人々の血筋というものは完全に失われます。北のイスラエルの人はサマリヤ人―――ですから私たちがよく知っているように、サマリヤ人という人たちがこの北のイスラエルで生まれて行きます。それはアッシリア帝国によって攻められ、他の植民地から移住して来た人々との雑婚によって生まれた、もともとイスラエルの10の部族でありますけれども、完全に散らされ、また血筋を失ってしまった、サマリヤ人という属国の人々がそこに住むようになります。

象牙のベッドで寝ています。象牙のベッドは輸入品です。パレスチナの地に象牙はないですね。このホセアの時代は一時的に安定しているおかげで、貿易がとても盛んになります。そして外国の製品が沢山入って来ます。しかし、これはある意味とても不安定で、一旦国際情勢が変わりますと、イスラエルの国の事態が急変する。政権が次々に崩壊していく。

このイスラエル王国の末期の時代に、神さまが語られたことばが、「耕地を開拓せよ」、「新田を耕せ」。もう少し簡単に言いますと、「基本に戻れ」ということであります。イスラエルの人々は、貿易の時代で、最早耕地を開拓することをしなくなってしまった。でもかつては、ホセアの10章に戻っていただきますと、10章の11節に、かつては――エフライムというのは、無力の人であって、「飼いならされた雌の子牛であって、麦打ち場で踏むことを好んでいた」。つまりかつては農業を好んでいた。

「わたしはその美しい首にくびきを掛けた。わたしはエフライムに乗り、」というのは、この神さまによって飼いならされた、雌の子牛エフライムの上に神さまご自身が乗ってくださり、そしてユダという大きな部族は耕し、ヤコブはこのイスラエルのひとりひとりの全体のまぐわを引くというように、かつての農業のとってもなつかしい牧歌的風景のことを神さまは語られます。牛を働かせているのは神さまご自身で、神さまがエフライムの上に乗っていてくださり、ユダは耕し、エフライムはまぐわを引く。人々は神さまにくびきを掛けられ、ともに耕地を耕していた。

しかし、いつの間にか、それをしなくなって行った。それをしなくとも生活できるような繁栄を味わっていましたし、自分の生活を違う形で切り盛りして、充分やって行けるようになった。もちろん、ここには比喩的に2つのことが重なっています。
@    イスラエルは、農業を止めた。土地を耕さなくても、貿易だけでやっていけると思うようになってしまった。
A    霊的な意味で、イスラエルは神と共に歩まなくなった。そんな世界を耕すことを止めてしまった。そんなことをしなくても、自分の生活は立派に成り立っていると思うようになった。
という2重の意味が含まれています。ですから「新田を耕せ」という神さまのご命令は、国に対する命令でもあり、ひとりひとりの生き方、また時代を超えて私たちに対するメッセージでもあるということを踏まえて、今日は3つのことを簡単に理解して頂きたいと思います。もうすでにメッセージを二つに分けることができると思いますが、

1)「かつては」ということ

かつては、神さまは私たちの首ににくびきを掛けて、かつては、私たちは神さまと同じくびきを背負い、そして耕地を開拓していた。それがどういう耕地なのか?それは言うまでもなく、恵みの畑です。信仰のためには熱心であり、聖書を学ぶことには情熱的であり、証しをするという畑があり、祈るという畑があり、伝道をするという畑がある。

かつてはという話をしますと、あまりよくないのかもしれません(笑)。かつては特別伝道会が開かれるために、渡辺兄がシルクスクリーンの看板を造り、その看板のデザインは、いつかどこかで展覧会のように、この会堂を所狭しと何十種類も載せてみたいと思いますが、キリスト教会の中であれほど見事な教会の看板を作ったのはうちぐらいなものだろうと思うのですが(笑)、毎年毎年デザインが違うのです。特伝が開かれるとなりますと、私たちはその看板を電柱に全部貼る。特伝が終わって一番最初にすることは、その看板を剥がしに行くことです。自分がどこに看板を付け、どこから剥がしたのかです。それを神学生がやり、父親がやり、あるいは役員の方がやり…。

かつて私たちは夜の伝道会がありました。伝道会は夜の7時半からでしたよね。その前に私たちは溝の口の駅前でチラシ配布をした。神学生も一緒でありました。そこで路傍伝道をし、短い説教をし、そしてパチンコ屋さんの前でこのチラシを配るのです。伝道会の前に路傍伝道をやり、路傍伝道の前に祈祷会をやり…。私も大学生のころから参加しておりましたけれども、当時は元気だったなぁと思います。そういう「かつて」というのがある。別にそういう「かつて」がなければいけないわけではない。伝道方式は変わりました。溝の口の駅前開発が始まりまして、それと同時に、私たちは路傍伝道を止めました。

それから夜の伝道会が、とっても固定化してしまって、新しい来会者があまり来ない。また夜の集会に出席する人も限られている。果たして夜の伝道会というのが、本当に教会の伝道会になっているのか、というのを私たちは真剣に役員会で問うて、考えて2年越しに、私たちは午後の集会という風に形を切り替えました。そしてよかったと思っています。

それによって、私たちの聖書に対する情熱、証しをするという情熱、祈るという情熱、伝道するという情熱が失われたとは思っていない。いつも私たちは新しい田畑を開拓して来た。これまでやっていなかった方法で伝道することをやって来た。それでも自分自身の信仰生涯の中で、教会の歴史の中で、主が私たちをご覧になり、「あなたはかつて、とても飼いならされた従順な牛であった。そして、恵みの畑を一緒に耕した」。神の民の最も基本的な姿、それが今あるかと言われたら、だれしもが胸に手を当てて考えなければならない。教会総会というのは、そういう霊的な作業をしなければならない。

10章の1節を一緒に読みたいと思います。彼らは麦を作っていたばかりではない。

ホセア10:1「イスラエルは 多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多くの実を結ぶにしたがって、それだけ祭壇をふやし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた」。

イスラエルにはぶどうの木が沢山あります。農夫のほとんどは、まぁブドウ園の農夫でしょうね。農夫はぶどうの木を育てるために労苦を惜しみません。ところが、豊かになって行った時に「祭壇を増やした」というのは、偶像礼拝に走ったということです。「それだけ多くの美しい石の柱を立てた」というのは、偶像の神々のために、祭壇を建てて行ったということです。もはや、ぶどうの木の世話をしない。耕さなくても食べていける方法を知るようになった。神さまに頼らなくてもやっていける。どんどん耕す情熱から遠ざかり、それでも象牙のベッドに横たわり、食べる物にも不自由しなかったということを、ホセアが言っているのです。

いったい恵みの畑の代わりに、彼らは何を耕したのか?13節を見てください。

ホセア10:13「あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べていた。これはあなたが、自分の行いや、多くの勇士に拠り頼んだからだ」。

このことば、最後に象徴的であります。その代わりに、自分の行いや、多くの勇士に(人間的な力に)拠り頼むことによって、神に拠り頼むことを止めてしまった。それでも彼らは自分たちを神の民と呼ぶのですね。ホセアは神さまの預言者ですから、神さまのことばを語っています。その神さまのことばは、「かつてあなたは情熱に燃え、一生懸命神さまに向かう、その恵みの畑を耕していた頃のことを考えてみなさい」。

2)「その本来の姿を見失っているのであればそれに気が付きなさい」。

相撲界に『土俵を掘る』という表現がありますね。稽古一筋ということであります。その練習を見ていますと、一つ不思議ですが、あの小さな相撲部屋で汗を流す。そしてもっぱら土俵の上で稽古をする。相撲部屋には土俵というより、土を敷いたスペースがあるわけですけれども、あんなスペースで何かしているのだったら、多摩川でも走ったらいいんじゃないかと思いますね。だけど、土俵を取る運動機能を鍛えるためにウェートをやる、一番このウェート・トレーニングを摘発されたのは貴乃花ですね。彼はこの相撲柱(?と聞こえたのですが、T・Y)をやる代わりに必死になってウェート・トレーニングをした。これは厳しい批判に耐えましたねぇ。私はある意味、運動機能を高めるのであればどういう運動でもいいのかもしれない。しかし相撲界は、土俵を愛する。稽古部屋に閉じこもるようにして、ひたすら基本に忠実であれという、双子山親方の有名なことばですが、その基本を忘れて他のものに走るなと。なぜなら、あなたの人生の采配も、あなたのいのちも、すべてこの土俵に埋まっているから。

では、この土俵から宝を掘り出すというのは力士のものの考え方です。私はクリスチャンもそれに似てい(ると思い)ます。当然、それはイエスさまはクリスチャンをたとえて、こうおっしゃいました。クリスチャンというのは、宝が隠されている畑を見つけると、全財産を売って畑を買うのです。(注***マタイ13:44参照)そうして手にしたのが、教会なのです。そこが小さな土俵なら、そして何をするのがクリスチャンかと言うと、その買い取った畑を掘る。掘って掘って、その教会という畑の中で、礼拝に励み、みことばを大切にし、祈りに生き、教会を愛し、交わりを求め、熱心に心を注ぎ出す。

もちろん、私たちの信仰は教会だけではない。大きな伝道集会があり、いつも世界にあって、キリストは何を願っておられるかを考え、時に政府に嘆願書を書き、時に地域の教会と一緒に強力に伝道し(働くこともある)。でもクリスチャンがクリスチャンであるとするならば、必ず一つの教会に自分の住処を見つける。そしてその教会に埋もれている宝を掘り当てることに精を出す。よそで筋トレはしない(笑)。まあたまにはいいと思います。よその教会に行って、いいものを持ち帰って来てくださいますのはいいと思います。それはなぜかと言うと、私たちの教会の宝も、ある程度限りがあるから。でも自分の教会の宝を掘ることを忘れて、よその土地を掘り歩いている人もいないわけではない。

教会は総会に残っていただきたいと言うのは、せっかくこの教会に来ておられるのであれば、土俵の中身を一回スコップを自分の手で持って見て頂きたい(からです)。どんなことがあるのか、あるいはどんな状態なのか、どうしたら改善できるのか、一つの土俵を掘るというのは難しい。難しいと思いますね。時に私たちが、その土俵に飽きてしまうこともありますでしょう。あるいは、人生が豊かになって、初めの愛から離れることもあるでしょう(***黙示録2:4〜5参照)。何だかこの土俵がつまらなくなってしまった。いつの間にか、教会に関心を抱くことを忘れてしまった。みことばと祈り、そして、教会の中に埋まっている神さまの祝福に関心を失った私たちはどこに行くのか?相撲取りが土俵に関心を失ったら相撲取りを辞める以外にない。クリスチャンがこのたましいの土俵、聖書も祈りも教会生活もそこに関心を失ったら、私たちは信仰者ではあり得ない。

3)ホセアは「今がその時。耕地を開拓せよ」と言う。

ホセア10章12節「………。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる」。

神はこうおっしゃいました。「今だ」。先ほど申しましたように、「耕地を開拓せよ」(***新改訳による)というのは、新共同訳聖書では、「新田を耕せ」だから、新しい田も一緒に耕せということです。古い田んぼで荒地となった田んぼだけではない。

神さまはあなたに新しい土地を与えてくださる。そしてその土地を掘ることも忘れるな。土地を掘るということは、12節の一番最初にありますね、「あなたがたは正義の種を蒔き」、掘ったら種を蒔け。すぐに刈り入れることができないかもしれない。でも12節の最後2行に「ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる」というのは、ついに主が来てくださる時に、あなたがたの蒔いた種は何百倍にも祝福にもなって、それをあなたは刈り取る。今年蒔く種を、私たちは来年刈り取ることはできないかもしれない。今年切り拓いた新しい土地を、私たちは来年どうにかすることができないかもしれない。しかし、「今がその時だ」と高らかにホセアが言っているように、今あなたが注ぎ込んだものは、やがての時に必ず神さまはそれに報いてくださる。ですから将来を期待し耕し、夢を見て種を蒔け。そしてじっくりと誠実な農夫になりなさい。そして農夫の仕事を習得しなさい(と言っているのです)。

私は畑仕事をやったことがない。皆さんの中にはたくさんおられるのですね。今は畑仕事再燃の時代で、ご自分で家庭菜園を持っていたり、あるいはベランダでミニトマトを収穫したり…。私たち夫婦は一度だけアメリカで結婚して最初の年に、畑を持ちました。それで、どうしようか、何をしようか、中華の食材でチンゲン菜の種を蒔くことにしました。それで友だちから道具を借りまして畑を耕した。そしてチンゲン菜の種を上手に蒔いて行って、やがて雨が降りますね。しばらくしたら友人から電話がかかってきて、「おまえたち、雑草はいつ抜くのか?」と(笑)。雑草がボウボウだぞと。チンゲン菜の葉が出る前に他の草が覆い茂っていると言う時に、えっ雑草って出るんだ!(笑)抜かないと、チンゲン菜にならないんだ。しばらくすると、また友人から「おまえたち水はいつ撒きに来るんだ?」。あっ水って撒かなきゃいけないんだ!(笑)(種を)蒔いたら蒔いたで、それで自然にある時期が来たら、チンゲン菜ができると思っているのですね。しばらくしたら、「収穫はどうするんだい?」と(笑)、行ってみたら一面チンゲン菜ですもの。これどうするの?食べられないし、売るにも売れないしどうするの?(笑)。私たちは取れるだけ取って、もう二度と同じものを同じように蒔くのは止めようと(大笑)、やっぱり時期を分けて野菜ができるようにしないとだめだと(分かったわけです)。

農業している人というのは、とっても着実に、自分のすべきことを把握しますね。そして蒔きっぱなしではない。教会の前のさまざまな植木は、田中姉が手入れしてくださっていますが、私たちはざあーっと水を撒きますね。水を撒くだけではいつもどこかしょぼいんです(笑)。すると時に田中姉が朝来てくださって、余計な葉っぱや枯れた葉っぱや花を摘み取ってくださる。すると見違えますよ。私たちが手入れしてだめなものは、一旦家に持ち帰って頂いて、そして元気にしてもう一回持って来てくださる。そういった細かい配慮や手間暇というのは、実はこの教会の中に一杯あるのですよ。何か一つプロジェクトを立ち上げて、種蒔きで済ませてしまうのが私の性格です(大笑)。私はこの後のケアがなかなかできない(笑)。

母(注***藤本栄造牧師夫人、幸子師)はよく言いました。母は「水やりが一番難しい」。水やりが一番難しいというのは、これは信仰の話で、「ある人物を救いに導くということは、神さまがしてくださることだ。でもある人が植え、水をやり、育ててくださるのは神だけれども、その水をやるということが、やり過ぎても根が腐る。でも水をやるのを忘れたら、そのたましいは枯れて行く」。

説教というのは一方通行のコミュニケーションです。一方通行のコミュニケーションというのは、初めて来た人にも信仰歴50年の人にも同じことを言わなきゃいけない。それがいったい皆さんにとってどれだけの水量になっているのか、全く分からずにざあーっと水を撒いているようなものですね。
それを皆さんは互いに、雑草を摘み取る際に、また各々の違い、微妙な調整を皆さんご自身でして行かれているから、教会は生きているのです。
この講壇から語られる一方的なメッセージで、皆さんは生きていない。それ(***説教)をどういう風に育てて行き、どういう風に自分の人生に生かすかということを、皆さんはきっと互いの調節でなさっているのですね。

ひとことで言いますと、私たちの小さなベストを神さまは受け取ってくださり、それを豊かな恵みに変えてくださる。
新しい土地を開拓しなさい。種を蒔きなさい。雑草を抜きなさい。水を遣ることを怠ってはいけない。
それは小さな小さな努力で、それが最終的に積み上げられて報われるというのではない。いいですか。小さな努力が最終的に積み上げられて報われるというのでなくして、12節の最後を見てください。「今が、主を求める時だ。ついに、主は来て」というのは、小さな努力の積み上げで報われるのでなくして、小さな努力の積み上げを神さまは受け取ってくださる。
そしておおよそ私たちの努力とは違う、何百倍にもなった祝福を神さまは天から注いでくださる。だから、私たちがその小さな精一杯の努力を、神さまの前に勇気をもって差し出すことが大切なのだ。
だから勇気を持って新しい土地を耕して行け。そして本来のあなたの姿に戻って、わたしはあなたのその小さなベストを受け取り、それに報いて、あなたに恵みを注ぐ(と神さまは言われるのです)。

8歳の女の子がお父さんとお母さんが台所で話をしているのを、自分の部屋の前で聞いていました。8歳の女の子には到底分らない難しい話でした。でも聞いていてわかったことは、弟アンドリューの頭の中に、病気がある。何かかたまりができていて病気がある。それをお父さんが、手術をしなければいけないけれども、お父さんとお母さんには大してお金がない。家を売ってアパートに暮らして、何とかお金を作らないという話。でもそれで手術が成功するかどうかもわからない。

女の子はそれを聞いて、「大変なことになった。弟のアンドリューが死んじゃう、何とかしなきゃ、何とかしなきゃ。」(と心が騒いだ)。部屋に戻って、貯金箱の中身を調べました。それを持ってすぐに家を出て、近くの薬局に行った。

薬局のおじさんは他のおじさんと話していました。カウンターの下に行った女の子は、背が低くて(そこにいることを)気が付いてもらえなかった。
女の子はしびれを切らして、貯金箱の中から硬貨一つを取って、ガラスのカウンターにパシンと置いて、そしておじさんを見ました。

薬剤師のおじさんは気が付いて(言いました)。
「お嬢ちゃん、待っててね。ここにいるおじさんは、遠いシカゴから久しぶりに訪ねて来たおじさんの弟なんだよ。だからちょっと待っててね」。
女の子は大きな声で言いました。
「おじさんの弟もいいけど、私の弟の方が大変なの。死にそうなの。おじさん何とかして。私、自分の全財産持って来たから何とかして」。

おじさんは訊きました。
「お嬢ちゃん、そのお金で何を買うんだい?」
「弟を直して。弟の頭の中に悪い病気がある。このままでは死んじゃう。ものすごい勢いで病気が広がって、奇跡でも起こらない限り、弟は死んじゃう。お父さんが言っていた。おじさん、その奇跡っていくらするの?これじゃ買えないの?」
そう言って女の子は、貯金箱を薬剤師のおじさんに差し出して、目に一杯涙を浮かべました。

薬局のおじさんと話していた男性が、女の子のところに来て言いました。
「お嬢ちゃん、いくら持って来たんだい?」
皆で貯金箱を開けて中を見ますと、10ドルと11セント――というのは、1200円ぐらい。
「これが私の貯金の全部よ。これでだめならもう少し何とかするから、その奇跡というものを売って頂戴よ」。(笑)

そしたら、シカゴから来ていた薬剤師の弟のおじさんは、こう言いました。
「そうか、よかったじゃない。その奇跡っていうのは、10ドル11セントちょうどだよ。よかったねぇ」。(笑)
薬局のおじさんの弟というのは脳外科医だったのですね。そして、10ドル11セントで弟のアンドリューの面倒を看てくれたという、これは実話です。

「よかったじゃない、その奇跡というのは10ドル11セントちょうどだよ」――私は神さまという方は、そうおっしゃってくださる(と信じています)。私たちが祈りをもって耕しても、私たちが誠実さをもって種を蒔いてもそれは小さな荒地ですよ。一般の会社社会に比べてみたら、教会の総会なんて小さな小さな総会ですよ。捧げものを差し出しても、必要に対していつも小さなもの。そしてどんな奉仕をしても、それもまた欠けだらけで、この努力を積み上げたところで、打開できるような問題ではない。日本の宣教というのは、そういうものでしょう。

私たちの小さな努力の積み上げで、何かを買い取るのではない。しかし私たちは自分の持てるベストを神さまの前に差し出していく時、神さまは「よかったじゃない。そのあなたのベストでちょうどだよ」と言って私たちに報いてくださるお方、笑みをもって私たちに答えてくださるお方(と私たちは信じるのです)。それが私たちの(使徒信条)「天地の創造主、全能の父なる神を信ず」ということ(なのです)。

☆終わりのお祈り
あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。
(ホセア書10章12節)

恵み深い天の父なる神さま、かつて私たちは飼いならされた雌の子牛であり、あなたにくびきを掛けて頂き、あなたと共に恵みの畑を耕していました。今も耕しているつもりです。もしそうでないとしたならば、主よ、どうか、かつての最も基本的に―――あなたを礼拝し、祈り、みことばを学び、互いに仕え、一生懸命に伝道するという、この飼いならされた子牛の姿に―――私たちを戻してください。

そればかりか、その姿をもって、新しい田畑を耕すことを教えてください。そこに小さな種を蒔くことができますように。その種はもしかしたら、今日刈り取ることはないかもしれません。今年の問題ではないかもしれません。しかし、私たちの小さなベストを、必ずあなたは受け取ってくださり、奇跡をもって報いてくださることが約束されていることを堅く信じています。

どうか、今年一年間の私たちの種まき、私たちの水遣り、私たちのありとあらゆるこの恵みの畑に対する思いを、主よ、どうか育てて、養って、ついに主は来たと、その恵みをこの教会ばかりか、私たちひとりひとりの日常の働きの中でも、あなたの奇跡を見ることができるように導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


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