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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   2/20礼拝説教「使徒信条(5)我は、イエスを信ず」ヨハネ1:35~51
2/20礼拝説教「使徒信条(5)我は、イエスを信ず」ヨハネ1:35~51

☆説教
さて、使徒信条の学びに戻ります。これからイースターまでずっと、イエス・キリストの告白について学ぶことができるのは、時期的にとても感謝だと思います。ご覧頂いたら分かりますように、使徒信条、これは大半がイエス・キリストの告白です。使徒信条を見たらわかるように、大半がイエスキリストの告白というこのことのゆえに、これこそがキリスト教の信仰告白だと(見なされています)。
しばらく行きつ戻りつしながら、キリストをどのような方として告白するか、告白にためらいはないのか、告白で試されるキリスト教信仰っていったい何なのだろうかということを、数週間かけてじっくり学んで行きたいと思いますので、お付き合い頂きたいと思います。

1)その時に先ず不安から始めなければならない。それはいったいこの方はどういう方なのだろうかという素朴な質問です。

ちょっとマルコの福音書の4章の41節を見てください。またヨハネに戻って来ますが。
マルコ4:41はご一緒に読みたいと思います。

41節「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう』」。

「いったいこの方はどういう方なのだろう」という質問は4つの福音書に溢れています。神さまを私の父と呼ぶこの方。誰も見たことのない神の国をあたかも見て来たかのように、人の想像とは全く逆の形で説き明かされるこの方。どんなに反対しようが悪霊を追い出す権威だけは否定できないほど、悪霊に対する圧倒的な権威を振るわれるこの方。生まれつきの病気、何十年の病気を癒されるこの方。そしてこの場面に出て来る、嵐を静めるこのお方はいったいどういうお方なのか?

弟子たちの船にイエスさまも乗っておられました。ガリラヤの向こう岸へと漕ぎ出して行きますが、途中で激しい突風にやられて船は波を被って沈むばかり。ガリラヤ湖は湖ですけれども、大きな湖で海のようです。

私は覚えていますけれども、ちょうど大学生の時に父が関西でありました聖会で説教をしました。それでいっしょに関西聖会に行き、聖会の帰りに琵琶湖の遊覧船に乗りました。その時、豪雨との中で観光ガイドのアナウンスが聞こえてくるのですね。「琵琶湖哀歌」というものでした。改めてインターネットで見たのですが、昭和16年の4月に今の金沢大学(当時の四高)のボート部員が、4月の朝方、穏やかな湖に練習のために漕ぎ出していくのです。しかし途中、吹雪混じりの時化に襲われ、ボート部員全員が湖に転がって死ぬのです。

その出来事のことを、いろいろ遊覧船が教えてくれるのですが、昨日調べてみたら、「琵琶湖哀歌」は2番目はこうですね。「比良の白雪 溶けるとも 風まだ寒き 志賀の沖 オールそろえて さらばぞと しぶきに消えし 若人よ」ボート部員なら泳げるでしょう。ボート部員なら、そのボートを操ることができるでしょう。察知して全速力で逃げることもできるでしょう。しかし、吹雪の中でオールそろえて湖に消えし若人よ、です。大自然の猛威に為す術もなく消えて行くのです。

弟子たちはもともと漁師であったわけですから、その彼らが死を覚悟する嵐に翻弄され、しかしイエスさまは、立ち上がって嵐を叱りつける。湖に、「黙れ、静まれ」と、こうおっしゃる。そして、シーンと凪になったのです。イエスさまは一緒に水をかき出したと書いてない。イエスさまは上手な舵取りの方法を教えてくださったと書いてない。イエスさまはいきなり立ち上がって、荒れ狂う湖を叱るのですよ。自然を叱るって、皆さんどんな寒さに遭い、台風に遭い、嵐を叱っている人を見たら(笑)、この人おかしいなと思いますでしょう?そしてどんなに叱っても、嵐は治まらないです。だから弟子たちは互いに言うのです。風や湖までいうことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうかと。

下半身が不自由な男が友だち四人に連れて来られました。(注***マルコ2:3参照)イエスさまが話をしている家に担架に乗せて連れて来られる。ところが、人があふれて中に入れない。友だち四人は、彼を天井から吊り下ろすのです。するとイエスさまはいきなりおっしゃいます。「子よ。安心しなさい」。昔のことばでは、「子よ。安かれ。汝の罪赦されたり」。あなたの罪は赦されました。そして彼の足をも癒されました。いったい何なのだろう?

病が癒されるだけでも、度胆を抜かれますが、この人の罪を赦すというのは、そばにいた宗教家は鋭く指摘しますね。彼の発言はひどく神を冒涜している。地上で罪を赦すというのは、神以外には権威を持っている人はいない。「子よ。安かれ。汝の罪は赦されたり」と言う、いったいこの方はどういう方なのだろう。イエスさまの働きに出会うたびに、群衆は惑ってしまう。戸惑ってしまう。

2)彼らが戸惑ったのは、尋常でないイエスさまの自己宣言。

自分が何者であるのかということを、イエスさまはおっしゃった。いくつかの福音書の出来事をちょっと頭の中でさぁっと思いだしてください。

弟子たちが安息日にお腹がすいて、麦の穂を摘んで食べていた(注***マタイ12:1、マルコ2:23、ルカ6:1参照)。律法学者は、これは律法に基づいて、労働に値するという。律法では安息日を尊ぶために、安息日には労働をしない。だからそういうことはしてはいけないと批判した時に、イエスさまはさまざまな方法で律法学者の言うことをひっくり返す訳です。

でも最後におっしゃったことが、一番印象的でイエスさまがおっしゃったのは、「わたしは、安息日の主です」(注***マタイ12:8、マルコ2:28、ルカ6:5参照)。これはどういうことかというと、わたしが安息日を作った。律法もわたしが作った。だからどうしようが、わたしの自由だと言わんばかりに、わたしは安息日に何をしてどこが悪い(という意味でしょう)。

イエスさまはガリラヤでの最初の働きから、ご自身が律法や預言者よりも上にあるということを宣言されます。人間でありながら、自分を神とする人物をどういう風に捉えたらいいのか。

ある病院に俺は天皇陛下の親戚だと思い込んでいる病人がいた。お医者さんも看護婦さんも「閣下、診察の時間でございます」(笑)と言ってもらうと、彼は非常に機嫌がいい。そう言ってもらわないと、とっても機嫌が悪いのです。ある日病室が満員になりまして、閣下以外のお部屋は全部満室。そこに病人が入って来る。考えた末にお医者さんたちは、お気持ちを伺いまして、閣下のお部屋にも他の病人・患者さんを入れてもらうことに決心した。
お医者さんはなるべく多くの看護婦さんを従え、しかも美人の看護婦さんを添えて、閣下の部屋に入った。
「閣下、よろしゅうございますか?」
「苦しゅうない。入れ」(笑)。部屋に入りまして、
「大変失礼かとは思いますけれども、閣下のお部屋に、もう一人お客様を泊めて頂けませんでしょうか?」
その日閣下は非常に機嫌が良くて、快く承知してくださいました。

「ありがとうございます。実は一つ問題があって、ご相談したい。あなたさまは天皇陛下の御親戚だということですが、しかしながら今度泊めて頂くお客様は、『俺は宇宙の帝王だ』(笑)と言っておられますが、どう致しましょうか?」
それを聞いた閣下は急に笑い出して、
「君、其奴は病気だ!(笑)気が変になっておるんじゃ。相手にせんでもよい」(笑)とそういう話です。

誰も人間こんな感じだ。自分は少々おかしいのに、とってもおかしな奴がやって来ると笑い飛ばす。そういう君もおかしいと、そういう話なのですが、この話を、自分を神とするイエスさまに当てはめたらどうなるか?C.S.ルイスが『キリスト教の精髄』という本の中でこう言っています。
「イエスの教えを良い教え、道徳的な教え、これで世界は平和になるという風に一生懸命読んでいる人はおかしい。聖書を読むと、自分を神とするイエスが出てくる。そして自分を神とする人物がいるとすれば、気が狂っているか、本当に神であるかの、二つに一つだ。普通は完全に気が狂っている。そういう問題を聖書はあなたに突きつける」。

イエスさまは群衆におっしゃいました(注***マタイ22:43参照)。あなたがたはわたしをダビデの子、ダビデの子と呼ぶが、わたしは詩篇でダビデの主と記されている。つまり、ダビデが「主よ」と祈っているのは、このわたしのことだ。にもかかわらず、あなたがたはわたしをダビデの子と呼ぶのはどういうことだ?と。

イエスさまはまたユダヤ教の教師に言いました。これは特に見て頂きたいのですが、ヨハネの8章。ヨハネに戻って頂きまして、8章の57節を先に読みますので、58節を皆さんで読んでください。
57節「そこでユダヤ人たちはイエスに向かって言った。『あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか』」。
58節「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです』」。

「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」ということは、若干三十数歳の人物が言う「わたしはいるのです」ということばが問題です。イエスさまは「エゴ・エイミー」とスラッとおっしゃった。エゴは「わたし」で、エイミーは「いる、存在している」という意味。実は聖書では強烈なインパクトを持ったことばで、へブル語ではヤハウェ。昔のエホバですね。

これは昔モーセが神に「あなたはどういうお方ですか?」と尋ねた時に、神さまがご自身で「自分は在りて在るものだ」(ヤハウェ)と答えられた(注***出エジプト記3:13〜14参照)。神さまはご自分から名乗られた唯一の名称がヤハウェ。それが新改訳聖書では大文字(***太い字?)で主となっているのがそうです。それ以来、旧約聖書の人々はなるべくこの名前を口にしないように、聖書の中でもそういう場面が出てくるたびに、主(へブル語でアドナイ)ということばに呼び変えて発音していた。

ところがもともと、ヤハウェのへブル語の表記というのは子音でYHWH。ちょっと皆さん、お手元の週報にYHWHと書いて見てください。そして彼らはYHWHが出てくるたびにアドナイと呼び変えて発音しているうちに、いったいそのYHWHの下にどういう母音が付くのか分からなくなってしまった。母音が何百年も経過するうちに分からなくなってしまい、そこで、母音はE.O.Aと付けてエホバになる。最近、研究が進みまして、実はこの母音は間違いであると(いうことが分かりました)。実は母音はA.A.Eで、ヤハウェになります。だからエホバということばはもう使われていなくて、ヤハウェになるわけで、私たちはそれを大文字の主にするわけです。

それで、もともとへブル語で書かれていた旧約聖書が、紀元前250年に(今から2250年前ですが)ギリシャ語に翻訳されます。それが70人訳聖書。旧約聖書のへブル語を、ギリシャ語に訳した聖書で、とってもギリシャ語とへブル語の関連を調べる時に役に立つ尊い書物ですね。

それを見ますと、出エジプト記で、モーセが「あなたはどういうお方ですか?」と聞いた時に、神さまは「ヤハウェ」と答えた、そのギリシャ語が「エゴ・エイミー」になります。
だから当時の人々はその「エゴ・エイミー」ということばの重さ、特色ある表現、めったに使わない表現というのをよく知っている。ですから、イエスさまの口から、「わたしはアブラハムが生まれる前からエゴ・エイミーだ」と言った時に、当時の人々は度胆を抜かれます。

イエスさまが十字架にかかられる前に、大祭司は全議会を集め審議します。なかなかイエス・キリストを有罪にする結論が出ないので、大祭司はイエスさまに質問しますね。「あなたは、ほむべき方の子ですか?」(注***マルコ14:61参照)と。この質問もすごいですよ。あなたは神の子ですか?という質問ですから。イエスさまの答えはもっとすごい。「わたしはそうだ」と、それは、「エゴ・エイミー」と答えられた。「あなたはほむべき方の子ですか?」と言った時に、イエスさまはある意味で「わたしは神だ」。すぐに大祭司は神に対する冒涜罪でイエスを死刑に言い渡します。ですからC.S.ルイスのことば、自分を神とする人物は完全に気が狂っているか、本当に神であるのか、二つに一つしかないじゃないかと言われると、なるほどそうだと思いますね。

そう考えますと、弟子たちは当時のユダヤ教の教師以上に戸惑ったに違いない。ユダヤ教の教師はイエスさまのある部分しか見ていない。その教えのある部分しか聞いていない。ところが弟子たちは全部を見ているのです。全部を聞いている。5つのパンと2匹の魚で五千人を養うイエスさま(注***マルコ6:41、マタイ14:19参照)を見てしまった。死んでしまった少女を生き返らせたイエスさま(注***マタイ9:25、マルコ5:42、ルカ8:55参照)を見てしまった。嵐を一喝されるイエスさま(注***マタイ8:26、マルコ4:39、ルカ8:24参照)、「わたしは安息日の主だ」(注***マタイ12:8、マルコ2:28、ルカ6:5参照)とおっしゃるイエスさま、「エゴ・エイミー」(注***ヨハネ8:58参照)と言われることばを、全部弟子たちは聞いてしまったのです。

そんなイエスさまは、自分たちと同じように疲れるのです。自分たちと同じように手洗いに行く。自分たちと同じように食べ物を食べ、それは弟子たちにしてみたら、混乱して理解しがたいですよ。
私は最近、家内に食べた後に食べ物が付いていると言われます(笑)。まぁある程度年齢が行ってしまったのか、少々問題があるのか分かりませんが(笑)、食べた後に口を拭かなければならない。昔はそんなことはなかった。コーヒーを飲んだカップに付いていたりする。

イエスさまは当時のユダヤの人でしょう。今もオーソドックスなユダヤの人はそうですけれども、みんな髭を生やしていますよね。あの髭の中で食べればパンくずが付きますよ(大笑)。パンくずを髭に付けた人が「わたしは安息日の主だ」(笑)と言われたら、ええっと言うのが出るじゃないですか?自分と一緒に手洗いに行き、自分よりも時には疲れている人がですよ、嵐を目前にして「黙れ、静まれ」とある種叱っている。ええ〜っと(笑)思うじゃないですか。

私たちはある意味で、イエス・キリストを見ていないから、このお方を神とすることができるのかもしれない。逆に、見てしまったらどれほどそのギャップに悩むか、つまりキリストを神と告白する信仰告白、私たちは割と難なく告白していますけれども、彼らはそれを告白するに至るまでにどれ程のことを見、どれ程のことを悩み、そしていったいこの方はどういう方なのだろうと、徹底的に悩んだ。それが使徒信条の細かなところに入っているのです。ですから、しばらく時間を掛けて使徒信条を学ばない限り、私たちはそう簡単に学びを終えることはできない。

*****ここまでの今日の説教のポイントのおさらい*****
1番目はいったいこの方はどういう方なのだろうという悩み事を彼らは持つことから始まった。彼らはキリストの教えを聞き、キリストのみわざを見る度に、いったいこの方は何なのだろうという疑問を持った。
2番目はイエス・キリストの強烈な自己宣言。「わたしは神だ」というようなことを、至る所でおっしゃる。それに対して、当時の宗教家は反発しますが、しかし、彼らは反発するだけで済んだかも知れませんが、弟子たちは悩んだ、弟子たちは戸惑った。それはイエスさまのことばもみわざもイエスさまの姿も全部知っているがゆえに、弟子たちはもっと悩んだに違いない。

3)しかし、戸惑う弟子たちに、イエスさまは「ついて来なさい」と招かれた。

ヨハネの福音書に戻って頂いて、簡単に見て終わりにしたいと思います。ヨハネの福音書の1章の35節からまた私(藤本牧師)の方でちょっと読んで行きますね。

35節「その翌日、またヨハネ(***バプテスマのヨハネですね)は、ふたりの弟子とともに立っていたが」、
36節「イエスが歩いて行かれるのを見て、『見よ、神の子羊。』と言った。
37節「ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った」。
38節「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。『あなたがたは何を求めているのですか。』彼らは言った。『ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊りですか』」。
39節「イエスは彼らに言われた。『来なさい。そうすれば分かります。』……」。

これはとっても象徴的なものの言い方です。どこに泊まっているか、それは来たらわかるだろう。しかし、ふたりの弟子たちの心の中にある質問というのは、「どこに泊まっているか」ではないのです。そんなことを聞いている訳ではなく、「あなたはいったいどなたですか?」ということを聞きたい訳でしょう。そしてイエスさまの答えは、「どこに泊まっているか、来なさい。そうすれば分かります」だけではない。「わたしがいったい何者なのか、来なさい。そうすれば分かります」(という意味です)。

すぐに分かるわけではないでしょう。でも長い時間を掛けて歩んでご覧なさい。でも一歩を踏み出さない限り全くもって、イエスさまとは無関係です。

続いてイエスさまは、(来なさいと招かれたのは)43節にピリポという人物ですね。
43節「その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて、『わたしに従って来なさい。』と言われた」。

この時、イエスさまはナタナエルという人物も弟子にされる。ピリポが先にナタナエルを誘うのですが、ナタナエルは気が進まないと書いてありますね。
45節「彼はナタナエルを見つけて言った。『私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです』」。

ナタナエルはピリポに答えます。「ナザレから何の良いものが出るだろう」(46節前半)。ナザレというのは、イスラエルのエルサレムから一番離れた田舎町で、そんなところから何か期待できる人物が出て来るのか?ピリポはナタナエルを説得しますね。「ピリポは言った。『来て、そして、見なさい』」(同後半)。もうひとつ簡単に言えば、「とにかく来て見てよ」。

教会には神さまの恵みが溢れている。高津の教会――これがですよ、横浜の山手にある、大聖堂でステンドグラスがあって、なんかもう物々しかったら、ちょっとは期待するかもしれませんが――高津教会の前に来て、「ああこれだけの建物か。こんなところから何が良いものが出るだろうか」。すると私たちは「ともかくそういうこと言わないで、ちょっと来て中に入って見てよ」と、ピリポはナタナエルにそう説得しているのです。

そしてイエスさまは、
47節「イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。『これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない』」。
とってもストレートで正直な誠実な性格だった。イエスさまはナタナエルの性格を見るなり動かれた。

ナタナエルはびっくりしますね。「ナタナエルはイエスに言った。『どうして私をご存じなのですか』」(48節前半)。
イエスさまはストレートに、こう言います。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」(同後半)。

ナタナエルは答えます。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)。(***そんなことが分かるなら、あなたは神の子です)。
すると、イエスさまはおっしゃる。
「イエスは答えて言われた。『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのか。(***そんなわずかなことでも信じるのか)。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになる」(50節)。どういうことか?

その程度であなたはわたしを信じると言ったならば、あなたは素直だね。でもわたしはその程度ではないよ。わたしについて来るなら、さらに大きなことを見るというのは、まぁ今はですね、ちょこちょこっと入門講座を高津教会で受けて、洗礼を受けて、使徒信条をまだよくわからないけれども告白している、洗礼を受けて1年〜2年という、まぁそういう風なのでしょう。でもわたしを信頼して、わたしについて来るなら、さらに大きなことをあなたは見るようになる。それが51節です。「そして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます』」。これは、ヤコブが大昔に見た幻です。

ヤコブは荒野を旅し、ものすごく孤独な夜を迎え、石を枕にして彼は寝るのです。(創世記28:12参照)その晩、彼は幻を見る。それは天が開けて、天から梯子(はしご)が一つ、地上に向かって立てられていた。そして、その上を天の使いが上り下りするのを見る。次の瞬間、神が自分の枕辺に立っているのを見るのです。そして、その神さまから、彼は祝福を受けるのです。最初彼が見たのは、単純に天から地上に立てられた梯子だった。イエスさまがおっしゃっているのは、わたしはその梯子だと。そしてあらゆる祝福が、わたしを通して、わたしについて来るあなたの上に注がれる。でもしばらくすれば、ヤコブが見た幻は変わるのです。それは梯子ではなくして、神ご自身が彼の枕辺に立って、彼を祝福してくださるその姿を見るのです。

そんなに弟子が戸惑っても、イエスさまは弟子を招かれる。わたしについて来なさい。そうすれば分かります。一生わたしについて来なさい。そうすれば分かります。最後の最後、あなたが地上に別れを告げるその日、さらに明確に分かります。あなたがイエス・キリストについて、神について知っていることがあるとすれば、それはまだ大海の一滴にすぎない。でもあなたの人生のさまよいの中で、信念の中で、迷いの中で、疑いの中で、わたしはさらにあなたがたにわたしの在り方を示す。だから心を開いてわたしについて来なさい。

私たちはイエスさまにもっと近づかなければいけない。神さまという名称は割と万人に通じる。ところがイエスさまという名称は万人に通じない。いつの間にか、私たちは「イエスさま、イエスさま」と言わずに、「神さま、神さま」となるのですが、もっとこの使徒信条の学びを進めていくときに、私たちはキリスト教徒ですよ。つまりイエス・キリストを信じているということはいったいどういう意味なのか。全能なる神を信じているという意味において、もしかしたら、異教の世界でも他の宗教でも全能なる神と言うでしょう。私たちは独特な形でイエス・キリストを信じている。イエス・キリストに近づいて行く、二月、三月、四月、イースターを迎えることができたらと思います。

20世紀の初め、まだ電気が普及していなかったころ、アイルランドの海岸の小さな家に住んでいた女性が大胆に電気を導入したという話があります。いち早く電気会社から電気を買うようにした。村人が見て、確かに裕福らしい。とっても裕福でとっても節約家です。電気を引いて電燈を点けて数週間後に電気会社の人が訪問します。

「いかがですか、調子は?」「はい、上々です」とご婦人は答えます。
しかし電気会社の人はいぶかしげに尋ねます。
「おかしいですね。数週間前にメーターを設置した時とほとんどメーターが動いていませんが。どういう使い方をなさっていらっしゃるのですか?」
「そうですか。私はちゃんと使っていますよ。暗くなったら電気をつけて、オイルランプに火を付け、それから電気を消します」(笑)。

電気を点けるのに30秒。あぁ大変だ、見えなくなった、それからオイルランプに火を点け、それから電気を消す(笑)。ちゃんと電気は使えていますよ。そりゃ使えていると言えば使えていますよ。でもほとんど使っていない。愚かと言えば愚かなのです。

でもイエス・キリストによって救われ、その十字架を本気で信じて洗礼を受け、いつの間にか、わずか一瞬だけ点火して消してしまう。イエスさまは「見よ。世の終わりまで、わたしはあなたとともにいる」とおっしゃった(注***マタイ28:20参照)。その「ともにいる」というイエスさまにほとんど目を向けない。ほとんど目を向けないで、お祈りの最後、「イエス・キリストの御名によって信じ(祈り)ます。アーメン」と、そのフレーズにしかイエス・キリストが登場しない(笑)。わたしこそが天から地に向けて立てられた梯子だ、とイエスさまはおっしゃった。すべての祝福はわたしを通してやって来ると。そしてわたしはインマヌエル。神はわれらとともにいます(注***マタイ1:23参照)。あなたとともにいる神はわたしのことだと。

私たちはほとんどすべての祈りを、「天のお父様」とか「天の父なる神さま」と始めるかもしれません。たまには変えてみたらどうですか?「イエスさま」と始めて見たらイエスさまがもっと近くに感じる。そして「見よ。世の終わりまであなたとともにいる」とおっしゃったイエスさまを見上げて一週間を過ごすことができたら、(さっきのお話にあった)電気の力、自分に与えられた恵みの深さを、もっと深く知ることになると思います。

☆終わりのお祈り

恵み深い天の父なる神さま、あなたの御子イエス・キリストが私と共にいてくださり、私がこの地上で歩むすべての道において、あなたがともにいてくださるにもかかわらず、いつの間にか、電気のスイッチを切ってしまいオイルランプで生活している、自分の力で一生懸命頑張っている私たちでありますが、イエス・キリストを信じる私の信仰のこの要(かなめ)があなたであることを心に留めることができるように。

そして、私たちの心のうちにも、当時の弟子たちと同じように戸惑いがあるに違いない。そのように戸惑っている私たちを、「ついて来なさい」と招いてくださるあなたの招きに答えることができるように、私たちに信仰を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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