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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   2/27礼拝説教「使徒信条(6)我は、独り子の神を信ず」ヨハネ1:1~18
2/27礼拝説教「使徒信条(6)我は、独り子の神を信ず」ヨハネ1:1~18

☆お知らせ
●パーム・サンデー(棕櫚の聖日4/17)に聖歌隊の演奏をする予定であります。今日から礼拝の後に、聖歌隊の練習を始めますので、なるべく早くお集まりになると、一気に皆さん練習が出来ますのでよろしくお願い致します。

●昨年10月に洗礼に与りまして、礼拝に来ておられるChou兄は、ビザの関係で帰国されることになり、青年会では今日、Farewell(送別)お好み焼きパーティー、もう少し豪華であってもよいか(笑)と思いますけれども、青年会の方残って頂きたいと思いますが、元気で…。(Chou兄自ら立って、挨拶を始める)。「はい」(拍手)。「大変お世話になりました。いつもありがとうございました」。(とはっきりした日本語でそのあとは英語を藤本牧師が通訳して)、「日本人でないにもかかわらず、いきなり来て洗礼を受けて、家族の一員のように接してくださいまして、ほんとにありがとうございますということでした」(大きな拍手)。

お仕事が日本の自動車会社ですので、また出張することもあるということですが、トヨタ関連で今度出張するときには名古屋だろうという風に伺いました。でも東京にお寄りの際には、ぜひお出で頂きたいと思っていますし、一生私たちの家族であることには変わりありません。

●何と言っても私たち、心を痛めておりますのは、クライスト・チャーチのあの大地震、そして被害に遭われた日本人の方々です。実はクライスト・チャーチの現地に滞在している日本人に対する宣教は、私たち高津教会とはとても深い関わりがあります。ナビゲーターの宣教師の土居夫妻がおられますが、一番最初に土居先生の奥さまがご子息を伴って高津教会に来たというのが初めだと思います。

今現在、この土居先生の働きによって洗礼を受けられて、高津教会によく来られる方は4、5名いらっしゃいます。そういう意味でとても心配で、中心的なO姉に、先週先生ご夫妻はともかく元気でしょうかと伺いましたら、お元気だそうです。そして現地の方の特に被災された日本人のために一生懸命頑張っておられるとのこと。

来週、3/6にラブローフを集めますね。年に4回、このラブローフはできましたら、今回ワールド・ビジョンではなくて、この被災地域に送りたいと思います。皆さんの中にもニュージーランドにいらっしゃって、そして特別の重荷を持っていらっしゃる方もおいでですので、是非覚えてご協力いただきたいと思います。

海外で学んで18,19の子供たちが、あのように潰されたらいったいどんなにか…と思いますね。ま、それを思う前に、私たち日本が潰れたらということも思いますけれども、本当に大変なことだと思います。特別に土居先生ご夫妻のご健康が守られますように、善い働きをされますようにお祈り頂きたいと思います。

●イギリスのK姉は、病院で研修。なかなか、ウェールズは讃美歌のメッカですね。世界で一番讃美歌のうまい町という風に言われていますけれども、きっと善い礼拝に与るとよいと思います。

●もうひとりご紹介したい方がいらっしゃいますが、釧路の牧師の福田先生のお父様とお母様が、横浜でご出席の結婚式にいらしたということで、礼拝は教会に来ておられます。ちょっと立って頂いて拍手でお迎え…「よく来てくださいました」(大きな拍手)。ほんとは釧路教会にいらしたいのでしょうが、ちょっと遠いですね。長崎にお住まいですから。お元気にしておられて、今日高津教会宛てに釧路からお手紙が届いています。是非後ろの掲示板の福田先生のお手紙を読んでください。

●それからM.K.姉、言うまでもなくMちゃんのお母さんですが、おめでたで5カ月ですので、そろそろ皆さんにお祈りして頂きたいということで、ちょっとKさん、(2階母子室から)顔を見せて頂いて、おめでたの拍手をしたいと思います(大きな拍手)。

●今日は(第66次)年会のチラシが週報に入っています。「武蔵嵐山」(「むさしあらしやま」ではなくて「むさしらんざん」と呼びます。ちょっと日にちだけは確認した方がいいかもしれません。池袋から1時間ぐらいかかります。でもそんなに遠くない。車ですと、環8から関越に上がってしまえば早いのですけれども、是非年会の聖会その他にお越しいただきますように。年会には私(藤本牧師)や、また教団の信徒代議員を代表して加藤兄がいらっしゃいます。教団の全体の動向についていろいろな審議もありますので、お祈りに覚えて頂ければ感謝であります。

●今年のイースターは4月の24日ですか?いつも4月の第一の日曜日に聖餐式をしておりましたが、今年は春の聖餐式はイースターの日曜日にという風に決めておりますので、今年は4月24日となります。

●私たちの教会にとって大変悲しいお知らせですが、昨晩遅くにお電話があり、勝間田英生兄が天に召されたとのことでした。奥さまは昨日2回ほど病院にお見舞いにいらっしゃり、「何か喉が詰まるような気がする」と…。まぁ、そんなに深くは考えてなかったらしいのですけれども…。最後の最後まで奥さまがご一緒で良かったと思います。

いらっしゃるのは筑波のキングス・ガーデンですので、この教会にご遺体を運んで葬儀をということはしません。まだ昨日の夜のことですので、日程が決まっておりません。決まりましたら、関係しておられる方にはご連絡をしたいと思います。一斉連絡は致しません。自分は行きたいのだけれど連絡が来ないというのであれば、今晩か明日の昼ごろには決まると思いますので、ご連絡を戴ければと思います。

●3月の日程、(注***「教会報告」ご覧ください。T・Y)年会がありますので、特別にお休みにならざるを得ない部分は覚えておいてほしいと思います。13日が年会の前の礼拝で、私たち牧師にとりましては一年間の任命で最後の礼拝になります。そして20日が新しく任命を受けて初めての礼拝になります。高津教会から出て、また今年も変わりなくこの教会で奉仕できることを、心から祈り信じています。是非覚えてお祈りください。

☆始めのお祈り
私たちが心から慕い、賛美する、愛するイエスさま、今朝の礼拝も、あなたの栄光を、あなたの力を、力いっぱいほめたたえ賛美しました。時に賛美する私たちの心が暗く、弱く、苦難の中にいても、あなたを見上げ、あなたを賛美する時に、その力がこの心の内に浸透していくこの恵みを感謝致します。

「恐れるな。わたしはあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」(この日の交読イザヤ43章1節~7節より1節後半)とおっしゃる主よ。私たちは水の中を行きますし、川を渡りますし、火の中も歩かなければなりません。「恐れるな」とおっしゃるあなたが、私を守っていてくださり、時に傷つき倒れても、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(同4節)とおっしゃるあなたの愛を実感する時に、十字架を見上げて、私を愛し私のためにご自身のいのちをお捨てになった(ガラテヤ2:20後半)あなたを仰ぐ時に、私の心が幸いで満たされますように。

どんな成功を収めることよりも、どんな人生を歩むことよりも、あなたに愛されるということを最も幸せと感じることができるような、一人の素直な神を恐れる信仰者となしてください。今日初めてこの教会にいらした方々をも、あなたが深く憐れみ、強めて、みもとに引き寄せてください。

私たちの愛する勝間田英生兄を天に送りました。長い間病院におられ、昨日はその凱旋の日でありました。あの不自由さから解き放たれて、愛し抜いたあなたのみもとに帰られる。どれほど自由な中で賛美を捧げておられることでありましょう。これから一連の葬儀の中、奥さまが疲れ過ぎることがありませんようにお守りください。そしてやがて再会するその日に至りますまで、天において地において一つと、主を愛し賛美することができますように、姉妹の健康をお守りください。

今日のこの日、礼拝の恵みを感謝致します。みことばに耳を傾けますが、主よ、どうか私たちの心を砕いて、聴く力を増してください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆説教
使徒信条の6回目でありまして、使徒信条というのは、礼拝の中で告白致します、この使徒信条の6回目。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」、ここで、4回使いました。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」、イエス・キリストはいったい何者なのだろうかという、聖書に記されているさまざまな疑問、そこからは前回始めましたので、今日はその一番頭に来ます、「我はその独り子」、その独り子の神を信ずということで、少し話して行きたいと思います。

イエス・キリストに関する質問は皆さんも沢山持っておられますが、しばらく考えて、私の話は何回も回を重ねないと、キリストの告白は完了致しませんので、しばらく待って頂きたいと思います。

聖書の個所はヨハネの1章の1節から見て頂きたいと思います。
1節「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。
2節「この方は、初めに神とともにおられた」。

「初めに」とは、創造以前の初めで永遠のことを指します。「ことば」はギリシャ語ではロゴスで、キリストを指します。「神とともにあった」という表現は漠然としていますが、二者の間に距離はなかった、かわたわらにあったという意味です。それは「プロス」という前置詞が使われていますが、一般的な意味で、顔と顔を合わせるように向き合っていたという意味ですから、それほど近いところにおられた、永遠の昔から、こう始まります。

では、神とともにおられたキリストは、神ではないのか?「ことばは神とともにあった」(1節)とあるのですから、永遠の昔から、神とともにおられるキリストは神ではないのか?―――この疑問に、ヨハネは即座に答えますね。1節の最後から2節に「ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた」と。

父なる神と、子なる神、私たちは一般的にそう思いますけれども、一般的なものの言い方が分かりやすい。でもものすごく誤解を含んでいることは事実で、普通人間子どもができる時には、父親と母親がいますから。そして父親という存在があって、どこかで子どもができますから、すると、そういう関係で父なる神が子なる神を生んだのかとか。でもこれは霊の世界で、このような肉のものの考え方は通用しないことはよくわかる。

よくわかっていることを踏まえて私たちは聖書を読んでいるのですけれども、一番多いのは神はお一人しかいないのに、神は二人いるのかという疑問も出て来ますが、これはまた追って説明することにして、ヨハネのこの聖書の個所から、「キリストは神であった」ということを、独特な表現でヨハネは表現しますけれども、それを見てまいりましょう。

1)それは、1:18にある、「ひとり子の神」です。
1:18「今だかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」。

前に話したことがあります。このひとり子の神というのは、ヨハネの3:16に出て来ます。ヨハネの3:16をちょっと見て頂きますと、

3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。
                    
ここに”ひとり子”という言葉が出て来ます。英語では、“only begotten Son”です。このことばは聞き慣れない英語で、あまり聖書の中に出て来ません。英語で説明する方が多分分かりやすいと思いますが、“only begotten Son”のbegottenの動詞はbegetです。
      
beget とは、父親になるという意味です。私たちがbegetすれば、私たちは自分自身と同質の子どもを生むことになります。つまり、人間の子どもは人間であり、狐の子どもは狐であり、文鳥の子どもは文鳥だということ。

でも、私たちが何かを作りますと、つまり、begetではなくてmakeしますと、それは、自分自身とは異質のものを作ることになります。
ですから、人間は家を造る、狐は穴を掘って住処を作る、文鳥は草を集めてきて巣を作ります。これは人間や文鳥が何かを造ってできたものは、自分自身とは全く違うものができる。

すると、神が何かを創造しますと、ご自身とは全く違うものができるのです。神は天使を、人間を、すべての被造物を造られますね。その被造物と神とは質を異にする。しかし神はキリストをbegetした時、begetされた者(***キリスト)は神である。

ヨハネは、そういうことを伝えたいのです。それが私たちに伝わるかどうかは別として、ヨハネが意図としていることはそういうことです。

ヨハネは、そのようにしてキリストの神としての本質、しかも万物が創造される以前から、永遠から永遠に至るまで神と共におられたキリストを、(福音書の語りで宣言しているのです)。  

3節「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」。
        
つまり神の創造の働きを始められたのは、イエス・キリストであります。神がイエス・キリストを創造されたのではない。イエス・キリストは初めから神とともにおられ、神と同質の存在であり、そして、キリストがこの世界全てを造られたということをヨハネは言いたいのです。ちょっと言い方を変えますとね、明らかに、キリストは父なる神による第一の被造物ではないということです。

当時ギリシャの世界には、グノーシス主義という異端が存在していました。そして彼らはキリストこそが、神による最初の被造物だと言った。キリストはこの世界を造ったのかもしれない。しかし、神は先ずキリストを造り、そしてキリストはこの世界を造った。このキリストは神より劣る方で、神と同質ではないと。

それに対して、使徒信条が謳ったことは、ヨハネの信仰告白と同じで、「キリストは神と同質の方であり、神である。永遠の昔から神と向き合っておられる。この方こそ神を説き明かすことができる」。

(ヨハネ1章の)18節を見てください。
1:18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」。

これは「預言者であり、神を見た者」はいない。「父のふところ」というのは、「父の心の内側」ですね。「内側におられたキリストが、説き明かす」というのは、「内側から外側に説明する」という意味です。
ギリシャ語ではエクセーゲサトー、エックスというのは、内側にあるものが、out of つまり内側にあったものが外側に出てくるような形でキリストは神を説明してくださった。
イエスの教えは神の教えそのものだったというのです。この方こそがまさに神の教えそのもので、後に弟子のピリポが、最後の晩餐の席上でイエスさまに言いますね。
              
14:8「ピリポはイエスに言った。『主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します』」。

「神を見れば、永遠をかいま見ることができれば、私たちを創造し、この世界を治めておられる神を見れば、私たちは満足します」とピリポは言った。その時、主イエス・キリストは何とおっしゃっていることか。あなたのことばにはがっかりしたと言わんばかりに、「こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのか、わたしを見た者は父を見たのです」(14:9参照)こうおっしゃる。

ですから、私たちは「父なる神、父なる神」と言って、何となく温かな、包み込むような、守ってくれるような、お父さんのような神を想像しまけれども、しかし実は神を見るためには、イエス・キリストを見る以外にない。それ以外、イエス・キリスト抜きに父なる神と言っている時に、私たちの神の概念はどこか歪んで行きます。キリストに聞くことは、まさに神に聞くことであり、キリストに従うことは神に従うことであり、キリストに期待することは神に期待することだ。これが第一番目のポイントです。

2)独り(only)という表現に注目しましょう。

言うまでもなく、「独り」というとき、それは他にはいない、この方のみ、という独占的な意味での「独り」です。ちょっと、ヘブル1:1〜2を読んでみましょう。(交読)

へブル1:1「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが」、

同1:2「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました」。
   
1節を見てください。神は昔父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分けて、またいろいろな方法で語られた。それをキリスト教は否定しないです。キリスト教は旧約聖書を否定しませんし、そればかりか、キリスト教は他の宗教を全否定しているわけではない。

人の心に永遠への憧れを与えられたのは神さまです。「肉なるすべてのものがあなたのもとへまいります」(注***詩篇65:2参照)というように、人に祈ることを教えられたのは神です。人にいのちの尊厳を教えてくださり、生きる意味は何か考えるように仕向けてくださるのも神です。人に死の恐怖を与えてくださるのも神です。人が互いのエゴイズムで争い、その争いに疲れて、平和を求める思いを与えてくださるのも神です。大自然の荘厳さを見て、そこに人間の力を越えた何かを感じる、それも神さまの恵みです。ですから、さまざまな宗教のある部分は、神さまが与えてくださる真理を反映していることでありましょう。
        
しかし、イエス・キリストは、それらのすべてを越えて、(へブル1章の)2節を見てください。「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られた」。御子イエス・キリストこそが、神さまがご自身を明らかにした、最終的な啓示だという風に。「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られた」(2節)。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」(3節)ということは、イエス・キリスト以外に、神がいかなる方であるかを示す他の方法は全く不要だと(へブル書の記者は言っているのです)。

このキリストの単独性、キリストの絶対性というのは、変貌山の出来事にも現れています。ちょっとこれも、今日は一緒に見て頂きたいと思いますが、先ほどからヨハネの福音書を見ていますが、マルコの福音書の9章、2節~8節までを交替に読んで行きたいと思います。

2節「それから6日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして、彼らの目の前で御姿が変わった」。

3節「その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった」。

4節「また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた」。

5節「すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。『先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を3つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ』」。

6節「実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった」。

7節「その時雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした」。

8節「彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった」。

いったい、この出来事は、何を伝えているのでしょうね?
十字架を宣言された後、イエスさまは3人の弟子をつれて高い山に登った。そしてその山の上で、イエスさまは栄光の姿に変貌されました。そこに、二人の人が現れ、イエスさまと話し合っていた。それが律法を代表するモーセであり、そして預言者を代表するエリヤであった。

ペテロは夢を見ているかのようでした。あのモーセが現われた。あのエリヤが現われた。そしてイエスさまといっしょに話をしている。そのイエスさまは、まばゆいばかりの栄光の姿をしておられる。
興奮気味にペテロは言いました。
「先生、私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ、この山に幕屋を造ります。ここで礼拝致します」。
                    
しかし、その時でした。天から神の声があった。これが7節で、
「これは、わたしの愛する子。彼の言うことを聞きなさい。」という声がペテロのもとに届くということは、イエスだけが、神の子であって、モーセではない、エリヤでもない、「彼の」イエスの言うことだけを聞きなさい。イエスの絶対性・イエスの単独性、それが、いつの間にか、ペテロには分からなくなっていた。

イエスを、預言者の一人に並べてはいけない。同列にしてはいけない。この者だけがわたしの「愛する独り子」だ。この方の声に聞き、この方のみを見なさい。これがイエスの絶対性・単独性です。

私たちはペテロと同じようなことを、しょっちゅうやります。イエスという存在を他の存在に並べて、そしていろんなところから情報を集めて、いったい誰の声が自分に一番ベストなのだろうと考えます。「イエスだけの声を聞け、これがわたしの愛する子」(これがクリスチャンの鉄則ですということでしょうか?T・Y)

モーセで、もし聖書を読んでいた時に、律法の書物と、イエスさまの福音書に矛盾を感じたら、私はあえてその矛盾を一緒にしようとあまり努力しないタイプです。私は、間違いなくイエスさまの教えを取ります。
旧約聖書には戦争の出来事もたくさん書いてあります。であるがゆえに、私たちは何とかしてこの戦争の出来事を新約(聖書)的に再解釈しようとします。そんなこと、私(藤本牧師)はしません。素直にイエスさまの「敵を愛せ」(という教えを取ります)。
昔は預言者を通して、神はさまざまな方法で語られた。だけど、この終わりの時に、イエス・キリストのみを通して、神の完全性がいかなるものかを現わされた。

さて3番目に、今日のメッセージの一番大切なものを見て頂きたいと思います。ヨハネの福音書に戻って頂いて、1章の14節。

3)ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1:14)

来週からこの「ことばは人となった」というこの節をいっしょに見て行きます。ですから、「聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ」という風に、具体的に進んで行きますが、「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」(14aに今日は注目)。

ヨハネは「初めにことばは神とともにあった」という永遠性の話から福音書を始めます。壮大な話です。その壮大な御子イエス・キリストが、いきなり人としてこの世に来られた、歴史的なイエスにいきなり話を移します。この大きなステップに、ヨハネも私たちも感動を覚えるのですが、それは、永遠なる神と共におられた、神と同質のひとり子の神は、永遠の世界に存在して、ご自身が創造された天地をみそなわしておられるだけではなく、なんと歴史の一点を選んで、ベツレヘムという場所を選んで、「人となった」。

ヨハネが生きていた時代のギリシャの哲学には、「ロゴス」という哲学がありました。これが、ヨハネの1章の1節の「ことば」ですね。哲学者にとって、ロゴスというのは、天地万物を貫き、宇宙を支配する法則のようなものです。ある種のエネルギーであって、ある種の道理であって、ある種の理念なのです。
                
そしてギリシャの哲学者たちは、その理念や道理が何であるのか、どんなものなのか、何を教えてくれるか、延々と論じる。
しかし、ヨハネは、なんとそのキリスト・ロゴスは、人となって、あなたがたの間に住まわれた。人となるだけではなく、私たちの間に住むというのは、あなたの近所に越して来たというのです。しかし無理です。あなたの近所に越して来た。天から。なぜ溝の口の4―3―18なのだ?(笑)何ゆえ?それは、皆さんのおうちにも当てはまるのです。この天地万物を創造された神が、何ゆえ、あなたのおうちのそばに越して来られるのだろう?私たちが、告白するたびに、私たちはそのことに感動すべきなのです。

キリストは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けます。(***ヨハネ1:29参照)
この方は、宿に泊まって、そこに夜遅くにニコデモという宗教家が会いに行きます。(***同3:1~15参照)
この方は、サマリヤの井戸のそばで、のどが渇いて座っておられるのです(***同4:6参照)。
              
明らかに、概念ではない。理念ではない。宇宙を貫いている力でもない。イエス・キリストは、人となって、私たちの間に住まわれ、あなたのところに来て、現代日本の片隅に住んでいる私たちの、ごくごく日常的な問題のところにイエスは来られる。

さて、1章の14節、もう一回読みますね。(***14節をa bcと区切る。T・Y)
「aことばは人となって、私たちの間に住まわれた。b私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。(cこの方は恵みとまことに満ちておられた)」。

(父のみもとから来られたひとり子としての栄光は、)どれほどの栄光だと思いますか?
罪の世を消し去るほどの光だったのか?
この世界の末端にいる者、罪深い者、弱い者、宗教に無関心な者、愚かな私たちが近づくこともできないほど、聖い栄光だったのか?
                      
いえいえ、キリストが見せてくださった栄光とは、14節の最後に「恵みとまことに満ちておられた」。それは、神の愛だった。神であり、神と共にあり、永遠であり、創造主であり、光であり、いのちであるキリストが人となって、あなたのもとに住まわれた。
 
でも、この方は、人となって、私たちの間に住まわれた時に、漁師アンデレとヨハネの疑問を退けず(***1:37参照)、疑問でいっぱいの宗教家のニコデモの質問に耳を傾け、5人の男性をわたってきたサマリヤの女に、そして私のところに来てくださった、天から下りて来てくださった。ということの始まりが、(14c)「この方は恵みとまことに満ちておられた」ということです。

「私がガンと診断されたとき」という話を読みました。私の一番親しい矢木良雄先生が、先週大腸がんの手術をされておりますので、私はこの話を読んです〜ごく反省しました。興味深いから聞いてください。よくわかりますね。

私ががんと診断されたとき、友だちの一人目は、病室に来て言った。
「いやあ、君ほど活動的で元気な人はいないと思っていたのに、君がガンになるとは、驚きだなあ。」
彼が帰った後、私は何とも言えない孤独感を感じた。自分だけが病気になったという疎外感と挫折感を感じた。

矢木先生という人は自転車とスキーが趣味で、自転車は一週間に60キロぐらい乗るのです。私たちの仲間ではこれほど健康な人はいないのですね。だから矢木先生ががんになったと聞いた時、私はまさに同じことを言いました(笑)。「先生みたいな健康な人ががんになるのでしたら、もう僕なんか運動しなくていいね」と。「もう一生無理かもしれない。わからないものだねぇ」と。そのことばを聞いて矢木先生はどういう風に思ったのだろうなぁ?もしかしたら疎外感を感じたのか、孤独感を感じたのか?

二人目の友だちは、いろいろと情報を持って来た。
「どんな治療を受けるにしろ、抗がん剤治療はやめた方が良いぞ。身体がぼろぼろになるぞ」。
彼が帰った後、私の頭は混乱していた。これから先のことを考えると不安になった。

三人目の友だちは、病室に入ってくるなり、「どうしてガンなんかになったんだい?」(笑)と尋ねた。彼がいる間もう質問攻めだった。「これも何かの教訓だ」と言い残して帰った。
私は、なぜか責められているようだった。

四人目の友人は、「君が神さまを信じているなら、神さまは必ず癒してくださる」と言った。 
彼が帰った時、私は自分の信仰がはなはだ不十分なんだと苦しかった。

五人目の友人は、「聖書には、すべてのことは相働いて益となるから大丈夫だよ」と言ってくれた。
でも、なぜか、こんな苦しみの中で、そう言われると腹が立った。

六人目の友人は一度も来なかった(笑)。結局来なかった。
私は取り残されたようで、寂しかった。

七人目の友人は、病室に入るなり、私の手を握って言った。
「大丈夫か。ぼくはいつでも君のそばにいるから、できることがあるなら、何でも言ってくれ。君の助けになりたい。」と言った。
彼が帰ってから、心が温かくなった。自分が愛されていると思った。だから彼は来てくれたんだと思った。

御子イエス・キリストは、人となって、私たちのもとに住んでくださり、何度でも来てくださる。「この方は、恵みとまことに満ちておられる」というのはまさにそういうことで、私たちが治るためにさまざまな処方箋を延々と説かれるお方ではないし、私たちの罪深さを延々と責めて、これも何かの教訓だと言い残して去って行くようなお方でもないし、このお方は旧約聖書のみことばをさまざまに引用して、私たちの信仰の足りなさを責めるお方でもないし、このお方はあなたの傍らに立ち、あなたの疑問に耳を傾け、あなたの祈りを、その姿勢をじっとご覧になり、その目を見つめ、「子よ安かれ。あなたの罪は赦された」とおっしゃった。私たちがこのお方を見たら、神がいったいいかなるお方であるのかということがようやくわかる。そしてこのお方を見ない限り、私たちの父なる神はわからない。そんな思いで、イエス・キリストのことをもっと深く学んで行きたいと思います。

☆終わりのお祈り

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1:14)

恵み深い天の父なる神さま、あなたはこの世界に来られた時に、いや私のもとに来られた時に、私を責めるためではなく、私を振り回すためではなく、「あなたを助けに来た。何でも言いなさい。わたしはあなたの助けになる。だからわたしは下りて来た」と優しく語りかけてくださるあなたを心から感謝致します。

ですから、恵みとまことに満ちておられるイエス・キリストこそ、私たちがこの世界を理解し、また神を理解し、また救いを理解する上で、絶対に目を離すことのできない、唯一絶対なる啓示であるということを、心に留めることができるように。そして、わからないことが沢山あるかもしれませんけれども、イエスさま、あなたを迎えることができるように、受け入れることができるように、私たちに小さな小さなからし種の信仰を授けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。



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