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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/6礼拝説教「使徒信条(7)我は、聖霊によって、乙女マリヤより生まれたイエスを信ず」マタイ1:18~25
☆説教

私たちは礼拝の機会に、毎回、「主の祈り」と「使徒信条」を合唱します。礼拝ごとに「主の祈り」を唱えない教会は多分ないと思います。世界中のすべての教会で、それがギリシャ正教であろうとカトリックであろうと、「主の祈り」を唱えることでありましょう。恐らく90%の教会は「使徒信条」を唱えていると思います。キリスト教にはさまざまな信仰告白がありますが、「使徒信条」はすでに1世紀の文に章に出て来ます。私たちが現存している手にすることができるキリスト教の最も基本的な信仰告白として、このthe  Apostles’    Creed という使徒信条は、ラテン語にもなりギリシャ語にもなり、そしてすべての言語で存在し礼拝で告白されていると思いますが、その中身をもう一度、私たちはよく知らないので学んでいます。

今日は第7回目。ちょっと週報の裏側の使徒信条を見て頂きますと、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」という所までで、6回を費やしました。今日は7回目、「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生まれ」この所を一緒に学びたいと思いますが、実はワン・フレーズ飛ばしています。それがその上の、「我はその独り子、我らの主、…」というところの、「我らの主」という部分は、イエス・キリストの信仰告白の一番最後に解決したいと思いますので、その次を飛ばして、「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ」がいったいどういう意味なのか、どういう意味が込められているのかをご一緒に見て頂きたいと思います。

この世界には、人が神となるという宗教はたくさんあります。たとえば、日本の仏教では、人は仏様になれる、と言いますね。私たちが供養することによって、死んだ人が成仏(じょうぶつ)するというように、成仏とは、「仏に成る」と書きます。
聖書の世界にもそういう人間の願いが出てきます。たとえばアダムとエバが、エデンの園で蛇にそそのかされ、神が禁じられた果物を食べれば、あなたは神のようになれると、蛇はこういう誘惑をもって来ますね。(注***創世記3章参照)
創世記にはバベルの塔の話がありますが、人は自らをこの世界の支配者とすべく、その力を保持するような建物を天高くそびえさせる。それがバベルの塔でありました。(注***創世記11章参照)

私たち人間がより良い人間になるように、私たちが少しでも向上するように、私たちの願いが叶うように、こういう考え方はもちろんキリスト教にもあります。
しかし、キリスト教のすべての原点、あるいは土台、その中心というのは、人間が神になることではない。人間が一歩でも向上することでも実はない。キリスト教のすべての中心は、キリストにあり、しかもそれは、人が神になったというキリストではなく、神が人となられしキリストです。それがキリスト教の原点です。

キリストは、神が人となって、この世界に生まれ、神であった御子がご自身の栄光を捨てて、身を低くしてこの世界に来られました、というのが、キリスト教の歴史的事実です。その一文が「処女(おとめ)マリヤより生れ」というここに込められています。

ピリピ2:6−7「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」。
 
今回、私たちは、「聖霊によりて処女(おとめ)マリヤより生まれ」という使徒信条の告白から、「神が人となられた」という大切な信仰を学んでみましょう。

1)「処女(おとめ)マリヤより生まれ」とは、キリストは人の子として、この世界に生まれた、という意味があります。

人の子として生まれたというのは、今母子室にいる赤ちゃん、小さな子どもと全く同じようであったということです。私たちは子どもの無邪気さというものに、本当に思わず参りますね。微笑みますね。

この前(のことですが)、糸井くんの一番上の子がとっても賢いのです。それで家内が、まもるくんに「まもるくんは、どうしてそんなに漢字、カタカナ、ひらがな、マスターしちゃうの?まだ小学校行く前に。どうやって勉強したら、そんなに立派になれるのかなぁ?」ま、家内は孫の翔太が2歳なので、どのようにして育てたら…ということがあるわけです(笑)。
すると、まもるくんがですね、「先生、勉強しようと思って勉強しちゃダメなんだよ(大笑)。あのね、電車に乗るでしょう?そしたら、渋谷に着いたらしぶやって出てくるじゃない。それでしぶやって覚えるんだよ。その時に漢字も一緒にああこれで渋谷って読むんだなって、電車が好きなら、駅の名前から行くんだよ」と、(一同へぇ〜!!と驚き大笑い)。
そうかぁ、だから何かそのお絵かきソフトとか、練習帳とか、そういうアプローチじゃないんだ…。

子どもって可愛いですよね。可愛くて無邪気で、そしてどこかいたずらっぽいところがあり、どこかわがままであり、そして自分の要求をしっかり出してくるのが、子どもじゃないですか?おしめが濡れたら泣きわめいて換えてくれと叫び…ですよね、おなかがすいたら泣きわめいてお母さんのおっぱいを求めるじゃないですか?「イエス・キリストはおとめマリヤより生まれ」というのは、そういう意味です。人の子として、この世界に生まれた。

私たちは子どもの将来を考えながら、さまざまに親として心配しながら苦悩しますね。その子どもの苦悩ってどういう苦悩なのだろうか?小学校に上がり、遠足に行った時に、うちの子どもはみんなといっしょに溶け込んでいるのだろうかという苦悩ですね。時に、子どものランドセルの中にゴミが沢山入って帰って来たら、いったいこの子に何があったのだろうと思いますよね。そして担任の先生に電話をしますよね。子どもがある日突然学校に行きたくないと言ったら、あるいは子どもが熱を出して胸で息をしながら、熱がだんだん上がって行くその様子を見たら、この子どもは大丈夫なのだろうかと親は心配しますよね。すると、その無邪気で純粋な部分といっしょに、人生の苦悩、苦労(があります)。

やがて親は子どもが卒業したら、あるいは結婚したら、親はようやくその子どもが自分の手から離れると思うのかもしれませんけれども、しかし、仕事がうまくいかないとか、あるいはさまざまな問題が起こってくるとか、ああ人間の世界ってどんなに複雑なのだろうというのは、別に子どもの人生を心配しなくても、自分の人生が複雑ですからよくわかるじゃないですか?

マタイの福音書の一章というのは、新約聖書の鬼門と呼ばれます。私たちは皆さんに聖書を読んでください、聖書を読んでくださいと説明して、もしそれが新約聖書でしたら、一番最初に出てくるのがマタイの福音書の1章なのです。そして、ほとんどの人がここでつまずくのです。(笑)それは出てくるのは延々と系図なのです。

1節に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」。(2節)「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ」、(3節)「ユダに、タマルによってパレスとサラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ」、と延々とカタカナが続く系図によって、皆さんは聖書を読むのを止めてしまう(笑)。私も聖書を読みますけれども、多分この系図は隅から隅まで読まないですね(笑)。

でもね、「神の御子イエス・キリストはおとめマリヤより生まれ」というこの一語を、一番代表しているのが、この系図ですよね。この系図は、イエス・キリストの由緒正しい家系を示しているか?ま、そういう意味もあるでしょう。つまりどこの馬の骨かわからない、大工のせがれがいきなり宣教の道に立って、そういうことではなくして、たどっていくと、ダビデの家に、そしてアブラハムに行き着くことを教えているのがこの系図ですから。

でもそんなに単純にこの系図は書かれてはいない。この系図に塗られているのは、たとえて言うならば、人の欲望と罪の悲しみです。

▼3節に「ユダに、タマルによってパレスとサラが生まれた」とあります。このタマルという人物は、創世記38章を見ますと、彼女の夫は、彼女が若くして死んでいます。結婚してしばらくして未亡人となり、夫の弟と結婚するのですけれども、その弟も死ぬのです。そのまた弟の妻となりますが、彼はタマルを妻として迎えようとしませんでした。
タマルは、遊女になりすまして、舅のユダと行きずりの形で結ばれ、その事を証拠としてその家に入って行くということは、ひとことで言えば、タマルは、幸せとは縁のない女性でした。あまり私たちが目にしたくない聖書の箇所です。古来の風習とともに、人生の悲哀がにじみ出ています。

▼5節を見て頂きますと、「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ…」とあります。ラハブはあの有名なエリコの遊女です。ヨシュア率いるイスラエルの人々がエリコの城を落とそうとして、斥候隊二人を先に城に遣わします。彼女は、斥候隊二人を匿い、契約を結びます。そして彼女は、イスラエルの人々と運命を共にするという道を選びます。まぁそのあたりの話は置いておいて、言えることはですね、ラハブは実はアブラハムの子孫ではない。イスラエル人ではない。そして彼女の職業は遊女であった。(注***ヨシュア2章参照)

そうなる以外に仕方のない生まれ育ちであったということですね。自分自身そうすることを選び取ったというのではない。親を失ったのか、売られて来たのか、しかしそれ以外に自分が生き延びる道がなかったという女性であった。しかし彼女は神さまを信じ、やがてボアズというイスラエルの歴史で忘れてはならない人物を生むのです。

▼そのボアズと結婚したのが、5節に出てくるルツです。「……ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ」。
ルツはモアブの女です。
旧約聖書には、モアブの男性も女性も絶対に、旧約聖書に行われているイスラエルの礼拝に入れてはならないという命令があった。つまり礼拝の場にモアブ人が紛れ込んでいたら即座に追い出せ。それほど嫌われていた人たちです。でもルツというのはモアブの女性で、夫に先立たれ-――つまり、ルツの夫というのは、イスラエルに大飢饉があった時に家を捨てて、モアブに一家で移り住んだ。そこでモアブの女性、ルツと結ばれる。夫が死んだあと―――姑についてルツはモアブを離れて、姑といっしょにイスラエルに帰って来るのです。

夫に先立たれ、人生の苦労を背負って、そしてボアズの畑に落ち穂を拾いに行く。食べ物がないですから、畑で収穫した後に穂が落ちている、その落ち穂を拾いに行って、やがてボアズの家に嫁いで行く。つまり、苦労に次ぐ苦労を重ねた人物じゃないですか。(注***ルツ記参照)

▼6節を見て頂きますと、「エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデにウリヤの妻によってソロモンが生まれ」とあります。
「ダビデにウリヤの妻」と見る度に、私たちは心引き裂かれる。バテシバと呼ばれずに、その名前が書いてない。バテシバと書けばよいのに、わざわざマタイはウリヤの妻としか書いていない。この呼び方には、ダビデの罪深さが描かれています。
      
ダビデという王さまは、軍隊を遠い国に送り、自分はエルサレムの王宮でのんびり暮らし、ある夕暮れ時、王宮の屋上から一人の女性に目を奪われ、自分のところに連れて来ます。しばらくして、その女性に子どもができたことがわかると、夫を戦場から引き戻し、家で妻とゆっくりするように勧めます。しかしウリヤという人物は立派な部下でした。「王さま、あなたのために、みんな命を賭けています。私だけが家で妻とのんびりするわけにはいきません」。
          
ウリヤは、外でその晩寝て、家には帰りませんでした。ダビデは、翌日、自分の軍隊の将軍宛てにウリヤに一通の手紙を託し、「これを将軍に届けろ」(と命じます)。将軍は開けてびっくりです。「このウリヤを戦いの最前線に送り込め。合図で他の者たちを一斉に最前線から退かせ、そして、このウリヤを殺せ」という手紙をウリヤは何一つ知らずに、ヨアブのところに届けるのです。(注***Uサムエル11章参照)そんなに罪深く、悲しい人間模様が実はこの系図の中にあるのです。

▼9節に「アハズ」が出てきます。「ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ」と。
アハズという人物は、エルサレムを中心とした南のユダの王国の王でありながら、偶像崇拝におぼれ、燃える炎の中を子どもをくぐらせ、国中に異教のほこらを作り、アッシリアの礼拝をまねて、エルサレムの神殿を事実上崩壊させるような人物です。(注***U列王記16章参照)

いったいどういう家系なのか、いったいどういう系図なのかと言えば、それはひとことで私の系図です。それは私たち人間の系図です。その系図は私の先祖を辿るのみではなく、私のこの人間世界にどれほど欲望があり、悲しみがあり、労苦があり、汚れがあり、神に背く歴史もあり、不慮の事故もあり、幸せもある。しかし、主イエス・キリストは、その系図の中にご自身を埋め込むように、人間の歴史の中にすべり込むように、この世界に誕生されました。

ということは、イエスさまは、夫に先だたれ、路頭に迷うタマルと共に立っておられる。遊女という職業を選択せざるを得なかった、しかし、そこからでも神さまを仰ごうとするラハブをイエス・キリストは励ましておられる。
イエスさまは、ルツを励まして、ボアズの畑に導き、ダビデを見放さず、あれほど罪を犯したダビデが悔い改めた時に、ダビデを見放さず、自分の罪深さに絶望しているダビデの手を引き、そして不信仰におぼれたアハズの血筋から生まれて来られるのがイエス・キリストです。
そして、この方は複雑な悲しみと悩みにくれる私のもとに来てくださる。

なぜ、神が人間としてお生まれになったのか?
デンマークの哲学者、ゼーレン・キルケゴールは、こういう風に説明しています。一度クリスマスでこの話をしたと思いますが。なぜ神が人としてお生まれになったのか、キルケゴールはこういうたとえで説明した。でなければ説明し切れない。

ある国の王子が、父の使いで、地方の村を尋ねることになりました。
その町の一角の貧しい地域を通った時に、馬車の窓から目に留まりました。
道を歩いていく農家の娘。その娘のきれいな輝き。その姿が、心から離れませんでした。
 
会ってみたい。どうしても会いたい。でも問題がある。
どうしたら話をして、どうしたら気持ちを伝えて、どうしたら友だちにでも、恋人にでもなることができるのだろうか?
自分が王の権威を身にまとっている限り、向こうが友だちになってくれるはずもない。
無理矢理自分の妻とすることができたとしても、その心は絶対自分の方には向かないだろう。なぜなら、力づくで権威で愛は育たないからです。

王子が馬車ごと彼女の家の前に乗り付けて、王家の贈り物の財宝でも差し出して、結婚を申し込んでも、それで愛を獲得することはできない。
彼が望んでいるのは、その女性が心から自分を愛してくれること。彼の力や、社会的立場や、財とは関係なく。想像するのに難しいことではありません。

王子は、力と権力の象徴である王家のマントを脱ぎました。そして、一人の農夫の姿で村に入りました。人々と共に住み、彼らの関心や彼らの問題を共有し、彼らの言葉を話し始める。
そして、時間をかけて、彼女に近づき、やがて友だちになり、愛を告白し、そして王子は、彼女と結ばれるのです。

神さまがそんなに力強いなら、その奇跡の力を見せてご自身が神であることを私たちに屈服させればいいじゃないかと(思うかもしれません)。しかし私たちは、聖書の神がいかなるお方であるのか、ひとことで言いなさいと言われれば、誰もが、「神は愛である」と言います。神さまはどういうお方ですか?聖書の中で一番有名なことば、「神は愛である」。そしてその愛である限り、力と権威をもって、その愛を自分の側に向けることはできない。人を愛するというのは苦しい事です。誰でも私たちは人を愛するのですけれども、その愛が返って来ないという体験を誰でもしています。もし自分に財産があるなら、愛を告白してその相手が受け入れた時に、もしかして財産目当てかなぁと思わず疑うほど、愛が人格と人格の間を行き巡ることの難しさ。その難しさを聖書は延々と語ってますでしょう?

神さまご自身、イスラエルの人々に向かって、「わたしが野原を通り過ぎた時、あなたはまだへその緒がついたまま、野原に捨てられた赤ちゃんのようだった。わたしはあなたを憐れんで、あなたの身体をきれいに拭いて、あなたを育て、やがてあなたが美しくなった時に、わたしはあなたと契りを結び、わたしの持てるものすべてをあなたに与えた」。神はそのようにしてイスラエルを愛された。でも神さまがおっしゃるには、「わたしの苦悩はその愛が全くあなたから返って来ない。あなたは自分から好き好んでエジプトの神々に置き換え、アッシリアの神々を追いかけ、どうして私の愛に応えないのだ」と。(注***エゼキエル16章参照)

聖書を見ますと、「神が愛である」というこのことばの難しさ。これがゆえに神さまは涙を流し悶々とされ、これがゆえに私たちはこの愛を裏切るということを平気でするのです。キルケゴールが言いたいことは、神が愛であるとし、そしてその愛を神という立場から人に伝えることはできない。

神はそうして、私たちのこの世界を、問題のある私たちをご自身の中に取り込んで、御子イエス・キリストはおとめマリヤより生れた。

ですから、(マタイ)1章の23節をちょっと見て頂きますと、(そこに天使がヨセフに伝えたことばが記されています。)

「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」――私たちの教会の名前はインマヌエル高津キリスト教会ですが――(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

イエス・キリストの名称で一番尊いのは「インマヌエル」です。訳すと「神は私たちとともにおられる」というのは、処女マリヤより生まれた、(という形で初めて実現した。つまり、神の国の王子が、聖霊の御力により、人間の赤ちゃんにまで遜ったお姿で、この世にお生まれになったという意味でしょうか?***T・Y)

2)しかし、主はただ罪と悲しみに染まるこの世界に降りてこられ、共に立ってくださるだけではありません。

マタイ1章18節に「……聖霊によって身重になったことがわかった」とあるように、この方は「聖霊によって」、お生まれになりました。「聖霊によって」とは、マタイの福音書では、天使がマリヤのいいなずけヨセフに現れたときに言っている言葉です。ヨセフは、マリヤの妊娠を知って、婚約を解消する決意をするところでした。そこに天使が現れて言います。

20節「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているのものは聖霊によるのです」。

「聖霊によって」とは、ルカの福音書では、みごもるマリヤへの受胎告知の場面にも出てきます。ある日、天使がマリヤに突然現れて言いました。(注***ルカ1:26~参照)
「おめでとう、恵まれた方。……あなたは聖霊によってみごもり、男の子を産みます」。マリヤは戸惑いました。あり得ないことだからです。二千年前の教育もない、ユダヤ人の一人の女性にもわかります。男性と関係を持ったこともない自分が妊娠するなどあり得ません。天使にマリヤは答えます。
「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」。

そのときです。戸惑っているマリヤに天使は言いました。
「神にとって不可能なことは何一つありません。」(***同1:37)
その言葉を聞いたとき、マリヤも思い出したはずです。旧約聖書をたどれば、アブラハムとサラとの間には神さまが子どもを授けると約束してくださったのに一向に実現しない、とうとうアブラハム百才、サラが九十才の時にイサクが生まれました。それと同じようなことだろうか。

いや、いや、そうではない、と頭を振ったはずです。サラはとんでもなく高齢であっても、それでも夫がいたではありませんか。あり得るあり得ないの可能性の問題ではありません。しかし、それが全能の神の力であるなら、天地万物を創造され、この世界のすべてのものにいのちを授ける神の力が私に及ぶなら、全くの不可能も可能になる、と前代未聞の知らせをマリヤは受け止めました。

しかし、「聖霊によって」の一言の中には、より深い意味があります。それは、人間の現状や限界を突き破って生み出される、神の世界、神の可能性を現しています。私たちの世界に降りてこられた神は、私たちの世界を共に歩かれ、その苦悩を味わいます。しかし、この方は私たちをこの世の暗闇から救い出し、神の子どもとしてくださる力を持っているのです。

ヨハネの福音書1:12にこう記されています。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には神の子どもとされる特権をお与えになった」。

イエスを信じる人々は、つまり私たちは、神の子どもとされます。もちろん、私たちには地上には自分の親がいます、家族がいます。ということは、過去に縛られて生きています。現状に悩むことがあり、個性があり、問題があります。そんな私たちが、キリストを信じることによって神の子どもとされるというのです。

ヨハネ1:13「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」。

これは、キリストにつながって、神の子どもとして新しく生まれる私たちのことです。イエスが「聖霊によって」生まれたように、イエスを信じる者は、また「聖霊によって」生まれ、神の子どもとされます。
 
私たちが、こんなにめいっぱい人間的で、それぞれの生い立ちや性格や問題や、人間的なことをめいっぱい抱えながらも、神の子どもとして神の国に迎え入れられるのは、何故なのでしょう?それは、信仰によってイエス・キリストにつながるからです。
この方は、人として生まれ、人間の世界も人間の歴史も、すべてご自身の内側に取り入れながらも、血によって生まれたのではありませんでした。肉の欲求や人の意欲によって生まれたのでもありません。
この方は、「聖霊によって」、神の力、神のご計画、神の願いの中から、この世界に来られました。この方は、人の歴史の中に、人類の問題のただ中に入って来られながら、人の力・限界・考えとは、まったく異なる神の次元から、神の世界へと私たちを引き出す使命を持って来られました。
  
ですからこの方につながっているとき、私たちも「聖霊によって」神にあって新しいいのちを得ることになります。がんじがらめのこの世界にあって、この世界とは別の次元に生を受けることになります。ですからイエスの名は、マタイ1:25で「救い」と呼ばれているのです。
もしこの方が「聖霊によって」生まれることなく、単純に私たちと同じ人となられたとしたら、そして私たちの苦しみも苦悩も背負われただけなら、所詮、私たちが自分を救うことができないように、キリストは私たちの救いとはなることができません。

(このお方は、)人が神となったのではない、この世界にうめく私たちを救うために来られた神だからこそ、私をこの罪の世から救うことができるのです。私がイエス・キリストを信じるとき、そのめいっぱいな人間問題を抱えながら、神の子どもとされ、神の世界を生きることになるのです。

御子イエス・キリストがマリヤからお生まれになったとき、神は私のことを、私の悲しみと苦悩、罪深さと弱さをわかってくださるようになりました。そしてこの方が、「聖霊によって」生まれた故に、私をその悲しみと苦悩、罪深さと弱さから引き出して、神の子どもとしてくださる救い主となられたのです。

☆終わりのお祈り

恵み深い天の父なる神さま、あなたは私たちをお救いになるために、天から下りて来られたばかりでなく、処女マリヤより生まれ、人間の世界の苦しみ、難しさ、罪深さ、そのすべてをご自身の内側に取り込まれた。イエスさま、あなたは私たちの目を見て話してくださる時に、私たちはその目の中に、私たちの苦しみを理解してくださるその憐れみを感じ取ることができることを感謝致します。

あなたが天高く座しておられる全能の神だけではなく、人となってわたしの傍らに立ち、私の手を握り、私の心を解ってくださるお方であることを心から感謝致します。

しかしあなたは、私たちを天上に引き上げるところの、この罪深き苦悩と悲しみと弱さに満ちた世界から引き出す力を、「聖霊によって生まれ」、神の子としてのその力を保ったままにこの世界に来てくださり、あなたを信じる者に同じように「聖霊によって」生まれる、この道を備えてくださいましたことを感謝致します。

どうか、あなたにすがり、聖霊の助けを戴いて解ります。めいっぱい人間としての弱さを抱えていますし、問題課題を抱えていますけれども、主よ、どうか、神の子どもとして私たちの中に新しいいのちを授け続けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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DATE: 2011.03.27 - 01:17
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先生の使徒信条でみことばが、ぐっとせまってきました。
2013.07.02 - 06:21 
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