名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


394 833 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   3/27礼拝説教 使徒信条(8)
使徒信条(8)教えるキリスト

お正月からずっと使徒信条の講解、使徒信条というのは、紀元一世紀にはすでに存在しておりました、教会の最も基本的な信仰告白で、私たちは礼拝の度に使徒信条を告白致します。私たちだけでなく、世界中の教会がこの使徒信条を告白致します。

その連続したお話を二回中断して、大震災にあった私たちに、神さまが私たちに何を語りかけてくださるのか、ということを聖書の中からお話をしました。

1)先々週は、「主の道はつむじ風とあらしの中にある」というナホム書(1:3)の中から、この大震災の中にも神の道はあるという話をしました。 

申命記の「そこから、あなたがたはあなたの神、主を慕い求め、主に会う」というみことばを通して、神さまは「そこから」、つまり大震災から、神を慕い求め、神に出会う日本になることができるように、という祈りをしました。

また同じ申命記の箇所で、試練を通して自分たちが何者であるのか、神さまに選ばれた特別な民であることを自覚して行ったイスラエルの人々のように、災害を通して、私たちは自分の事だけではない、互いを顧みることができる、愛と憐れみを持っている特別な民だ、人間とは特別な民であることに気がつくように祈りました。

2)先週は、Uコリント4章から、(6節、7節)「私たちは神の栄光を入れている、しかし、土の器にすぎないほど、もろい存在である」という聖書の箇所を取り上げました。

美しい宮城や岩手の海岸線も土の器であることがよくわかりました。美しさを讃えながらも、しかし何かありましたら、簡単に崩れていくような存在です。信仰を持ってしっかりと自分の人生を見定めて生きているはずの私たちが、呆然と立ち尽くし何をしたらよいかわからないような土の器です。

私たちは地震、津波、原発、余震、避難、停電、物資の不足と、「四方八方から苦しめられますけれども、しかし窮することはありません」と言うあのパウロのことば。なぜなら、未曾有の大災害の前に崩れ去るような土の器の中に、測り知れない(未曾有の)神の力が宿っている。だから、倒されても滅びない、というみことばを学びました。

私はここで、教会の歩みが受難週に入っていることを覚えて、使徒信条の学びに戻りたいと思います。

(注***これまでの使徒信条の学びでは神を4回、キリストを3回告白しています。藤本先生の原稿には、例のごとく、見事にまとめられたキリストの告白3回分の要約が入っておりましたが、それを入れると、地震の後の2回分と合わせて5回分もの要約を今日の説教の前に話されることになりますから、次に記すキリストの告白の3回目だけ、つまり最終だけの要約をなさいました。T・Y)

これもまた、ある程度復習が必要でしょう。ちょっと週報の裏に使徒信条がありますので、読みたいと思います。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ、」まで来たのですね。ですから地震が起こる前の聖日は「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ」(を学びました)。

神の子イエス・キリストがひとりの女性から生まれる。それがマタイの福音書の系図の中に示されています。皆さんのお宅には家系図ってあります?我が家はさかのぼって3代位しかありませんが(笑)、今日受付をしておられた窪倉兄は、溝の口の旧家で14代目。14代目ってどういう家だろうって、一度社会見学でお訪ねしてみたいと思いますね。江戸時代から代々と続いている素晴らしい旧家という話をすると、いつも兄弟は、「いえ、私の代で終わるんです」(笑)とおっしゃいますが…。

私たちはイエス・キリストの系図を見ながら、人間の系図の中には、人間の罪深さが込められている、あるいは人生の複雑さが、矛盾がびっしりと詰まっているという話をしました。イエス・キリストがあの系図から生まれて来られた時に、それは神の子がこの人間世界の複雑さの中に、ご自身を組み込んでこの世界に誕生された。

しかしイエス・キリストは「聖霊によって」おとめマリヤより生れる。「聖霊によって」生まれるというのは、紛れもなく、キリストにつながる私たちのこの先のことを語っている。私たちは聖霊によらずに、
肉の両親と、自分の複雑な人生と、やっかいな性格と、多くの問題を抱えてこの世に生きています。そうして生きている私たちが、キリストと同じように、「聖霊によって」新しく神の子どもとして生まれる奇跡、それを私たちは体験する。ですから、「聖霊によって」おとめマリヤより生まれたキリストを告白するのだという話を致しました。

さて、使徒信条を見て頂きますと、「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ」、その次にいきなり「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と、つまり使徒信条は福音書の中身をすべて飛ばしてしまいます。まぁ簡単に言えば、クリスマスから――「聖霊によりておとめマリヤより生まれ」というのはクリスマスの出来事ですけれども――「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と(いうのは)いきなり十字架(へ話が移行する訳です)。すると、イエスキリストの公の生涯のすべてを飛ばして、十字架に行ってしまうというのは、私たちにしてみますとちょっと苦しい面があります。

メノナイト派の新約聖書学者ウィラード・スワートリーという先生は、以下のことばの追加を提案している。どんなに追加を提案しても、2000年告白してきた使徒信条が変わるわけではありません。彼が追加を提案したい、その気持ちはよくわかります。その追加文はというと、

「……おとめマリアより生まれ、彼のアッバ(父)に従順に生き、愛と平和と赦しに生きてそれらを教え、病を癒し、悪霊を追放し、罪を赦し、死者を生き返らせ、諸力を打ち負かした。主は、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け……」という風に繋がるように、その文章を追加しているのですね。

もちろん、使徒信条に何かを付け加えることは致しませんけれども、でも、もしそれを解説しようと思うなら、スワートリーのしているように、いくつかをどうしても書き加えなければいけない。そこで、今日は、神の国を教えてくださったイエスさまに心を留めたいと思います。

マタイの福音書5章の1節(と2節)を見てください。こういう風に始まります。
(1節)「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。(2節)、そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた」と、有名なイエス・キリストの教えがずらーっと5章、6章、7章と続いて行きます。

「おすわりになると」――じっくりと、大切なことを教える時には、当時のユダヤ教の教師は座って教えます。

そして、奇妙な表現、「口を開き、教えられた」です。奇妙と申し上げたのは、教えるなら、当然、口を開くからです。日本人がものを言う時に、「口を開いて教えた」という表現は使いません。ですから、これは、一つの当時の強調表現だと言われています。つまり、イエスは、「ついに口を開いて教えられた」というような強調です。

ついに出てきた言葉、その一番最初のことばに、イエス・キリストの教えのすべてが凝縮されている。その一番最初に出て来たことばが、この口語訳の聖書にはうまく出て来ません。―――3節「心の貧しい者は幸いです」。でも文語訳聖書では、「幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」(で始まります)。すると、イエスさまが一番最初に口を開いて、その口から出てきた言葉は“幸いなるかな”です。

群衆は、イエスさまの教えにずーっと耳を傾けて待っていました。そして、ついに口が開かれて、一番最初に出てきたことばが、驚くかな、「幸いなるかな」でした。これまで群衆は沢山の説教に耳を傾けて来ました。そして、彼らが耳を傾けて聴いた一番最近の説教は、バプテスマのヨハネの有名な説教です。バプテスマのヨハネは、獣の皮の衣に身を包む、野生人の風貌で、独特な形相をして、彼の口から発せられたことは、衝撃的でした。マタイ3章7節をご覧ください。

7節「しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見た時、ヨハネは彼らに言った。『まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか」。
8節「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」。

“まむしの末たち”―――これがバプテスマのヨハネの説教の第一声です。そして、彼の説教は、“まむしの末たち”というような、強烈なものの言い方に集中していました。彼の説教は、罪の悔い改めです。

当時のユダヤ人は、やがて神の国が到来したならば、ダビデの王国が再建される日を待ち焦がれていました。救い主、キリスト、メシヤというのは、そのダビデの王国を再建する人物であって、もし、神の国がやって来るのなら、自分たちはアブラハムの子孫だから、自動的にそこに入ることができるという民族主義的な誇り、おごりの中を生きて来ました。
    
しかし、ヨハネは、このおごりを砕きます。あなたがたは、まむしの末だ。その罪深さ、その呪われたさまに気がつきなさいと、バプテスマのヨハネは厳しく追及します。自分たちをアブラハムの子孫だと誇れるのか?9節を見てください。

9節「『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」。

神は、アブラハムの子孫を、石ころからでも起こすことができる。―――あなたがたは、アブラハムの子孫というのなら、自分自身の実質を変えてみなさい(とヨハネは言う)。

バプテスマのヨハネは、神の審判が近いことも説教致しました。それも衝撃的なものの言い方で説教致します

10節「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます」。

斧が木の根本にすでに置かれている――つまり、神が、もしその斧を振り上げ、振り下ろしたとたんに、一撃とともに、この世に審判が下る(と言うメッセージです)。
それは実に厳しい説教で、多くの人はたましいが揺り動かされて、人々が集まって来る。多くの人々が悔い改めて、彼らは洗礼を受けます。
当時のユダヤ人が洗礼を受けるということはなかった。洗礼というのは、ユダヤ人の下にいる異邦の民が、悔い改めて神を信じる時に、その異邦の民がすべての罪を洗い流して、信仰を持つようになるという、その一番下のところに、バプテスマのヨハネは人々を持って行って、一から出直せ、いやゼロからあなたの人生を出直しなさいという意味で、洗礼を授けるわけです。

そのような説教に慣れていた群衆は、きっとこの方も、イエスというこの方も、私たちの心に潜む罪の重荷を引きずり出して、まさにこれから「お説教」が始まるのではないかと、じっと身構えていたに違いありません。

ところが、イエスさまがついに口を開くと、全く人々の予想と反した言葉が出て来た。それが“幸いなるかな”。「幸いなるかな、心の貧しき者よ」。この苦しみと罪の重荷に耐えきれず、縛られている人々に向かって、イエスさまが最初におっしゃったことば“幸いなるかな”というのは、「わたしはあなたを祝福する」という意味でしょう。

イエス・キリストは、「わたしはあなたを祝福する。心の貧しき者よ。悲しんでいる者よ。柔和な者よ。迫害されている者よ。……」。人々は驚きに包まれます。ついに口を開いて、出て来た最初の言葉は、バプテスマのヨハネのあの厳しい裁きの”まむしの末たちよ“ではなかった。イエスさまはご自身にすがる者に、神の国が開かれていると言わんばかりに、「わたしはあなたを祝福する」(と言われる)。
病める人々、哀れな人々、誰からも愛されないような罪の重荷を背負った人々は、驚き、同時に平安に招かれている自分を意識しました。マタイの福音書の11章の28節をご一緒に読みましょう。

11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。

神の道を生きようと思いながら、一生懸命努力して生きることができない。重荷を負って疲れている人たち。それは単純に宗教的な意味だけではないかもしれない。人生にさまざまな矛盾が自分にふりかかって、その重荷につぶされそうになっている人よ。わたしのところへ来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。わたしがあなたを祝福する。“幸いなるかな”、心の貧しき者。心の貧しき者というのは、寄る辺のない人です。自分には頼るものがない。頼る人がいない。自分のその貧しさ、自分の弱さを痛烈に感じている人。そして自分の失敗や、挫折や、罪深さや、その弱さや、すべての重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。――――イエス・キリストのメッセージは、イエス・キリストの教えは、バプテスマのヨハネとは全く逆でありました。

ここからが今日の話のポイントですが、
2)では、イエスの教えから、バプテスマのヨハネのような罪の悔い改めに対する厳しい教えは消えてしまったのでしょうか?

イエスさまは姦淫の現行犯で捕まえられて来た女、その女を皆が石打ち(の刑)にしたいと言った時に、イエスさまは「先ずあなたがたの中で、罪のない者から石を投げなさい」とおっしゃいました。あなたがたの中で、自分には罪がないと思う者が、まず石を投げなさいとおっしゃったときに、年寄りからひとりひとり、その場を去って行く。そして、イエスさまも最後に「行け。わたしもあなたを罪に定めない」と(ヨハネ8:3〜11)。そうして、主は私たちの罪深さに目をつぶられるのか。

いいえ、そうではない。
貧しい者たちに、“幸いなるかな”、と語りかけるこの方は、たとえば立派な宗教家の、心の内側にある罪深さを次々に暴いて、見抜かれました。マタイの福音書の23章13節をご一緒に読みたいと思います。(***声がそろわないので)あぁ、ごめんなさい。ここは第3班と第2版では訳が違うのです。皆さんの第2版には何と書いてありますか?その訳は不的確です(笑)。意味は通じるのですが、今では忌まわしい、呪わしいではなく(***第3版が正しい)、“わざわいだ”と訳します。

23:13「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません」。(新改訳聖書第3版)

13,14.15,16.23.25.27.29節に“わざわいだ”ということばがあります。5章でイエスさまは“幸いなるかな”ということばを8回言っておられる。“幸いなるかな”、しかし、23章で、イエスさまは当時の宗教家に“わざわいなるかな”と厳しく彼らを弾劾されます。“わざわいなるかな”とは、ちょうど“幸いなるかな”と反対のことばです。つまり「あなたは幸いだ、わたしはあなたを祝福する」とおっしゃったイエスさまは、同時に「あなたはわざわいだ」とおっしゃている。そして私たちの罪深さを指摘されるのもイエスさまです。

私たちは、幸いだと言われて、神の国に招かれる貧しい、悲しむ者です。しかし、どこかで、私たちは神の国に招かれていながら、自分がどんなにわざわいかということに気付きます。

自分のなすことが、わざわいをもたらす場合もある。自分の存在そのものが、神の目から見たら、弾劾されているような罪深さを自分自身に感じます。
しかしイエスさまは、“わざわいだ”とおっしゃっていながら、そんなわざわいをその身に引き受け、26章でイエスさまは十字架に向かって行かれるのです。

私たちは、やがて4月の中盤にその受難週に入ります。
何が一番わざわいなのか?それは、私たちの心の内側にある罪深さでしょう。私たちの行いでしょう。しかし何が一番わざわいなのかと言われれば、それはイエス・キリストの十字架です。それは全人類の、いえ、私のわざわいをイエスさまが引き受けてくださり、背負ってくださり、そして一番わざわいは、その十字架にご自身のいのちを投げ打たれた。つまりイエスさまは私たちの罪深さを指摘されるときに、厳しいことばで、その私たちの弱さ、その心底わざわいの部分を指さされるときに、その“わざわいだ”という言葉でさえ、十字架の愛に包まれているということを私たちは知らなければいけない。

しばらく前の本で、1970年代に書かれた本で「我が涙よ、歌となれ」(新教出版)という、原崎百子さんの本があります。これはもう有名な本ですね。原崎百子さんというのは、42歳で肺がんで天に召されます。ご主人は、三重県の教会の牧師で、牧師夫人ですね。あるとき、胸の痛みを訴えて、1週間入院されるのですが、お医者さんは「帰っていいですよ」と言われて、本人は治ってよかったと思って喜んで帰るのですけれども、帰る時にご主人を呼んでおっしゃることには、「末期がんですよ」と。1970年代のことですから、がんの告知というのは、そんなになされていない。ご主人にお医者さんは、もう半年ぐらいのことだから、「奥さんに知らせるべきではないでしょう」と言う。
  
ご主人は、その時の心境をこう書いています。
「医者は言うべきではないと言う。しかし、数カ月もすれば神の前に立たなければならないのに、何も知らないで行ってしまうのでは、かわいそうだと思うのです。彼女はのんびり屋だけれども、自分が死ぬのだと知ったら、残りの数カ月を真剣に生きて、神の前に立てるのではないでしょうか」。

言うか、言うまいか、途方に暮れた先生は、先輩の伊藤先生という牧師に尋ねます。その時、伊藤先生は、脳腫瘍と戦っておられて、厳しい顔つきで、言ったそうです。
 
「原崎君。相手をしっかりと生きさせようなどという意図で告げるのは、卑しいことだ。特に、苦しんでいない人間が、本当に苦しんでいる人間に対して、そう思うのはね。問題は、徹底的に君自身にあるのだと思うよ。原崎君、人生において、君は本当に苦しんだことがなかったからね。百子さんとどれだけ苦しみを共にすることができるか、どれだけ生死を越えることができるか、それができれば、言う言わないということは、問題ではない」。

「問題は、徹底的に君自身にあるのだ。もし君が告げるなら、どれだけ苦しみを共にできるか、どれだけ生死を共に越えることができるか、よく考えてみなさい」ということばが、脳裏に焼きついたそうです。

イエス・キリストは、どんな思いで、わざわいだと、わざわいの告知を私たちにされるのか?イエスさまは片方で、「あなたがたは幸いだ。私はあなたがたを祝福する」と神の国に招いておられ、そして神の国に招かれた私たちは、自分がどんなに汚れ、自分がどんなに罪深いか、自分がわざわいの分際かを、どこかで知るのです。そしてイエス・キリストの厳しいことばと出会う。どんな思いで、わざわいの告知をなさったのか、どんな思いで、厳しいことばをおっしゃったのか?

これだけ脅しておけば、少しはあなたはまともな生活をするようになる、とでも思っておられたのか? 
罪や死を悟ったら、せめてもう少し真剣に生きて、神の前に立てるような人間になれるとでも思っておられたのか?

いいや、そうではない。5章で“幸いなるかな”とおっしゃったイエスさまは、23章で“わざわいなるかな”とおっしゃっておられながら、イエス・キリストはやがて、そのわざわいである私たちの罪を背負い、十字架で罪の裁きを受け、その代わりに私たちをいのちの道へと導いてくださった。私たちに救いを教えてくださった。この方は、神の国に入る道を教えるだけでなく、この方は、私たちを神の国に入る者としてくださった。私たちの罪を赦し、私たちを本当に幸いな者にしてくださる。その事を、私たちは毎週告白しているということを覚えて頂きたいと思います。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、私たちはまさにバプテスマのヨハネの言うまむしの末だと、もし聖なる神さまの前に立つとしたならば、どれほどの黒い染みを、罪深いあざを、どれほどわざわいにあふれた存在であるのかを痛感しなければならないほど、私たちは今朝、聖なるあなたの御前に礼拝を守っていますけれども、それさえもしんどいような存在であります。
しかし、目を上げて正面を見たときに、そんなわざわいをすべて背負ってくださった、わざわいの中のわざわいである十字架を、目の当たりにしている恵みを心から感謝致します。
あなたが私たちに語りかけられる、私たちの本当の姿をあなたは背負ってくださいました。どうか今日もあなたによって背負われて、この難しい人生をまた明日へと踏み出して行く、自分自身を感謝することができるように、そしてそれこそが、この世にあって生きていく最大の喜びである事を、心に留めることができるように導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2011.03.30 - 12:14

114.17.195.93 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; GTB6.6; .NET CLR 2.0.50727; .NET CLR 3.0.4506.2152; .NET CLR 3.5.30729; AskTbVD/5.9.1.14019; Sleipnir/2.9.6)

Name   E-Mail   Password

 前文 4/3使徒信条(9) 奇蹟を命じるイエス...
 次文 3/20礼拝説教「途方に暮れても、倒され...
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
310Simple view *^^*7/3使徒信条(19)我は聖徒の交わりを... [734] T・Y 2011.07.05 29205
309Simple view *^^*6/19 使徒信条(18) 我は聖なる教... [10] T・Y 2011.06.22 11940
308Simple view *^^*6/12ペンテコステ 使徒信条(17)我... T・Y 2011.06.14 7455
307Simple view *^^*6/5 使徒信条(16)我は聖霊を信ず(... T・Y 2011.06.09 4935
306Simple view *^^*5/29 使徒信条(15) 我は聖霊を信... T・Y 2011.06.09 5342
305Simple view *^^*5/11小林武男兄告別式説教 T・Y 2011.05.19 5357
304Simple view *^^*4/24 イースター 使徒信条(12) ... [6] T・Y 2011.04.25 1707
303Simple view *^^*4/17パーム・サンデー使徒信条(11)... [4] T・Y 2011.04.18 6954
302Simple view *^^*4/10使徒信条(10)悪霊を追い出すイ... T・Y 2011.04.12 5816
301Simple view *^^*4/3使徒信条(9) 奇蹟を命じるイエス... T・Y 2011.04.04 2546
300現在参照中の文章です...3/27礼拝説教 使徒信条(8) T・Y 2011.03.30 16966
299Simple view *^^*3/20礼拝説教「途方に暮れても、倒され... [2] T・Y 2011.03.27 1793
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
前へ戻る 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*