使徒信条(9) 奇蹟を命じるイエス
マルコの福音書の4章の終わりから5章にかけて、イエスの奇蹟の御業が連続して語られています。ちょっと聖書を開いてみてください。 ちょうど、イエスの教えがマタイの福音書の5章から7章に集められているのと同じです。
出来事は、4章の終わりに、イエスが弟子たちと共に船に乗り、その船が湖の上で突然の嵐に巻き込まれ、沈むばかりになっているときに、イエスが嵐を静めるというところから始まります。
5章に入ると、今度は湖の反対側で、墓場に住み着く悪霊にとりつかれた恐ろしい人物から悪霊を追い出すイエスが語られます。
そして、12年間出血を伴う病に冒され、財産をことごとく治療のためにつぎ込み、最後にイエスの衣に触ることでもできるなら、きっと治ると信じて、イエスに触れる女性が癒されています。
奇蹟の物語の最後は、ユダヤ人の会堂を管理していたヤイロという人物の12才になる娘が病に倒れ、死んで、もう葬式の準備が始まっているところ、イエスが死んだ娘を甦らせる、という出来事で終わっています。
もう一度おさらいしますが、順番を考えれば、イエスさまが自然界を従える奇蹟、悪霊を追い出す奇蹟、病を癒す奇蹟、そして死さえもひっくり返してしまう奇蹟、というようにイエスさまの御業が、どれほど私たちの世界を取り巻く様々な問題に対して、圧倒的な力をもって解決されたかが、記されています。
しかし、それだけではありません。マルコは、一つの特徴をもって奇蹟の御業を描いています。それは、主が発せられる言葉です。
1)奇蹟をおこすイエスの言葉
荒れ狂う湖と嵐に対して、「黙れ。静まれ」と命じられます。
何百という悪霊が墓場に住み着く男にとりついていたのですが、主は「汚れた霊よ、この人から出て行け」と命じられます。
12年病んでいた女性には、もう少し優しくおっしゃいます。「あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。病気にかからず、健やかでいなさい。」
そして、死んでいる娘には、その力強い言葉が、当時のアラム語のまま福音書では記録されています。「タリタクミ」――少女よ、起きなさい。 自然界に対して、悪霊に対して、病気に対して、そして死に対して命じるイエスの言葉、それが奇蹟を起こしています。
旧約聖書のモーセは手に持っていた神さまから授かった杖を、目の前に広がる大海原に向かって差し上げます。するとものすごい勢いで、その海が二つに割れ、海の真ん中に乾いた道ができ、そこをイエスラエルの人々が渡って行きます。
もちろん、モーセは指導者として尊敬されます。旧約聖書の契約の箱には後に、この杖が入れられるようになります。しかし、旧約聖書のどこを見ても、このモーセが神としてあがめられるようなことはありませんでした。
イエス・キリストが荒れ狂う嵐を叱りつけ、湖が大凪になったとき、弟子たちは「この方はいったいどのようなお方なのか?」と驚き、恐れます。それは、この方の持つ、言葉一つで、自然界も、霊界も、病も死をも制する権威でした。
2)ですから、私たちはこの方の言葉を聞こうとします。
私たちクリスチャンは、聖書のみことばを慕います。大学に行けば、古代の文献として研究する人もいるでしょう。道徳や生き方に関心がある人は、まず聖書を開くに違いありません。聖書を学ぶ人は、神のことを、キリストのことを、また私たち人間のことを学ぶのです。
しかし、私たちクリスチャンが、聖書の言葉を慕うのは、そういう理由ではありません。ここにある神の言葉、ここにあるキリストの言葉は、私たちの人生の嵐に、私の人生の病に、様々な悪い 霊にとりつかれたようなこの世界に、そして私たちの死に、奇蹟を命じる力があるからです。それが故に、今も力にみなぎる神の言葉なのです。
ルカの福音書の7章に、当時のローマの兵隊長が出てきます。彼が大切にしているしもべが、病気で死にかけていたとあります。イエスさまのことを聞きつけて、そして使いをイエスさまのところに送って、来てください、いやしてください、と懇願します。 家の近くまでイエスが来られたときに、この百人隊長が、友人を使いに出して言わせます。 6節「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」 彼のイエスに対する崇敬は本物でした。 7節「ですから、私の方から伺うことさえ失礼と存じました。」 そして、この有名な告白が、彼の口から出ます。 「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」 彼は、自分の経験から言っています。 軍隊で隊長が行け、と命令すれば兵士は行きます。これをせよと命令すれば、そうするのです。それが隊長の権威です。 彼は、イエスさまが、軍隊どころではない、この世を支えている神の権威を持っておられること、いやそれだけでなく、悪霊に命じることのできる権威、病気に命じる権威、病気さえも従う権威を持っておられると信じた。
それと同じように命令してください。それだけで十分です。おことばをいただかせてください。これが、彼の信仰でした。 彼は、ローマ帝国の人間ですから、聖書を勉強したことなどありません。しかし、飾らず、背伸びをせず、ありのままでイエスさまのところに来ました。 資格はなくても良いのです。ただ、おことばをいただかせてください、とイエス・キリストの権威、それは人としてではなく、神としての権威をひたすら信頼して、告白するのです。
命令してください。私を取り巻く嵐のような困難に、私の病に、私を煩わせるこの世の様々な霊に、命令してください。嵐を沈め、悪霊を追い出し、病を癒し、死んでいる者を生かしてください。 光あれと言われて、混沌とした暗闇に世界を造り出された方よ、どうか私の小さな人生に命じて、この混沌とした不安にあふれた心を平安で満たしてください。 「健やかで、元気で、行ってこい」と、私を新しい年度に送り出してください
3)奇蹟には、私たちの信仰が試されるということです。
この百人隊長の姿を見てください。彼は、絶対的な信頼をイエスさまに寄せていました。
同じ記事をマタイの福音書の8:13で見てみますと、最後にイエスさまは彼に言います。 「それから、イエスは百人隊長に言われた。『さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』」
百人隊長にとって、なんと幸いなことでしょうか。彼は、イエスさまがお言葉を下されば、病が癒えると信じていました。ということは、そのとおりになったのです。
では、もし主が私たちに言われたらどうでしょうか。今、イエスさまが私に向かって、「行け、あなたの信じたとおりになるように」――そうおっしゃったとしたらどうでしょうか。喜ぶべきなのでしょうか? ぎくりとするでしょうか?
それは、礼拝に来ても、イエス・キリストに何も期待していないのなら、何にも起こらないということでしょう。
アフリカの草原にインパラという、動きの速い鹿がいます。 そこら中にいます。きらきらした目。体調は1mぐらいです。細いしなやかな足です。ライオンやチーターの攻撃も、インパラはかわすスピードと跳躍力です。3mの高さの茂みを飛び越え、10メートルの池を飛び越えることができます。
ところが、そのインパラを動物園に入れて、その檻のまわりに1mのコンクリートの囲いを作るだけで、インパラはおとなしく、走り回ることも飛び回ることもしません。インパラは、着地点が見えないところには、飛ばないからです。
行け、あなたの信じたとおりになるように、と奇蹟を命じるイエスさまは、私たちの信仰を試されます。
主よ、私たちの信仰などどうでもいいです。それを越えて、大いなる事を行ってください。しかし、イエスさまはおっしゃいます。「いやいや、あくまでも、あなたの信じた、そこまでだ。」 そう言われたら、一番ぎくっとするのは、みなさんではなくて私です。果たして、この教会の牧師は、インパラを自由に跳ね回る草原へと導いているのか、それとも動物園の中に囲っているのか。
教会という、あるいは牧師という1mのコンクリートの檻があって、それが邪魔して、私たちの大ジャンプを受け止めてくださるイエス・キリストが見えないようになっていたら…。
信仰は大胆であってほしい。ある意味、無謀でもあ ってほしい。主は言われたからです。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」
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LAST UPDATE: 2011.04.04 - 13:01 |
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