使徒信条(10)悪霊を追い出すイエスを信ず
マルコ5:1−20
使徒信条を通して、私たちはキリストをどのような方として告白しているのでしょう。
この方は、天地万物を創造された神を父なる方というのなら、子なる神と呼ぶべき、神の本性をそのまま持っておられる神です。 ですから、独り子の神と言われています。神と同質の存在は、この方以外にはない、と言うのです。 そして、永遠の神が、聖霊によっておとめマリヤに宿り、罪深い人間の家系を背負ってお生まれになり、私たちのこの世界に住まわれました。
1)この世界とは、どのような世界なのでしょう。
ここマルコの福音書の5章では、この世界は人間、動物、事物、出来事と、目に見えるものが様々に存在し、いろいろとぶつかり合っているだけの世界ではない、と教えられています。 ここに悪霊にとりつかれた男が出てきます。私たちが住んでいる世界は、霊の世界でもあるということです。
彼は、3節、墓場を住処としていました。どこか象徴的です。墓場は、不毛の地です。死に取り囲まれています。私たちはだれもが死にます。つまり、この世界は墓に通じているのです。お墓に好んで住む人はいないでしょう。しかし、好むと好まざるとにかかわらず、この世界は墓に通じています。
そして、その死・滅びというものを、輪廻転生のヒンズー教でしたら、自然のプロセスとして受け止めるでしょう。生ける者はすべて、川の流れのようにどこかに生まれ、やがてどこかに流され、海に戻り、またどこかに生まれます。ですから、インドにはお墓はありません。すべてが焼かれて川に流されていきます。
しかし、聖書は違います。人は死ぬために生まれて来たのではありません。人は生きるために生まれて来たのです。しかし、人が神に罪を犯し、死に定められるようになります。 その出来事を創世記の3章に見ますと、悪魔が出て来るではありませんか。悪魔が人をいのちから遠ざけ、死の世界へと引きずり込んで行くのです。
墓場に住み着くゲラサ人の中に、何百もの悪霊が住み着いていました。凶暴です。鎖に縛られ、それを引きちぎり、しかし、自分の内側に住む悪霊に縛られて生きています。 私たちも縛られていきます。不安に縛られ、思い煩いに縛られ、過去に縛られ、欲に縛られ、いや、時に恐ろしい霊に縛られる人もいるでしょう。
スコットペック(精神科医)の『平気でうそをつく人々』という本の中で、彼は、精神科の治療で、悪魔的なケースも数々見てきた。中には、悪魔払いの手伝いもしたと言っています。
その中で、ペックは、ライフルで自殺をした青年のことを記しています。 次のクリスマス、自殺を図った青年のお父さんは、もう一人の息子に、クリスマスプレゼントとして、ライフルを贈ったというのです。その少年が、彼のところにカウンセリングに連れて来られたというのです。 顔や腕に無数の傷がありました。DVではありません。自分で自分を傷つけてしまうのです。ひっかいたり、つねったり…。
スコットペックは、そういうケースの中に限りなく、精神科のケースとは違う、悪魔的なものを感じると、記しています。恐ろしく自虐的です。悪霊にとりつかれたこの男もそうです。 5節「石で自分のからだを傷つけていた」。
聖書は、この世界を描くときに、どこかで悪魔の存在を描いています。 人は悪霊にとりつかれていないかもしれません。でも、だれもがどこかでその影響を受けていて、この縛られた男のように、自虐的に、自分を傷つけて生きています。 ですから聖書は教えます。決してサタンの力を過小評価してはならない、と。
私は、アメリカのある教会の、こんな男性の話を聞いたことがあります。 スミスさんとしましょう。彼は、70才前半で、若い頃から礼拝を休んだことはありません。毎日曜日、礼拝にやって来て、じっと座って、しかし、両方の耳に指を入れて、耳の穴をふさいで、座っています。礼拝の間中、その指を取ることはない。
なぜなのでしょう?11年前に、教会堂に、新しい音響設備を導入するかどうかで、教会はもめたというのです。彼は、その設備導入の委員会にあって、強力に反対した人物のひとりでした。委員会は、いろいろもめた結果、多数決で新しい音響設備を導入しました。しかし、それが入ったその日曜日から、スミスさんは、毎日曜日、礼拝が始まると指を耳に入れるようになりました。 そうとう根性のある人です。11年間もの間、忠実に礼拝には来ますが、その無言の抵抗を貫いているのです。しかし、彼は気がついていません。自分の心を悪魔の力が支配していることに気づいていません。
聖書の中で、サタンは「吠え猛る獅子」として描かれています。
Tペテロ5:8「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吠え猛る獅子のように、食いつくすべき者を捜し求めながら、歩き回っています。」
獅子というイメージは、実は聖書の中ではキリストにも使われています。それは、力を現わします。その力は、神の子イエスの力と比べることはできません。しかし、それでも、私たちよりも強い力です。それを過小評価してはなりません。
2)悪霊に対するキリストの絶対的な権威です。
マルコ3:27「確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。その後で、その家を略奪するのです」。
イエスさまは、ここで、ご自分がなさっている悪霊を追い出すという働きを説明しておられます。家財という言葉がありますが、これが私たちです。私たちは、強い人の家に閉じ込められ、そこから出ることができない、無力な家財のような存在です。もしそんな私たちが、この悪霊の家から解放されるようなことがあるとしたら、その家の主人、強い人である悪霊よりも、さらに強い人が入ってきて、まず悪霊を縛り上げなければならない、と言うのです。
使われている表現は乱暴です。乱暴なのは、強い人を縛り上げるイエスさまのやり方です。でも、それは圧倒的な強さの故です。無力に悪霊の言いなりになっていた人が、解放されるには、イエスさまが乱暴にもそこに押し入って、悪霊を縛り上げ、そして家財を略奪するかのように、私たちを連れ出してくださる、と言うのです。
5章に出てくる、墓場に住み着く男の場合も同じではありませんか。イエスさまは、誰も近づこうとしない不気味な男と正面から対峙します。 そして、いきなりおっしゃいます。「汚れた霊よ。この人から出て行け」。 悪霊はその土地にかわれていた豚二千匹に乗り移って、走り回って、崖から湖へと落ちていきます。 あまりにも強烈です。あまりにも乱暴です。しかし、覚えておきたいことは、この乱暴で強烈な悪霊を完全に縛り上げてしまうイエス・キリストの力です。
このキリストの権威があまりにも絶対的であるがために、悪霊を追い払う方法はクリスチャンにとって一つです。 「イエス・キリストの名によって、おまえに命じる」と悪霊を追い出すのです。 私の力ではありません。私たちは簡単に縛られてしまいます。しかし、この強盗を縛り上げるイエスさまの御名によって、私たちは悪霊の力から解放されます。それ以外の方法はないのです。
3)この方を神として信じ告白する時、私たちは紛れもなく、このゲラサ人のように変わります。
彼は、15節「着物を着て、正気に返って座っています」。
イエスの御前に座っています。不毛な墓場に住み、縛られ、自分自身を傷つけて生きてきた男が、正気に返って、神の御前に座っている姿こそ、今朝の私たちです。 以前は、神さまの存在を負担に思い、様々なものに縛られ、自分を傷つけて生きてきたのが、そして、以前はイエスさまの権威の前で不安で仕方がなかったような私たちが、いまや正気で神の御前に座ることができる、それがキリストを信じ告白する私たちなのです。
だから、礼拝は粛々と行われるのです。私たちは、神の御前に静まり、平安を取り戻します。 驚くほどの奇蹟です。この男の中には、かつて9節「レギオン」すなわち、ローマの一個師団分に相当する悪霊が住み着いていました。歴史を調べると、少なくとも六百、多ければ二千という数です。
驚くべきことは、私たち人間の心の中には、そんなに莫大なスペース、無数の小部屋があると言うことです。自分で、その数はわからないでしょう。自分の心の隅に、何が巣くっているのか、極めても極めても、極めきれるものではありません。それもまた、私たちの姿ではありませんか。
しかし、感謝なことは、レギオン集団の悪霊を、この男の心から追い出したイエスさまは、その心の隅々へと、聖霊を送り込むことができるということです。 私たちが、正気になってイエスさまの御前に座るなら、この方は、私たちの心の隠れた部屋、小さな部屋、行き届かない部屋、滅多に開けたこともない部屋を開け、悪いものを追い出し、聖霊を吹き込んでくださいます。これほど感謝なことはありません。
来週、私たちはパームサンデーを迎えます。受難週が始まります。私たちはあらためて、この心を主の御前に開いて見るべきです。 主よ、私の心の小さな隅へと光を当ててください。この心の中のがらくたを吐き出してください。そして、今、あなたの御前に座っている私の心をあなたの恵みで満たして、私を送り出してください。
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