使徒信条(11)十字架のキリストを信ず
ヨハネ19:17−30
1)ポンテオ・ピラトの時に苦しみを受け
使徒信条の中で、この言葉の重要性を見逃すことはできません。それは、ここにキリストの歴史性が表現されているからです。
私たちが信仰の拠り所として告白しているのは、崇高な道徳的な教えではありません、私たちの信仰態度でも、人間社会の目標でも理想でもありません。 私たちが、いのちをかけて告白しているのは、歴史的な出来事です。 ローマの総督ピラトの時代に、彼の決断によって十字架にかけられたイエスにまつわる出来事に、私たちのすべてがかかっています。
神の国に入るために、私たちが何をした、何を考えた、何を理想とした、そんなことを告白しているのではないです。鍵となるのは私・私たちではありません。 鍵は、キリストです。このキリストの客観的、歴史的出来事の中で、神が私たちのためにしてくださった救いの御業に、すべてがかかっています。
今年の元旦礼拝の聖句のしおりをご覧ください。それは、旧約聖書のヨシュア記に出てくる信仰告白から取られました。 ヨシュア24:17「私たちの神、主は、私たちを導き上られた方、大きなしるしを行い、私たちの行くすべての道で、私たちを守られた方」。
この出エジプトの出来事が旧約聖書の中心です。すべての鍵です。 イスラエルの民が何をした、何を考えた、どのように成長した、のではありません。神が彼らに何をされたか、その歴史的な出来事に、すべてがかかっています。
それと同じ様に、ポンテオ・ピラトの時のキリストの十字架と復活の出来事が、新約聖書の福音の中心にあります。 もし自分の姿、自分の言葉、自分の行いに、救いの根拠があったら、私たちは終わりです。神の御前に、何の申し開きもできないほど、私たちは徹底して罪人です。 私たちの救いの根拠は、自分の内側にあるのではありません。私の外側に、動かすことのできない、認めざるを得ない、歴史的な出来事として存在している、という意味が込められています。
2)苦しみを受け
受難といいます。私たちがキリストを告白するとき、それはキリストの受難を告白します。 福音書で、エルサレムに向かいつつ、ご自分を待ち受けている運命が、受難であることを繰り返しおっしゃいました。 たとえば、マルコの福音書には、イエスさまの十字架の予告が3回出て来ます。そこでイエスさまが使われる動詞は、「苦しみを受け」「引き渡され」です。
「引き渡され」とは、されるがままという意味でしょう。神の御性質をそのまま持っておられ、神の国を説き明かし、神としての力をもって奇蹟をなされ、悪霊に対しても絶対的な権威をふるわれるこの方が、なんと、抵抗することなく、口を開くこともなく、されるがままに十字架に向かわれます。
弟子の一人ユダに裏切られたイエスは、ユダヤ人の法廷である全議会に「引き渡され」ます。そこからローマの総督に「引き渡され」、ローマの兵士に「引き渡され」、最後は十字架の死に「引き渡され」て行きます。 それは、キリストの受難、今週は受難週なのです。
どうして、そこまで無力に、されるがままなのでしょう。あれほど権威をふるって嵐を静め、病を癒し、悪霊を追い出し、絶対的な力を誇っておられた方が、どうして、恥とそしりへ、屈辱と死へと「引き渡され」て行くのでしょう。
キリストの十字架は、全くの無力でした。 ゴルゴダの丘で共に処刑された犯罪人の一人でさえ言います。「もしおまえが神の子なら、自分を救ってみろ。そして私たちをも救え」。 道行く群衆も言います。「もしおまえが神の子なら、十字架から降りてみろ。そうしたら信じるから」。 それほどまでに無力に見える十字架でしょう。裸で、木に釘付けになっているのですから。
しかし、必ずしも無力にされるがままではありませんでした。
ヨハネ10:18「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。……」。
――わたしはされるがままに、苦しみと死を受ける。しかし、実は、こうなるために、わたしは世に来た。だれも、わたしからいのちを奪うことができる者はいない。わたしが自分からいのちを投げ打つ。――
イエスさまは、十字架の上で、無力にされるがままの十字架の上で、いくつかの言葉を発せられました。 4つの福音書全体では、7つ記録されています。 その中で、ヨハネの福音書で十字架のイエスの最後の言葉としているのは、19:30「完了した」です(***6番目のことば)。 不思議な言葉です。引き渡され、受難の極地にあり、苦しみもがきながら、最後におっしゃった言葉が「完了した」です。 周囲の目から見れば、何もできない、釘付けになり、動くことはできない、虫の息で、苦しみもがくだけのキリストが、これが最大の仕事であるかのように、最後「完了した」とおっしゃったのです。
3)では、主はいかなる働きを十字架を通してなされたのでしょうか。
それは、神の救いの計画を完成させることでした。 「はじめに、神は天と地を創造された」。そうして、神は、天地創造のフィナーレとして、人を創造されました。馬のようなたてがみも、ダチョウのような羽毛もありません。しかし、神は人間を、ご自身のかたちに創造された。神は、ご自身の愛に応えることができるように、人格を人間にお与えになりました。
人には自由意志が与えられました。それをもって、ロボットとしてではなく、一人の人格として神の愛に応えることができます。 しかし、同時にその自由意志をもって、神に背を向け、自分の好き勝手に生きることも可能です。そして、アダムとエバはサタンにそそのかされ、自らの意志で、神に背を向ける生き方を選んだのです。 やましいことをしたアダムとエバは、エデンの園の木の間に身を隠します。神さまの視線を避けて、隠れます。神さまは、アダムとエバに語りかけました。 「あなたは、どこにいるのか?」 それ以来、神さまは、人間を見捨てず、限りなく、様々な方法で近づいて来られます。語りかけてくださいます。 「あなたは、どこにいるのか?」
ノアの時代に洪水が地の表を覆います。それでも、神さまはノアの家族を救い、新しい世界を与えます。 神さまは、そののちアブラハムを選んで、信仰の民を作ろうとされます。 やがて、その子孫イスラエルが奴隷としてエジプトで叫び声を上げたとき、神さまはモーセを立てて、イスラエルの人々を救い出し、神の民とします。 しかし、そこからまたもや、民は神に背を向け、自分勝手な道を歩みます。 やがて、北のイスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、南のユダはバビロンに滅ぼされ、それでも神は、イスラエルを、私たちをお見捨てになりません。
ホセア11:8「イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。……わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」。
やがて、神が執られた救いの方策は、御子イエスキリストをこの世界に送られることでした。ただ送られたのではありません。父なる神は、私たちの罪の裁きを、御子イエスに負わせなさいました。
イザヤ53:6「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。
53:7「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」。
父なる神は、御子イエスに私たちのすべての咎を背負わせ、そして、主はむち打たれ、辱められ、十字架を背負わされ、磔となり、しかしほふり場にひかれていく小羊のように、口を開きません。 燃える火のような私たちの罪、その罪をその身に背負い、主は十字架につけられました。
そのようにして、罪の裁きをその身に受け、おっしゃいました最初のことばは、「父よ、彼らをお赦しください」。
53:12「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」
私たちが自分では背負うことのできない罪の責任、汚れ、恥、失敗、情けなさ、そのすべてを主は背負い、十字架にかかられました。
「インビジブル・ゴッド(見えない神)」という本の中で、クリスチャン・ジャーナリストのフィリップ・ヤンシーは、こう記しています。
奥さんのジャネットが、毎週、近隣の老人ホームで、教会の友人たちで、賛美歌と聖書の学びをボランティアで開いていました。そこにベッツイーという名のアルツハイマーの女性が、介護の方に付き添われて毎回やって来ます。
毎週、ジャネットは自己紹介をするのですが、毎回初対面の反応です。その集会で、聖書を輪読すると、ベッツイーは読むことはできるのですが、壊れたレコードのように、同じ行を何回も読んで、一向に次の文章に進みません。
ある日、みんながそれぞれ、子どもの頃から歌い慣れて来た、賛美歌の歌詞を声を出して読んでみよう、となりました。 ジャネットがベッツイーのために選んだのは、「丘の上に立てる十字架」でした。 「丘の上に立てる十字架、苦しみのしるしよ そこに君は人に代わり、血を流したまいし」
ベッツイーは読めるのです。ところがしばらくして、「恥とそしり、受くるも良し、責めも死も厭わじ」という行になるといきなり、奇妙な叫び声を上げて、取り乱してしまうというのです。周囲のご老人も仰天して、口をぽかんと開けて、何があったんだろうと。 でも、明らかにベッツイーは、読んだ賛美歌の意味が解ったようです。だから叫び声をあげて、うなるのです。ジャネットは、優しく言いました。「いやなら、そこは読まなくてもいいのよ」。 ベッツイーは気を落ち着けて、もう一度、その節を読み始めました。そして、同じ所に来ると、声をつまらせ、大粒の涙がほっぺたを落ちていきました。それ以上は無理でした。
その作業が終わって、ヤンシーの奥様ジャネットは、このベッツイーの車いすを押して、部屋に連れて行こうとエレベーターに乗ったとたん、ベッツイーが静かに歌を歌いました。それは、紛れもなくさっきの賛美歌です。 ことばは記憶の中に残っていました。♪♪丘の上に立てる十字架♪♪ ほっぺたには再び涙です。しかし、涙を流しながらも、賛美歌を歌い続けました。
彼女が叫び声を上げて苦しくうなった、賛美歌のことばは4節です。 「恥と、そしり、受くるも良し、責めも死も厭わじ」。 どこかで、アルツハイマーに冒されたベッツイーの頭の中で、賛美歌の意味は繋がっていたのでしょう。 そのように、ジャネットとヤンシーは理解したと言うのです。 ベッツイーにとって、アルツハイマーに冒されて行ったことが、どれほどの恥であり、そしりであり、不本意であり、かつては元気で、自由で、生き生きしていた一人の女性が、今では記憶もなく、家族もわからず、聖書を読んでも同じ行を何度も何度も壊れたレコードのように読んでしまうのです。 それが人間の肉体の弱さ、複雑な者の弱さです。 そんな恥も、そしりも、受くるも良し――奇声を上げるのは、まさに自分の今の状態が恥と意識しているからでしょう。 でも、涙を流すのは、その恥もそしりも受くるも良し――なぜなら、ポンテオ・ピラトのとき苦しみを受けられた主イエスが私の気持ちを一番よく知っておられるから。 そしてやがて、そのイエスは天より来られて、父の家に私たちを迎えて、栄光の冠を被せてくださるから。 だから恥とそしり、受くるも良しなのです。
十字架は、私たちが顔を隠すような罪も、人に言いたくないような恥もそしりも、十字架はきれいに流してくださる。 そして、何よりも私たちが心を痛めているその出来事、あるいはその心をわたしは知っていると、あなたの人に裏切られた悲しみも、愛する者を失う無念さもわたしは知っているというのが、「完了した」ということばに込められている。 だから私たちは限りなく十字架を慕う。それは、ポンテオ・ピラトのときに苦しみを受けられたイエス・キリストが復活するということの意味につながるのだろうと思います。
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