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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/5 使徒信条(16)我は聖霊を信ず(2) ヨハネ7:37〜39
6/5 使徒信条(16)我は聖霊を信ず(2) ヨハネ7:37〜39

☆藤本満・圭子先生、6/8が結婚30周年(パール婚式)。
1986年5月に就任以来25年が経過しました。教会から小さな花束贈呈が贈られ、先代牧師であり、満先生のお父様の栄造先生にお祈りをお願いして、教会一同祝福のことばを味わいました。

☆藤本栄造先生のお祈り
主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、多いなる者も。
(注***詩篇115:12〜13)

恵み深い天の神さま、この日は覚えておりましたが、こんなにここでお二人のためにお祈りをするということは、ここへ来て初めて知りました。幸いな厳粛な思いが私の心を駆け巡っておりますが、その始め、何もない貧しい乏しい伝道者でございました。恩師蔦田二雄先生はその私たちを励まして、小さい者でも名の知れない者でも主を呼び求めるならば、主は祝福してくださるというみことばを与えてくださいました。間もなく私たちは結婚して60年になります。ここまでそのおことばを私たちに見せてくださいまして、ありがとうございます。

満先生と圭子先生を25年前に高津の地に帰してくださいました。ありがとうございます。初めいささかの戸惑いがあったかと思いますが、日本の教界、教団、高津教会の前で積極的に動くことができました。「その始めは小さくあっても、その終わりは、はなはだ大いなるべし」(注***ヨブ8:7)というおことばのごとく今では教会、教団、日本の諸教会、神学校、大学、ものすごい広い範囲で、そのご奉仕に当たられることができましたから、感謝を致します。満先生が外で働き、圭子先生がそれを支え、まさにこのご夫婦は福音のために召され、福音のために生涯を費やし、ひたすら神の宮に仕えようとする真実な姿を、私たちは拝見することができまして感謝を致します。

どうぞこれからも健康を祝してくださいますように。きっとまだまだ忙しくなるでしょうし、まだまだ大きなお仕事を神さまから戴くでしょうし、責任はいよいよ重くなるでしょうが、神さまが助けてくださいまして、何よりも健康・霊力を支えてくださいまして、お二人が与えられた任務を全うすることができますように。この高津の教会のためにもっと用いてくださいますように。教団のためにも用いてくださいますように。今日本のキリスト教会は大きな危機に来ておりますが、特に福音派諸教会が先生の尽力によって、また息吹くことができますように、助けてくださいますようにお願い致します。

25年間先生たちを支えてくださいました教会員のために感謝を致します。どうぞこれからも、人間的な思い違いはあるかもわかりませんが、主のために両者が力を合わせて、よりよき福音の教会を証しすることができるように用いてくださいますように、心からお願いを致します。神さまのおことばどおり、小さい者であっても、名の知れない者であっても、あなたを恐れる者を祝福してくださいますから感謝を致します。我ら一同にもこの祝福を分かち与えてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝をしてお祈りを致します。アーメン。(ありがとうございました。盛大な拍手)

☆説教 使徒信条(16)我は聖霊を信ず(2) ヨハネ7:37〜39

ペンテコステを一週間前にして、ヨハネの福音書の7章の37.38.39節、ここから「我は聖霊を信ず」の学びの2回目をして行きたいと思います。

1)まずは、ここに出てくる「仮庵の祭り」を理解することから始めましょう。

「過越(すぎこし)の祭り」、「仮庵(かりいお)の祭り」、「刈り入れの祭り」とはユダヤ教の三大祭りです。

「仮庵の祭り」では、人々は自分の家を出て、木の枝や葉っぱで作った仮小屋で一週間過ごします。
そうして彼らは、かつて先祖が奴隷となっていたエジプトを脱出して、苦しみながら40年も荒野をさすらった時のことを思い出します。飢えに悩み、喉の渇きに苦しみます。
そんなとき、神は彼らの叫びに応えられます。モーセが岩を杖で打つと、そこから水がほとばしり出て、彼らの渇きを癒します。

この祭りで、人々は自分たちがこの世にあって旅人であり、いつも仮庵(仮の宿)に住んでいること、しかし神さまは水を湧き出させてくださること、渇きを癒してくださることを記念しました。

祭りの間、毎朝、祭司は神殿の丘を降りてシロアムの池に行きます。
そこに湧き出る水を黄金の桶で汲み上げ、神殿に持ち来たり、神殿の祭壇にこの水を注ぎます。

イスラエルの人々にとって、この儀式は単に荒野の体験を思い起こすことではありませんでした。エゼキエル書(47章)に出てくる最後の預言の象徴でもありました。

預言者は幻を見ました。神の救いが完成する日、神殿の敷居から水が湧きあふれていました(***1節)。それは最初は預言者のくるぶしを浸すくらいの小さな流れです(***3節)、しかし、しばらくすると川になり、預言者の膝まで、腰まで、やがてその流れに圧倒されるような大きな川となります(***5節)。

そして、この川の水には一つの特徴がありました。
エゼキエル47:9「この川がはいる所では、すべてのものが生きる」。
魚も、植物も人間も、すべてのものを生かす水なのです。

「仮庵の祭り」で、人々は祝いました。昔、先祖を荒野で生かしてくださった神さまの恵みを。またやがてエゼキエルの幻が成就するとき、神殿から流れ出る水がすべてのものを生かすことを。
祭司がシロアムの池から水を汲んで来て祭壇に注ぐ時、音楽が奏でられ人々は歓喜しました。

この祭りの騒ぎのただ中で、イエスさまが大声でおっしゃっいました。

ヨハネ7:37−38「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」。

2)癒されないたましいの渇きがあることをイエスさまは見抜かれた。

イエスさまは、仮庵の祭りに来ている人々の心をご覧になりました。
遠いモーセの昔の栄光を人々は感謝し、記念しているのです。
そして、いつ来るとも知れず、果てしない遠い先のように感じている救いの完成の時を願って、神殿の祭壇に注がれる水を見ているのです。
それはシロアムの池から汲んで来られた水ですが、単なる水であることを人々は知っています。その水によっては、たましいの癒しはないことを彼らは知っているのです。そして、その渇きがあるから、この祭りを必死になってやっているのです。

興味深い話があります。
1996年、アメリカ海軍兵Joey Moraは、ちょっとした弾みで、イラン沖の海で、乗船していた空母の甲板から落ちます。たまにそういうこともあるようです。
落ちてから、なんと36時間、彼がいないということもわかりませんでした。本格的な捜索活動を始めるのに、もう24時間。彼のいのちは絶望視されました。家族の元にも、彼が行方不明になったという連絡が入ります。

しかし、甲板から落ちて、なんと奇跡的に彼はイランの漁師の舟に拾われます。72時間、海軍で教わった、ズボンを救命具として海に漂う方法を実践しながら、ひたすら助けを待ったのです。

後に、アメリカのニュース番組のインタビューに答えて、その72時間、神さまが何度も彼を絶望の淵から引き上げ、支えてくださったことを語っていました。
でも興味深いことに、彼が海に漂う間、彼の内側から徐々に上がって来て、最後には叫びとなった欲求がありました。その欲求が彼を支えていたのと言うのです。

何だと思います?海に漂い、彼の身体もたましいも叫びを上げていたこと。それは、「水が欲しい!」海に漂い、一面、海です。それでいて、全身が叫ぶんです。水が飲みたい。おいしい水が、飲める水が、生ける水が。

私はこの心の中に、そういう叫びがあるのなら、それを封じ込めてはいけないと思っています。教会に来て生ける水を飲んでおられるのか?

先日、ある方と話していました。その方は、もう何年も前に、所属していた教会を離れたそうです。その大きな原因は、牧師先生の説教にあったそうです。「言うことは、大変はばかるのですが」、とその方は切り出して、こうおっしゃいました。「その先生の説教は、言うなれば、新聞記事の解説のようなものでした」と。そこにキリストの福音、神の言葉、その生きた力を感じることはできなかったと言うのです。

もちろん、私の説教も未熟です。今日はこのように、皆さんに私たちの乏しい25年の伝道牧会を記念して戴きました。皆さんは、私たちにどれほど忍耐されたことでしょう。その乏しい人格に、乏しい信仰に、時につまずかれたに違いありません。特に私は乏しい器です。

しかし、そんな私にも使命はあります。それは、神の言葉を、キリストの恵みをゆがめることなく、薄めることなく、なんとか今を生きる私たちの心に届くように解き明かして行きたい。そうすることに成功しているとは思いません。しかし、それが牧師として召された私たちの最大の課題です。

でも、どんなに一生懸命に使命を全うしようとやっていても、私の中には飢え渇きがあります。それは、みことばを学んで、それを必死に語っているだけでは、まことに不充分なのです。
そこに聖霊が注がれて、私たちの心の中に留まり、聖霊とみことばが、聴いている者たち、語っている者たちの、心の中から生ける水の川となって流れ出ない限り、そのようにして語ることばが、聖霊によって祝されていなければ、それもまた単なる講壇から語られていることばにすぎない。

ですからもし皆さんの心の中に、今の高津教会の中で本当に生ける水が欲しいという願望がありましたら、それはとっても尊い。そしてその願望が皆さんの心の中で祈りに代わる。その祈りは、「どうか牧師を助けてください」という祈りだけでなくして、「どうか聖霊が語られるみことばを生かして私の心の内側に届けて、私の心の内側から私を変えてください」。水が欲しいという欲求を主は応えてくださる。

「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)という訳ですが、あらためて新改訳聖書の欄外を見てください。ギリシャ語では現在形の動詞が使われていますので、「いつもわたしのもとに来て、いつも飲んでいなさい」という訳の方が恐らく的確だろうと思います。「いつも主のところに来て、いつも飲む」という聖霊信仰に、日々生きるように招かれています。

日曜日に神のみことばを求めて教会に来るだけではない。いつも主のところへ来て、いつも主ご自身のそのみことばを飲む。それは聖霊の生ける水を戴くということに繋がる。
イスラエルの人々は、何百年も前の、何千年も前のモーセのあの時代の水を求めて、祭りごとをしていました。
そして同時にいつ来るかも知れない、何百年、何千年先になるかもしれない、その救いの完成の日を夢見て、エゼキエルのあの幻を思い出しながら、祭りごとをしていました。

でもイエスさまは、今の高津教会の真ん中に立ち、「だれでも渇いているなら、いつもわたしのところに来て、いつもわたしのところから飲みなさい」(と言われる)。
それは昔のことではない。そして先のことでもない。そしてそれは今のあなたを生かすことなのだと。これは来週ペンテコステを迎える私たちが肝に銘じておかねばならない。
それは二千年前のペンテコステでもないし、やがて聖霊による完成の時でもない。それは今の私たちがいかに聖霊によって生きるかという、この聖霊信仰に私たちが生きるように目指しています。

3)イエスさま・聖霊・私たちとの関係

イエスさまのところに来て飲む、というのは、イエスさまが聖霊を与えるという意味だったとヨハネは、39節で解説しています。

39節「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」。

そして、当時はまだ実現していなかった。まだ栄光を受けてはいなかった、この「栄光を受ける」とは、ヨハネの福音書では独特な表現で、十字架にかかり、復活し、天に昇ることを意味しています。そのときに、私たちは聖霊を受けるというのです。神なる御霊を、この身に受けるということです。

聖霊はイエスさまから来ます。
先週学びました、380年のニカイア・コンスタンティノポリス信条はこう告白します。
「我は、主であり、いのちを与える主である聖霊を信ず。聖霊は、父と御子から出て、父と御子と共に礼拝され、栄光を受け……」と。
聖霊は御子から来る、御子が与えるものでもあると。イエスさまのところに来る者に、イエスさまが与えてくださるということです。

聖霊というのは、先程のエゼキエルの預言にありましたように、この中に入るすべての者が生きるのです。ですからニカイア・コンスタンティノポリス信条では、いのちを与える主なのです。いのちはこの方にかかっている。そしてコンスタンティノポリス信条では、聖霊は父と御子から出て、父と御子とともに礼拝され、栄光を受けという、この三位一体説が展開されるわけですが、とても大切な表現は、「父と御子から出て」、聖霊は神の霊だけでなく、キリストの霊だと。だからイエスさまはわたしのところに来てわたしから飲みなさいと言った時に、ヨハネはそれは聖霊を意味するのだと、そしてその聖霊に触れる者は全て生かされると、イエスさまのもとに来て、イエスさまが与えてくださるこの聖霊にどっぷり浸かり、その心の隅々まで行き渡らせるものは生かされる。

さて、今申し上げました御子イエス・キリストと聖霊とそして最後私たち、この繋がりをよ〜く認識しませんと、聖霊を語ったことにならないので、ちょっと時間を掛けて説明をして終わりにしたいと思います。

聖霊を受けるとか、聖霊のバプテスマを受けるとか、いろんなものの言い方がありますが、聖霊を受けるとは、どういうことなのでしょうか?
それは、人生の主体が私ではなく、聖霊になるということではないでしょうか。

「賜物」と「才能」はどう違うかという質問がありました。同じだと思います。人がそれぞれ持っている特性も、あるいは特別な賜物も、それは神から戴くものという点では同じです。違いがあるとすれば、「賜物」はさらに祈り求めることができる。「才能」は磨くと言います。でも一番違うことはですね、「才能」といえば主体は私たちです。でも「賜物」と言った時に、主体は私たちではない。「賜物」は「ギフト」ですから、その賜物を与えてくださるお方を意識して初めて私たちは「賜物」と言うのです。
賜物を誇る人は愚か者です。なぜならその賜物は神さまが与えてくださったのですから。

聖書には、聖霊の賜物を受けるという言い方がありますが、それは明らかに聖霊をくださるお方を意識した言い方で、その方が主体となって初めてその聖霊が私の中で生きるのです。

つまり聖霊を受けるということは、自分の人生の支配権を、聖霊に明け渡すということです。それを例えば、パウロは、聖霊に導かれて歩むと言うものの言い方をします。
それが心底からなされているとき、聖霊がこの心に、この人生に溢れて、いのちの水がこの心から川となって流れ出るとイエスさまは約束されました。

そして、私たちはあらためて自問するのです。自らに問うのです。
生ける水が自分の心の内側から溢れて来ないのはなぜなのだろう? 
聖霊を受けたはずなのに、それが川となって流れ出るほどのなってないのはなぜだろう? いや、時に濁った水がこの口から、この心から出るのはなぜなのだろう?
と自問しないと意味がない。自問することが大切なのです。

そして私たちは、そんな自分の心を覗いてみると、聖霊を脇に押しやって、心の王座に座っている自分を見て、びっくりするのです。神なる御霊を脇にどけて、ふんぞり返っている自分を見て、呆れてしまうのです。ああ、自分はこんなに肉的なクリスチャンだったのかと肩を落とすのです。
そしてそれを諦めるのでなく、呆れた上で悔い改めて、もう一度自分の人生の主体はキリストであり、聖霊であり、だから聖霊は人格のあるお方なのですけれども、その聖霊なるお方に私たちのたましいを明け渡す。その時、私たちは初めて聖霊を心底受けたことになる。

私たちはキリストのところに毎日来て、いつも飲む。いつも飲んでいるわりには、自分自身が心の王座を占めているということにならないように、私たちはこのペンテコステを考えてみたいと思います。

聖霊は、キリストの恵みと愛、キリストの力と希望を、私の心と人生に及ばせることができると聖書は言いますね(注***ローマ5:1〜5参照)。キリストの愛、わがたましいに及べりじゃないですか?――二千年前のキリストの恵みが今の私に押し寄せてくる――それは、聖霊の働きなのです。その押し寄せて来た聖霊の働きを、いとも簡単に心の中で脇に除けて、自分が王座に座るというのは、まことに人間らしい。いや、人間臭いクリスチャンに私たちはなりがちなのだということを覚えて、ともにペンテコステを迎えようではありませんか。

C.S.ルイスは「ナルニヤ国物語」を子どもたちのために書きました。
ナルニヤ国は、キリストの象徴として描いているアスランというライオンが支配している神の国です。子どもたちがそこに迷い込んで、神の国と自分の問題性も体験しながら、成長して行きます。

物語の中で、こういう下りがあります。
「君は喉がからからだろう?」、ライオンのアスランはジルという女の子に尋ねます。
「うん、もう死ぬほど、からっから」
「なら、この泉から飲みなさい」
「では、お願いがあるのですが、私が飲む間に、どこかに行ってくれない?」
 ライオンはじっとジルを見て、低いうなり声をあげました。

その瞬間、ジルは身動きもせずに感じ取った。
「そんなお願いをするくらいなら、川の流れごと、大きな山ごと、そっくり動かして、自分の口に運んでくれと、お願いした方がまだましだったんじゃないか。アスランにあっちに行っていてくれなんて、言えるような自分ではない」と。

しかし、その水のしたたりはあまりに魅力的で、飲まずにはいられません。

ジルは、おそるおそるアスランに尋ねました。
「私が近づいても、私に何もしない?」
「いや、そういう約束はできない」

もう女の子はのどが渇いて、気がついたら、自分の足が泉の流れに近づいているのです。
「まさか、あなたは、女の子を食べたりしないでしょうね?」

アスランは言います。
「私は、女の子も男の子も飲み込んでしまう。大人も、王さまも皇帝も、彼らの国も領土もひと飲みにする」
            
物語にはこうあります。
ライオンは、自慢げには言わなかった。そんなことをして、申し訳ないという言い方でもなかった。まして、そこに乱暴さもなかった。
ジルは、「もういい」といって、一歩近づきます。でも勇気がなくてもう一回言います。
「いいわ。他の泉を捜すから」
ライオンは言います。
「他の泉はない。この世界には、この泉だけだ」 

クリスチャンの世界に、泉は一つしかない。それはキリストの内側から流れ出る聖霊の泉のみなのです。他の泉を探そうと、どんなに探しても、それは無駄だと。そしてその泉の前におられるのは、イエス・キリストです。
そして「私が飲む間、イエスさま、あっちを向いていて」と言うのは、おおよそ意味がない。「まさか私を食べたりしないでしょうね?」「いやいや、私は女の子も男の子も、大人も、皇帝も、その国の王ごと飲み込んでしまう」。そこには乱暴さもない。そこには申し訳なさもない。それが神の御子イエス・キリストだ。

神に心を向けるというのは、キリストに飲み込まれることで、聖霊が主体となって、もはや私が生きているのではなく、キリストが私の心の内にあって生きておられる(***ガラテヤ2:20参照)。
そうして、日々その心を主に委ねて行く。いつも委ねる。私ではない。聖霊が主体となって、聖霊の泉に生かされて行く。それがキリスト者の唯一の秘訣なのだと心に留める。そして、その飢え渇きをもって、キリストの御前に行く時に、キリストは必ず私たちの心を支配してくださる。

☆終わりのお祈り

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)

恵み深い天の父なる神さま、今朝私たちは渇いています。以前持っていたあの御霊の喜びが、失われていたら渇いているでしょうし、まだイエス・キリストのことを知らずに、この世界の日常の必要だけを飲み込んでいたならば、また1週間さまざまなことに揉まれ、自分の力ではどうすることもできずに、しかしあなたにすべてのことを委ねる術も知らずに、日常の戦いに格闘していたとしたら、きっとボロボロに違いありません。

イエスさま、どうか、今渇いてあなたの御前に頭を垂れている私たちの心に、「わたしにすべてを委ね、何よりもあなた自身が心の王座をわたしに委ね、わたしがあなたの人生をすべて面倒を見てあげようというその約束を心から信じ、安心して生きなさい」(と言い聞かせてください)。そして日々あなたのもとに来て、あなたから生ける水を飲むことができるように、私たちを導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

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DATE: 2011.06.09 - 14:06

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