名前検索
メール送る

名前検索
メール送る

名前検索
メール送る

名前検索
メール送る

名前検索
メール送る

名前検索
メール送る

名前検索
メール送る

名前検索
メール送る

名前検索
メール送る

名前検索
メール送る

名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


394 833 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   6/19 使徒信条(18) 我は聖なる教会を信ず  マタイ16:13−20
6/19 使徒信条(18) 我は聖なる教会を信ず  マタイ16:13−20

☆説教  

週報の裏に使徒信条が書いてありますが、この使徒信条というのは紀元100年にすでにローマの教会で使われていたという、キリスト教の信仰箇条の中でもっとも基本的なものです。
この信仰箇条はプロテスタント・カトリックの区別なく用いられています。
私たちの教会でも、毎週この使徒信条を唱えますが、告白するのですね。
それで、今日は最後から2行目の「我は聖なる公同の教会を信ず」(を学びます)。
来週は「公同の教会」ということばを学びたいと思いますし、その次は「聖徒の交わり」ということばを学びたいと思いますが、今日は「教会を信ず」というのはどういうことなのか?そこに「聖なる」ということばがありますが。

イエスの生涯を描いた福音書4つの中で、「教会」という言葉が出てくるのは、実はマタイの福音書16章だけです。しかも18節に出て来るのみですね。

教会と言った時に、私たちは何を連想するでしょうか?ある人は教会の建物を思い浮かべるでしょう。それが、ゴシック様式の壮大な建築であるか、あるいは、村の小さな教会であるか、子どもの頃行った幼稚園についていた小さな教会であるのか、ある人は宗教団体としての制度ある教会、そのキリスト教の最大級の2000年の歴史を誇るカトリック教会を意識する人もいるでしょう。

カトリック教会というのは、恐らく世界中の教会の中で、最も強大で最も統一され、そしてその存続が許されている、権威に溢れた教会で、ローマ法王が道を通れば万全の警備がなされて、その防弾ガラスのついた車に乗り、そしてローマ法王が手を振れば皆歓声を上げるというあのカトリックの組織というのは、もう膨大ですよね。

往々にして、そのカトリック教会の権威は、19節から来ています。18節から読みますが、「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです」―――ペテロから始まります―――「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」―――この聖句は、カトリック教会の中心、バチカンのサンピエトロ教会のドームの中に大きな文字で、巨大な和をなして記されているのです。

イエスさまはこの権威をペテロにお渡しになりました。
19節「わたしは、あなたに天の御国の鍵をあげます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」。

イエスさまがペテロに渡した、この罪を赦す権威をカトリック教会の方々はやがてペテロから次の司教へ、次の司教へと、そして法王へとどんどんと継承されて行ったと解釈致します。つまり按手によって、イエスさまがペテロに与えられた権威は、次々代々の法王に至るまで、面々と継承されている。それがゆえにカトリック教会は分裂することなく、巨大な一つの制度を築き上げて来たと考えることができます。

制度だけの問題ではないです。西欧の歴史の中で、この教会は歴史を左右し、変遷する国家の歴史を超えて、教会の霊的な現実、その権威をこの世界に及ぼして来ました。
この教会から破門されることは、救いを失うことです。昔の王さまはローマ法王から破門された時に、雪の中で扉の前で跪いて赦しを懇願したということは、普通の西欧の歴史に出て来るじゃないですか。この教会の中にいることが救われていること、その存在は偉大です。

その教会の中には、偉大な聖徒たちの名前が刻まれ、その思想的な影響力は世界に及びます。
ローマ法王が何を言うかは、イエスが何を言われたかに勝って意味があるのは、大きな現実です。

「聖なる教会」を信ずと言う時、それほどまでに目に見える存在、偉大な制度と権力を身にまといながらも、貧しい者たちに仕え、歴史の波にもまれながらも沈むことのなかったこの教会が存在するということを私たちはプロテスタントの信徒であれども、カトリック教会に対して宗派は違っても誇りに感じます。

しかし、私たちは、マタイの福音書で、イエスさまが初めて口にされた「教会」とは、天国の鍵を誰が握っているか、その鍵を誰が継承したのかという制度のことではなく、教会とは、ペテロの信仰告白に倣う信仰者の群れという風に、聖公会もプロテスタント教会も、例えばジョン・ウェスレーも、理解します。

教会とは何かと言われた時に、有名なcoetus credentum(コエトゥス・クレデンタム)―――「クレデンタム」というのは「我は信ずる」信仰ですね。「コエトゥス」というのは共同体、群れ―――信仰者の共同体のことを指すのであって、と言うのは、私たちのことを指すのであって、建物のことでもなければ制度のことでもないというのが、一般的な理解ですね。

今日はそこから教会についていくつか学びたいと思います。

1)教会とはイエスの問いかけ、召しに応答する私のことを言うのです。

教会とは私です。それは建物でも制度でもない。それは、ペテロのようにイエスに対する信仰を告白する人々の集まりです。

物語は、ピリポ・カイザリヤ地方に弟子たちとともに行かれた時に始まります。そこでイエスさまは、一つの質問を投げられました。
13節「人々は人の子をだれだと言っていますか」
「人の子」とはご自身のことです。「世間の人々はわたしのことを誰だと言っているのか?」と尋ねておられるのです。

この質問は、今の世界でも同じです。大きな書店の宗教のコーナーに行けば、キリストについての本も沢山並んでいます。その切り口や角度はさまざまですが、一番さまざまなのは、いったいイエス・キリストはだれなのか、人々の意見は昔も今もさまざまではありませんか。
14節「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者の一人だとも言っています」
バプテスマのヨハネが生き返ったのだ、エリヤだ、エレミヤだ、預言者だ、道徳家だ、思想家だ、活動家だ、偉大な人生の教師だ、愛の模範だ、と人々は言うのでしょう。          
イエスさまは、黙って聞いておられます。そして、私の目を見て尋ねられるのでしょう。
15節「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」

問いかけです。あなたは、その目でわたしを見て、その耳でわたしを聞いて、わたしとともに歩いて来たあなたは、わたしをだれだと思うか?と弟子たちに尋ねられます。イエスさまは私の応答を待っておられるお方です。

「あなたはわたしをだれだと思うか」という主イエスの問いは、私たちが主イエスとどのような関係を持とうとしているかを明らかにします。
イエス・キリストなど、自分にとって何者でもない、クリスチャンという一つの生き方かもしれない、キリスト教という一つの考え方かもしれない。
あるいは寂しい時、悲しい時、病んでいる時、不安になった時に、相手にしてくれるのが聖書であり、慰めを得るのがキリストであるというような感覚かもしれない。
それとも、主イエスを自分のまことの救い主として、神として信じ、そのみことばに聞き従って行こうとしているのか。

「あなたはわたしをだれだと思うのか」―――私たちの日常生活の中でいつもこの問題が問われる。
たとえば、仕事の中で、人間関係のごたごたの中で、親戚とのいざこざの中で、あるいは教会の中でのさまざまな躓きを通して、わたしたちはこの悩みを持ちますね。自分の健康のことを考え、将来の行く道を、いろんなところで、いろんな思いめぐらしの中で、響いて来るイエスさまの声は、―――あなたはわたしをだれだと思うのか?もしわたしがあなたの罪のために、自分のいのちを捨てるほど、あなたを愛する救い主だと本当に分かっているなら、もしあなたが、わたしはあなたの究極の裁きである死の支配さえも、あなたのために打ち破ったイエスだと知っているなら、あなたはその小さな小さな問題に対応するその仕方も変わってくるだろう。
つまりイエス・キリストはいったいどのようなお方であるのかを告白することは、私たちひとりひとりの人生の最重要課題だと主はおっしゃる。

そして、その応答を可能にするのは、人間の洞察ではない、聖霊の力です。
16節「シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは生ける神の御子キリストです』」
17節「するとイエスは、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン(注***ペテロのことですが)。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」

(イエスを、生ける神の御子キリストですと、)あなたがわたしを正しく告白できたのは、あなた自身の洞察によるのではない、聖霊の働きです、神の力です(と、イエスさまはおっしゃるのです)。

イエスという一人の人の中に、神を見る、それは多くの奇跡を目の当たりにしてきたペテロでさえ、簡単なことではなかったに違いない。それは、神が人となってこの世界に住まわれるというのは、おおよそ人間の理解を超えています。これまでも多くの賢人たちが様々に教えてくれました。

たとえば、デンマークの哲学者、神学者のゼーレン・キルケゴールは、こう説明しました。
ある国の王子が、父の使いで、地方の村を訪ねることになりました。その町の一角の貧しい地域を通ったとき、馬車の窓から目に留まりました。道を歩いていく農家の娘。その娘のきれいな輝き。その姿が、心から離れませんでした。

会ってみたい。どうしても会いたい。でも問題がありました。どうしたら話をして、どうしたら気持ちを伝えて、どうしたら友だちにでも、恋人にでもなることができるのだろうか。

王子の権威で、無理矢理自分の妻とすることができたとしても、その心は自分の方には向かないでしょう。 なぜなら、力づくでは愛は育たないからです。

王子が馬車ごと彼女の家の前に乗り付けて、王家の贈り物の財宝でも差し出して、結婚を申し込んでも、心を向けてくれることはないでしょう。彼が望んでいるのは、その女性が心から彼を愛してくれることでした。彼の力や、社会的立場や、財産とは関係なく。

想像するに難しいことではありません。王子は、力と権力の象徴である王家のマントを脱ぎました。そして、一人の農夫の姿で村に入りました。人々と共に住み、彼らの関心や彼らの問題を共有し、彼らの言葉を話しました。
そして、時間をかけて彼女に近づき、友だちになり、やがて彼女は、一人の男として彼を愛するようになりました。

神の御子は、さらに身を低くされます。乙女マリヤから生まれ、飼い葉桶に寝かせられ、ナザレで育ち、しかし最後は、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、死にて葬られます。
人がさげすむほど痛めつけられ、苦しまれたイエスに、生ける神の御子を見いだすとしたら、そこに私たちの罪のためにいのちを投げ打った御子イエス・キリストを、救い主を見るとしたら、その信仰告白は、人間の洞察によるのではありません。それは神から来る聖霊が与えてくださる信仰ですね。教会とはその信仰を持っているあなたのことを言う。私のことを言う。

2)聖霊の助けをもって、応答する私たちが集まっているのが教会

応答するのは私たちひとりではない。
主の祈りは、毎週ともに祈りますが、「天にまします我らの父よ」と全部「私たち」です。
しかし、使徒信条は「我は……信ず」と、全部「私ひとり」です。
                    
恐らくこれには意味があると思うのです。「あなたは、わたしをだれだと思うか」というイエスさまの質問は、皆で答えるものではない。私が個人の実存を掛けて答える。それは私に問われている質問で、私が答えなければいけない。
でも、教会でこれを答える時に、私たちは声を合わせて心を合わせてこの告白を一つにします――それが教会です。

時に私の告白は、その意味しているところさえわからない。時に私の告白は揺れ動きます。でも、時に私の答えが、もっと揺れ動いている方を励ます。他の人の答えを励まします。時に私の揺れ動く告白が、隣の人の朗々とした告白に励まされる。
イエスさまは祈りについて教えておっしゃいました。「ふたりでも三人でもわたしの名において集まる所には、私もそこにいます」(マタイ18:20)。
小さな告白が集められる時に、一つになる時に、強められ、またイエスさまはご自身の姿をより鮮明に現してくださいます。
    
今、来年3月に開かれる全国信徒大会(於青学短大講堂)の計画が進められています。最初は反対の声もありました。地方の小さな教会から誰が来るだろうか。しかし、私は思います。あと数ヶ月をかけて、全国信徒大会を心待ちにするのは、都会の大きな教会ではなく、間違いなく地方の小さな教会だろうと。
地方の小さな群れであればあるほど、自分と同じ信仰告白する集まりに自分を置いて見たい。そこに立って、ともに祈り、ともに賛美し、ともに聖餐に与る時に、そこに主イエスもともにおられ、初めて我は聖なる公同の教会を信ずという確信に立つのではないかと思います。
ともに祈るところに主がおられるとしたら、ともに信仰を告白するところにも、主はおられます。

イエスさまはおっしゃった。そうしてできる教会はハデスの門にも打ち勝つと。18節、一緒に読んでみましょう。
18節「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれに打ち勝てません。」

ハデスとは、死者の行く所、死の力が支配する所です。私たちの人生を脅かす様々な苦しみ悲しみ、その最後究極的なものが死です。その死の支配が「ハデスの門」において見つめられています。
そのハデスの門でさえ、教会には対抗できないのです。なぜでしょうか。それは教会に特別に力があるからでも、教会に集う人々が立派だからでもありません。
それは教会が、生ける神の子、救い主である主イエス・キリストを信じる信仰を告白する群れだからです。
私たちの罪のために十字架にかかり、私たちの罪深さの究極の報いである死を打ち破って復活された、私たちに永遠のいのちを授けてくださった、救い主イエスを信じる信仰を告白する群れは、死の支配をものともしない。ですから、教会の葬儀は結婚式よりさらに尊い。なぜなら、ハデスの門をものともしない私たちの教会の信仰が表れているから。

3)教会は、今、ここにあって、イエスを信じる群れ

教会は2千年の歴史の中で、この信仰告白を繰り返して来ました。
しかし、教会は、【今、この状況で】何をすることがイエスを主と告白することなのか、それを考えて、実行して初めて、キリストを信じていることになる、使徒信条を告白したことになる、と言ったのはドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーでした。

【今、この状況で】ということは、例えばボンへファーの場合はこうでした。
1927年、若干21歳でベルリン大学の神学博士号取得し、これは稀なことです。彼は23歳で教べんを執るようになります
その6年後に、ヒットラーが政権を掌握し、ユダヤ人迫害がはじまり、やがてドイツはまるでヒットラーが神であるかのように、ヒットラーを崇め、ヒットラーを礼拝し、ヒットラーに従います。
1934年、ドイツの教会は「告白教会」を結成します。告白というのは、要は、ヒットラーではなく、「イエスこそ、生ける神の御子である」という告白です。そして「バルメン宣言」という有名な宣言をカ―ル・バルトが起草し、それを皆で出すのです。

ボンヘッファーも告白教会の中心的な働きを担いました。  
しかし、その告白教会でさえ、生き残りをかけて、ナチスとの妥協を図る流れがだんだん強くなって来ます。これは日本の教会と同じです。そして日本の教会はどちらかというと、完全に飲まれて行きます。ドイツもそうでした。良いクリスチャンの模範は国家に従うことだと、聖書にはそう書いてあると教えました。
そういう中で、1936年、ボンヘッファーは『キリストに従う』という本を書きます。それは、キリストの山上の教えの講解でした。「幸いなるかな、心の貧しき者。天の御国はその人のものです」というあの山上の説教の解説本。でも、それは単なる聖書の講解ではありませんでした。

彼は、ドイツ国民に、【今、この状況で】平和を追い求めるとは、義に飢え渇くとは、キリストを救い主と告白することは、つまり一言で「教会である」とはいったい何を意味するのだろうか?ということを、彼は突き詰めて行きます。
いまだに、ボンへファーの『キリストに従う』は読まれ続けますが、ひとことで言うと、【今、この状況下で】教会は何をすべきか、キリスト者としてどう判断すべきか、この問いかけをやめてしまったら、信仰告白は単なる口先だけの告白で、教会は、キリストを信じる信仰者の群れという実質を失って行きます。 

【今、この状況下で】イエスを主と告白することは、何を意味するのか?
それがいつも問われるのが教会であり、私たちの日常です。
家族の問題であれ、仕事の問題であれ、人間関係の問題であれ、日常生活のありとあらゆる局面で、「イエス・キリストこそ私の主です」と告白できるなら、私の人生は変えられます。

私たちは教会で信じると言った時に、一人の問題ではなく、教会としても同じようなことがいつも問われる。教会で出す信仰告白は、ただ口先だけのものではなく、その信仰に生きるように、その告白を生きるということはどういうことか、そのことを学びながら、先へ学びを進めて行きたいと思います。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、告白が私たちの人生を決定づける、その事を知りながら、もしその告白が単なる口のことばに終わってしまうなら、それほど神の恵みを無駄にすることはありません。どうか信じていることを生きるように、どうか信じている告白を、日常の様々な細々とした、ありとあらゆる問題に当てはめることができるように、私たちを憐れんでください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2011.06.22 - 08:23

175.133.12.55 - Mozilla/5.0 (compatible; MSIE 9.0; Windows NT 6.0; Trident/5.0; BOIE9;JAJP)

embabyHycle 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.150.142.210
Nice blog )
http://bnbkjsdpu.com my blog
2013.06.21 - 00:30 
embabyHycle 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.150.142.210
Interesting post )
http://bnbkjsdpu.com my blog
2013.06.22 - 01:07 
dillWrilliops 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.150.142.210
Enjoy your blog )
http://ktalviykt.com my blog
2013.08.03 - 10:53 
dillWrilliops 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.150.142.210
Enjoy your blog )
http://ktalviykt.com my blog
2013.08.04 - 00:41 
dillWrilliops 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.150.142.210
Interesting post )
http://wmshkuctv.com my blog
2013.09.18 - 15:27 
dillWrilliops 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.150.142.210
Interesting post )
http://wmshkuctv.com my blog
2013.09.22 - 02:45 
Isozyrolo 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.150.142.210
Nice blog )
http://4x74wzqe.com my blog
2014.01.02 - 18:22 
Williamton 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.150.142.210
Nice blog )
http://jn7whs4k.com my blog
2014.04.17 - 02:48 
AndrewKnof 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.150.142.210
Nice post )
http://v1t74qe5.com my blog
2014.07.16 - 00:53 
Danielliew 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.150.142.210
Enjoy your blog )
http://wndbl0v3.com my blog
2014.10.27 - 11:46 
Name   E-Mail   Password

 前文 7/3使徒信条(19)我は聖徒の交わりを...
 次文 6/12ペンテコステ 使徒信条(17)我...
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
310Simple view *^^*7/3使徒信条(19)我は聖徒の交わりを... [734] T・Y 2011.07.05 29215
309現在参照中の文章です...6/19 使徒信条(18) 我は聖なる教... [10] T・Y 2011.06.22 11941
308Simple view *^^*6/12ペンテコステ 使徒信条(17)我... T・Y 2011.06.14 7455
307Simple view *^^*6/5 使徒信条(16)我は聖霊を信ず(... T・Y 2011.06.09 4936
306Simple view *^^*5/29 使徒信条(15) 我は聖霊を信... T・Y 2011.06.09 5343
305Simple view *^^*5/11小林武男兄告別式説教 T・Y 2011.05.19 5357
304Simple view *^^*4/24 イースター 使徒信条(12) ... [6] T・Y 2011.04.25 1707
303Simple view *^^*4/17パーム・サンデー使徒信条(11)... [4] T・Y 2011.04.18 6955
302Simple view *^^*4/10使徒信条(10)悪霊を追い出すイ... T・Y 2011.04.12 5816
301Simple view *^^*4/3使徒信条(9) 奇蹟を命じるイエス... T・Y 2011.04.04 2546
300Simple view *^^*3/27礼拝説教 使徒信条(8) T・Y 2011.03.30 16966
299Simple view *^^*3/20礼拝説教「途方に暮れても、倒され... [2] T・Y 2011.03.27 1793
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
前へ戻る 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*