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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/24使徒信条(21)我は罪の赦しを信ず ルカ5:17〜26
7/24使徒信条(21)我は罪の赦しを信ず ルカ5:17〜26

☆説教
  ずっと使徒信条を学んでいますが、週報の下の部分に書いてあります。紀元一世紀にはすでに洗礼式で使われていた、キリスト教の一番基本的な信条です。今日は21回目、下から2行目に、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」の、その「罪の赦しを信ず」をともに考えてみたいと思います。

  日本のクリスチャンで最も有名な小説家の中に、三浦綾子さんがいます。もう天に召されていますが、三浦綾子さんのほとんどの小説は人の罪に関して話を展開させています。三浦綾子さん自身が信仰に導かれ、イエス・キリストを信じた、それを小説にしています『道ありき』という本があります。その中の一節をちょっと読んでみます。この方が罪ということにどういう風に出会い、罪の赦しをどういう風に考えて行ったのかがよくわかります。

  「私は、人間はそう簡単に過去の自分と縁を切ることの出来ない存在だと、つくづく思った。たとえ自分では一切の過去を断ち切ったと思うことは出来ても、自分がなして来たすべての行動は、決して消すことのできないもののように、改めて私は感じた。たとえ、私が死んでも、私がしたことだけは、私のでたらめな生き方だけは、この世に留まっているのではないだろうか。

 ベットの上に座り聖書を開いた。病室は3人部屋で、私のベットは一番廊下側にあった。他の二人は、もう静かに眠っていた。聖書を開くと、次の言葉が目に入った。「天地は過ぎ行かん。されど我が言葉は過ぎ行くことなし」(***ルカ21:33、マルコ13:31)。偶然の一致であろうか。私はいま自分が考えていたことと、あまりに共通している言葉に驚いた。この世のすべてが過ぎ行き、そして滅び去ったとしても、イエス・キリストの言葉は永遠に滅びないと、ここに聖書は言っている。

 イエスの言葉が滅びないということは、いったいどういうことだろうか。私の細い指は、その聖句の上に止まってじっと離れなかった。私は思った。つまり、イエスの言葉が滅びないということは、その言葉が世にある限り、私の醜さもまた、そこに留まっているように思われた。イエスが赦すと言えば、私の罪は赦されるであろう。しかし、もし赦さないと言われるならば、私の罪も永遠にそこに消えることはないであろう。「天地は過ぎ行かん。されど、我が言葉は過ぎ行くことなし。」私は繰り返しつぶやいた。

 イエスが赦すと言えば、私の罪は赦されるであろう。しかし、もし赦さないと言われるならば、私の罪も永遠にそこに消えることはないであろう。――その思いをもって、三浦綾子さんはキリストを信じることになります。

 今日開いて頂いたこのルカの福音書にイエス・キリストの罪の赦しの宣言がなされています。ルカの福音書の5章、
20節「彼らの信仰を見て、イエスは『友よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。」

 (友よ)と書いてあるのは、そのまま訳しますと(人よ)です。マルコの福音書では「子よ。あなたの罪は赦されました」(***マルコ2:5、マタイ9:2)。昔の訳ですと、「子よ、汝の罪赦されたり。」出て来る人物は、中風の人という、自分で立って歩くこともできない足腰の立たない一人の男でありました。彼はイエスさまが話をしているその家に、18節ご覧頂きますと、友人4人に床ごと運ばれて来ます。ところが、運ばれて来たその家は、びっしり人でいっぱいでありました。

19節「しかし大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦を剥がし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。」

 この男に向かってイエスさまがおっしゃったのは、「友よ。あなたの罪は赦された」でありました。21節を見て頂きますと、

21節「ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。』」

 「神のほかに、だれが罪を赦すことができよう」というこのことばを、イエスさまは「友よ。あなたの罪は赦された」と(中風の男に)言います。今日はこの出来事をともに学んで行きたいと思いますが、このできごとの一番最後、26節を見てください。ご一緒に読んでみたいと思います。

26節「人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、『私たちは、きょう、驚くべきことを見た。』と言った。」

 この出来事の一番最後は「驚くべきことを見た」で終わっています。「驚くべきこと」というのは、新約聖書のギリシャ語では、ここにしか出て来ないことばです。「驚くべきこと」という日本語に訳されているところは他にいくらでもありますが、実はこのことばに関しては、新約聖書のここしか出て来ないこのことばは、パラドクサということばです。パラドクサということばから英語のパラドックスという、つまり矛盾ということばが出て来ます。

 「驚くべきこと」っていったいどういうことか。それは通念に反していること、あるいは予想だにしないこと、矛盾しているほど驚くべきことがこの場で起きたということが、人々の反応でありました。その驚くべきこと、予想だにしない、通念に反していること、というのはいったい何なのか。それがイエスさまの口から発せられた、「友よ。あなたの罪は赦されました」という、周囲の度肝を抜く発言でありました。

 この男性は病を癒してもらおうと思って、友だちに運ばれて屋根からつり降ろされました。しかし、病を癒してもらおうと思うこの男性に向かって、イエスさまは「あなたの罪は赦された」と、それはそれは驚くべき発言でありました。

 そして、座っていた律法学者たちは、21節「「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう」と反論します。22節をちょっと見てください。

22節「その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。『なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。
(23節)「あなたの罪は赦された。」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらがやさしいか。
(24節)人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。』と言って、中風の人に、『あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。」
(25節)「すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。」

 そして人々は大変驚いた。通念に反していることを見た。22節に戻って頂きますと、イエスさまは、律法学者のその理屈を見抜いてこうおっしゃいます。―――「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか、どちらが難しいか。

 状況から考えれば「起きて、寝床をたたんで歩け」と言う方が、難しいです。なぜ難しいかと言えば、「罪は赦されました」と宣言するのは、言うだけならだれでも言える。ところが、「起きて、寝床をたたんで歩け」と言うのには勇気が要ります。なぜなら、そう言った瞬間に、その人物は起き上がって寝床をたたんで歩かなければ、その言ったことばは、空しく地に落ちてしまいます。奇蹟を起こすイエス・キリストのことばかもしれませんが、しかし、「起き上がって、寝床をたたんで歩け」と言ったなら、現実に皆が見ている前でその男が歩かない限り、だれにも認められないと考えますと、起きて寝床をたたんで歩けと言う方が難しい。

 イエスさまはその難しい方をやってのけて、そして「ご覧、わたしが神の権威を持っていることを、あなたがたに証明出来たであろう。であるがゆえに、わたしは彼の罪を赦したということも、あなたにわかるだろう」という話の展開です。

 しかし、御子イエス・キリスト、また神さまの側から見て、「起きて、床をたたんで歩け」と言うのと、「罪を赦す」と言うのとどちらが本当のところは難しいのか。
 やがてイエスさまはさまざまな奇跡をなさいます。
  ・ガリラヤの湖の嵐を静め、猛り狂う波を静めておられるイエス・キリスト。
  ・死んでしまったヤイロの娘を「タリタ・クミ(娘よ、起きなさい)」と言って
   よみがえらせられるイエス・キリストの働き。
  ・自分の周りに集まって来た何千人という人の空腹を、わずかのパンと魚をもって、
   満たして行かれるイエス・キリストの奇蹟。
 そのイエスさまにとって、ここに登場する中風の人を癒すことは、難しいことだったのだろうか。いや、そんなことはなかったはずです。

 しかし、聖なる神が、罪人を赦すということは、決して易しいことではありませんでした。聖なる神が、罪に染まった私たちを抱きかかえるということは、実は苦悶に満ちていると聖書は教えます。たとえばホセア書の11章の8節。ちょっと長いですが、ホセア書の11章の8節をご一緒に読みたいと思います。
 
 ホセア11:8「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心は、わたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」

 ホセア書というのは、預言者ホセアの書物です。神さまはご自身の思いを預言者ホセアの人生に重ねました。ホセアはゴメルという女性を愛し、結婚しました。ところが、ゴメルはホセアの愛を裏切り、そして自分からほかの男を求め、やがて娼婦となって奴隷市場に売られて行きます。ホセアは、このゴメルを諦め、ゴメルに憤りを抱いて、ゴメルのことを忘れるならそれでよかった。ところがホセアは、ゴメルのことを忘れることができません。やがて彼は自分の悶々とした気持ちを飲み込みながら、奴隷市場に売られていった自分の妻を買い取りに行きます。この「買い取り」に行くということばが、キリスト教の十字架の、難しい「贖う」ということばです。

 神さまはイスラエルの人々を、また私たちを愛されました。その私たちが、神さまに背いて、迷える子羊のように神のもとを離れて、自分勝手な道を歩んで行って、やがてその罪と死の裁きの果てに、売られて行ってしまったその姿を見て、神さまは私たちを諦めることができれば、引き渡すことができれば、見捨てることができればどんなにか簡単か。しかし神の愛は、むしろご自身の心のうちで沸き返り、熱く燃える。それが、ホセア書の11章8節に出てくることです。

 エフライムというのは、イスラエルの部族の一つです。「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを見捨てることができようか。」そして8節の一番最後、罪深きあなたの心を見れば見るほど、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」

 この聖なる神さまが、罪に染みし私たちをあきらめることができない。探して、探して、私たちを追いかけて、追いかけて、罪に染まった私たちを抱きかかえて、天の御国へ連れて行ってくださる。これは、神さまの側にとって、易しいことではなかった。

 「起きて、床をたたんで歩きなさい」というのは、全能の権威を持っておられるイエス・キリストにとっては、別に難しいことではなかった。
 けれども、十字架の上から「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(***ルカ23:34参照)と言うことの方がはるかに、難しい事であった。

 それは、御子イエス・キリストがご自身の栄光を捨て、虚しく僕(しもべ)の姿を取り、そして人としてその痛みのすべてを荷いながら、晒し者となって十字架にかかって行かれ、「あなたの罪は赦されました」というこの罪の赦しを宣言するため、キリストはご自身の栄光とご自身のいのちをお捨てになった。

 中風の人はイエス・キリストのことばを聞いたとき、彼は足が癒された以上に、深い平安と喜びを抱いて、立ち上がった。立てない、床を取り上げることができない――それは病気の問題です。
 おおよそ人間は、身体の問題、心の問題、環境の問題、社会の問題、多くの問題故に床に縛られ、自由を奪われ、願うこともできず、思い通りにならず、この男のように、自分の不自由さ・自分の弱さをいつも意識しています。
 でも、それらの病や不自由さの問題のもっと奥底に――恐らくこの男もそうだった――それ以上に意識していたことがある。それは、自分の罪深さです。そしてこの自分の罪深さというのは、聖書に照らして自分の心を見てみない限り、あるいは聖霊の働きのもとに、自分の心をさらけ出して見ない限り、私たちは、おおよそこの自分の罪深さが解らない。
                
 イエスさまは、この男のたましいの叫びをお聞きになり、「癒してくれ」という叫び以上の叫び、「神よ。罪深い私を赦してください」というその叫びを聞き、この男を赦された。「癒してください」と言う者の心の底に、「赦してください」という叫びがある。
 そして自分自身の心のうちに、「癒してください」、「問題を解決してください」という願い以上に、「罪深い私を憐れんでください」というその願いがあることに気が付かない限り、「我は罪の赦しを信ず」とは言えない。
 だから私たちは礼拝の場に来て、「罪の赦しを信ず」と告白するたびに、「さまざまな問題課題を解決してください」というその願い事の全部の底に、「主よ。罪深い私を憐れんでください」という祈りがあることを思い起こさなければいけない。

 私(藤本牧師)は、以前紹介したことがありますが、玉川聖学院で国語を教えておられ、オルガン奏者でもいらっしゃいました、戸塚姉妹の同僚でいらっしゃった、今村真子さんという方のご主人の証しを、今日もそれを読んで、説教を終わりたいと思います。

 悪性リンパ腫が脳に転移して、(今村真子さんは)40才でその生涯を閉じられました。ご主人が、奥様と最後、共に歩まれたその証しを「ろばの子の歌」と題して発表されました。それは、クリスチャン新聞の第22回あかし文学入選作品の一つとして、『心の扉を開くとき』という書物に他三つの作品と共に掲載されています。 
 その証しに、私は「罪の赦し」を信じる私たちの思いが、見事に込められていると思いしばらく引用してみますので、よく聞いてください。

 放射線治療のかいなく、腫瘍が頭全体にものすごい勢いで広がり、昏睡状態が続いていたとき、ご主人は祈りました。
 「主よ。あなたは、何もかもご存じのはずです。真子がこれまであなたを信じて、大きな罪を犯さず、だれが見ても誠実に生きて来たことを。才能に溢れ、まだ40歳になったばかりの女盛りで、この地上でやり残していることがたくさんあることを。私が真子や子どもたちを愛することと、少し偉そうに振る舞って裁判の仕事をすること以外、さして取り柄のない平凡な男であることを、あなたはご存じです。私が一緒でなければ生きていけない弱い弱い者であることを、私たち家族が、あなたにより頼んで生きようとして来たことを、12歳、9歳、5歳の三人の男の子たちがまだまだ母親を必要としていること、すべてご存じです……。」
 ご主人は、こう記しています。
 「心の奥底から祈りました。一緒に涙がこみ上げてきて止まりませんでした。祈りと涙が一緒になって、祈りの涙となりました。彼女の体を抱き、ほほをすり寄せ、祈り、そして良くなって必ず一緒に家に帰ろうと共に涙しました。」

 ところが、容態がさらに悪くなります。さらに悪くなって、ご主人の祈りは変わります。――これがとてもすばらしい。それを良く聞いてください。
 「私たちは罪を犯しました。あなたに従うかのように振る舞いながらも、実のところはあなたに背いて生きて来ました。どうか罪深い私たちを憐れんで下さい。そして、どうか私たちから真子を取り去らないで下さい。あなたが必要とされるなら、真子の肉体とたましいをあなたにお委ねしますから、その後でどうか憐れみによって、私たちに戻して下さい。」(『心の扉を開くとき』クリスチャン新聞、44〜46頁)

 最初の祈りは、「あなたは何もかもご存じです。あなたを信じて大きな罪を免れて来た、その誠実さをあなたはご存じです。私も大したことはできませんが、しかしあなたを頼りに生きようとして来た、弱い弱い者であることをあなたはよくご存じです。どうか癒してください。」
 しかし、それが進んで行った時に、祈りは「どうか罪深い私たちを赦して下さい。私たちは罪を犯しました。あなたに従うかのように振る舞いながらも、実のところはあなたに背いて生きて来ました。どうか罪深い私たちを憐れんで下さい。そして、私の妻を必要としているなら、どうか取ってください。でもどうかまた戻してください。」

 癒してください、どうかこの仕事を成功させてください、私の仕事を導いてください―――私たちは数限りなく、祈りが内側からこみ上げて来ます。
 でも私たちが最後の最後に祈ることがあるとすれば、そのたましいのすべての祈りの根底にある祈りは、―――どうか罪深い私を憐れんでください。そして聖なるあなたの御前に立ち、イエス・キリストの十字架を仰ぎますので、罪深い私を赦してくださり、私をあなたのもとに迎えてください。 

 私たちはこの人生で、自分の人生と向き合えば向き合うほど、自分の抱えているさまざまな問題と取り組めば取り組むほど、恐らく最終的に、十字架の意味がこのたましいを貫きます。そして、十字架を前にして最も自然な祈りが、このたましいからにじみ出てきます。恐らく、あらゆる場合に、この小さなたましいからにじみ出て来る小さな祈りというのは、―――どうか罪深い私を憐れんでください。
 そしてイエスさまがおっしゃるのは、――友よ。安心しなさい。あなたの罪は赦された。そしてあなたの背負わなければならないその罪とその罪の報いを、わたしは十字架の上で代わりに背負った。

 罪を赦されて神の子どもとされ、罪を洗いきよめられた真っ白い衣を着て、この今村真子さんは、もう8ヶ月奇跡的に生かされ、多くの人の祈りに支えられて、家族と会話をしながら、そしてやがて8ヶ月後に天国に旅立って行きます。
やがて、私たちもそういう所を辿って行くのです。でもそういう所を辿る前から、私たちは十字架を仰いで、神の御前に立つ度毎に、この深い祈りがどこかたましいの奥底からにじみ出てくる。ありとあらゆる願い事を主に捧げるときに、このたましいの深〜い底から溢れ出てくる。それが―――どうか罪深い私を憐れんで下さい。

 「天地は過ぎ行かん。されど我がことばは過ぎ行くことなし。」イエス・キリストが赦すと言われるのなら、あなたの罪は赦される。とこしえに赦される。ですから、私たちは十字架に向かうことを止めない。いかなる祈りも全て「イエス・キリストの御名によって祈る」と言ったときに、イエス・キリストの「あなたの罪は赦された」という、その約束を心の底から受け取りながら、すべての祈りをお祈りしたいと思います。
 
☆終わりのお祈り

彼らの信仰を見てイエスは、「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。(ルカ5:20)

 恵み深い天の父なる神さま、今朝私たちがあなたの御前に座るときに、まことに礼拝するのに、ふさわしくない者です。あなたに従うかのように振る舞いながらも、実のところはあなたに背いて生きて来ましたと、深〜く自分の足りなさ、自分の傲慢さ、自分の欠け、いや罪深い自分の姿を見ようともしない罪深さ、それらを心に受けとめ、どうかこんな愚かな小さな者をもお赦しください。
 そして、この私の罪をすべて背負い十字架にかかったイエスさま、あなたを心から愛します。どうか今朝変わらずに、私たちは「罪の赦しを信ず」と祈り(告白し)ましたので、そのたましいの深〜いところに「あなたの罪は赦された」というあなたの宣言を轟かせてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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