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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   11/20 神の人モーセ(8)神に背を向ける王、そして民
11/20 神の人モーセ(8)神に背を向ける王、そして民

☆聖書個所     出エジプト記5:1〜9
1その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」2パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」3すると彼らは言った。「へブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」4エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。」5パロはまた言った。「見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている。そしておまえたちは彼らの苦役を休ませようとしているのだ。」6その日、パロはこの民を使う監督と人夫がしらに命じて言った。7「おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。8そしてこれまでに作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。だから、『私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください。』と言って叫んでいるのだ。9あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。」

☆説教
神の人モーセというシリーズで学んでおりますが、久しぶりになったと思います。さて、今日で8回目です。ちょっとだけ、おさらいをしてみます。

モーセは出エジプト記に出てまいりますが、その前に聖書の最初の書物、創世記があります。創世記の最後はヨセフの物語で終わっています。

ヨセフの時代に、父、ヤコブの家は飢饉を逃れて、パレスチナからエジプトに食料を求めにやって来ます。そこでなんとヨセフの兄たちは、自分たちがかつて葬り去ったと思っていた弟ヨセフと再会します。なんとヨセフは、王ファラオのもとで、総理大臣となり、同じ飢饉からエジプトの国を守っていました。

そうして、ヤコブの家は皆エジプトに住み、大きく成長し、イスラエルの民となります。ヤコブの息子12人から、イスラエルの12部族ができ上がるようになります。

何百年も経過した時点で、この出エジプト記が始まるのですが、なんとイスラエルの人々はエジプトで奴隷として苦役について、神に助けを呼び求めていました。
当時、増え続けるイスラエルの人々を警戒して、エジプトの王は、イスラエルで生まれてくる男の子を殺すように命じます。モーセが生まれる背景には、神を恐れるお産婆さんと、神を信じるモーセの母がいて、モーセは生まれてきたけれども殺されずに済んだという所が、第一回目 でありました。

神の摂理でエジプトの王宮に育ったヘブル人のモーセですが、40歳の時に、正義感からヘブル人を打つエジプト人を殺し、どうにかして民を救い出したいと願いますが、事態は逆転してモーセは国を追われます。

それからもう40年、彼はミデヤンの荒野で遊牧人として生活し、家庭を持ちます。
80歳になったある日、神はモーセに現れ、奴隷になって叫び声を上げているヘブル人を救い出すために、モーセを指導者として立てると宣言されました。
モーセは、私はそんな器ではない、と必死に抵抗しますが、神は「わたしがあなたと共にいる」「わたしはあなたの遊牧民の杖を用いて奇跡を行い、大いなる力をもってヘブル人を解放する」と約束して、モーセを遣わされました。
――(おさらい終わり)――

そこからもう一回、今日は始めたいと思います。5章をご覧ください。
1)圧倒的な神に背を向ける王

1節「その後、モーセとアロンはパロ(エジプトの王ファラオのこと)のところに行き、そして言った。『イスラエルの神、主がこう仰せられます。「わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。」』」
という風に、エジプトの王に直接に交渉に行くところから今日の場面が始まっていきます。

神は、エジプトの王に言いました。「わたしの民を行かせよ。」
2節「パロは答えた。『主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。』」

応答は明確でした。明確な「ノー」です。私は神を知らない。強いて言えば、エジプトの王ですから、私が神だ。どうしてモーセよ。おまえの言うことを聞かなければならぬのか!おまえの神のいうことを聞かなければならぬのか!

それだけではなく、そんなことを言われた王は逆上して、イスラエルの奴隷の労役を倍にします。
7〜8節、れんがを作らせるだけではない、れんがを作るわらを彼らに集めさせよう、しかし、作るれんがの量は減らしてはならんと。

今まではイスラエルの人々はわらをもらってれんがを焼いていた。しかしこれから先は、同じれんがを作るにしても、わらもともに集めさせる。
            
確かにモーセの提言は唐突でした。しかし、王は所詮、自分以外の言うことを聞きません。そして、自分の権力に触れる者の手を振り払い、逆の方向へと走ります。

聖書に出て来る王の多くはそうです。
●バプテスマのヨハネの首をはねた、ヘロデ、そして妻のヘロデヤ、この二人は不倫結婚を指摘されて、やがてヨハネを拘束して、首をはねます。
少なくともヘロデ王は、ヨハネが預言者であることに少なからず敬意を払っていたにもかかわらず、最終的にはヨハネの首をはねる。

●パウロを拘束していたペリクスというローマ帝国の総督がいました。そしてその妻ドルシラも少なからずキリスト教に関心がありました。
キリスト教について聞いてみようと、パウロを呼び出したところ、パウロは、総督に対して、その贅沢ぶりを批判し、やがては誰もが神の前に裁かれる立場にあることを諭しますと、ペリクスは逆切れして彼の拘束期間を長引かせます。

●1596年、豊臣秀吉は、徹底したキリスト教弾圧に出ます。
24人のクリスチャンと宣教師が、京都奉行所の石田三成によって拘束され、堀川にかかった橋の上で左の耳たぶを切り落とされ、冬に向かう寒い時期、長崎まで歩いて引き回されます。
途中でもう二人、合計26名(皆さんがよくご存じの日本二十六聖人)が、厳しい寒さの中、長崎の丘にたどり着きそこで殉教します。
        
当時、南蛮貿易に積極的であった秀吉は、宣教師の受け入れにも積極的な時期もありました。その彼が、何をきっかけにそれほどまでにバテレンを追放し、日本からキリスト教を追い出していくのか。
表に裏に、様々な歴史的な理由があります。たとえばキリシタン一揆をどこかで鎮圧しなければいけないとか、イエズス会の後ろにいるスペインの軍隊をいつも意識していたという理由もあります。

しかし、最終的な理由があるとすれば、宣教師たちはどこかで大名に伝道したように、豊臣秀吉にも伝道しているはずなのです。そして、豊臣秀吉がその神に対するメッセージを聞くはずがないです。それはエジプトの王のように、(神に背を向ける秀吉の姿。)
2節「私は主を知らない。」――もう少し言いますと――「知りたくもない。」
そうして、一気にキリスト教弾圧に日本は向かいます。

聖書の中には、非常におもしろいことばがあります。何度か紹介したことがありますが、士師記(17:6、21:25)という所にこういうみことばがあります。
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」
「そのころ、イスラエルには王がなく」というのは、行政的には、王がまだいなかったということです。しかし、それぞれが自分の目、自分の価値観、考えを基準に生活していたということは、実は王は星の数ほどいたということです。それぞれが好き勝手に、誰にも責任負わずに、それぞれが王様だったということです。

さて皆さんのところではだれが王さまでしょうか?奥様でしょうか?旦那様でしょうか?(笑)

不思議なもので、私たちは以前聖書に出てくる王を学んだことがありますが、ここに出て来るパロが答えた、「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないとは。私は主を知らない。(出エジプト5:2)神を知りたくもない」と言うのは、これは神に背を向けて生きている私たちに共通した感覚でしょう。――私たちはエジプトの王ほど偉くもない、でも王が国全部にその主権をふるっているとしたならば、この人生すべてに主権をふるいたいと願っている人間は、おおよそこのパロと同じように、神を否定する方向で生きる。

2)聞こうとしない民
実は、神が「わたしがイスラエルを奴隷のエジプトから約束の地へと連れ上る」とおっしゃったとき、モーセのいうことを聞こうとしないのは、エジプトの王だけではありませんでした。背を向けたのは、民もそうでした。6章9節を読みます。

6:9「モーセはこのようにイスラエル人に話したが、彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。」

最初は聞こうとしたのです。アロンが、これから神がモーセを先頭に奴隷のエジプトからあなたがたを脱出させてくださると言ったとき、最初は信じたのです。
4:31「民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。」
と記されているように、民は最初は信じたのです。

ところが、モーセがエジプトの王と交渉し、決裂して王が逆切れして、その苦役を二倍したところから、民はどんどん疲れて行き、ますます絶望感に浸るようになります。そしてモーセが改めて話した時に、モーセに聞こうとはしなかった。つまり神の救いのメッセージを王は拒み、そして民もそれに背を向けようとします。

人は苦難の中で、慰められることを望むものです。悲しみの中で慰めてもらうことを、人は望むものです。開きませんが、
詩篇69:20「わたしは同情する者を求めたけれども、ひとりもなく、慰める者を求めたけれども、ひとりも見ませんでした。」

すると、さらに深く苦悩のトンネルに入っていくのです。やがて、出ることを拒みます。
詩篇77:2には、「わが魂は慰めを拒む」とあります。慰められることを求めたけれども、その慰めに値するものを見いだすことができなかった。すると、人はその苦難のトンネルの奥に入り、やがて出てくることを拒む。

一番最初にヨセフの話をしましたけれども、ヤコブには、11人の息子がいまして、一番下のヨセフをことさら可愛がりました。それゆえ、兄たちの嫉妬を買い、兄たちはヨセフを殺害することを計画します。しかし、最終的には殺害する代わりに、エジプトに売り飛ばしてしまう。でも父ヤコブには、荒野で羊を飼っていた時に、獣に襲われてヨセフは死にました、と報告します。

最愛の息子を失ったヤコブは悲しみのトンネルの中に入っていきます。創世記37: 35をご一緒に読みたいと思います。よくわかると思います。
37:34「ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。」
35節「彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、『私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。』と言った。こうして父は、その子のために泣いた。」

慰められることを拒むというのは、一般的な言い方をしますと、一人にしてくれということです。一人にしてほしい、それほどまでに悲しかった。そしてふっと言ったことは、「泣き悲しみながら、死の世界にいるわが子のところに下って行きたい。」そう言って、父親は泣いた。私たちがヤコブであったら、同じように泣くと思います。

私たちがイスラエルの民であったならば、最初は救い出してくださるというメッセージを聞いて信じる。でもそれからしばらく、苦役が何倍にもなり、ほんとに、ほとほと疲れ果てたならば、改めてそこから救い出されると言われても、誰がそんなことを信じる勇気、気力が残っているでしょうか?

さて、(1のポイント)神に背を向ける王がいて、御心を受け入れることを拒み、(2のポイント)神に背を向ける民がいて、慰められることを拒みます。(そして3のポイントは、)

3)どんなに背を向けても、それを圧倒される神
これが今日目を留めて頂きたいポイントです。出エジプト記の6章に戻って頂いて、6.7.8節を交読しましょう。
6それゆえ、イスラエル人に言え。
 わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。
7わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。
8わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」

どんなに王が拒んでも、どんなに民が慰めを拒んだとしても、神はその圧倒的な力でその壁を打ち破って、彼らを救い出す。それが6節から始まります。

6節「それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、(わたしは)労役から救い出す。(わたしは)伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。」 【***注()の中は省略されていますが、原語では『わたしは』です。】
7節「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」 
8節「わたしは、……あなたがたを連れて行き」
      
『わたしは』という主語が7回出てきます。徹底して出てくるのです。
神は言われる、神はあなたを連れ出す、神はあなたを救い出す、神はあなたを取ってご自身の民とされる、神はあなたの神となる、神はあなたを連れて行く、神はあなたを慰める、神はあなたを力づける、神はあなたを愛する。

私たちが神の愛をどんなに拒んでも 、神は 圧倒的な力をもってあなたを愛される。
私たちは時々考えます。神は私たちを愛するとおっしゃっておられるなら、どうしてこんなに大変なことが自分の人生に起こるのだろうか?
やがてその疑問が、どんどん私たちの頭の中で膨らんでいって、自分の信仰が分からなくなって行くときがあるかもしれない。

しかし、今読んでいただきました出エジプト記の6章の6〜8節で言われていることは、王がどんなに拒んでも、私たちがその慰めにどんなバリアを張ったとしても、神は圧倒的な力をもってあなたを洞穴から連れ出す。圧倒的な力をもってあなたを慰める。神はあなたが何と言おうとあなたの神となる。

あれほど抵抗し、あれほど背を向けていた王も民も、変わっていかざるを得ない。それほど、神の力も、その恵みも圧倒的に及んでいくというのが、これから先いっしょに学んで頂く聖書の個所です。

イギリスの讃美歌詩人で、ウェスレーと同じ時代、つまり18世紀イギリスを生きたウィリアム・クーパーという有名な人物がいます。

彼は幼くして、お母さんと死に別れ、二番目のお母さんも亡くし、彼のお父さんは鬱症状に苦しみ、やがて彼は服毒自殺を考え、薬を購入します。
しかし、毒を飲んだところに神さまは友人を遣わして、友人が毒を吐き出させて、彼は助かります。

一段落しますと、彼は馬車を頼んでテムズ川へ行き、真っ暗な川に投身自殺を図ろうとします。しかし、馬車の運転手に強引に止められ、運転手はクーパーを縛って、連れ帰ります。

家に帰った彼は、誰もいないところで、台所からナイフを出して、その上に身を伏せます。今度は、ナイフの刃の部分が折れてしまいます。

ついに彼は、悲しみに暮れて、聖書を読み、開いたのがロマ書でありました。
彼は、聖書に神の救いを見い出し、ひざまずいてイエス・キリストを信じ、後に讃美歌詩人として活躍します。
あの「アメージング・グレース」の作者ジョン・ニュートンといっしょに、「オルニー賛美歌集」を出すほど、讃美歌の領域で用いられます。「インマヌエル讃美歌」では、「とうとき泉あり」が彼の作品ですね。

彼の讃美歌で一番有名なのが、“God Moves in a Mysterious Way”という詩。
第1節はこうです。
神は実に神秘的な方法で動かれる。
くすしい御業を行い、海の中に足跡をつけ、嵐に乗られる。
息もできない深い洞窟に、確かな方法で、神は光り輝くご計画を隠しておられる。
神の御心は必ず、実現する。

[Charles Swindoll. Moses: A Man of Selfless Dedication. (Nashville: Word, 1999) p. 168-169]

私(藤本牧師)は、この最後の2行、『息もできない深い洞窟の中に、確かな方法で、神は光り輝く慰めを、力付けを、救いを、ご計画を隠しておられる。神の御計画は必ず、実現して行く』というのを、(感動してアーメンと受け止め、それを信じてでしょうか?)私たちは学んで行こうとしているのです。

まだわかりません。エジプトの王にも、イスラエルの民にも、またモーセにもわかっていない。
しかし、私たちがどんなに神に背を向けていても、神が私たちに向かって、「わたしは、あなたを連れ出す、慰める、救う、連れ上る、あなたをわたしの民とする、わたしがあなたの神となる」とおっしゃったとき、それは、『海の中に足跡をつけてでも、嵐に乗っても、必ずそれを実現される。』

しかし、それはまだわからない。息をひそめる深〜い洞窟の中に、神はそのご計画を隠しておられる。だから私たちはどんな試練の洞窟の中に入ったとしても、後ろにやがて神の大胆な計画が輝くばかりに実現して行く。まさに、人には、私たちには、驚くばかりの神秘です。神は、そのように私たちのところに来られる。――それが今年のアドベントでありますように。

今年のアドベント――私たちは毎年のように、毎年以上に神の助けを必要としているでしょう。アドベントというのは、神のところに行くという意味もありますし、神が私のところに来られるという意味もあるのです。どうか、そういう信仰で来週(アドベント第一聖日の)日曜日を迎えたいと思います。

☆お祈り
『息もできないほどの深い洞窟の中に、輝く宝を隠しておられる』神さま、『海の中に足跡をつけてでも、嵐の雲に乗られてでも、必ずその計画を実現してくださる』神さま、私たちがどんなに苦しんで心を閉ざしていたとしても、それを突き破って私たちのところに来られる神さま、待ち望んでいます。静かに、時に首をうなだれ、しかし日々祈り、あなたが来てくださることを待っています。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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