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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   主のあわれみ、ユダの心に届かず(棕櫚の聖日)
受難週「主のあわれみ、ユダに届かず」

 ユダは疑いなく、聖書に描かれている最悪の人物です。主イエスは、ユダのことを指しておっしゃいました。「人の子を裏切るような人間は呪われます。そういう人は、生まれてこなかった方がよかったのです」(マタイ二六・二四)。救いようがない人物ということでしょうか?
 最も悲劇的に感じるのは、ユダがイエスの十二弟子の一人だったからでしょう。それ以来、歴史の中で、「あいつはユダだ」といえば、裏切り者という意味になります。彼はイエスの行ってきた奇跡をほとんどすべて、その目で見てきました。彼は主の教えも、たとえの説き明かしも、また福音の奥義も聞いてきたのです。彼はイエスと笑いも喜びも共にしてきました。旅行もいっしょでした。十二弟子として選ばれたことの特権も味わってきました。にもかかわれず、ユダは主を裏切るのです。それは、福音書の中で最も苦々しい現実です。パリサイ人や律法学者がイエスに殺意を抱くのとは訳が違います。主から多くの祝福を受け、主に愛され、主に教えられてきた人が、主を裏切るわけです。
  
 「そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。『彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。』すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った」(マタイ二六・一四〜一五)。

 ユダがイエスを売り渡したのは、わずか銀貨三〇枚です。ユダヤの世界では、奴隷を買い戻すときの値段でした。そんなわずかなお金のために、こんな大それことを人間はするのです。ずいぶん安値でイエスを裏切れるものなのです。ずいぶん簡単にイエスを裏切っているのです。
 わずか数日のことでした。主イエスが日曜日にエルサレムに入ります。そのときは群衆に熱狂的に迎えられ、ユダも興奮して、群衆と共に「ホサナ、ホサナ」と叫んでいたはずです。それからわずか数日。ユダは、木曜日に過越の食事を共にしながら、この計画を思いめぐらします。晩餐の途中で、サタンが彼の心に入ります。そんなふうにして、あっという間に入ってしまうのか、といぶかしくもリアルに考えてしまいます。
 ユダは、晩餐の途中で、真っ暗な闇の中に彼はでていきます。こうして、福音書の中で最悪の人物、最悪の罪人が生まれます。
 彼はそれほどの極悪人だったのでしょうか。
 先日、盛岡教会の先生と話しをしていました。先生がこんな質問をされました。
 「最近の若い先生はどうなっているのでしょう。手紙の書き方なんか、神学校で教わっているのでしょうか」
 「えっ、どうしてそんなことをお尋ねになるのですか」
 「いやね、ある先生からはがきをもらったんですが、差出人の先生の名前の頭に、「罪人の頭」という肩書きを自分で書いていました。郵便屋さんは、なんと思ったでしょうね」
 わたしは答えておきました。
 「いや、先生、ぼくは、まだ差出人の名前の上だったからいいじゃないですか。宛先の先生の名前の上に、罪人の頭じゃ困りますよね」
 その程度の「罪人の頭」はかわいいものです。
 ユダも決して極悪人ではなかったのです。純粋なキリストの弟子でした。その彼がわずかの期間に、わずかのお金で、わずかの失望の中で、イエスさまを売りわたします。彼が神に失望した、その心の隙間にサタンが入ったのです。

 「そんな人は生まれてこなかった方が良かったのです」――救いようのない人間という印象を受けますが、実は、この間、主イエスはなんとかユダを引き戻そうと恵みの御手をさしのべられます。

                  ●ユダの足を洗うイエス

 「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。『わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。』」(ヨハネ一三・一二)

 最後の晩餐が始まる前、主はひざまずいて弟子たちの足を順番に、一人一人と洗い、そして、全員の足を洗い終わりました。一人も残さず、全員の足を洗われたということは、その中にユダの足もあったはずです。しばらくして、ユダは主を売り渡すために暗闇にでていきます。その前に、もう一度チャンスを与えるかのように、主はユダの足をも洗っておられます。「あの人の足は洗って上げるが、君の足は洗わない」――そんなことを主はおっしゃいません。主は、私たち全員の足を洗ってくださる、一人も残さずに洗ってくださるのです。信仰がしっかりしている者も、そうでない者も。聖く生きている者も、なかなかそうは生きられないと悩んでいる者も。祈りの勇者も、祈りの足らない者も。主は、一人残さず、洗ってくださいます。
 一二節の最後にイエスさまの質問があります。
 「わたしがあなたに何をしたのか、わかりますか」
 ユダにわかったのでしょうか。最も汚れた足までも、主はひざまずいて洗ってくださる。自分のような醜い者の足さえも主は洗ってくださる、その恵みの大きさ、その愛の大きさ。ユダの心に届いたのでしょうか?

               ●「それは、あなただ」

 「すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。『先生。まさか私のことではないでしょう。』イエスは彼に、『いや、そうだ。』と言われた」(マタイ二六・二五)。

 最後の晩餐で、イエスは裏切りの予告をされました。その瞬間、十二弟子は互いに見合わせ、まさか私ではないか、と不安な表情をしていました。ユダもその一人です。イエスはユダの目を見ておっしゃいます。「それは、あなたのことだ」。
どんなに後悔しても後悔しきれないほど、大変なことをしでかそうとしているのは、あなただよ。自分の人生をその手で握りつぶそうとしているのは、あなたなんだだよ。それは主のあわれみの語りかけでした。しかし、主のあわれみ、ユダに届かず。
 ダビデが罪を犯したとき、ひた隠しにしていたダビデのところに、預言者ナタンが遣わされてきます。ナタンは遠回しに、極悪人の話をします。そのやったこと、その罪深い行動を遠回しに話されたとき、ダビデは自分のこととは知らず、頭に血が上って言います。「そんなやつは、死刑だ」。そのときです。ナタンはひるむことなく、ストレートに言いました。
 「それは、あなたです」
 王よ、それは紛れもなく、あなたのことです。イエスがここでユダに言っているのと同じことです。ストレートに、その目を見て、警告している、宣言しているのです。神がナタンをダビデのところに遣わせて、「それは、あなたです」と言わしめたのは、ダビデに対するあわれみでした。そしてダビデは、真実を突きつけられ、心を刺され、首をうなだれて言いました。
 「私は、主に罪を犯した」
 主が最後の晩餐の席上で、ユダに「それは、あなたのことだ」と言われたのは、最悪の事態を回避するための最後の警告でした。しかし、主のあわれみは、ユダの心に届きませんでした。
 なぜでしょうか? ユダには自分のシナリオがありました。救い主は、エルサレムを帝国ローマの圧政から解放する。愛ではなく力だ。こう確信していたユダに、イエスの行動は奇異に映りました。イエスはますますへりくだり、ますます静かになり、ますます霊的になってゆかれます。主が愛と赦しに富んでおられればおられるほど、ユダヤは逆にいらだつのでした。どうしてイエスは、道ばたの乞食バルテマイを相手にする? どうしてレプタ銅貨二枚しかささげなかった女をほめる? ユダがほしかったのは、愛ではない、力です。思い通りにしたいのです。そうならないと、いらいらして我慢なりません。この自己中心な心に、主のあわれみは届きませんでした。主のあわれみ、ユダの心に届かず。

                ●自分で始末することだ

 「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。』と言った。しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ。』と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった」(マタイ二七・三〜五)。
 
 差しのばされた主の愛が、ユダの心に届かない――その三番目の記事は、この箇所です。イエスを裏切り、売り渡したユダですが、主が逮捕されて、一晩あけたとき、彼は強烈な後悔の念におそわれます。魔が差したような、あっという間の出来事のなかで、主を売った彼は、強烈な懺悔をもって神殿に戻ってきます。
 そのとき、祭司長、長老とたちは、「私は罪を犯した」と告白するユダを、「私たちの知ったことか。自分で始末しろ」といとも簡単に切り捨てます。ユダは、受け取った銀貨を神殿に投げ捨て、外に出ていって首をつります。
 まさに、自分のしたことを自分で始末したのです。この最後が、特にユダの物語に絶望的雰囲気を与えています。ユダは神の赦しを仰ぐことなしに、自分で人生の幕を引きました。

 第二次大戦が終わった後、ドイツのニューレンベルグにある戦犯収容所で、戦争犯罪人として死刑を待っていた一人、ヘルマン・ゲーリングが自殺をしました。彼は、ナチスドイツの最高指導者の一人です。裁判を受けていた間も、彼はたびたび牧師を呼んで、聖書の話を聞き、救いについて質問もしていたそうです。いよいよ、刑の執行の迫ったある日、彼は、牧師を呼んで、洗礼を授けてもらえるかどうか尋ねました。
 牧師が彼に尋ねました。
 「それでは、あなたは天におられる父なる神様の愛と、その一人子イエス・キリストが私たちの救いのために十字架にかかられたことを信じるのですね」
 しばらく考えた後に、答えました。
 「神がおられることは信じる。でも、イエス・キリストの救いは信じることができない。」
 牧師は言いました。
「残念ですが、それでは洗礼を授けることはできません」
 処刑の前日、牧師が重ねて先のことを尋ねますと、彼は言いました。
 「私は神を信じる。しかし、神は偉大である。このみじめな取るに足りないヘルマン・ゲーリングのことなどには、何の関心もお持ちにならないほど偉大であると信じる」
 そしてその晩、密かに隠し持っていた毒を飲んで、自殺したのです。最後の最後まで、主の愛、ゲーリングの心に届かず、です。主の愛、ユダの心に届かず。

 主は、私のようなものの前にも、膝をついて、足を洗ってくださいます。私のようなもののために、「それは、あなただ」と指さして、私の問題を、私の罪を教えてくださいます。そして、私のようなもののためにも、十字架にかかってくださり、私に向かって赦しの手をさしのべてくださいます。
 主の愛、ユダの心に届かず。さて、私の心には……。このことを考えて、受難週を歩もうではありませんか。

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DATE: 2003.04.16 - 21:25

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