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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   12/4 アドベント―2 救いの知識(2)
12/4 アドベント―2 救いの知識(2)

☆聖書個所     ヨハネ1:19〜28
19ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。20彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。21また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」22そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」23彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」24彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。25彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」26ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。27その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」28この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。

☆説教
新約聖書の一番最初に出てくるのがイエス・キリストの誕生です。そのイエス・キリストの誕生の前に、バプテスマのヨハネの誕生で始まっているのがルカの福音書で、それはとっても象徴的です――という話を先週致しました。

バプテスマのヨハネの父親の名前はザカリヤ、訳すと「神は覚えておられる」意で、バプテスマのヨハネの母の名前はエリサベツ「神の誓い」です。神は誓いを覚えておられる――その誓いとは「あなたを慰め、あなたを顧み、あなたを助ける」とおっしゃる神のその誓いを――神は忘れておられないという意。その両親のもとに、ヨハンナ、ヨハネは「神のあわれみ」という意味ですけれども、この人物が登場致します。

旧約聖書の最後から新約聖書のこの初めの出来事まで、400年以上の隔たりがあります。しかし、神は覚えておられた、ご自身の誓いを。そしてヨハネがイエス・キリストの前を走って、神の国の到来の備えをします。彼は救いの知識を私たちに与える。ではその救いの知識とは一体何なのか?その前半部分を前回見て頂きました。

1)それはバプテスマのヨハネによる主要な働きで『悔い改め』というものを説く。
『悔い改め』とは、自分の本当の姿を見つめ直すことだという話をしました。人には「本来あるべき姿」があると聖書は教えています。人はアダム――アダムとは土という意味です。神さまは人間を土から造られ、私たちは死ぬと土に戻ります。しかし、人間はそれだけではない。神さまはご自身の息を、この土でできたアダムの中に吹き込まれました。息が吹き込まれた私たちは、神さまの愛に答えることができる。神さまとの交わりの中を生きることができる。そういう風に創造された。ですから、私たちは愛が分かる。ですから私たちは信頼することができる。その愛や信頼が裏切られると、とてつもなく悲しい思いをする「神の御前を生きる人としての本来の姿」があります。

私たちは神さまに背を向けて、好き勝手に生きていたかも知れません。いや神さまがおられるなんて知らなかったと言えば、それまでであります。しかしどこかで私たちは気がつきます。今の自分が本当にあるべき姿なのだろうか、人としてあるべき姿なのだろうか。あるいはキリスト者としてあるべき姿なのだろうか、自分の悲しみ、自分の罪深さ、愚かさ、醜さ、神に背を向けてしまうこの姿を見つめて、「本来あるべき姿」に立ち戻って行く、バプテスマのヨハネはそれを教えました。それが救いの知識の(1)。

そして今朝は救いの知識の (2)。実はこれが、バプテスマのヨハネの主要な働きの二番目です。人が本来神さまの御前にあるべき姿を見つめ直す(『悔い改める』)時、

2)その時、ヨハネは私たちにイエス・キリストを指さします。
つまりイエス・キリストを証しすること。イエス・キリストを指さすこと。私たちの心をイエス・キリストに向けること、こうして救いの知識が成り立っています。

ちょっと(講壇のスクリーンに)写真出してもらえる?H兄、前後のライトを消してください。今からお見せするのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵、「洗礼者ヨハネ」という絵です。これは「ヨハネの手」と呼ばれることもあるのです。とてもハンサムに描かれている青年ヨハネ、彼は右手であるものを指さしています。天を指しているように思えます。しかし実はここの部分(右手の辺り)に十字架が描かれています。それは実に象徴的に描かれています。

ルカの福音書によりますと、バプテスマのヨハネの働きは人々を『悔い改め』に導くことでありました。その罪を洗いきよめるために洗礼を授けることでありました。しかしヨハネの福音書を見ておりますと、彼の主要な働きのもう一つの局面は、イエス・キリストを指さすことでした。ちょっと聖書をご覧ください。H兄もう一回電気をつけて頂いて、これ(スクリーン)はもう閉じて頂いて、19節を見て頂きたいと思います。(ヨハネ1:19〜22を読まれる。)

19ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。
20彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。
21また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」
22そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」

「あなたはいったいだれか」という質問が何度も繰り返されていますでしょう?バプテスマのヨハネはほとんど答えません。自分の素性について何も明かしません。23節にただ、「自分は預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声だ」と、「私は一つの声にしか過ぎない」と(だけ言ったのです。)ヨハネはいったい何が言いたいのか?ひとことで言いますと、ヨハネは「私なんかに注目しないでほしい。私がだれであったとしてもいいではないですか。私ではない。私の後から来る方のために、私は道を備えているしもべにすぎない。」そして、彼はイエス・キリストを証しします。

26ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。
27その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」

あなたがたはその方を知らなければいけない。そして29節、その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」です。先ほどのダ・ヴィンチの『ヨハネの手』で、その指は暗闇にすっと描かれている十字架を指している。ヨハネは言いたい――「見てください。神の子羊です。」

2つのポイントでお話をします。

1)    救いの知識とは、この神の子羊イエスを知ること
なんで子羊なんだ?聖書で子羊は何を意味するか?イエス・キリストというお方はダビデの子と呼ばれることもあります。ダビデの家の紋章はライオンです。

ライオンってすごいですよ。どれぐらいすごいか?ライオンバスに乗ってみるとよくわかる(笑)。多摩動物園、あるいは富士サファリパーク、ライオンバスのところに肉があって、するとライオンが両手を掛けてバスにのしかかります。雄のライオンというのは、獲物をとらないと聞きますが、雄のライオンが吠えたら、一キロ先まで声が聞こえるでしょう。一体どうしたらあんな恐ろしい声で力強く叫ぶことができるのか?

ダビデはその王家の紋章をライオンにしました。ライオンほど権威をもってこの世界に君臨する存在はないと思えるくらい、実に堂々と、その声一つでこの世界が恐れわなないてしまうほどの力がある。しかしバプテスマのヨハネは、「獅子」とは呼ばずに、「見よ、神の子羊」とイエス・キリストを呼んだ。

子羊が聖書に最初に出てくるのは、モーセの時代の出エジプト記。シリーズでは「神の人モーセ」を学んでいますが、もうしばらくしますと一緒にこの出来事を学びます。
奴隷とされているイスラエルを何とかエジプトから解放してもらうために、モーセはエジプトのファラオに交渉します。なかなか交渉に応じない王に対して、彼は奇蹟を示して、奇蹟を見るたびに王はわなないて、そして許可をしますけれども、しばらくしますと翻って解放しないのです。神さまとかたくなな王に厳しい裁きを下す。それが10番目の奇蹟でありました。

真夜中に神さまがエジプトの中に出て行かれます。それは死の雲となって、エジプトの初子(ういご)が人も家畜も、初めて生まれた子どもが全部死ぬことになります。イスラエルの人々はその晩、子羊をほふり、その血を家のかもい(と2本の門柱)に塗ります。恐怖の夜でありました。エジプトの家庭では、王宮から下層階級に至るまで、悲しみの号泣が聞こえてくる中、イスラエルの家の上を、その主の裁きが「過ぎ越し」て行きます。

その時以来、数千年の間、バプテスマのヨハネに至るまで、イエス・キリストに至るまで、イスラエルの人々は「過ぎ越し」の祭りを毎年行ってきました。必ずその過ぎ越しの日の夕方4時ごろあるいは3時ごろ、子羊がほふられます。そして罪の裁きが、神の裁きが彼らの上を過ぎ越して行く、この出来事を彼らは祝いました。

イエス・キリストは十字架にかかられる前の晩に、弟子たちと一緒にこの過ぎ越しの食事をとられました。そしてそこに出されて来たぶどう酒とパンを取り、パンを割いて弟子たちに渡しておっしゃいました。
「これが、明日十字架の上で裂かれる私の身体だ。これを食べる時にあなたは永遠のいのちに与る」
それからぶどう酒の入った杯を弟子たちに手渡して、
「これが私の血だ。この杯から飲むときに、罪の裁きはあなたがたの上を過ぎ越して行く」
と、一連の儀式を行った後に、イエスさまがおっしゃったのは、
「これが新しい契約です」

新しい契約というのは、新約聖書の新約という意味です。新約聖書というのは、新しい契約です。それはイエス・キリストが来られ、私たちの上にある罪の裁き、この裁きを取り除けてくださる。私たちの罪深さとその罪による責任、罪責を覆ってくださる、ご自身の血によって洗いきよめてくださる。そのためにイエス・キリストはご自身の身体を死に渡されました。この子羊の血を信じる人は、自分の人生のかもいに子羊の血を塗るのと同じです。十字架を信じる人は、自分の人生に子羊の血を塗るわけです。

出エジプト記の12章の13節をちょっと開いてください。聖書に一番最初が創世記、その次が出エジプト記とありますが、ご一緒に読んでみたいと思います。

13あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

文語訳聖書では、「我血を見る時、汝らを過ぎ越すべし」です。かもいの血があなたがたのためのしるしとなる。そして私たちクリスチャンのしるしは何か?それは十字架です。ですから、キリスト教会に十字架のない教会はない。十字架のない教会を私たちは教会とは呼ばないのです。このように正面に十字架はないかもしれない。しかし教会のどこかに、必ず十字架はある。
しかしもしそれが、キリスト教会から派生した異端の教会であれば、例えばエホバの証人の教会であれば、例えば統一教会の教会であれば、どこを探しても十字架はないです。

我十字架を見る時、汝らを過ぎ越すべし――私たちは改めて、ヨハネの指の指してる方向である、その十字架をアドベントのシーズンに見ます。これが私たちのしるしであり、この十字架の血潮によって、私たちの上に降りかかるすべてのわざわいが私たちの上を過ぎ越して行く。たとえそのわざわいが私たちの上を通ったとしても、神のみ翼は私たちを守り、私たちを救ってくださる。

2)ヨハネは単純にイエスさまを指さしただけではない。
ヨハネは指さすことによって、自分の弟子たちに、イエスさまについて行くように言った。
ヨハネの福音書に戻って頂いて、1章の35節〜39節までを交替で読んでいきたいと思います。

35その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
36イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊。」と言った。
37ふたりの弟子は、彼がそういうのを聞いて、イエスについて行った。
38イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊りですか。」
39イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。

その日以来、彼らはずーっとイエスとともにいます。バプテスマのヨハネは単に『神の子羊』と言って、イエスさまを指さしただけではなかった。バプテスマのヨハネは、自分が抱えていた多くの弟子すべてが、イエス・キリストについて行くように、イエス・キリストに従って行くように指さしたのです。

何度も何度も人々はバプテスマのヨハネに「あなたはいったいだれですか?」と尋ねますが、ヨハネはいっこうに自分の素性を明らかにしない。なぜなら、「私なんかどうでもいいのです。イエスについて行きなさい」(と言いたいのですから。)

それはイエス・キリストが単に『神の子羊』として、私たちの罪をきよめてくださるだけではない。この方は私たちを神の子どもとして造り変えてくださる。この方を信じてついて行くときに、私たちは造り変えられて行く。そのことをバプテスマのヨハネは実に興味深いものの言い方で表現致します。1章の33節、ちょっとこれは私の方で読みます。

33私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』

バプテスマのヨハネはこう言っているのです。「私は単純に水でバプテスマを授けている。バプテスマを授けるというのは、神に帰って来た者が、神の御前で人生をやり直すことです。洗礼を受ける者というのは、聖書の教えやキリスト教がすべてわかった者ではない。先週話しましたように、自分の本来的なあり方がこれでいいのだろうかという疑問を持ちながら、神のところに立ち返って来る者に、ヨハネは洗礼の(水の?)バプテスマを授けたのです。「さあここからもう一度あなたの人生をやり直しなさい。どこかで罪と恥にまみれたあなたの人生を私はぬぐい去った。ここからもう一回あなたは始めなさい」と、洗礼をもって送り出す。

しかしそれだけではない。バプテスマのヨハネは、イエス・キリストについて行くときに、彼は単純に十字架を指さしているだけではなく、この方について行くときにこの方はやがてあなたに『聖霊によるバプテスマ』を授けると(言っているのです)。他の福音書では、『火によるバプテスマ』という言い方もあります。この方がくださる聖霊――それはもっと内的な変貌をあなたにもたらす、神の力となる。あなたがたは内側から造り変えられる。そして単純に罪を赦していただくだけでなく、私たちは神の子どもにふさわしく変貌していく。

今日紹介致しました(高津教会にご夫妻で転入会)K兄は、日本聾話学校の****を、今しておられます。一線を退いて就かれた仕事ですけれども、小学校から高校生までは日本聾話学校、日本最初の聾話学校です。それで幼稚園、保育園はそのレベルのものは、ライシャワー・クレーマー学園という名前が付いている。K兄のお嬢様はそこで10年間教えておられたという風に伺ったことがあります。私はK兄に招かれて、先日そこで礼拝をさせて頂きました。

日本最初の聾話学校、当時の新聞が残っています。「つんぼの耳が開かれ、おしが聞える珍学校、日本に誕生」という新聞記事がありました。だれが始めたのか?それはアメリカの長老派の宣教師でありました、ライシャワーさんが東京で始めたのです。やがてそれを学校にして大きくして行くのは、その宣教師の息子さんで、ハーバード大学で東洋の政治経済を教えておられたあのライシャワーさん(駐日大使として来日された)ですね。日本聾話学校のモチーフというものは膨大ですね。

当時の写真を見ますと、一番最初は糸電話の大きなもの。それがゴムホースのようなものでくくられていて、そして何とか伝えようとした。やがて手話が始まり、そして最近になって人工内耳を病院で植え付け、そしてそれによる特殊電波で聞こえるようにして、もう手話は一切使っていない、日本で恐らく一番最先端な形で教えている日本聾話学校。その発端はいったいどこにあるのか?

私はあるできごとを教えてもらいました。一番印象的だったものは、子どもが生まれて、病院で、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんが集まって、ほんとにおめでとう、五体満足な子どもが生まれてよかったねぇ、よかったねぇで、3日4日5日過ごす。そして5日目位に最終的に耳が聞こえるかどうかのスクリーニングのテストをします。そして聞こえないことが判明する。すると小さな子どもは、あどけない子どもを前にした両親も家族も親戚も、どん底にたたき落とされる。

それをライシャワー・クレーマ―学園は、病院と提携しながらどん底から引き上げる。子どもだけではない、まず親の心の持ち方から引き上げるために、幼稚園時代も親御さんも一緒にできたら来てくださいという。日本全国から、わざわざお父さんが仕事を変えて、相模原に引っ越して来る。私は今の働きも尊いですけれども、それを一番最初に、東京の教会を開放して始めたライシャワー宣教師は尊いと思います。

それは耳の聞こえない子どもたちを見て、どんな不憫な思いをしたか?その不憫な思い、まぁイエス・キリストの憐れみ(に通じるものですが)、日本の多くのその慈善的な活動、世界の多くのその働きは、イエス・キリストの愛を、神の愛を宿している人物の、不憫さを憐れむ心によって始められて行くのです。

それと引き換え、私たちがある意味で祝っているクリスマスが、なんと肉的なクリスマスかということも考えさせられる。教会で、栄光を捨てて飼葉おけの中に宿ったところの、処女マリアに宿りやがて出産した時に、馬小屋で生まれ飼葉おけに寝かされたイエス・キリストを賛美しながら、片方で私たちは、いかにしてこのクリスマスを楽しむかということしか考えていない。

バプテスマのヨハネが指さしたイエス・キリストに弟子たちはついて行くことになる。ついて行くに従って彼らはますます変えられて行く。聖霊の働きによって変えられて行く――それが救いの知識の奥義です。

まだ当時の人々は、『神の子羊』といわれても何の事だかよくわからない。あるいは『聖霊によるバプテスマ』といわれても、何の事だかよくわからない。でもやがてイエス・キリストについて行くと、それらを知るようになります。

C・S・ルイスの『ナルニア国物語』の第3巻のタイトルは『朝びらき丸 東の海へ』。一つの船が東の海へ旅立って行く。その船の名前は「朝びらき丸」。C・S・ルイスのナルニア国物語の話は何度もしていますが、映画になっておりますので皆さんも見たことがある方もおられると思いますが。

子どもたちが夏休みのある日に、部屋の壁にかかっていた船の絵をじっと見ている。すると向こうから波が押し寄せて来て、あっという間に、船の絵の中に吸い込まれていく。そしてその船に乗ってナルニアへ冒険の旅をする。C・S・ルイスは当時の神学者でありました。文学者でもありました。彼は何とかして、聖書の真理を子どもたちのレベルで伝えたいと思いながら、このナルニア国物語という壮大なドラマを本にするわけですね。

この本の中にユースチンという意地の悪い男の子が出て来ます。彼はとってもわがままで自分のことしか考えない。人を平気で利用して、自分の楽しみしか考えていない少年です。船の長い航海の果てで、島を見つけて船の修理をします。しかしユースチンはその手伝いなんかしたくない。彼は仲間を残して島を探検します。

そこでドラゴンの巣を見つけます。恐る恐る中を覗いてみると、幸いドラゴンはいませんでした。でもその代わりに、そこに宝の山、輝くほどの宝を見つけます。彼は宝の山の中から、宝石をちりばめられた腕輪を気に入って、自分の腕にはめてみます。そして探検で疲れた少年はいつの間にか巣の中で眠ってしまいます。

どれくらいの時間が経ったか、ふと眠りから覚めると、戻って来たドラゴンが自分の隣で寝ているのです。彼はその恐ろしい悪魔の形相のドラゴンが、なんと自分の隣に寝ているのを見て、もう心臓が口から出そうにびっくりしました。息をひそめました。じっーとしていました。このままいたら食われてしまう。彼は勇気を出して右手をそっと動かしたら、なんとドラゴンの右手も動く。あっと思って、手を戻しますとドラゴンの手は引っ込む。彼が足を動かすと、ドラゴンは足を動かす。

その時点で、ユースチンは気が付きました。隣にいると思ったドラゴンは自分だった。欲張りな心がいつの間にか、自分を欲深い悪魔にしてしまった。自分が恐れていた、厭がっていたドラゴンに自分がなってしまった。

叫び狂って彼は洞窟を出て、そこは湖でした。惨めで、自分の姿を映して見ると、本当にドラゴンになっている自分がいました。焦った彼は、ちょうどいい石を取って来て、ドラゴンの皮を自分の身体からはがそうとします。必死になってはがします。しかし一枚はがすと、下から出て来たのはドラゴンの皮でした。もう内側まで全部ドラゴンになっていた。どんなにはがしても無理です。

やがてこのユースチンが、アスランという、――この物語では、ライオンなのです――イエス・キリストに出会う。ユースチンはアスランがしてくれたことを、友だちに話します。こう書いてあります。
「初めてアスランがドラゴンの皮をはがしにかかった時、あまりにも深く爪を入れられ、心臓に届くかと思った。あんな苦痛は生まれて初めてだった。でも不思議にその皮がはがれていくのが心地よかった。」

人生で初めて深く爪を入れられた。心臓に届くかと思った。あんな苦痛は初めてだった。でも不思議にその皮がはがれていくのが心地よかった。バプテスマのヨハネは私たちに指さす。――さぁ、見てご覧、『神の子羊』を。このイエス・キリストの十字架があなたの罪を赦し、あなたをきよめる。しかしあなたはそれだけではない。あなたはイエス・キリストについて行くようになる。すると自己中心な思いが、知らない内に自分の心の中に根を張っていた、このドラゴンの皮を、主ははがしてくださる。

時に悲しみに追い回されて、悲しさにおぼれていると、私たちは悲しみのドラゴンになり、悩み事で膨れ上がってしまったドラゴンというのもありますし、劣等感の塊になってしまったドラゴンというのもあるでしょう。しかし、イエスキリストについて行くときに、「自分でそれをはがすのを止めて、わたしにすべてを委ねなさい。わたしがあなたを救う」と言ってくださるイエス・キリストに、ついて行くアドベントでありますように。

☆お祈り
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」(ヨハネ1:29、33)

恵み深い天の父なる神さま、バプテスマのヨハネの指のような人物、ライシャワー宣教師がそうなのでしょう。あるいは私たちが今まで出会って来た多くのキリスト者が、このバプテスマのヨハネのように、私たちの目を神の子羊であるイエス・キリストに向け、私たちの目をこのドラゴンの皮をはがしてくださるイエス・キリストに向け、「わたしについて来るなら、あなたは神の子どもとされる」と約束してくださったことを心から感謝致します。

どうか私たち自身もバプテスマのヨハネのようになり、周囲の方々にイエス・キリストの十字架を指さすような、優しい憐れみ深い心になることができるように助けてください。そして今年のクリスマス、また一つまたドラゴンの皮をはがしてくださり、もしそれが悲しみであれば、もしそれが悩みであれば、もしそれが憤りであれば、私たちをそれらからほんの少し解放してください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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