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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   2012年元旦 わたしは初めであり、終わりである
2012年元旦聖日礼拝「わたしは初めであり、終わりである」

☆聖書個所    ヨハネの黙示録21:1〜6
1また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。2私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。3そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」5すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」6また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。

☆説教
今年は黙示録21章から6節のみことば(***22章13節も同じ)をしおりにしています。

6また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。」

アルファ・オメガというのは、ギリシャ語のアルファベットの一番最初と最後の文字ですね。「最初であり、最後である」というのは、口語訳や、新共同訳は「初めであり、終わりである」となっていますが、私はこちらの訳の方が好きなので、(説教題を)「わたしは初めであり、終わりである」にしました。

黙示録は言うまでもなく、聖書の最後の書物で、21章はそのずっ〜と後ろにあります。それを記したのは、使徒ヨハネでありました。ローマ帝国がキリスト教徒を弾圧し、多くのクリスチャンがいのちを落とします。殉教する者だけではなく、信仰を捨ててしまう者も多くいたに違いありません。そんな中で、エペソの教会の牧師であったと言われる使徒ヨハネは地中海のパトモス島に流刑になります。

黙示録の1章の9節をご覧になると、こういうみことばがあります。

1:9私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスの証しとのゆえに、パトモスという島にいた。

外からの情報が断たれ、孤独になりました。みんなどうしているのか、ヨハネは12弟子の中で一番最後まで生き延びたと言われていますから、もうすでに他の弟子たちは世を去っていました。自分が牧会していた教会がどうなっているのか、全く分かりません。このローマ帝国の迫害にキリスト教会がいつまで持ちこたえることができるのか、ヨハネは頭が混乱していました。パトモスに至って、すべての情報が断たれ、風前の灯となっている教会の現状に心配しながら、孤独に混乱しているヨハネを、イエスさまはどのような方法で励まされたかというのが、今朝の話のテーマです。

どのような方法で励まされたか?例えばイエスさまは、「わたしはあなたとともにいます。あなたを捨てない、離れない、ともにいる」(マタイ28:20、へブル13:5)と語りかけて私たちを励ましてくださるでしょう。

しかし、イエス・キリストがこのヨハネを励ました方法はそれとは異なっていました。なんと主はヨハネに終わりを見せます。終わりを見せることによってヨハネを励まされました。ちょっと4章の1節を開いていただきますとこういう風になっています。

4:1その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」

イエス・キリストはヨハネに「この後、必ず起こる事をあなたに示そう」と言って、ヨハネを力づけ、励まされた。

●ヨハネはどんな終わりを見たのでしょうか?

年末に私たちは一年を振り返るテレビの録画を見ながら、特に大震災にまつわるさまざまな映像を見たに違いない。強烈に私の心に残ったのは、それは津波を生き延びた人物の話でありまして、こう言っています。

「津波が来たら、『避難してください』ではダメです。避難ではなくて、津波は襲ってくるのですから、逃げるしかないのです。何も考えずに何も持たずに、一目散に逃げるしかないのです。そういうアナウンスをしてほしかった。」

ものすごく実感がこもっていました。そして、あまりにも心に留まったので、ちょっとインターネットで調べました。すると、内閣府による4年前、平成20年度の広報「ぼうさい」にこんな記事が出ていました。
見出しにこうあります。「災害時に、なぜ人は逃げないのか」――ちょっと読んでいきます。

被害に遭った人たちに調査をすると、大抵の人は「逃げようと思った」と言います。逃げなければならないということは百も承知している。けれども、最終的に「逃げる」という決断をしなければ、結果として人は「逃げていない」のです。
 
これは人間の性(さが)と言ってよいと思いますが、災いに対して「正常化の偏見」という心理が働きます。人間は、自分にとって都合の悪い情報は無視するという特性があるのです。同じ情報でも都合の悪いことは過小評価し、都合の良いことは過大評価する。たとえば、1年間に交通事故で6000人が亡くなっていると聞いても、自分がその中の1人になる可能性があるとはなかなか思えません。ところが宝くじで1等の1億円が6000人に当たると言われると、そちらは当たるような気がする(笑)。実に都合のいい考え方をするのが人間なのです。
 
頭では逃げるべきだとわかっていても、実際に自分は逃げていない。そこに矛盾が生じますが、それを解消するために、人は逃げていない自分を正当化しようとします。かつて大雨や津波が来て避難勧告が出されても自分は一度も大きな被害に遭わなかったとか、隣の家も逃げていないとか、理由は何でもいい。隣は隣で同じように「隣も逃げていない」(笑)と思うことで「安心のネットワーク」が作られてしまい、結果、地域全体で逃げ遅れてしまう可能性もあります。
 
こうした状況下で必要になるのが、「率先避難者」の存在です。逃げる気はあるけれど逃げられない人たちの中にあって、「私は逃げるぞ」と声を大にして避難する人が、地域に1人はいてほしい。町会長でも誰でもいいのですが、そうした役割を担う人がいることは、地域の防災力を高める上でも重要です。
  
私は、これを読んで、クリスチャンは率先避難者であるべきだ、と思いました。なぜなら、イエスさまがこうおっしゃったからです。
初代教会の人々が体験した、紀元70年、ローマ帝国が攻めてきてエルサレムが壊滅することを予告され、イエスさまは逃げろ、と警告されます。

マタイ24:15それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』(***当時のローマの権力者)が聖なるところに立つのを見たら(***神殿を崩す)、(読者はよく読み取るように。)
16そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

(読者はよく読み取るように。)とはマタイによる強調です。イエスさまは逃げろと言われた。加えて、
    
17屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
18畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。

身一つで一目散に逃げなさい。危機感を持っていなさい、とはイエスさまの教えでした。

しかし、イエスさまがヨハネに見せた終わりとは、必ずしもヨハネにこのような危機感を持って生きろとおっしゃったのではありません。イエスさまが、ヨハネに見せた、終わりとはどのようなものだったのでしょうか。

●ヨハネは最初に神の御座を見た

黙示録の4章に目を移していただいて、1節で「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう」とおっしゃったイエスさまは、4章の10節と11節で、先ずヨハネに、神の御座を見せてくださいます。
  
黙示録4:10二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
11「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

一番最初に彼が見たのは、神の御座です。そして、座しておられる神は、右手に巻物を持っておられました。
とっても象徴的に記されていますから、通常私たちが解読することはできないような文章です。
この巻き物には封印がしてあって(5:1)、だれもそれを解くことはできませんでした。しかしイエス・キリストだけが、解くことができました。

5:7子羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。

そこから始まり、次々に巻物が解かれて、巻き物の中にあることをヨハネにつぶさに見せていかれます。ヨハネが見るのは、世界大の飢饉、世界を襲う疫病、世界の何分の一かが死んでいきます。そして、自然界の異変です。(黙示録6〜7章)

さらにヨハネは七つのラッパが吹き鳴らされるのを見ますが、そこではさらに大きな地震、火山の噴火、さまざまな災害、世界大の戦争、そして断末魔のように叫ぶ悪魔の働きが逆に勢いを増す世界を見せられます。(同8〜9章)

そんな世界の終わりを見せられたら、何の希望も光もなく、暗闇と死に包まれるだけではありませんか。この世界がそんな終わりに進んでいるとしたら、何の希望もないではありませんか。
いえいえ、ヨハネが見せられた終わりは、この世の終わりだけではありませんでした。

●主がすべてを新しくされ、新しい天と新しい地に自分が招かれていることを見た

今の世、つまり怒りとうめき、悲しみと叫び、悲惨と混沌、悪と汚れに染まった世界が終わりを迎えると同時に、終わりに開眼したヨハネは、主イエス・キリストがすべてを新しくされるのを見るのです。それが今朝読んでいただきました、21章です。ほんの一部だけこの21章に集中してみようではありませんか。 21章の1節と2節を一緒に読みたいと思います。

1また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

ヨハネが見せられた終わりというのは、何もこの世の終わりだけではなかった。同時に終わりに開眼したヨハネは、主がすべてを新しくされ、新しい天と新しい地に自分は招かれているということを見たのです。

私たちは昨年、世の終わりを感じることのできるような災害に遭いました。そのことによって、危機意識が高まりました。しかし、終わりに開眼するということは、危機意識が高まるということではない。人生のはかなさを悟るということでもない。それは、すべてが新しくされたとき、そこに自分は招かれていることを心に刻むことです。やがてすべてが新しくされ、そのとき私は新しい恵みの世界に招かれている。
       
●イエス・キリストの十字架は常に立ち、渇く者に価なしにいのちの水を飲ませてくださる

私を恵みの世界に招くために、イエスさまはおっしゃいました。

21:6わたしは、アルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。

イエスさまはヨハネに、歴史の始まりと終わりを見せられただけではなくして、最終的にはご自身の本当の姿を見せられたのです。
イエス・キリストの本当の姿とは、「わたしが初めであり、終わりである」ということ――わたしはすべてを導き、すべてを支配している。パトモスにいるあなたも、あなたが残してきたエペソの教会も、すべてわたしの手の中にある。世界に飢饉が起ころうとしたときには、疫病が蔓延するとしたら、わたしはその中にいる。

そして、この方は、変わらずに語られます。

6わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。(6節の最後)

「いのちの水の泉」、源とは、十字架です。
「価(あたい)なしに飲ませる」とは、わたしを信じ、信頼し、ついてくるだけで、わたしはあなたを救おう、という意味です。

終わりを感じる時代にあって、私たちは終わりに開眼する。それは単純にこの世界の虚しさを悟るだけではありません。単純に危機意識を高めるだけでなく、やがてイエス・キリストがすべてを新しくされ、その一貫したプロセスの中で、常に十字架がこの世界に立ち、そして価(あたい)なしに、イエス・キリストを信じ、信頼し、ついて来る者に、イエス・キリストはいのちの水を飲ませてくださる。今年一年間、それを超えて、私たちは信じて生きようではありませんか。

イエス・キリストを信じて生きるというのは、終わりに開眼しながら生きることです。つまり、この終わりの時にあっても、その終わりの時を突き抜けて、天国を、神の国を希望をもって生き抜いていくことです。

ロマ書の8章が言うように、自然界がうめき、社会がうめき、いや神の子どもとされた私たちもうめいていますが、これらのうめきのただ中に、イエス・キリストの十字架が立って、初めから終わりまで立っていて、私たちを神の愛へ、希望と力へ、永遠のいのちへ、迎えて入れてくださることを、招いていてくださることを、見定めていくことです。それが「わたしは初めてあり、終わりである」というみことばを信じる私たちの生き方です。

うめきの中に埋もれず、安全神話にだまされず、同時に終わりの時代に翻弄されずに、
「初めであり終わりである」キリストの愛と力が、私たちを取り囲み、私たちを導き、支えていてくださることを確信して生きていこうではありませんか。

●最後に、少し長めの話ですが、それに付き合って頂いて、「わたしは初めであり、終わりである」というイエス・キリストを少しつかんでいただきたいと思います。

ヘミングウェイと並んで、アメリカ文学の巨匠と称される、ウィリアム・フォークナーの作品に『響きと怒り』という小説があります。
描いているのは、南部のミシシッピー州にある、特権階級にあったコンプソン家の子どもたちが破綻していく姿を描いています。
長男は苦悩の果てに自殺し、長女は荒れ果てた生活をして放蕩の限りを尽くし、次男は金の亡者となります。
この三人の一番下に、知的障がいを持つベンジャミンがいます。彼はしょっちゅうその障がいから来る言葉にならないうめき声をいつも発しています。それが、この小説の題となっている「響きと怒り」です。
とっても奥の深い小説で、もともと、「響きと怒り」という言葉を、フォークナーは、シェイクスピアの『マクベス』の言葉から持って来ています。

「明日が来、明日が去り、そうして一日一日と小刻みに、時の階(きざはし)を滑り落ちて行く、この世の終わりに辿り着くまで滑り落ちて行く。

人の生涯は動きまわる影に過ぎぬ。あわれな役者だ、ほんの自分の出番のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚いたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる。私たちの人生は、愚か者のおしゃべり同然、響きと怒りに満ちている。何の意味もない。」

というシェークスピアの『マクベス』に出てくる「響きと怒り」。私たちの世界、私たちの人生から、ふつふつと湧き出てくるようなさまざまな問題課題、つぶやき、響きを、ウィリアム・フォークナーはこの小説のタイトルにし、その混沌としたコンプソン家の一番下の知的障がいを持った子どものベンジャミンに重ねるのです。
          
時に私たちも、だれもが思うではありませんか。人の人生は愚か者のおしゃべりに等しい、意味もないうめきと怒りに満ちている。そんな人生に、明日が来ても、明日は過ぎ去り、時の階段を下りていき、やがてこの世の終わりに辿り着く。

フォークナーは、このシェイクスピアの言葉を借りながら、人生の矛盾、コンプソン家の顛末を、知的障がいの末っ子ベンが、いつも発する意味のないうめき声に集約しています。意味もないうめき声ですが、それは、彼の人生だけではない、この世界とその中に住むすべての者たちの「うめきと怒り」を代表しているのです。
 
この家には、悲しみと醜さと苦悩にそまった子どもたちがいるだけではありません。
黒人奴隷の女ディルシーが、いろいろと世話をしています。
物語の最後の方で、ディルシーが末っ子のベンを、教会の礼拝に連れて行く場面が描かれています。

その日は、有名な説教者を招いての特別礼拝でした。一見しますと、大したことのない、見栄えのない、素朴な男です。でも、だんだんと会衆の心を捕らえていきます。説教者はこう言います。

「私は、神の子羊を知っている。その血を信じている。
私には、何もかも一呑みにする大水が天国とこの世界の間を押し寄せてくるのが見えた。
私には、暗闇と何代にもわたる永遠の詩が見えた。兄弟たちよ、罪人たちよ、私に何が見えると思うか。私にはイエスのよみがえりと栄光が見えた。優しいイエスが、『わたしが死んだのは、あなたがたが再び生きるためだ』とおっしゃるのが見える。」

説教者が見ていたのは、この世の終わりと、それを前にした壮絶な患難と混乱だけではありませんでした。
彼には、イエスさまの十字架と復活が見えていました。つまり、「わたしは初めであり終わりである」とおっしゃるイエスさまの愛と力が見えていました。

この説教者の話を聞きながら、いつしかベンはうめくことを止め始めます。
小説にはこうあります。
「ベンはその優しい青い瞳を恍惚と輝かせながら、そこに 座っていた。」

人生の矛盾、この世界の闇、それに対する神の裁き、そして世の終わり、まさに、明日が来て、また去って、一日一日と時の階段を下りて、やがてこの世の終わりにたどり着くような、この世界にあって、うめいていたベンはいつの間にかうめくことを止め、静かに礼拝の場に座っていました。

そして、ディルシーは、礼拝が終わって帰って行く帰りの道で、何度も言います。
「私は初めと、終わりを見た。」

この世界がどんなにうめきに満ちていても、また終わりに向かってどんなに怒りが増大していっても、そこにはいつも十字架と復活のイエス・キリストがおられる。「初めであり終わりである」方が、いつもおられる。

私たちはベンであり、私たちはディルシーです。どんなうめきを抱えながらも、「初めであり、終わりである」方が、「渇いているなら、だれでもわたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と私たちを招いてくださるこの礼拝に座っている時に、いつしか私たちの心は平安に満ちています。そして、ディルシーのように、礼拝から帰って行くときに、私は「初めであり、終わりである」とおっしゃるイエス・キリストを確かに見た(と言うのです。)

2012年がどういう年になるか、私たちは何にも想像することができません。しかしこの方は私を終わりへと導いてくださる。のみならず、終わりへと行くその過程で、いつでもいのちの水を飲ませてくださる。そして、私たちはすでにこの片足を、新天新地に入れている。やがてこの世界が主の導きにより、完成へと導かれていくことを信じて、歩んでいきたいと思います。

☆お祈り
黙示録21:6
また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。(初めであり、終わりである。)」

恵み深い天の父なる神さま、小さな小さな幸せを大切に大切にしている私たちを憐れんで下さい。そんな小さな私たちが、あるいは私たちの周囲が、大きな洪水で一気に崩れていくこの世界に生きていく私たちです。警戒することを教えてください。逃げることを教えてください。

しかし、「人の安全神話は崩れるよ」でもなく、「危機意識をいつでも持っていろよ」でもなく、「わたしは初めであり、終わりであり、渇く者にはいつでもいのちの水の泉から、価なしに飲ませる」とおっしゃるあなたに、どこまでも信頼し、どこまでもこの信仰を傾け、どんな障害物も乗り越えていくような信仰者として、私たちを強めてください。

パトモスに流されたヨハネのように、孤独の中で苦しむこともあるかもしれません。しかしそんな中でも、十字架と復活の主を、まざまざと見せていただき、いつしか静かに礼拝に座る者とならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


☆聖餐式
讃美歌の393番(しみもとがも)を賛美し、……

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