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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/29教会総会 「主イエスは教会を見て回られる」
1/29教会総会 「主イエスは教会を見て回られる」

☆聖書個所   マルコ11:11〜18

11こうして、イエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。
12翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
13葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
14イエスは、その木に向かった言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
15それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、
16また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
17そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
18祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。

☆始めのお祈り

あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。あなたは、こうして地の下ごしらえをし、彼らの穀物を作ってくださいます。
あなたは、その年に、み恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡には、あぶらがしたたっています。(この日の交読詩篇65篇より9節と11節)

恵み深い天の父なる神さま、この寒い朝、遠くから近くから、私たちの教会で持たれる礼拝に、愛する兄弟姉妹を送ってくださったことを感謝致します。

一週間、あるいはこの一年、あなたのみこころにかなわぬ弱き小さな群れでありました。しかしあなたはたびたび地を訪れて(同9節)くださり、この教会を行き巡ってくださり、水を注ぎ、あぜ溝を水で満たし、そのうねをならし、夕立で地を柔らかにし、私たちの霊的な生長を祝福して(同10節)くださいました。

振り返って見ると、またこの年を通して見ると、あなたのみ恵みの冠は輝きを増しているに違いありません。どうか今朝もこの教会を訪れてくださり、私たちを教えてくださり、私たちを祝福してくださり、特になかなか日常生活の中では見えて来ない、地の下ごしらえを豊かにしてくださいますように。

私たちの人生はあなたの恵みの栄養を吸い込みながら、あなたの祝福を霊的土壌の下で豊かに受けながら、生長を遂げています。すぐに形に表れないものもあるのかもしれません。しかしいつもあなたによって支えられ、導かれ、祝福されていく人生を過ごしていくことができるように、今日集われましたお一人お一人を祝福してください。

特別に総会が持たれる具合で、遠くから、少々の無理を超えていらっしゃった方々もおられるでしょう。イエスさま、どうかこの寒い中インフルエンザ、あるいはすべての病から私たちを守ってください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆説教     「主イエスは教会を見て回られる」

今日の教会総会で、私たちは昨年一年間の歩みをともに振り返り、またこの年の課題を展望しようとしています。
教会総会は、宗教法人とその会員に課せられた義務でありますので、会計に至るまで、それは霊的というよりも、むしろ実務的な意味合いが強いのです。しかし、私たちは必ずしも、そのようには受け取っていません。
それは、マルコの福音書の11章の11節を目に留めていただきたいのですが、

11こうして、イエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。

イエス・キリストは、「宮に入られ、すべてを見て回る」お方だからです。イエスさまは、教会のすべてに関心がおありです。そして教会のことを17節に「わたしの家」と呼んでおられるように、教会は主のものです。

ですから、単純に実務的なことを振り返るのではなく、イエスさまご自身がこの教会のすべてを見回っておられるという意識をもって、私たちは教会総会に臨みたいと思っております。

第一番目に、今日心がけておいていただきたいのは、

1)神さまは、世界の何よりも教会をご覧になる。

読んでいただいたのは、イエスさまがついに弟子たちを連れて、エルサレムに入られた場面です。「エルサレム入場」と言われている場面です。イエスさまは、ろばの子に乗ってエルサレムに入られます。イエスさまは真っ黒に黒光りするたくましい軍馬ではなく、子ろばの背に乗って入られます。

7そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
          
たくましい軍馬が権力の象徴だとしたら、ろばの子どもは平和の象徴、その遜った柔和な主として、エルサレムに入られたことを象徴していたのでしょうか。確かに、そうでしょう。しかし、ろばの子に乗るとは、もっと深い意味がありました。
それは、旧約聖書の(預言書)ゼカリヤ書9:9にこう記されているからです。

9シオンの娘よ。大いに喜べ。
  エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
 見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
 この方は正しい方で、救いを賜り、柔和でろばに乗られる。
  それも雌ろばの子の子ろばに。

イエスさまは、エルサレムに入る前に弟子たちに指示を出しました――村に行ってろばの子を借りてきなさい――そう言われた途端、弟子たちにはピンと分かった。この時点で弟子たちも直感したはずです。ついに、(旧約)聖書で預言されている王、救い主がエルサレムに入っていかれると。

イエスさまが意識して、敢えて取られたのは、必ずしも遜った姿勢ではなかったわけです。イエスさまは明確に、旧約聖書の預言の成就、つまり王として、救い主としてのご自身を明確にするために、敢えてろばの子の背に乗られました。

弟子たちも人々も、その期待感にあふれていました。ですから、ホサナ(主よ、救ってください)と叫びながら、王を迎えるようにイエスさまを歓迎します。
この方こそ、ローマ帝国の支配からイスラエルを救う方。諸国に散らされた民を集めて、ダビデの王国を再建される方を、私たちは今迎えようとしている。

人々は、救い主に、エルサレムが植民地となってローマに押しつぶされそうになっている、この現状をその目で見てくださいと願いながらイエスさまを迎えました。ところが、主はまず神殿に向かいます。神殿をくまなく歩いて、その霊的な状態をご覧になります。

単純に人々の期待に応えるのなら、イエスさまはエルサレムに入ったとたんに、ローマの総督ピラトの官邸に行けばよかった。そこでピラトに挑戦状をたたきつけて、宣戦布告をすれば、民衆は熱狂したのでしょう。

ところが、イエスさまはピラトの官邸には関心がありませんでした。代わりに神殿に行かれます。戦いを前にして祭司から祝福を得るために神殿に行ったのではありません。ご自身の家であり、信仰の中心である神殿がどうなっているのかを見るために、隅から隅までご覧になった。この神殿の霊的な状態に、イエスさまは一番の関心を寄せられた。なぜなら、ここが神さまの源だからです。

例えて言うならばこういうことです。もしイエスさまが今の日本に来られたなら、日曜日に人が密集している渋谷をご覧になるのか、あるいは大都会の裏側に夜訪れられるのか、国会議事堂に行かれて日本の政権政治を心配されるのか、いや、イエスさまがもし日本に来られるとしたならば、間違いなく最初にご自身の家である教会に来られる。私たちは日本の政治に時として嘆きのため息をつきます。あるいは日本社会のあり方に私たちは涙を流しますが、イエスさまが来られる時に一番最初にご覧になるのは、ご自身の家である教会です。

昔、フィリピンにマルコス大統領という独裁者がいました。国民の富を一人占めにする、汚職にまみれた政権です。フィリピンはキリスト教国家であります。当時、反政府勢力の筆頭でありましたベニグノ・アキノ氏は暗殺されます。後に夫人が大統領になります。

正義のために立ち上がった民主勢力の指導者が暗殺され、悪が勝ち誇ったような時代にあって、フィリピン・カトリック教会のトップである、シン司教が立ち上がりました。
シン主教は、フィリピン人民の自由のために、そして国家の行く末のために、長い間祈りを積んでいました。彼は、旧約聖書のイスラエルの歴史を学んでいく内に、ある一つの真理に辿り着くのです。
                
それは、神は、民の罪を裁かれるとき、悪の指導者を遣わされる。もしかしたら、それが今のフィリピンではないかと彼は痛感してしまう。悪の指導者の罪は、民の罪ではないか、そして民の罪は、教会の罪ではないかという結論です。
シン司教は、国中のカトリック教会を回って、クリスチャンが聖書を読むように、みことばから学ぶように聖書研究会を開くように勧めます。教会がまず、信仰の原点に回帰して、キリストの教会(身体)にふさわしく整えられていく。それがすべての原点にあるという見方をシン司教はした。それは、ここに出てくるイエスさまの姿勢を見てよくわかります。

主はまず、ピラトの官邸に支配されている、エルサレム全体をご覧になることはない。主はまず神殿に入られ、宮をくまなく、すべて見回って行かれる。主はまず教会を見て回られる。汚職にまみれた政権を見て回るのではない、信仰の活力を失った教会をご覧になる、という風にシン司教は考えました。

私はこの視点はとても大切だと思います。ですから私たちは、イエスさまがご覧になるような目で教会を見なければならない。
 
2)イエスさまは、ただ見ただけではない。期待を持ってご覧になった。

12翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
13葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。

いちじくの木にとってはそうです。でもこれはたとえでありまして、旧約聖書以来、イスラエルが木にたとえられるとすると、ぶどうの木か、いちじくの木か、オリーブの木です。イエスさまはそこに遠くから見ると、葉の茂ったいちじくがあった。そしてすぐに何かありはしないかと、期待感をもっていちじくに近づいてみますと、なんと実の一つも付いていなかった――これは何を言うかというと、当時の宗教の中心であった、エルサレムの神殿を指しているのです。(そして、その期待は、神殿にある、霊的な実です。)

葉は、いっぱい茂っていました。ちょうど祭りのシーズンで、忙しく、騒がしく、人々が生き生きと行き交う大都市でありました。そこには、神殿があり、市場があり、生活と文化があり、一見、祝福と繁栄の町でした。神殿も祭りの時期には繁盛していました。

13節をちょっと見て頂きますと、この「何かありはしないか」「葉の茂ったいちじく」と重なるかのように、15節を見てください。

15それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め 、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、

「両替人の台」――この祭りのために、全世界からイスラエルの人々はエルサレムへ来る。そして神殿に入った時、神殿税という税金を納めなければいけない。しかしこれは、イスラエルの通貨でなければいけない。ですから、両替商が神殿の中にいるわけです。
「宮の中で売り買いしている人々」あるいは「鳩を売る者たち」――彼らが神殿で捧げものをする、その捧げものの鳩を買わなければいけない。(それらを売り買いしている人々が神殿の中に入り込んでいます。)

もちろん、すべてが神殿のお抱えの両替商、商人たちですから、リベートをとって神殿は儲けているのです。
礼拝はそっちのけで、祭りに興じている人々がいるということにイエスさまはがっかりされます。いや、がっかりされたどころか、憤りを発せられます。16節を見てください。

16また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。

「宮を通りぬけて器具を運ぶ」祭司――これはエルサレムの神殿の外にはいくつかの門がありますけれども、その神殿の外側に庭があるのです。その庭というのは、イスラエル人の庭ではなく、聖書で言うところの『異邦人の庭』で、彼らがまことの神である神を礼拝したいと願う時に、自分たちはまだ割礼を受けたイスラエル人ではないという理由で、神殿の中に入ることができない。ですから外の庭は、『異邦人の祈りの庭』と呼ばれていました。外の庭には、異邦人が祈るために、びっしり人がひしめいて、ひざまずいて祈っている中を、祭司たちは近道をするために、神殿の器具を持って運び動き回っているのです。それをイエスさまは許されなかった ――人の祈りの邪魔をするな、ここは祈りの家だ。

もちろん祭司たちは悪意があったわけではありません。でも、ひとことで言えば無神経でした。主は、おっしゃいました――「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(***イザヤ56:7)あなたがたのためだけではない。すべての民の祈りの家だ。彼らを邪魔してはいけない。

ここ2年間、高津教会では、とても常識的なことを強調してきました。それは――オルガンの前奏が始まりましたら、ぴたっとおしゃべりをやめましょう。それ(奏楽)以前は、おしゃべりはあってもいい。あった方がいいのです。久しぶりに会った方もいらっしゃれば、連絡したいことも沢山あります。でも、一旦オルガンが始まったら、水を打ったように静まり返る。

礼拝の終わりにオルガンの後奏は二段階になっていますが、一つ目の後奏は動いてはいけない。それも、礼拝の恵みを噛み締め、自分自身の祈りを主に捧げる尊い時間として、一つ目の奏楽で席を立たないようにというのは、私たちの教会のまぁ、いわば規則です。なぜなら、ここは祈りの家だからです。

週報に「奏楽が始まりましたらお話を止めてください」と、なぜそんなにしつこく書くか、それは、皆さんがしつこいほどにその規則を破られるからです(笑)。それで、今総会でもって、いろいろ相談しまして、もうこのことは明言しようと(なりました。)久しぶりに会った方を見たら、やっぱりいろいろ話をしたい。話していい。しかし一旦奏楽がなったら、アッと気が付いて、話を止めるというのは、無神経に周囲の人の祈りを妨げてはいけないということです。

高津教会は、決して内向きな教会ではないのです。私たちは次の世代のことを考えています。2016年には聖書が変ります。これはもう新改訳聖書が全面改訂されます。
私は新改訳聖書の理事を10数年務めて来ましたけれども、この間改訂のためにいろいろな準備を進めてまいりました。今、新改訳聖書の母体である新日本聖書刊行会の理事長は、私たちインマヌエルの竿代照夫先生です。教会代表委員会で理事をしているのが私で、私は教会代表委員会の委員長を務めていますので、新しい新改訳聖書が出たときに、高津教会が使わないということはないです(笑)。インマヌエル全部変えます。インマヌエルの中が最初に変えます。インマヌエルは年間100万円の献金を新改訳聖書刊行会に贈って、なんとかこの翻訳・改訂事業が進むように努めています。

のみならず、私たちは讃美歌の改訂を今進めています。ご覧になったらわかりますように、700曲ある讃美歌で私たちが実際歌っているのは、150〜200ぐらいです。
でもあの700曲の改訂が許されないのです。中には、もう私たちが使わない、例えば「目しい」とか「エホバ」とかいう言葉が出てくる歌詞もあります。しかしそれらは改訂が許されない。版権はすべて中田重冶先生の家族が握っておられるから、私たちはいじれない。もう7年ぐらい前から、讃美歌をどういう風にしたら、生まれ変わるかということを模索してきました。それで、ここで私たちは、インマヌエル独自の讃美歌を出すことは賢くない。同盟キリスト教団とJECAと一緒に、福音派の教会が共通して使える讃美歌を、しかもそれはちょっと新聖歌とは違い、聖公会の讃美歌やあるいはバプテストの讃美歌も広く取り入れながら、まぁいいとこ取りをしながら、しかも新しく公募にして、今翻訳をするという讃美歌が今年の4月に出版されるのです。

この時も、教団備え付けの讃美歌に関しては、教団の方で1500円の資金を出して、安く備え付けることができるように、今教団では準備をしています。これは大変難しいのです。なぜかと言うと、私たちは聖句はそんなに覚えていなくても、讃美歌は覚えているのです。歌ですから、もう自〜然と覚えている。言葉が変わりますと、ものすごい抵抗感を感じるではないですか?でもある意味で、次の世代のことを考えたら、どこかで変えざるを得ない。まぁ皆さんの要望が通るとしたら、せめて「私の葬儀の時には、讃美歌を古いことばで歌ってください」――これは喜んでお受けします。会衆讃美歌は、どこかで口語体に変えて行かなければ、この先10年20年の日本の教会の讃美歌はやはり成り立たないのです。

私たちは次の世代のことを考え、また都会の教会として柔軟でありたいと願っています。インマヌエルでも古株の教会です。インマヌエルの教団ができたのが1945年です。そして高津教会は1947年にできてますので、上から数えて数番目の古株の教会なのです。
しかし、私たち高津教会は、インマヌエル色を保ちつつも、公同の教会としての風格を得たい。どこかインマヌエル臭い、臭い、臭いと言われるより、なるほど公同の教会とはこういう教会かという風格を得たい。どんな境遇の人でも、どんな信仰の伝統に育った人でも、お迎えしたい。

昨年、教会案内を作ったときに、そこには結婚式から献児式、そして教会墓地に至る写真を載せました。つまり、教会のパンフレットには、まとめて一生面倒を見ますと書いてあるのです。皆さんの信仰生活まとめて一生面倒を見ます。
そこには感謝祭や修養会の写真を載せました。会員同士の交わりや、地域との交わりも重んじます。

あの案内に、一つ教会目標を入れました。それは昨年の教会総会で皆さんにお話しました。その教会目標は、「スズメさえも、ツバメさえも、その巣を祭壇に見つけました」です。私たちの教会はツバメの巣が二つもある教会です。一つではないのです。二つあるのですよ、ツバメの巣が。
詩篇84篇の通りに、ツバメさえもすみかを見つける教会なのですから、どんな教会背景、信仰背景を持った方でも、イエス・キリストを信じておられるなら、だれでも安らぐことができる教会でありたいと願っているのです。

でも、そこに求められているのは、柔軟性であり、開かれた心でありますが、何よりも求められているのは愛です。あいさつを交わし、互いのことを気遣い、自分のことだけでなく兄弟姉妹のことを思いやる心です。

そして、高津教会に魅力があるとしたら、それは柔軟であるからではない。駅から近いからでもない――もっとも、これだけは外せない魅力ですが(笑)。開かれている教会だからでもない、
「ここはすべての人の祈りの家だからだ」「ここはわたしの家だからだ」とイエスさまが教えてくださり、イエスさまが導いてくださり、イエスさまが私たちに平安をくださる、そういう教会だから、ここの教会は魅力があると言われたい。
「駅から近いですねぇ。だから魅力があります」(笑)と言われないように。
      
イエスさまが、一番期待しておられるのは、この町の繁栄でもなければ、この教会の盛んな活動でもありません。この教会にある霊的な魅力です。祈り、礼拝、賛美、みことば、交わり、信仰、愛、平安――この霊的な実を期待して、主は高津教会を見回ってくださいます。

先日インターネットで高津教会を検索していたら、ある方のブログに出会いました。その方は何の許可なく、礼拝に来られて、沢山の写真を撮って、全部ご自分のブログに載せておられました。それで顔が写っていたのは、私と(***賛美のため)前に出ていた学生会の方々ですが、オルガニストと皆さんは背中だけです。

この方の高津教会評(笑)という評価が、ブログに出ていて私はそれを見てびっくりしました。あぁ、こういう風にいろんな教会を訪ね歩いて、食べログではないですが、その口コミ的に教会評価をなさる方がおられるんだと(わかりました。)そしてその方はiPhoneか何かを出して撮って行かれたのだと(思いました。)そしてその方は「高津の次は大和カルバリーチャペルに行く」と書いてある。次にどこに行くかも書いてあるのを見て、ああこういう時代なのだなぁと思いました。で、高評価を得ていましたが、(笑)「とても伝統的な雰囲気がありながら、柔らかな、温かな教会だった」(とあり、)あ、よかったなと思います。

でも私たちは、そういう方のブログ評価を上げるために礼拝をしているのではない。 そういう君は母教会を持っているのか?(笑)と訊きたい。私たちが評価を得たいのはイエスさまから。

この教会では、福音が歪められることなく、まっすぐに語られているのだなぁとか、この教会は新しい方々、他から来られた方々を交わりの中に取り込むところの愛を持った教会なのだなぁとか、この教会は皆祈りに集中する教会なのだなぁとか、この教会は自分の趣味だけではない、公同の教会の讃美歌をほんとに心から歌える教会なのだなぁ、この教会は熱心にみことばに耳を傾け、みことばに生きようとしている教会なのだなぁと、そういう教会でありたいと願っています。

★終わりのお祈り
こうして、イエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてを見て回った後、ベタニヤに出て行かれた。
そして彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。」
(マルコの福音書11章11節と17節より)

恵み深い天の父なる神さま、あなたは今朝も変わらずに、この教会を訪れてくださいました。この教会に豊かにな水を注ぎ、(詩篇65:9)うねをならし(10節)、御恵みの冠をかぶらせ(11節)、私たちの生長を約束してくださる(10節)この恵みを感謝致します。

でも、主よ、あなたはすべてを見て回られる方です。しかも、期待をもって、私たちの教会をご覧になる方です。葉ばかり茂って、実が一つも付いてないと言われることのないように、私たちはいつも自戒をもって教会総会を開いていますが、なかなか結実は与えられないのかもしれませんし、なかなか霊的な魅力を作り出すことはできないのかもしれませんし、大変な弱さとある意味行き詰まりを感じているかもしれません。

しかし、それでも私たちはまっすぐに福音の恵みに与りたい。そして公同の教会としての風格を得て、初めての方もまた旅行中の方も、教会を探して引っ越して来られた方も、どんな方をも住みかを見つけることができる安息の場として、この教会が用いられるようにと願っています。霊的な実を私たちに結ばせてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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DATE: 2012.01.30 - 18:53

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