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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/22神の人モーセ(17)マサとメリバ
4/22神の人モーセ(17)マサとメリバ

☆始めのお祈り

この心 変えてください、主の愛で満ちるように。この弱さも 御手に委ねれば 誇りとなる、あなたの愛で。(この日の讃美「主イエスの愛で」より1節)

恵み深い天の父なる神さま、この聖日、あなたの御前で礼拝を捧げる恵みを心から感謝致します。一週間、特に新しい環境が与えられた方々は精一杯走り抜いて来ました。火曜日から、ケンブリッジにいらっしゃったM家のH ちゃんもKちゃんも、別々の小学校に通うことになったと、それでも元気で楽しかったと言って帰って来たと(いうことで、)心から感謝致します。およそ言葉の通じないような世界にあっても、あなたは理解してくださる友人を先生を備えていてくださる、私たちの不安を覆すほどの恵みを授けてくださるお方であります。

私たちの心はちょっとした心配で一杯になってしまいます。少し悩んだだけで心も身体も病気してしまいます。しかし、「目を開き 見せてください、愛に満ちたその御顔。みこころを 聞かせてください、日々導くあなたの愛で」(同2節)。

今朝私たちはあなたを、信仰の目を開いて見るためにここに座りました。その優しい御顔を拝見するために集まってまいりました。どうかあなたの愛で小さな心を包んでください。時に憤りや、不安や、悲しみや、苦悩や、失望で包まれてしまう、私たちの心をお守りください。

今日のこの日、桂町教会の矢木先生は十和田教会へ、また栄造先生は桂町教会で奉仕しておられますが、それぞれの講壇が祝されますように、よろしくお願い致します。

午後の伝道コンサートのためにも、あなたはふんだんの恵みを与えてください。演奏されるお二人は私たちの教会に属するお二人でありますけれども、特別に強め、私たちもその歌の喜びの交わりの中に入れて頂くことができるように助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆聖書個所       出エジプト記17:1〜7

1イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
2それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水をください。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。
3民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
4そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」
5主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
6さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
7それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それはイスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。 

☆説教     神の人モーセ(17)マサとメリバ

今朝読んでいただきました詩篇を、先に見ていただきたいと思います。詩篇95篇、この詩篇は今日学びます出エジプト17章の出来事を語っています。

詩篇95篇は、礼拝の詩篇です。

1さあ、主に向かって、喜び歌おう。
われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
    
「さあ」と始まりますように、礼拝へ招いている詩篇です。6節にも、

6来たれ。
私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。
私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。        

とありますように、礼拝への“招きの言葉”でよく読まれる詩篇であります。

私たちの礼拝も、“招きの言葉”をもって始まりました。「さあ、来たれ」と招きに応じて、賛美し、神を礼拝します。礼拝には、様々な要素がありますが、7節の最後を見てください。

7きょう、もし御声を聞くなら、

「今日、もし御声を聞くなら」と、神さまの語りかけを聞くことが、礼拝にあってとても大切です。
ここで「今日」と言われていることも重要です。つまり、これから見ていただく、出エジプト記17章の初代のイスラエルの民にとっても――今から4000年ぐらい前の出来事ですね――それから何百年後の詩篇95篇のイスラエルの民にとっても、そして高津教会に集っている私たちにとっても、「今日」は今日なのです。

神を礼拝するときに、今日もし御声を聞くなら、招きに答えて、神さまを礼拝するときに、神さまは必ず私たちに語りかけを与えてくださる、ということが生ける神を礼拝する私たちの確信であります。

そして、95篇8節で忠告が入ります。

8メリバでのときのように、
荒野のマサでの日のように、
あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

その日、その時が、いったい、どういう時だったのでしょうか。それが今朝読んでいただきました、出エジプトの17章です。ちょっと見てみましょう。17章の7節ににメリバとかマサとかいうことばが出てまいります。出エジプト記の17章の7節はご一緒に読んでみたいと思います。

出エジプト17:7それで、彼は(***モーセは)、その所をマサ(***試みる)、またはメリバ(***争う)と名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。

今朝、私たちが主の御声を聞くときに、モーセと争ったように、あるいは神を試みたような、そんなかたくなな心になってはならない、というのが、先程の95篇の礼拝の招きのことばですが、今日は、この場面から3つ見ていただきたいと思います。

1)人生、荒野の旅路です

このテーマは、何ども繰り返し繰り返し、学びの中で出てまいります。私たちの人生も「人生、荒野の旅路」です。17章1節を見てください。

17:1イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。

「主の命によって、シンの荒野から旅立ち」とは、ずっと学んで来ましたように、彼らが移動するとき、昼は雲の柱、夜は火の柱が、彼らを導くわけですが、主の命によってとは、その雲の柱が動いたということです。神さまはそこを動いて旅するようにという指示を出された。

彼らは雲の柱に従って歩いて行くのですが、その結果導かれた場所が、約束の地カナンではなく、シナイ半島を逆に南下した。本当でしたら、シナイ半島を東に移動して行けばいいのですが、南下してレフィディムにたどり着く。

つまり、神さまの雲の柱に導かれて、遠回りすることになった。しかも、そこには水がありませんでした。導かれた先にはオアシスはなかった。当時と今の気候はどれくらい違うのか、それはわかりません。皆さんがインターネットで、「レフィディム」と入れて検索をかけて画像を見ますと、今のレフィディムの地形、村、山が見えます。地面もごろごろと大きめの岩が転がっているだけの岩山の地形ですね。今でも寂れた小さなオアシスがあるだけの村です。 

そこでまた彼らは、モーセに噛みつきます、モーセと争います。

3民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を渇きで死なせるためですか。」

もう聞き飽きるほどの、同じ不平です。しかし、それも無理もないかも知れません。なぜなら、直面するのに飽きるほどの同じ状況です。雲の柱に導かれて、希望を抱いて進んでいって、人生遠回りを強いられ、そして困難が待ち受けているからです。

私たちは教会の方々が、青年たちが新しく就職したら、就職先がオアシスであるようにと祈ります。あんなに苦労して就職活動をして、そしてとうとう入ったその会社が、その方の力量・賜物を存分に生かすオアシスでありますように、と祈りますけれども、往々にして、そこが岩山であったということは残念なことです。相談されますと、そんなに岩山であったら、辞めてもう一回就職した方がいいかも知れないねという場合もあります。

神さまに導かれ、一生懸命神さまの導きを求めて祈りに祈って、いくつもの扉が閉じられて、とうとうこの扉だけが開いた。だとしたら、ここが神さまの導きの場所に違いないと思って行ってみると、そこが岩だらけだということを、私たちは往々にして体験するのです。

病気になっていろんな病院に行く可能性があり、そして最後に開かれたこの病院こそがで、そこで失敗する場合もあるわけですね。荒野の現実というのは、神さまに導かれなくてもしんどいし、導かれていてもしんどい場合が多々ある、ということを先ず心に留めておきましょう。

2)民の不平不満

前回の礼拝で、(先週)シンの荒野で食糧が尽きたときに、彼らが「つぶやいた」という旧約聖書の表現に注目しました。「つぶやく」というのは新改訳聖書特有の表現ですけれども、とても、何となく、わかります――ぶつぶつ、ぶつぶつ、つぶやく。「つぶやき」って何かというと、
「つぶやき」は、私たちの心から、感謝の思いが無くなって行く。
「つぶやき」は伝染する。一人つぶやくと他の人もつぶやき始める。

今の状況につぶやき始めますと、あらゆることが否定的に見えてしまう。これまであったさまざまの神さまの恵み、神さまの祝福もすべて否定的に見えて来る。今与えられているよいことさえも、一旦つぶやき始めますと、それをゆがめて見てしまう。人生つぶやくことばかりではないです。よいことと悪いことが常に混在しているのですけれども、悪いことにつぶやき始めますと、よいことも否定的に見えてくる――そんなことを先週勉強致しました。

今回は、別の表現を見ていただきたいと思います。それは、「神を試す」という言い方です。17章の2節をみてください。

2それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水をください。」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。

「神を試みる」という表現が出て来ます。7節にも出て来ますね。(7節の)3行目から、

7「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。

「試みる」とはどういう意味か?「試みる」というのは、文字通り、神さまを「試す」という意味です。その意味が難しいので、7節では敢えてモーセは、(彼らが、)「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言った(と出エジプト記に記した)。これが「試みる」ということばの意味です。つまり彼らは、本当に神さまが自分たちと共におられるのかどうか「確かめた」「テストした」「試した」。もう少し言いますと、「疑った」という意味です。

共におられると主は約束されました。しかし、試練の中で、共におられるのだろうかと、疑い始めた。ともにいる、ともにいない――これがもう出エジプト記のテーマですね。
3章の12節をご覧ください。神さまがモーセを召された時に、モーセに与えられた第一の約束。それが3章の12節。

3:12神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

3:14神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」  

「あるという者である」というのは、神さまがご自身から唯一明らかにされたご自身の名前です。へブル語では一般にヤハウェ―と言いますが、モーセが神さまに「あなたの名前は何ですか」と言った時に、「わたしは有りてある者だ」とおっしゃったのです。絶対的な存在だと。しかしその絶対的な存在も、ただ絶対的に存在するだけではない。絶対的な存在があなたと共にいる、と。

私たちにとって大切なのは、神さまの存在の絶対性ではない。私たちにとって大切なのは、その絶対的な神さまは私とともにおられるということなのです。

イスラエルの人々はずーっとそのことを、ある意味体験して来たわけです。
エジプトを出るにあたって、雲の柱が現われ、火の柱が現われ、それによって導かれた時に、あぁ、なるほど神さまはともにおられるということを味わった。

しばらくするとまた不安になり、でも、マラという村に着いて、水を求めて飲んだ水でお腹を壊しへろへろになる。でも神さまはモーセに「木の枝を水の中に入れよ」とおっしゃって、水が良くなった時に、あぁ、神さまは私たちとともにおられるということを実感した。

でもまたそれから、二十数日たって、食料が尽きた時に、「神さまは私たちを荒野に連れて行って殺す気か」とまた彼らは、もう、こう言うわけです。神さまはそこで、天からマナという食料を与えてくださり、その食料は今日の日も未だに彼らに天から降りてくるわけです。

それでも私たちは問題課題に突き当たる毎に、「主は私たちとともにおられるのか、おられないのか」と疑い始める。これこそが究極の不平不満です。

不平不満は嫌というほどあります。自分の人生を振り返って、皆さんどういう不平不満が積りますか?私はレストランで頼んだものがなかなか出て来ない時に(大笑)、不平不満が出ます。ものすごく気が短くて、待って三分。それ以上だと、もうちらちらウェートレスの顔を見ながら「まだですか?」(と聞く。)そうならないように、最初に注文した時点で「早くしてね。急いでいるから」(笑)と言ってしまうくらい、気が短い。気が短い人間っていうのは、不平不満が多いですね。じっと忍耐ができない。

そういうレベルの不平不満から始まって、やがて病気になったり、家族のことがうまくいかなくなったり、自分の仕事、責任範囲でもう周りがぐちゃぐちゃになって行ったりすると、私たちはため息をつくところから始まり、それが憤りに変わり、不平不満というもので、全身不平不満(で膨らんでしまう)。その不平不満を突き詰めて行った時に、「あなたとともにいて、あなたを祝福し、あなたを導き、あなたを守る」と言われた神さまは私を突き放した(という感情を持つようになる)。

マルタは弟のラザロが死んだ時にイエスさまのところに行って言いますね――あなたがもっと早く来てくださっていたら、こんなことにはならなかったのに(ヨハネ11:32)――すべてがそうです。

神さまはそうではないとおっしゃっている。神さまは「あなたが紅海の前で呆然と立ちすくんた時も、マラの水でお腹を壊した時も、シンの荒野で飢えた時も、わたしはいつもあなたとともにいた。実はわたしがあなたから離れたとき、あなたのそばからいなくなった時は一度もない。ただ一言で言えば、あなたがそれに気付いたか、気付かないか、その違いだ」(とおっしゃっています)。

私たち夫婦は皆さんにしてみると、まぁ圭子はそうではないですが、私はわりと手のぬいた牧会をしている(笑)とお思いになるんじゃないかなぁと思います。あまり牧会訪問も致しませんし、それをカバーするために時々お手紙を書きますが、しかし私たちには、古川先生もそうでしたし、今度の酒居先生もそうですが、心に言い聞かせていることがあります。それは、入院したらお見舞いに行く。これは私たちの、まぁ牧師であれば当然なのですが、入院したら誰でも心が弱くなるね、心配するものです。ですからそこにあって、お祈りしに行くということは、牧師にとって最も大切な仕事の一つであるという自覚はあります。

私はそんなに回数は多くないですが、小林武男兄のお見舞いに何回か行きました。今日は週報の間に、小林兄の最後の写本聖書がタイの教会に行ったという証しが挟んであります。最後の聖書をいったい、どこに贈ろうかと田中姉といろいろ相談し、神さまの摂理によってタイの日本人教会に決まりました。よかったなと思います。私はタイの日本人教会で四回も説教していますし、アジアに出た時は必ず寄ることにしています。田中姉が代表して、田中兄姉で聖書を贈呈のために、タイにいらっしゃいました。

この最後の聖書というのは、とびきりすごかった。それは最初から最後までこれを病室でこれを書いた。あるいは老健という施設の中で書いた。もちろん病院の方も施設の方もなかなか理解を示してくださらない方も多かった。「小林さん、そんなに座っていると、体を壊しますよ」とか、特別なテーブルを持ち込むことができませんので、病室にそういうコロのついたテーブルを持ち込むのですけれども、それが邪魔だと言われたこともあります。

お見舞いに行きますと、いつもそれを書いている。写本している。「小林さん、なぜそんなに写本しているのですか?」と言うと――これが生きる望みだから。聖書のみことばに触れ、みことばを読む。そして、みことばを書く、それが自分にとっての人生最後の祝福である――自分はそのことによって生かされていると言うのは、不平不満に満ちた人生とは全く違う。そういう所に訪問しますと訪問した私たちは生かされる。

皆さんおっしゃるじゃないですか。お見舞いすることによって却って元気をもらいましたと。どういう場合にそういう風におっしゃるのですか。それは、何もできない不自由な、自由を奪われ、苦しみや悩みと闘うような環境の中にあって、その人のことばの中から感謝と喜びが溢れていたときに、私たちはお見舞いに行って却って元気になりましたというわけでしょう。逆にお見舞いに行って、その人の口から大変だということばかり浴びせられますと、私たちは疲れます。

それは家庭の中でもそうです。仕事から帰って来て、ご主人が「今日はよかった」と言えば、奥さまが「今日は楽しかった」と言えば、家庭の中は温かくなり、逆に不平不満の嵐だと、みんな暗い気持ちになります。

私たちが覚えておかなければいけないことは、不平不満の究極というのは、私たちは神さまを試しているのだと、それは、あなたがおられるのか、おられないのか、そんなことは私たちにとっては、もうどうでもよくなりましたと言わんばかりに、つまり、神さまがともにおられるという現実を否定するかのように、自分の人生だけに集中している姿、それが不平不満。

私たちの人生が荒野の連続であるならば、不平不満は当然だと思います。だけど、私たちはどこかで、神さまがともにおられるという現実を見失ってはいけない。

3)岩から水が出る

 神さまは、こうしてご自身が共におられることを疑って、不平不満に捕らわれている私たちに絶対的な奇跡をもって答えてくださいました。5節を見てください。5節を私が読みますので、皆さん6節を読んでください。

5主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
6さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
    
5節の最初に、民の前を通りとあります。民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れてホレブに出て行った。そして6節に、そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。

わざわざ民の目の前でというのは、これからしようとしていることをしっかりと民の目に焼き付けるようにしなさい。隠れてするな。さあ、あの杖を手に取って、岩を打ちなさい。その岩を打っている姿を皆が見ることができるように。

そして岩から水がほとばしり出ます。主が私たちの中におられるのか、おられないかと疑いに満ちて、不平にあふれている民に対して、この奇跡はどんな意味があったのでしょう。それは、渇きで死にそうになっている民に飲み水が与えられた、ということではない。

この奇跡によって、神さまがいつもイスラエルの民と共におられるということが証明されたのです。いつも神さまはともにおられて、私たちを守っていてくださる。私たちに必要なことを与えてくださるということが証しされたのです。

以前、紅海を渡る場面で見たことがありますが、ちょっと(新約聖書の)Tコリントの手紙10章の1節、(新約の民、私たちクリスチャンと重ねて教えられているのを確認しました。)Tコリント10:1〜4までを交代に読んで行きたいと思います。

1そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
2そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
3みな同じ御霊の食べ物を食べ(マナのこと)、
4みな同じ御霊の飲み物を飲みました(レフィディムで岩からほとばしり出た水)。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
 
2節の「雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け」というのは、雲の柱に導かれ、二つに分かれた紅海の間を渡って行ったことですね。
3節の「みな同じ御霊の食べ物を食べ」というのは、ずっとマナによって養われて来たということ。そして、
4節の「みな同じ御霊の飲み物を飲みました」というのが、今朝のレフィディムでほとばしり出た水です。
4節の最後に、「彼らについてきた御霊の岩」というのは、イエス・キリストは彼らについてきていた。気が付かないけれども、ずーっとキリストはともにおられた。「岩を打った」というのは、キリストを打った。そして岩から水がほとばしり出て来たということをパウロは教えています。

表向きは私たちの人生の流れは岩かもしれない。しかし、信仰をもって、その岩を打つ時に、私たちはそこから神の恵みをいただくことがことができる。だから、あのメリバのほとりの時のように、私たちは心をかたくなにしてはいけない。神さまがともにおられるということを疑ってはいけない。今日、もし御声を聞くなら、あの時のようにかたくなにしてはいけない。キリストはあなたについて行く。あなたとともにおられる。

アメリカの地図を見ますと、ちょうど真ん中あたりにネブラスカという州があります。私は行ったことがないのですが、大平原です。アメリカの開拓は東から始まって、西へ西へ、そして西部の開拓の最前線となっていたところがネブラスカです。「大草原の小さな家」とか、あのあたりです。

その真ん中あたりに、大平原Great Plainsという名前の大きな地域があります。黒い肥沃なプレーリー土と呼ばれる独特な土で、その平原でずーっとおおわれているのですが、初期の開拓者たちはそこを畑にすることはしませんでした。なぜなら、その地域には川がないのです。

当時の表現では、当時の小説家がその地域を「大きな肥沃な砂漠」と呼んで皮肉っていますが、土は黒でいかにも肥沃な大地なのですが、川がないので結局は砂漠じゃないかと(呼ばれたのです)。西へ西へと進みながら、そのGreat Plainsで、水がなくて死んでいった人も多くいました。

しかし今ではアメリカの農業地帯の中枢はネブラスカです。かつての大砂漠という表現から、国の"Breadbasket"と呼ばれるほど、大麦、小麦の産地となりました。小麦の生産量はアメリカで一番です。

いったい、昔と今と、どのように認識が変わったのでしょうか。それはネブラスカの大砂漠に地下に存在する大きな湖があったのです。なんと、大平原(Great Plains)の2/3の面積を占める巨大な湖が地下にあったのです。井戸を掘れば、どこでも、どこからでも豊かに水を汲み上げることができました。

私たちの荒野の下に、岩の平原の下に、豊かな恵みがある、というのが私たちの信仰です。岩そのものであるキリストが、私たちの荒野の旅路について来られる、同行していてくださる。この方は離れることなく、共にいてくださる。だから、私たちはそこが岩地であっても泉のわくところとしてくださる神を信じながら、そこに井戸を掘るという信仰を忘れないようにしたいと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、私たちが旅をしたり、新しい職場に転勤になったら、そこがどういう場所であるのか想像もつきません。でもあなたは、岩から水をほとばしり出させる、そのような奇跡をこの教会にまた見せてくださいました。イギリスのMさんたちから、二人の小さな子どもたちが、元気で学校に行ったというニュースを聞きました。ああ主がすべてを備えて待っていてくださったのだなぁと思います。いろいろ習慣も違い、ことばもわからない中で苦労も多いと思います。

私たちの子どもたちも、私たちの兄弟姉妹も、さまざまな所で苦労し闘っておられますが、でもあなたは必ず、必ずついて来てくださり、そして岩から水をほとばしるほど出してくださることを心から信じています。

気持よく岩の荒地であっても、努力することができるよう、妙な不平不満にとらわれることのないように、私たちを助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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