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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/29神の人モーセ(18)主の御座の上の手 
4/29神の人モーセ(18)主の御座の上の手 

☆始めのお祈り

4「わたしはラハブとバビロンをわたしを知っている者の数に入れよう。見よ。ペリシテとツロ、それにクシュもともに。これらをもここで生まれた者として。」
5しかし、シオンについては、こう言われる。
「だれもかれもが、ここで生まれた。」と。
6主が国々の民を登録されるとき、「この民はここで生まれた。」としるされる。
(この日の交読詩篇87篇より4節、5節前半、6節)

恵み深い天の父なる神さま、御国のいのちの書に名前が登録されるとき、あなたは誠に大いなる慈しみと憐れみをもって、私たちを見ておられることを感謝します。あなたはこの教会で生まれた者、あるいは世界のどこの教会であっても、三位一体の神の御名によって洗礼を受けた者は皆、ここで生まれた者として市民権を与えていのちの書物に登録してください。

時に私たちはその道から外れることもあり、時にエリコの町のラハブ(***ヨシュア2:1)のように、イスラエルの敵であったバビロンのように、神さまのことをほとんど何も知らないペリシテやツロ、あるいはエジプトの人たちのように。しかし、そうしたら、かつては敵国、かつては異邦人であった者たちでさえ、あなたを真実に探し求めるなら、これらをもここで生まれた者としてあなたはいのちの書に記してくださることを感謝致します。

主よ、その恵みに与りながら、今日私たちは礼拝を捧げています。礼拝を捧げるのに、到底ふさわしくない者であり、私たちの恵みやいのちの源があなたのところにあると、「私の泉はことごとく、あなたにある」(同7節)と踊り歌いながら、集ってまいりました。

自分の内側をこの世界でいくら探しても、いのちの泉を見いだすことはできません。あなたから豊かな恵みの水を飲もうとしたとき、あなたは惜しみなくその水を与えてくださり、その疲れを癒し、その弱さを補い、その迷っている魂を導き、疲れている時、痛い所を助けてくださることを心から信じます。

礼拝に初めて来られた方たちを祝福してください。今日私たちの(教会の)家族でさまざまなところに出かけておられる方たちにも、あなたがゆっくり休息とまた楽しみを与えてください。今週、私たちもさまざまに移動するに違いありません。しかし、行くと入るとを守ってくださるあなたが、どこにあっても助けてくださいます。なおかつ、年度替わりで忙しく動いて来ました私たちの、心の悲しみを癒す力を充分に与えてくださり、また来週の礼拝に集うことができますように、よろしくお願い致します。

しばらくみことばに耳を傾けますので、私たちの心の耳を開いて、あなたの声を聞くことができますようによろしくお願い致します。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆聖書個所            出エジプト17:8〜16

8さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
9モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
10ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
11モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
12しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。
13ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。
14主は、モーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」
15モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、
16「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。

☆説教       主の御座の上の手

「神の人モーセ」と題して、昨年秋から学んでいますが、今日はその18回目。「主の御座の上の手」――それは17章の16節に出てまいります。

16「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。

今日学んでいただくのは先週の後半、先週は水がレフィディムで枯渇し、モーセが杖をもって岩を打つと、そこが泉となったというお話がありました。そしてモーセはその土地で戦いの危機に遭います。アマレクという民族が攻めて来て、レフィディムでイスラエルと戦った(9節)。それはイスラエルの民が荒野で体験したもう一つの危機・苦難でした。

アマレクというのは、シナイ半島からアラビアにかけて活動していた民族で、(イスラエルが)彼らと戦うというのは、まぁ、避けたかった。(しかし、戦いというのは避けて通れないもの)。エジプトを出て約束の地カナンに向かうのに、地中海に沿った北のペリシテ街道を行けば一番近いのですが、神さまはイスラエルの人々をペリシテ街道には向かわせませんでした。なぜなら、行く先には屈強な戦闘民族ペリシテがいて、それを見たときにイスラエルの人々が怖気づいて引き返してはいけないので、神は敢えて民を南下させます。それでも戦いはあるのです。

私たちは新しく仕事を始めたり、新しい環境で何かをするときに、神さまは最大の配慮をもって、何とか私たちが耐えられるような状況に導いてくださいますが、しかし戦いというものは、私たちの人生の旅路でも避けて通ることができません。食料がないのも苦難でありますし、水が枯渇してしまうのも苦難であります。まして、これから先100万の民を導いて行くのも苦難です。しかし、人生の旅路を進めて行くときには必ず戦いがあります。

イスラエルの民は、エジプトで何百年も奴隷として使われていました。ピラミッドの煉瓦を焼いていた彼らでありますが、軍隊として組織されたことも、戦闘の訓練を受けたことも、武器を持ったこともありません。
エジプトを出て以来、追い迫るエジプトの軍隊を撃破したのは、これまで神さまであって、彼らは戦うことも一度もなかったし、武器を持ったこともありませんでした。

その彼らが、初めて敵と戦いを交えているのです。彼らはイスラエルの中で、腕に自信のあった人たちでしょう。9節をご覧ください。

9モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」

戦いは日が昇ってから日が沈むまで続けられます。その間、10節(以降13節まで読まれる)。

10ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。

11モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。

12しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。

13ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。

とあるように、朝から日が沈むまで戦いは続けられ、その間、山の頂の上ではモーセはアロンとフルに支えられながら手を上げて祈るという場面です。

この出来事は、以前にも何度か学びました。皆さんもよく知っておられる。初めて読む方もおられると思いますが、大変教訓に満ちていました。どれほど教訓に満ちていたかは14節を見るとわかります。
 
14主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」
  
記録として書き残しておかなければいつの間にか忘れてしまう。書き物に書きしるして、そして後代に残せと言われるほど大きな教訓がここにあるので、順を追って見てまいります。

1)それでも戦うのは神である

私たちは戦うことは避けて通ることはできない。自分の人生は自分で生きることしかできない。戦っているのは私です。それでも戦っているのは神である。もう一度15節を見て頂きますと、モーセは戦いが終わった後に、「祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び」ました。

ニシとは、何でしょうか?旗です。英語では、bannerです。戦いの時の旗です。源氏と平家の合戦の時からさまざまな日本の戦いにあっても、それぞれの陣営を張る時の旗のことでしょうか。川崎フロンターレと浦和レッズが試合をするときにも両陣営のサポーターに旗があります。戦いに旗はつきもので、誰が味方で(あるかを示し)、それは陣営全体の象徴なのでしょう。

しかし、ここではそういう意味ではありません。古代の戦いで、ニシと呼ばれるこの旗は、金属の杖のようなものです。
力の象徴で、太い杖が確かな輝きをもって、大将の手に握られ、地に立てられているのがニシです。

ここで、モーセが手にしているのがニシです。モーセが丘の頂に登って、天に向かって手を上げたときに持っていた「神の杖」です。9節に(こうあります)。

9モーセはヨシュアに言った。「私たちのために、幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」

以前学びました。モーセの神の杖は、羊飼いの杖のように、そこらへんに落ちている長い棒きれでした。
しかし、神さまがそれをモーセに与え、それが神さまの臨在の象徴となり、モーセはその杖をもってエジプトを裁き、その杖を上げたとき、紅海が二つに割れ、その杖で岩を叩いたときに、岩から水が噴き出したのです。

戦いに勝利をもたらしたのは、自分たちの力ではない、神だ。神こそが、私たちのために戦ってくださった、という意味で、モーセは戦いが終わった後に祭壇を作って、そしてそれを、アドナイ・ニシと呼ぶのです。

イスラエルの人々が初めて自分たちの力でもぎ取った勝利でした。初めての戦いで勝利が与えられ、朝から晩まで、ヨシュアに率いられて、精鋭が命を賭けて戦い、とうとう敵を撃破したのです。でもモーセが書き残して後代に知らせようとしたのは――しかし、勝利をもたらしたのは、自分たちの力ではない。神の力です。神が、あなたのために戦われたのです。
         
それをモーセは、出来事として記し、「アドナイ・ニシ」という祭壇を作って、神を礼拝しました。戦いに勝利を与えてくださるのは神さまだ、という記念の祭壇です――アマレクと戦ったのは私たちではない、「主は代々にわたって、アマレクと戦われる」(16節)。今回も神が戦ってくださった。やがて、サウル(***Tサムエル14:48)もダビデ(***Tサムエル30:1)もアマレクと戦った――代々にわたって、神はアマレクと戦われる。

2)勝利にあって、祈る人がカギであった

『主の御座の上の手』と(出エジプト17章)16節にあります。『主の御座の上の手』が勝利のカギでした。では、いったい『主の御座の上の手』とは、だれの手なのでしょうか?アマレクを征した神の手のことなのか。いや、文脈を考えるとそうではありませんね。
              
この物語で、「手」という言葉は繰り返し登場しますが、それは、モーセの手なのです。モーセの手が上げられ、モーセの手が重くなり、モーセの手が下がり、モーセの手を支える、出てくる手はみんなモーセの手です。
難しいことは抜きにしますけれども、ここの箇所をきちっと訳せば、こういう風になります――「主の御座へ向かって上げられたモーセの手」――背後にあって祈る人の手があった。そしてこのモーセの手こそ、物語の焦点、勝利の鍵なのです。
 
13節を見ますと、「ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った」ということは、ふもとで戦っているのはヨシュアです。

しかし、物語の中心は、丘の頂きに立ったモーセです。9節には、モーセの手には神の杖が握られていた。11節の手は、単数形ですから、モーセは片手で杖を握って、それを高く上げた。
ところが12節を見ますと、手はこちら側からとあちら側からアロンとフルが支えますから、上げていたのは両手だった。杖があって上げたのは片手なのですけれども、しかしもう一方の手も上げられた。

というのは、モーセは、いったい何をしていたのか?それは旧約聖書を見れば解ります。祭司はレビ人のように、両手を上げて祈ります。モーセは杖を上げて天を示していただけではない。モーセは祈っていた。この祈りこそは勝利の決め手でありました。
 
語られた物語で最もスリルがあるのは、どの部分でしょうか。それは、やっぱり11節。

11モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。

モーセは、この時初めてわかったのだろう。この光景を目の当たりにしながら、モーセは、祈りの力というものを自分の人生で初めて確認した。正直モーセは、この時に至るまで、祈りの力を認識したことはない。神さまが一方的に召し、神さまがやれと言われることを信じてしただけだったが、モーセは初めてこの時神に祈っていた。主は私たちのために戦われる、主こそ我が旗。だからこそ、勝利は主の御座に向かって上げられた祈りの手によってもたらされた。

イスラエルがアマレクとの戦いに勝利することができたのは、ヨシュアの指揮官としての能力ではない。選ばれた精鋭部隊の強さによるものでもない。勝利は、共にいてくださる神さまの力によるものでした。

丘の頂で祈るモーセがいます。そして丘のふもとで戦う者たちがいます。ふもとでの戦いというのは、私たちが置かれている日々の現実です。私たちは、この世界の戦いを生き抜いていきます。世の終わりの救いの完成を信じて生きていきます。
でも、ふもとは戦いの連続です。敗北の方が多いのかもしれません。それでも、私たちは、ふもとでの戦いの場面と共に、丘の頂の祈りの場面をも生きています。

太平洋戦争で、アメリカが南太平洋のある島で日本と戦っていた時の話です。実話かどうかわかりません。そういう話はいくらでもあるでしょうし、皆さんの人生でもあるでしょう。

軍隊はいくつかの部隊に分かれて、戦っていました。一つの部隊が島の南側を陣取りました。少佐が部下に命じます。
「あの小高い丘の上に、国旗を立てて来い。他の部隊の目に、それを見たら、我々が優勢だとわかるから」
ところが、兵士が旗を持って丘を駆け上り、それを立てたとたんに狙撃されます。よほどの狙撃手の腕前だったのでしょうか、彼は旗と共に倒れてしまいます。

少佐は、あたりを見回して、一人の少年兵に言いました。
「おまえは身体が小さい。すばしっこいから、おまえが行け」
すると彼は少し考えて言います。「少佐、もう20分ください。2時になるまで待ってください」
「どうした? おまえは腰抜けか」
「いえ、2時になったら絶対に行きます。旗を取って立てて来ますから、もう20分ください」

2時に彼は丘を駆け上がり、旗を立て、負傷した兵士を背負って帰って来ました。
「どうして、2時だったんだ」
「この島は2時です。でも、私の故郷のカルフォルニアでは夕方の6時です。私の母は、毎日、必ず夕方の6時に、戦場に行った私が守られるように、ひざまずいて神さまに祈りを捧げているんです。」

というような話はいくらでもある。私たちが病院で手術をする時に、「この日に手術をしますから皆さんよろしくお願いします」という場合もありますし、「この日の午前10時から手術が始まりますので、お祈りを……」という場合もあります。

私たちはお祈りをしている時、そのことを本当にふもとで戦った人に知ってほしい。ふもとで戦った人は全力で戦ったのでしょう。だけど、戦いは別にふもとであっただけではない。丘の頂の上で祈っていた者がいる。そして所詮、あなたの人生の戦いの勝利はあなたがもぎ取ったのではない。もちろん丘の上に立っている祈り手がもぎ取ったのでもない。神さまが戦われたのです。

そして、人生いかなる場面でもよ〜く覚えておいてほしい。私たちはある戦いを避けて南下したとしても、またそこでも戦いが待っている。人生、戦いの連続だということ。でも戦う時に、私たちは人生の戦いですから、誰かの代わりに戦っているわけではないです。いつでも戦われるのは神です。そして勝利のカギを握るのは、祈りです。

私たちが何かある度に、私たちのために時間を決めて祈ってくれるような親がいれば、私たちが苦労するときに、10時なら10時、3時なら3時と、覚えて祈ってくれるような兄弟姉妹がいれば、勝利がある。そういう風にして、皆さんクリスチャンホームの受験生の親は、時間を覚えて、今頃数学だな、今頃お昼御飯だなと祈って、待って、待って、そして見事大学に入ったら、(子どもは)そんなこと全部忘れて好きなように飛んで行ってしまうんですよね(笑い)。

だからモーセはヨシュアに言っているのですよね。「書き残せ。語り告げよ」と。まぁ、大学生の時を過ごすのは一時かも知れませんが、しかし戦いというのは人生最後まである。そしていつも私たちのことを祈っていてくださる兄弟姉妹がいる。家族全員でクリスチャンじゃないこともあるでしょう。子どもはクリスチャンではない。でも親は祈る。あるいは一人だ(という場合には)、教会の愛する兄弟姉妹が祈っているじゃないですか?

3)モーセの手は、重くなる

12節に「しかし、モーセの手が重くなった」とあります。手が重くなっても、お祈りを続けるために、(11節にありますが――)

11モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。

ということは、手を上げて祈ることは真剣なことなのだということをモーセは言いたかった。幸いアロンとフルがいますので、両側から支える。祭司はそりゃあ、手を上げていますから、疲れますよ。もちろん、ひざまずいて祈ってても疲れることでしょう。要は疲れるということですよ――それは何を示しているかというと、我々人間の力には、限界があるということです。

皆で祈ろうが、ひざまずいて祈ろうが、手を上げて祈ろうが、人間の力には限界がある。お祈りさえ限界がある。単純にそれを言いたい。モーセの手が疲れたというのは、人間の力には限界があるということ。

すると、この物語のもう一つの点が見えてくる。それは、差し伸ばされた手はモーセの手だけではなかった。アロンの手もフルの手も差し伸ばされていた。そして祈っていたのはモーセだけではなかった。アロンもフルも、三人の手が、三人の祈りが、勝利を導いた。

一人では祈れないこともたくさんあります。ため息ばかりで祈りにならないこともたくさんあります。でも、私たちは祈られています。信仰の仲間たちが集まり、互いに支えつつ共に祈ることの大切さ。

この教会はなんとなく動いているのではない。この教会は、この教会のことを思う犠牲的な兄弟姉妹の奉仕によって、自然に動いているのではないのです。この教会は祈りによって動いているのです。礼拝や祈祷会、何かの時に、私たちは教会のために、兄弟姉妹を支えるために祈っているから、この教会は動いているのです。

私たちは自分の人生で書くものがあるとしたら、いっぱい記念碑を建てて、書き物に記さなければいけないことがあるでしょう。一番大切なことは、戦われるのは神であるということ。その上でどんなに一生懸命であったとしても、実は戦いを決せられるのは神であり、その意味では、背後にあって祈る人が一番尊い。

そういう人を自分はいったい何人持っているだろうか?一人も持っていない。そういう人は早く祈り手を作った方がいい(笑)。何か自分に起こったら、あぁあの人に電話したいとなるから。そしてあまり多くの人に漏らしたくないこともあるでしょう。牧師は漏らすことなく祈ります。是非牧師にも伝えてください。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、今もこの瞬間、ふもとで戦い、負けてはいない、苦労をしておられる方が沢山います。でも教会には、背後にあって祈っている者たちが、もっといます。実際に戦っている以上に(祈っている者が)います。この教会を祈る教会にしてください。

そして私たち皆を、自分の力に過信するのではなく、家に帰って来たら、あるいは辛い出来事があったら、そして頑張って戻って来たら、「ありがとう。背後にあって祈ってくれていたのだね」と、祈りに感謝するような教会としてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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