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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/19 神の人モーセ(27)十戒(7)姦淫してはならない
8/19 神の人モーセ(27)十戒(7)姦淫してはならない

☆お知らせ

●新しい「教会福音讃美歌」が発行されました。高津教会でも既に申し込んであります。今申し込まないと割引ができませんので、とりあえず申し込んでありますが、この讃美歌をどういう風に礼拝に用いるかはまだ決まっておりません。讃美歌委員会でも検討しておりますが、どうか、期待をもって待っていただきたいと思います。

曲は500曲を超えて、7年かけて同盟キリスト教団、日本福音キリスト教会連合と、インマヌエルでの3つの教団で編集致しました。そういう意味で私は新しい讃美歌だと思います。「聖歌」からも「新聖歌」からも「インマヌエル讃美歌」からも「讃美歌21」からも“バプテストの讃美歌”からも“聖公会の讃美歌”からも、よいものは新しく入っています。新しく今の標準となり、特に口語の讃美歌が多くなりました。

そういう意味では、私たち日本の教会は、どこかで文語の讃美歌から脱しなければいけない時が必ず来ると思います。それは10年以内ではないでしょう。でも30年したら、もう文語の讃美歌がなんとも古めかしい世界の話になってしまいまして、外から教会の礼拝にやって来られた方々にはびっくりしてしまう。歌っている意味もわからないし、いったいこの讃美歌は何なのだろうという時代が、まぁ今既に来ているのでしょうけれども、皆さん充分びっくりされているのでしょうけれども、よく合わせてくださることを心から感謝致します。ぜひ期待して待って頂きたいと思います。

●先週の礼拝後、高津教会・震災時帰宅困難対応班、行動班の初顔合わせをいたしました。9月に防災の日がありますけれども、できたら年内に全部整えて、どこかで避難訓練もあるいはシュミレーションをして見なければならない、礼拝の中でと思っておりますが、ぜひ自分がそれに入っていないという方も関心を持って頂きたいし、入りたいという方がいらっしゃいましたならば、光楽兄に申し出ていただきたいと思います。

●私(藤本牧師)は明日から水曜日まで、今年の夏最後の聖会奉仕をします。聖会奉仕と言うと聞こえがいいのですが、私は地方巡業(大笑)という風に思いますが、大変なこともこれで終わりかとホッとしています。(***大阪で、一粒の群れ教会の聖会)。

☆始めのお祈り

力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。
主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます。主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。主の声は、杉の木を引き裂く。
(この日の交読詩篇29篇より1〜5節前半)

恵み深い天の父なる神さま、大自然を産み出し、大自然を治めておられる全能の父なる神が、平安をもってご自身の民を祝される。小さな、心から罪深い私たちを、平安をもって祝される時、ご自身の民として私のような者を加えていただいたこの恵みを感謝致します。

暑い夏を過ごしております。オリンピックがあったり、あるいは終戦(記念日)のニュースが流れたり、原爆の平和の祈りがささげられたり、私たちはさまざまなものを目にし、心を動揺させ、過去を振り返り、思い起こし、いろんなことのあった夏だったのだなぁということを、つくづく考えさせられます。

しかし、もしこの祖国にあなたの恵みが取り去られたならば、私たちは逆にサタンのもので、物欲のとりこになり、やがて素晴らしいものがこの国から消えて行くでしょう。
なかなか日本の国全体の神を礼拝するという訳にはいかないのかもしれません。しかし、私たちの祈りは――ひとりでも多くの人が礼拝の民に加えられ、聖書を読み、神を賛美し、神に祈ることができるようになるよう、私たちを世の光、地の塩として輝かせてくださり、用いてください。この国の平安のために、そして神の国の拡大のために、小さな私たちが労することができるように用いてください。

中高生の全国のキャンプや青年のキャンプが終わりました。そこに参加された方々、またそこで奉仕された方々の疲れをいやしてくださり、どうかその恵みを小さな教会一つ一つに届けてください。

しばらくみことばに耳を傾けますが、暑い中、この場所にやって来られたお一人お一人をあなたが報いて、どうか私たち一人一人の耳もとであなたご自身がささやき、私たちにお話してください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆聖書個所      出エジプト20:14 姦淫してはならない

(説教の中で開いた聖書個所は、ホセア1:1〜9)

1ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、べエリの子ホセアにあった主のことば。
 2主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」
3そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。
4主は彼に仰せられた。「あなたはその子をイズレエルと名づけよ。しばらくして、わたしはイズレエルの血をエフーの家に報い、イスラエルの家の王国を取り除くからだ。
5その日、わたしは、イズレエルの谷でイスラエルの弓を折る。」
6ゴメルはまたみごもって、女の子を産んだ。主は彼に仰せられた。「その子をロ・ルハマと名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ。
7しかし、わたしはユダの家を愛し、彼らの神、主によって彼らを救う。しかし、わたしは弓、剣、戦い、および馬、騎兵によって彼らを救うのではない。」
 8ゴメルは、ロ・ルハマを乳離れさせてから、みごもって男の子を産んだ。
9主は仰せられた。「その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、私はあなたがたの神ではないからだ。」

☆残暑見舞いの葉書を書こう(藤本牧師よりお勧め)

先週の金曜日に私は出掛けていたのですが、息子の直樹が帰って来ておりまして、直樹が高津駅の方から教会の方に向かって歩いて来た時に、ピッカピッカの大型の黒塗りのベンツが教会の前に止まっていて、教会のベルを押している。直樹が一瞬、どんないちゃもんをつけに(大笑)そのベンツの人物が来るのかなと、母さんは大丈夫かなとすごい緊張して見ていたら、すごい背が高くて、何かしつこくインターホン越しにしゃべっている。やがて車を庭に入れて、二人男が出てきた。俳優の阿部寛さんだったそうです(へぇー!)。

それで俳優の阿部寛さんはどうでもいいのです(大笑)。お父さんがこの教会で洗礼を受けていました。佐藤先生(***高津教会第二代牧師1950〜1954)の時代。そして車でこの通りを通った時に、郵便ポスト(***道路際の門柱のところにある)に「藤本」って書いてあったので、「藤本栄造先生もまだ教会の牧会をしておられるのか」と。それで、「いや、もう息子の代になりまして」という話になりまして、「この教会は確か木工所を営んでおられた〜さんという方が捧げられて造られたのですよね?」とか、「はい、私たちの結婚式の仲人は勝間田さんにしていただきました」。それで、はつえさん(***役員の吉田兄の奥さん)のことはよく知っておられるようでございました。

私たちは恐らく教会の原簿を見たら、安部さんと出てくるだろうとは思いますが、その阿部寛さんのお父さんとはわからない。今千葉県の方に住んでおられまして、息子の阿部さんがお盆で帰って来た時に、どうしても自分の洗礼を受けた教会を一度見ておきたいという思いで、大分ご高齢なのですが、一度見ておきたいという思いで、ここへ連れて来てもらった。そして、ここへ来たら、まだ藤本という名前があったということに大変感動し、また皆さんによろしくということでありました。

私はねぇ、その出来事を通して思いました。夏は暑中見舞い、残暑見舞いの葉書を書く時期ですよね。この教会で洗礼を受けた方は、別にこの教会に葉書を出してくださらなくて結構です(大笑)。この教会以外の教会で洗礼を受けられたり、あるいはかつて転勤時代にお世話になった教会、あるいは母教会が遠い所にあって、今は仕事の関係でこちらに来ているという方は、ぜひ牧師先生と教会員宛てに一筆葉書を出されると、喜ばれますよ。

私はその阿部兄というのは全然知りませんし、そりゃあ見たらわかるでしょうし、私が見たらわかるのだと思いますけれども、しかし覚えられているものだなぁと、そしてその祈りによって洗礼の恵みに与ったその教会の牧師さんというのは、やっぱり私たちの信仰の中で息づいているわけですから、折りに触れて葉書の一枚出しておくことはとても尊いことだなぁと思いました。

☆説教          十戒(7)姦淫してはならない

今朝は「十戒」は出エジプト記の20章ですけれども、開いていただいたのは、ホセア書の1章の1〜9節。「十戒」の第七番目の「姦淫してはならない」を一緒に学んで行きたいと思います。

「十戒」の中で、ここしばらく、「父と母とを敬え」、そして先週は「殺してはならない」を学びました。その次に来るのが、「姦淫してはならない」。――こう続きますと、なるほど聖書の道徳を、いやそれを超えて普遍的な道徳をじゅんじゅんと説いているのが「十戒」なのだなぁと思います。
しかし聖書はこの「姦淫してはならない」という戒めに特別な意味を込めています。

それは十戒の第一の戒めから始まります。第一の戒めは、「あなたがたには、ほかの神々があってはならない」でしたね。第二の戒めは「ほかの神々として、偶像を刻んではならない」。ここで私たちは、自分には偶像などない、ほかの神々などいない、ということはできないというお話をしましたね。

有名なマルチン・ルターのことばで、「心がしがみつくものはなんでも、あなたの心がより頼むもものはなんであったとしても、それがまさにあなたの神です」と(あります)。
心がしがみつくもの、より頼むもの、その「もの」というのは、人生のさまざまな選択の助けとなり、人生の動力となる価値観を与えてくれる。
それは人生の決定要因となり、私たちは、徐々に、その「もの」を崇拝するようになります。
それは私たちの欲望であったり、あるいは金銭に対する執着であったり、成功を神とする人、何かを達成することを神とする人、人の上に立つことを神とする人、自分の名を上げることを神とする人、というのも沢山いるわけです。

神さまは、偶像崇拝という問題に、非常なこだわりをもっておられました。それはご自身で、「わたしは『ねたむ神』だ。『ねたむ神』だから偶像を刻んではいけない」(とおっしゃったことによってわかります)。
「ねたむ神」だからとはどういうことかと言いますと――わたしだけに心を向けよ、という意味です。

もしあなたが、例えばがんという病気に囚われていたならば――それを神とするな。わたしだけに心を向けよ。あなたのいのちを握っているわたしだけを信頼せよと(神さまは言っておられます)。
もしそれが自分の仕事の問題であるとしたならば――その仕事を神とするな。それがゆえに日曜日に礼拝に来なさいと神さまはそうおっしゃいました。

他の神々が、あなたの心に居座ってはならない。わたしに願え、わたしに祈れ、わたしに顔を向けよ。わたしに聞け、わたしだけがあなたの心に住む――そのことに神様はこだわっておられます。
              
なぜなのか?こんな私なんか、放っておいてくれたら、よっぽど楽なのに。なぜ、私などに、ねたむほどの関心をよせてくださるのか?理由は単純です。それは神はあなたを愛しておられるからです。

神はイスラエルの民を、奴隷のエジプトから連れ出されたのです。この民をご自身の民として、祭司の王国、宝としてわたしはあなたがたを愛する(***出エジプト19:5〜6)、と旧約の民に神さまはおっしゃいました。
その過程で伝えられた十戒には、明確に、わたしに聞け、わたしに願え、わたしだけを神とせよ、との思いが伝えられています。
それは、神さまがイスラエルを、いや、私たち人間を愛されているからですね。

神さまは私を、取るに足りない、神から離れて落ちていく私を裁くのではなく、逆に愛され、私が神さまのもとに帰ることができるように、御子イエス・キリストを十字架に送り、私の罪をキリストに背負わせ、信じる者(の罪)が赦され、神の子どもとしてくださるのです。

わたしはあなたのためにいのちを捨てた(***マタイ16:20〜26、マルコ8:30〜37、ルカ9:21〜25)と、イエスさまはおっしゃいます。
だからこだわる。わたしはあなたのためにいのちを捨てた。であるがゆえに、あなたの生き方にこだわる――自分の欲望を神として生きるな、他の神々に耳を傾けるな、わたしに聞け、わたしに従え。

少し長くなりましたが、神さまは、偶像崇拝を禁じられます。それは、愛故にです。
そして、今朝の七番目の戒めで、神さまは姦淫を禁じられます。それもまた、愛故です。
愛というのは、相手をまっすぐに見ます。愛は相手を傷つけません。愛は自分の生涯を相手にささげます。その愛する相手を、裏切ってはならないのです。同じなのですね。
              
●神の愛に対する裏切り行為を偶像崇拝と呼びます。
●人の愛に対する裏切り行為、特に夫婦の愛に対する裏切り行為を姦淫と呼ぶのです。

英語でも(発音が)とっても似ていて、偶像礼拝をアイダルタリー(idolatry)と言いますが、姦淫はアダルタリー(adultery)と言います。

愛が裏切られる時に、私たちの人生は歪んで、病んで、傷つくのです。
神さまは人をまっすぐに愛されている。ですから、その愛をまっすぐに返してほしい。
それと同じように、人は人をまっすぐに愛する時に、その愛をまっすぐに返してほしいと、心から願っています。
ですから、あなたは姦淫をしてはならない、と教えられているのです。

さて、ホセア書を見ていただきたいと思いますが、このホセア書ほど、神の愛と人の愛、つまり偶像崇拝と姦淫を二重にして、一枚のコインの表と裏として語っている書物は聖書にはないのです。ですからどうしてもここから、姦淫は学ばなければいけないのです。 

2節に行きます。

2主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」
3そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。

最初(の男の子)はイズレエルという名です。(***U列王記9〜10章、流血の地名)

6ゴメルはまたみごもって、女の子を産んだ。主は彼に仰せられた。「その子をロ・ルハマと名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ。

8ゴメルはロ・ルハマを乳離れさせてから、みごもって男の子を産んだ。
9主は仰せられた。「その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。」

ホセアという人物は神の預言者でありました。ホセアは妻を愛しました。しかし、ゴメルは、彼女の夫の仕事に対する尊敬は全くありませんでした。
夫ホセアは、この国の運命を救うために全力を尽くしているのですが、しかしゴメルには、全く関係のないことでした。
そんな信仰的なこと、宗教的なことは、クシャクシャに丸めて、ゴミ箱に捨てるような人物です。ゴメルは疲れて家に帰ってくるホセアの顔をめがけて、自分の不平をぶっつけます。
「なんだか、ここにいるだけで、息が詰まる」。

そんな家庭にも、喜びがやって来ます。少なくとも、ホセアには光輝く喜びでありました。それが長男の誕生です。
息子を腕に抱き抱えて、彼は思いました。
「これからの家庭は、変わるぞ。これで、不満だらけの妻も、生きがいを見つけて、家庭の素晴らしさを体験してくれるだろう。夫婦の絆を作ってくれるだろう」。

しかし、彼を待っていたのは、またも、失望でありました。ゴメルは、子供に縛られることを嫌い、外の世界へ出ていきます。

時が過ぎて、もう二人の子供が生まれます。女の子に、男の子。
神さまは、子供の名前を決めます。
女の子の名前はロ・ルハマ、「愛されない」という意味です(ホセア1:6)。
男の子の名前はロ・アミ、「私の民ではない」という意味(同1:9)。

そういう名前をつけろと言われた途端に、ホセアにはわかった。ゴメルの産んだこの二人の子どもたちは、自分の子供ではないことを。それはゴメルの姦淫の罪の結果生まれた子どもだということが、ホセアにもようやくわかった。

ゴメルにも、悔いの気持ちがあったかも知れない。
ゴメルでも、ある時はホセアに謝り、反省し、そして新しい生活を望んだかも知れない。
しかし、彼女の約束はいつも一瞬にして消えて行くのですね。
ホセア書の6章の4節をちょっと一緒に読みたいと思います。

6:4エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。
ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。
あなたがたの誠実は朝もやのようだ。
朝早く消え去る露のようだ。

ゴメルの反省も、一瞬にして次の日には消え去ってしまった。

とうとうやってきました。ある日、ホセアが夜帰ってくると、ロ・ルハマが、一枚の紙切れを手に握っています。紙切れを見ますと、
「私を捜さないでください。もう二度と、あなたの顔を見ることはないでしょう。三人の子どもをよろしく」(と残して)、ゴメルは家を出たのです。
その晩、彼が、子供を寝かしつける時に、悲しみと痛みが、心の傷に深く深く染み込んでゆきます。
 
彼は、来る日も来る日も、神さまに問いかけをします。――一体、この私の人生の悲劇は、何を意味するのでしょうか。あなたがあの女性と結婚しろとおっしゃったから、私は結婚し、私はあの女性を愛した。その愛した結果、これほどの裏切りと痛みが私の人生を襲って来るとは、いったい何の意味があるのですか?

彼は、自分の涙から、自分の胸をかきむしるような体験から、神さまの御思いを学びました。それが3つです。

1)神さまの悲しみ

ホセアがゴメルを愛し、貴び、彼女を美しくして、彼女を誇った。これが私の妻だと誇りに思った。ところがゴメルは、彼を裏切り、彼を捨て、そして、自分の道を行くといって出て行きます。
それと同じように、神さまはご自身の民を、選び、愛し、着飾り、美しくし、誇ったのに、民は、神を捨て、裏切り、自分の道を行きます。
ホセアが味わった姦淫の悲しみと傷、それは神さまが偶像崇拝で味わった悲しみと傷と同じでありました。

覚えておかなければいけないことは、ゴメルの罪は、ただ単に、妻としての義務を忘れたとか、母としての義務を捨てたとか、家が嫌になって家出をしたとか、そういう問題ではありません。
もっと深い内側の問題、心の問題です。それは、もう何年もゴメルの中でくすぶっていたものです。彼女の心には、夫に対する尊敬も愛もありませんでした。
夫の持つ目的も、計画も、理想も、全て彼女には、ゴミクズに等しいものでした。
                  
これが、私たち人間の罪です。つまり、神さまによって創造され、神さまは私たちに、栄光の目的を与えられ、ご計画を持っておられるので、私たちに理想を託され、しかし私たちは、それを泥足で蹴っ飛ばして、自分の道を行くのです。

罪が心の問題であるとしたのなら、ホセアが欲しかったのもゴメルの心でありました。ホセアは、独身生活に飽き飽きして、ゴメルと結ばれたのではない。ホセアはゴメルを愛して、ゴメルと結ばれ、そしてゴメルと生活をともにして、心から交わる人生の伴侶者としてゴメルを考えたのです。

人生の伴侶者として考えた……先週礼拝の後に「夫婦会」がありまして、「夫婦会」というのは最近若いご家族、ご夫婦の方が増えて、礼拝が終わった後に……ですが、ベテランの十時兄が「夫婦会って何?」「あの夫婦がそれでね、互いにいろんな課題を持ち寄り、一緒にお食事をし……」。
そして、十時さん夫婦は、「いやぁ、私たち夫婦は自立しているから夫婦会はいいよね」(笑)と言って帰って行かれました。
私は、すっごくその気持ちわかりますね。一回妻から「あなたは同労者だから」と言われたことがありますね。同じ牧師として仕事をしている同労者だからと。

夫婦の愛情というのがもう覚めてしまったとは言わない(笑)。でももうそこにあって当然だし、よく言うじゃないですか。一緒に食事をして一言も交わさないと。まぁ交わしはするのですけれども、割と少なめですよね。
でも恐らく、私たち夫婦が今どういう状態であっても、その始まりにあってはその純粋さ、お互いを思いやり、お互いをいたわり、お互いを尊敬し、お互いのためにこれからの人生をともに生きて行こうね、というその気持ちは形は変わるかもしれませんが、今も変わらず持っているのが私たちです。

私たちが欲しいのは車ではない、家ではない。財産でもないし安全でもない。人が一番幸せを感じるのは、自分が愛されて大切にされているという、その瞬間ではないですか?
私たちが神さまと接する時も同じです。神さまは私たちにおっしゃいました。――あなたがたの羊や男奴隷女奴隷をわたしが欲しがっているのではない。あなたがたの捧げものをわたしが望んでいるのではない。だけどわたしがあなたを愛し、選び、あなたを贖い、あなたを救い出し、あなたの神となったならば、せめてわたしに対する尊敬の思い、わたしに対する愛はいったいどこにあるのかというのは、男性の皆さんの場合は、奥さんがそういう風に問いかけるように、神さまもあなたに問いかけるのです。

皆さんの中には、洗礼を受けた月が来る度に受洗記念の感謝献金をされる方がいらっしゃいます。皆さんの中には、洗礼を受けたという感謝記念日も自分の子どものためにもされる方もいらっしゃいます。その献金をする、しないは別として、それは神さまに対する感謝です。
私たち人間のレベルでも、物が欲しいのではない。せめて誕生日、結婚記念日は覚えていてほしいと言う。しょっちゅう会話が無くてもいい。でもホントに辛くなった時には、一緒に祈ってほしいと、愛情というのは心で結ばれるのです。そして一番誠実さが求められるでしょう。

(ホセア書)6章の6節を見てください。ご一緒にお読みしましょう。

6:6わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

神さまがおっしゃったことばです――わたしはいけにえが欲しいのではない。あなたの誠実な思いが欲しい。全焼のいけにえより、わたしを知っているという、あなたの告白がわたしはほしい。

愛する者に裏切られた体験から、ホセアは神の悲しみがわかったのです。自分の妻が自分を裏切ったという所から、神さまの痛みというのが、ホセアはわかった。
 

2)背信の果てに、姦淫の果てに……

姦淫の果てに、いったい何が起こるのか?
ある日、衝撃的な知らせが、彼の元に入って来ます。
3章の1節をちょっと見てください。1節を読みますので、皆さんで2節を読んでください。

3:1主は私に仰せられた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」
3:2そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。

姦淫の果てに、背信の果てに何が起こったか?
ゴメルはとうとう奴隷市場に売り飛ばされていきます。ゴメルは遊ばれて、男たちに最後はゴミクズのように捨てられて、奴隷として売り飛ばされていきました。

ある日、ホセアの友人がその話を持って来ます。
「ゴメルが、奴隷市場に売られたって聞いたよ、もう気が済んだだろう。もう、ここまででいいんじゃないか」
「分かった」とホセアは、低い声で答えます。
しかしその夜、子供が寝てしまってから、ホセアは、家を抜け出します。その足は、聖なる神殿でなく、その反対の、夜の町へ向かいます。その果てにある、恥と汚れのゴミ捨て場である奴隷市場へと向かいます。
     
ホセアは、神さまの声を聞きました。
「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。」――その次が重要ですね――「ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を、わたしが愛しているように」(とおっしゃる神さまでした)。

つまり裏切った相手を未だに愛しているのは、ホセアだけではない。神さまが未だにイスラエルを愛しておられる。未だにイスラエルを諦めない。イスラエルを待っている。ホセアはそれを感じたときに、自分も自分の妻を諦めてはいけないのだ。自分も買い戻しに行かなければいけないのだということで、一心不乱に奴隷市場に足を向けます。これが愛です。

神さまは私たちを諦めない。私たちもさまざまな傷を負いながらも、愛を諦めない。

3)買い取り

3章2節で、皆さんが読んでくださいましたように、そこでホセアは銀十五シェケルと大麦一ホメル半でゴメルを買い取ります。
「買い取る」ということばが、キリスト教の「贖なう」ということばです。
買い取りの値段が書いてあります。銀十五シェケルというのは、神殿に納める銀貨十五枚です。それから大麦1ホメル半。
大麦1ホメル半が、銀十五シェケルといわれますので、両方合わせて銀三十シェケルです。彼は銀三十シェケルを持っていなかった。ですからそれに相当する大麦の束一ホメル半を一緒に添えて、合計で銀三十シェケルで彼は買い取るのです。
              
この数字が聖書のどこに現れるでしょうか?もう二つ現われるのです。三つ全部見ますと大変なので、一つ目は開かなくて結構ですが、出エジプト21章の32節です。
牛が誤って角を立てて、男奴隷・女奴隷を殺したとき、奴隷の主人に対して、牛の飼い主が賠償しなければならない値段です。 
言い方は悪いですが、奴隷一人に対する賠償金です。奴隷一人の値段です。
ですから、ホセアは、奴隷となって売られたゴメルを、こうして買い戻しに行ったのです。

実は聖書にもう一箇所、大切な場所で、銀三十シェケル、三十枚が出て来ます。これはご一緒に見てみましょう。マタイの福音書の26章の15節にこうあるのです。14節から読んで行きますね。

14そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
15こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。

ユダがイエスさまを祭司長たちに売り飛ばした値段が、銀貨三十枚でありました。
イエスさまは、そんな低い値積もりで、よしとされました。

こういうことです。ご自分を奴隷のようにして、十字架にかかられたということです。イエスさまはまさに罪と死の奴隷として売られている私たちの身代わりとなって、ご自身が奴隷となって銀貨三十枚で売られていった。  
黙々と私たちの病を背負い、私たちの罪と咎を背負い、罪の奴隷となっている私たちに代わって十字架にかかり、ご自身が贖いの代価となられた。
それがゆえに私たちは罪と死の奴隷からいのちの世界へと買い取られたというのが、十字架の意味です。

ホセア書の3章の3節に、ホセアはゴメルにこう言います。
「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」
 
最後の「私も、あなたにそうしよう」というのが尊い。ホセアは妻ゴメルだけを叱っているのではない。「私も、あなたにそうしよう」というのは、いわば、愛を誓っているのですね。これが私たちの第二の結婚式としようねと言っているのです。
銀貨三十枚を支払って、妻を買い戻した時にホセアは言ったのですね。――私はすべてを忘れる。だから君ももう二度とそういうことをしないでくれ。そしてこの日を新たなる結婚の門出とし、あなたに終生の愛を誓うと、ホセアはゴメルに言ったのです――それは、イエス・キリストの十字架と全く同じでしょう。

イエスさまは十字架にかかられ、そして後に現われた時に、弟子たちや私たちを叱り飛ばしたなんて記事はどこにもないです。
しかし、「あなたがたは買い取られたのです。買い戻されたのです(***Tコリント6:20、イザヤ43:1)。あなたがたは神の子どもとされたのです(***ヨハネ1:12、ガラテヤ3:26)。ですからもう二度と、以前の生活に戻ってはなりません(Tテモテ1:12〜16)。わたしのところに来る者をわたしは決して捨てない(***ヨハネ6:37)。わたしはあなたに愛を誓う(***エレミヤ31:3、イザヤ43:4)」(と言われます)。

だからせめて、「わたしの愛を思い遣って、尊んで、わたしの後をついて来てくれ(***マタイ16:24)」というのは、(「十戒」の第七戒の)「姦淫してはならない」という(短い)ことばに全部含まれている。

そういう意味で、私たちは「姦淫」を男女の問題だけと思いますけれども、男女の問題ではない。それは愛の問題です。それは心の問題です。
私たちが人を愛するというのは、まさに神が私たちを愛するのと同じで、私たちがそれを裏切ると、神は心が裂けるような思いをされる。
でも(神は)私たちを諦めることはない。そしてやがて私たちを贖うために、ご自身のいのちを投げ打ってでも買い取ってくださる。

私たちが洗礼を受ける時に、神は誓われる――わたしはこれから先、あなたの生涯、誠実を尽くす。だからあなたの誠実を待っている。
  
☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、ホセアはゴメルに言いました――これから長く、私のところにとどまっていてくれ。私も、あなたにそうしよう。
私たちがあなたの中に留まることができたのは、あなたが私たちを選び、私たちを買い戻してくださり、私たちに対して愛を誓ってくださったからです。

私たちは本当に弱く、小さな、愚かな者でありますけれども、あなたの愛があまりにも大きいので、あまりにも真実なので、私たちの心の中に、あなたの愛に応える小さな思いが与えられましたことを心から感謝致します。
それを大切にすることができますように。加えて、家族を大切にすることができますように、主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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