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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/26 『手を伸ばしなさい』 ルカ6:1〜11
8/26 『手を伸ばしなさい』 ルカ6:1〜11

☆お知らせ

●会堂の掃除にどうかお誘い合わせて、ご参加ください。教会によっては掃除屋さんを雇っている場合、牧師がもっぱらやっている場合、土曜日に来て皆さんが交替にやっているなどいろいろですが、私たちは礼拝の後に、出来るだけ短い時間の中でやるようにしています。ただ懸念していることは一定の方だけに集中しないようにということ。ぜひご協力ください。(担当=藤本圭子師)

●ラブローフの、今年3回目の回収を来週(9/2)行います。ラブローフは、ワールドビジョンを通じて、発展途上国の恵まれない子供たちを救援する愛の募金です。(担当=折井姉、横溝姉)

●今日はロビーのところで付箋が販売されています。宮保姉からその趣旨についてちょっと説明をしていただきます。***フィリピンやタイなどの貧困の中にある子ども達に学用品を送りつつ、奨学金など支援しているNPO、ふれんどしっぷASIA(代表が姉妹の高校時代の同級生)の募金活動のご案内。フィリピンのセンターが2月の地震で倒壊してしまい、先ずは修繕のための募金45万円のために。付箋一つ200円、3個で500円など***この部分概要

見ていただいたらわかりますように、ただの付箋です。付箋はただの付箋でないと役割を果たせませんから。しかしこの付箋にはプレミアムが付いています。それはフィリピンで貧しい子どもたちのことを考えて、一生懸命奉仕をしておられる方々のいのちのプレミアムがついています。ですから、ぜひ購入して頂いて、それからバンバン使っていただきたいと思います。そして、それを使っている自分が、少しフィリピンのために、地震の被害のために、何かできたんだということが、小さなことでありますけれども、ちょっとだけ誇りにされるといいのではないかなと思います。

●9月の集会予定も出ましたが、6日(木)の朝の祈り会は、まだまだ暑いのでお休みです。

☆始めのお祈り

幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。
王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。
(この日の交読詩篇33篇1〜17節より12節、16〜17節)

恵み深い天の父なる神さま、まことに暑い一週間でありました。それを無事に乗り越えることができて、そろそろ疲れは溜まっているかもしれませんけれども、あなたを拝するために今日一所に集まっている私たちを、「幸いな者たちよ」と呼んでくださることをありがとうございます。
「幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。」(同12節)

「神の人モーセ」と題して、旧約聖書のイスラエルの民を学んでいますが、あなたはその民に向かって、「あなたがたはわたしの宝だ」とおっしゃいました。今朝あなたは私たちに向かって、こんな私たち、罪深く、弱く、小さく、わけのわからないことばかりし、自分の純粋な思いを実現することもできずに、どこかで挫折し、どこかで苦悩するような私たちに向かって、「あなたは幸いだ」と、「わたしが、『(あなたは)わたしのものとなる』ためにあなたを選び、『あなたはわたしの宝』として大切にする」と約束してくださっていることを心から感謝致します。

時に、その約束が信じられないほど、私たちは愚かでありますが、しかし十字架を見上げます時に、その十字架が、私の罪のためにあなたが代わりに死んでくださったことを思い出させ、なるほど私は心からあなたによって愛されているということを改めて確認することができます。

賛美を歌い、そして祈り、聖書のみことばを聞く時に、あなたの宝とされている大切な、大事な一人ひとりであることを自覚することができるような、信仰を授けてください。その時改めて、「軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにはならない」(同17節)と、どうか心の底から確認することができますように。

私たちの周りには、金銭、人の力や、情報や、さまざまな頼みとするものがあるに違いありません。しかし私の救いは神さまのみから来るということを、ぐっと心に捉えて、礼拝の場から遣わされることができるように、今日の礼拝を祝福してください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆聖書個所             ルカ6:1〜11(新改訳第3版)

1ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
2すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
3イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
4ダビデは神の家に入って、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
5そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」
 6別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。
7そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
8イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。
9イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」
10そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。
11すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。

☆説教         手を伸ばしなさい

今朝は「神の人モーセ」のシリーズを少し離れまして、ルカの福音書の6章を見ていただくことにしました。ルカの福音書の6章の1節、ちょっと見てください。

1ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
2すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」

それから6節、
6別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。
7そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
8イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。

登場人物はパリサイ人という当時の宗教家、厳格な宗教家ですね。パリサイというのは「分離する」という意味ですが、自分たちは世俗から分離した聖なる者だという意識が強く、厳格に聖書の教えを全うしながら、世俗とのかかわりを避ける人たちでありました。
登場人物は、基本的にはそのパリサイ人という当時の宗教家と、イエス・キリストと、手の不自由な人でした。

最初の出来事を見ていただきますが、安息日に、1節、弟子たちが歩きながら麦の穂を摘んで行きます。これは泥棒ではないのです。旅人が歩きながら麦の穂を摘むということは、旧約聖書に許されています。ところが問題はこれが安息日であった。

安息日というのは、旧約聖書では土曜日に当たります。土曜日は安息の日で、神を礼拝する。全ての労働から離れる。旧約聖書にはさまざまな規定が沢山出てまいりますけれども、この土曜日に関する、この安息日の規定ほど多い規定はありませんでした。

もともとモーセの十戒では、一緒に勉強しましたね、安息日はわずか一行です――(安息日を覚えて)これを聖なる日としなさい――だけなのです。しかしそれを読んだ人たちは、どうしたら聖なる日とすることができるのだろうかと(考えた)。聖なる日というのは、神さまと礼拝する日ですから、普通の日のような生活はしない。普通の日のような……というのは、特に労働をしない、身体を休める、心を休める、魂を休める。労働をしないとなりますと、じゃぁ、何をすることが労働なのだ、どこまでが労働なのだという規則を考え始めます。そこで人々は39の規則を作り、それぞれに39の規則をまた細則として作り、合計で1521の規則があったと言われます。

その規則に当てはめますと、例えば弟子たちが旅をしながら麦の穂を摘んだというのは、麦を収穫したことになる――これは労働です。手で揉んで、もみ殻と中の麦とを分離し麦の脱穀したものを食べた――なるほどこれは脱穀という労働であります。それは何とも滑稽なことでありますけれども、それが当時の習慣でした。こうした規定をきちんと守ることが、信仰的だと理解をしていた。

さて、こうした人たちはイエス・キリストのなさることを見守っていました。それが第二の出来事で、右手の不自由な人だった。別に左手でもいいのですが、石川啄木(***1886〜1912)の(短歌に)「はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)樂にならざり ぢつと手を見る」(***1910発行『一握の砂』という三行詩があります)。

その手というのは、自分なりに働き、自分なりに努力する手ですね。そして、自分の人生をそこに刻み込んで来たその手をじっと見る――その手というのは労働の手であり、人生の手であり、働きの手であり――それが動かないというのは、古代の社会にあっては致命的でありました。現代では右手がなければ左手がありますし、両手がなければ足がありますでしょう。私たちは必ずしもそれを不自由と考えない、そういう社会を築かなければいけない、という文化の中にありますが、でもやっぱりそれが動かないというのは、それなりに苦労なのだろうと思います。

この場面で、今日は三つのことを簡単に学んでいただきたいと思います。ものすごく簡単なことですが、ものすごく基本的で、ものすごく大切なことですので、よく考えてください。

1)パリサイ人の関心は、この右の手が不自由な人には向けられていない

当時の宗教家であり、厳格で聖なることを追求し、世俗とのかかわりを断ち切っているこの人たちの関心は、右手の不自由な人には全く向けられていないです。あるいは腹を空かしながら、旅をしている弟子たちにもその関心は向いていない。人には関心がない。
関心があるのは、どのようにしたら自分が聖なる生き方ができるかということと、どのようにしたら神のみこころを生きることができるかということで、周囲にいる苦しんでいる人には関心を向けない。イエスさまは彼を直すのか。直したら、それは労働に値する。7節を見てください。

7そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。

ということは、ここでも(パリサイ人は)右手の不自由な人に関心はないのです。果たしてイエスが安息日の規定を破るかどうかに、関心があるのです。彼らはそんなつまらないことに思いを集中させて、イエスさまを眺めている。そこではひとりの人の苦しみが全く問題になっていない。この人の存在さえ、問題になっていない。

これはいつもキリスト教会に投げ掛けられるチャレンジですね。それはある意味、キリスト教会が社会の問題とどう関わるか、これがいつも抱えている問題であり、私たちはどこかで、一線を引かなければならない状況もあります。

例えば皆さんは(ご存じのことですが)、足尾銅山で働く人たちがいろんな苦しみに、そして鉱物の害に遭っているというその社会問題を、田中正三(たなか・しょうぞう)という人物に語って、鉱毒事件というものに関わった。田中正三はクリスチャンだった。そして当時のキリスト教会の中心人物だった植村正久(うえむら・まさひさ)に、教会を挙げてこの社会問題に取り組んで、教会を挙げて反対運動を起こしてほしいと。でも植村正久は一線を引きました――教会イコール社会正義ではない。教会はできるだけの協力をしても、そこまで入り込むことはできない――これは田中正三を失望させました。でも植村正久は教会としてのアイデンティティーを守った、というように。

成田空港が建設される時に、多くのキリスト者たちは学生運動と一緒になって、成田空港建設反対運動を起こしました。それはそれなりに意味がありました。それに全面的に教会の勢力を投じるか投じないか。投じた牧師もいました。しかし、そこまで投じることはできないと、一線を画す牧師もいました。そして一線を画した方が、むしろ社会的な影響力は強かったという事実もありました。

私たちは社会の問題とどれぐらい関わって行くのか、考えさせられますが、大切な原則はあります。それは教会イコール社会正義としてしまった時に、イエス・キリストの救いという中心問題が全部ぼやけて行きます。そして社会問題に没頭する状況に私たちがはまって行く。社会問題に関心のある牧師が教会にいきますと、講壇からは聖書を用いながら、社会問題しか語りません。すると聞いておられる皆さんはとてもしんどく感じられるでしょう。

でも、その逆で、社会的な問題にほとんど関心がなく、私たちがいかに世俗から隔離されて聖なる道を歩むことができるか、ひたすら聖書を読み、聖書から汲み取る神のみこころだけを考えていたならば、私たちはこのパリサイ人と同じことです。

それはどういうことかと言いますと、聖書から神のみこころを汲み取る、読み取る、それを自分に当てはめるということに神経を集中しますけれども、この世界で、苦しんでいる人たちに目が向かないのです。私たちの教会の中でも、さまざまな事情で結婚から離婚へという風に導かれる、そういう場合もあります。聖書は基本的に離婚を認めません。でもその聖書の教えを100%当てはめて、ただそれだけに生きてしまうと、とても夫婦関係が難しく、あるいは家庭内暴力というものが展開されている中で、本当に苦しんでいる人に目が行かないのです。

私は割と緩やかな牧師としての性格として有名ですが、私はできる限り緩やかでいたいと思います。それは私たちが本当に関心を向けるのは、神のみこころを生きるという、まあそれは自分自身に当てはめてそれを全うすればいいと思いますけれども、しかし、その神のみこころを生きるという目で、尺度でこの世界を見たら、この世界の難しさというものは、おおよそ片が付かない。むしろその人物はどれほど苦しんでいるのか、どれほど難しい選択肢の中に立たされているのか、どれほど悲しんでいるか、ということにどうして目を向けないのか。

サルトルという人物は西洋の哲学者ですけれども、「出口なき牢獄」と呼んだ世界がある。人は「出口なき牢獄」の中に自分を閉じ込めて、あるいは閉じ込められている。その牢獄とはいったい何か。それは人々の冷たい視線の中に投げ込まれた人間の状況ですね。

人々の冷たい視線。周りにいくらでも人はいるのです。家族がいるかもしれない。教会の兄弟姉妹もいるかもしれない。しかしそこには愛がなく、その冷たい視線で自分の不遇な状況に目を注ぐ、その冷たい視線のただ中に自分ひとりが置かれている、まさに出口なき牢獄だと。その出口なき牢獄を造り出しているのは、私たちの自己中心性です。

私たちの自己中心性――私たちは時としてそういう状況に追い込まれる時もあれば、より反省すべきは、自己中心な私たちが時としてそういう状況を造り出して、人を裁く。おおよそ緩やかであっていいなぁと思いますのは、こういう出来事を考えますと、5節見てください。

5そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」

どういうことかと言いますと、イエスさまは、「わたしは律法に縛られるような存在ではない」(と言われ、)律法の規定はさまざまにあるだろうが、「わたしは安息日の主だ」とおっしゃるイエス・キリストは、「わたしはそのようなものには縛られない」(と言われたのです)。

イエスさまは周りの状況を分かっておられました。8節(と9節)――

8イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。
9イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」

「いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか」というのは、「いのちを見殺しにすることなのか」ということです。あなたがたは規則を考えて、一生懸命聖書を読みながら神のみこころを探っているが、まあ、それはいい。でも神のみこころというのは、この人の苦悩に表わされるのではない。規則を守る守らないの問題ではない。その人のいのちを救うことなのか、それを見殺しにすることなのか、それが問題だということがあなたがたには分からないのかと言って、イエスさまは彼を癒します。

わたしはあなたを救いたい、あなたを癒したい、いのちを与えたい、手を伸ばしなさいと言って、(イエスは)彼を救うのです。私たちは本当に考えさせられますね。人間は関心の方向というものはさまざまです。でも私たちは往々にして周囲の人を見過ごしにする。見殺しにする。そして何とかして、自分のパリサイ性、自分の聖さというものを保とうとする。でもよ〜く考えてみたら、一番の問題は、自分は周囲の人に関心がない。その人のいのちがどうなろうが関心がない、というのが自分の最大の問題であるということに気が付くわけですね。

2)聖書は身体的不自由さを霊的不自由さとして描いている

新約聖書には旧約聖書もそうですが、多くの身体障害を持った人が出て来ます。それが足であったり、手であったり、耳であったり、目であったり、口であったりするわけです。聖書は身体的な不自由さを、私たちひとりひとりの霊的な不自由さとして描きます。

耳が聞こえないというのは、神さまの声が聞こえないということです。口が思うように動かないというのは、祈らないということです。目が見えないというのは、霊的な事柄、神さまの世界の事柄が見えない(ということです)。それは全部私たちのことです。イエスさまはそのような不自由さをもっておられる方に注目をして、その人物を癒される。

だけど同時にイエスさまはこうおっしゃるでしょう――あなたがたは、目があって見えない、耳があって聞こえない、というのが分からないのかと。
イエスさまが一番注目をしておられるのは、身体的な不自由さではないということ。実際は霊的な不自由さで、私たちは誰もが、盲目でなければ見える。
しかし、目があって見えないというのは、あなたがたのことだよ。耳があって聞こえないというのはあなたのことで、自分の抱えている霊的な不自由さ、それにどうして心を向けないのか。

私たちの心は不自由ですね。
止めたいと思っている事が例えば止められないとか、自分の心がもっと放たれたら、もっと自由になれるのに。
人の目を気にするな、気にするなと言われながら、どうしてそこまで人の目を気にするのだろうか。
部屋を片付けなきゃいけない、片付けなきゃいけないと思っている自分に、もう疲れ果ててしまった(笑)とか。

私はもう疲れ果ててしまいまして、先週3日かかって片付けました(笑)。3日かかって、ボロボロになりました。それで、ごみ袋だけで10袋はもうすでに出しました。でもまだ10袋あるんですね(笑)。
本だけで100冊処分した。でもまだ処分すべき本が300冊あるのです。恐らく一生読まない。ということは自分でわかっていながら捨てられないのです。捨てられない。その捨てられない自分にほとほと嫌になって、疲れ果てるのです。

人間って不思議だなぁって思いますね。自分で自分を乗り越えることができたら、どんなに楽なんだろうと。それが身体的な問題であればむしろいい。それが一番問題になるのは、身体的なことではなくて、自分の性格であったり、心の問題であったり、魂の問題であったり、自分が解き放たれていない問題。それはものすごい悲しみに出会ったら、なかなか解き放たれないのは当然でしょう。ものすごい問題に直面したらだれもがくず折れるでしょう。

でもじっと考えてみると、ものすごいことじゃないです。やってできそうなことができない。なんでこんなに小さいことにこだわるのだろう。なんでもっと自由に生きることができないのだろう。いや自由すぎて、なんでもっときちっとできないのだろうという、そういう問題もあると思いますが、イエスさまはそこに目を向けて(私たちに言われる)――あなたがたは目があって見えない。耳があって聞こえない。そしてあなたがたはどこまでも、悟らない。

3)手を伸ばしなさい

イエスさまはそういう人物に向かって、私たちに向かって「立って真ん中に出なさい。」次に「手を伸ばしなさい」(と言われる)。

10そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。

みんなの前に立って真ん中に出るというのも勇気が要ります。そして手を伸ばしなさいというのも、もう少し勇気がいることです。なぜかと言うと、手を伸ばせない彼に向かって、手を伸ばせと言うのですから。それは信仰です。恐らくこういう時に働くのは、一瞬の決断です。

今日は加藤隆弘兄がお仕事で来ておられないのですが、彼の救いの証しは、特別伝道集会があって、その最後に「救いに与りたい人は手を挙げて」と言われた。彼はなぜ手を挙げたのかもわからない(笑)と言う。でもなんとなく手が挙がっちゃった。そして、なんとなく手を挙げてしまった自分に、なんとも言えない一歩踏み出した自由さを感じた(と言う)。

私は覚えていますが、私が牧師になって、2年ぐらいだったと思いますが、奥さんが先に救われ、彼はなかなか教会に来ない。でもまだ1歳かそこらでしたが、いつも綾子ちゃんをあやすふりをして教会の外に行くというのが彼のパターンで、そして礼拝に座っているのがとても苦痛だった。でもある日、イエス・キリストの救いに与りたい人は……という時に、彼は何故だかわからないけれども、手が挙がった。

「手を伸ばしなさい」の逆は「手を引っ込める」です。「手を伸ばしなさい」と言われた時に、思わず「手を引っ込めて」しまったという方がむしろ私たちの行動に近いです――一歩踏み出しなさいと言われた時に、途端に腰が重くなった(ということもあり得ます)。
しかしこの人物はイエスさまに期待し、一瞬の決断だったと思いますが、イエスさまの恵みをつかもうと、手を伸ばした時に、彼は解放されていった。
なぜ自分だけがこんな目に、というその不遇な境遇に閉じこもっていた彼が解放されていった。いつもさらされて来た周囲の冷たい視線、まるで物を見るかのごとく人を見る、何の関心もなく注がれる冷たい視線から自由にされて、イエス・キリストと出会う。神と出会うとはこういうことです。

この方は、自分に目を留めてくださる。自分を招いてくださり、「立って真ん中に出なさい。手を伸ばしなさい」と私の信仰を引き出される。
私たちはこの声を、――主が私たち一人一人に、「真ん中に出なさい、手を引っ込めないで、手を伸ばしなさい。わたしはあなたをさまざまな問題から解放することができる。わたしを信じて、一歩踏み出しなさい」と言われる声を――私たちは礼拝に来るたびに聞くほど、私たちは過去を断ち切ることはできないし、自分の現在の問題を切り離すことができない。

スコットランドの西にアイオナ島という小さな島があります。スコットランドというのは、五百万人位。イングランドとスコットランドというのは、英国の中で一つですけれども、意識的に今も分かれていますね。長〜いキリスト教の歴史の中で、一番古いと言ってもいい、ヨーロッパでローマ・ギリシャは別として、他の地域では一番古いと言ってもいい、ケルト民族が住んでいるのがスコットランドです。紀元6世紀には、すでに教会が存在しているところです。そこに古い廃墟となった礼拝堂があって、修道院が存在しているのですけれども、宗教改革の時代にその修道院は壊されて、今から20年〜30年前に有志によって、この修道院を建て直したということがありました。それがアイオナの聖堂と呼ばれるのですが、石で造られた小さな礼拝堂です。

その入り口にそこで働いて会堂を再建した人たちの祈りが記されていると聞いたことがあります。私は行ったことがないので解らない。そこに記されていることばというのは、実は聖書のことばではない。聖書のことばではないのですが、有名なことばで、“This is the first day of the rest of your life.”(あなたの残りの生涯にとって、この日は最初の日です。今日、あなたの人生のこれから先にとって、一の日です。第一日目です)――素晴らしいことばで、素晴らしい信仰です。これは聖書のことばではないですが、Uコリントの手紙の5章の17節と同じですね。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Uコリント5:17)

多くの方がこの聖書のみことばをもって、洗礼に与るでしょう――だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。――そう簡単に行くか?と私たちは思います。
そりゃそうです。人生は連続しています。日々の連続です。私たちは過去を断ち切れない。自分の今抱えている問題が一瞬にして無くなる――そんなことはないです。
過去に縛られて連続性に縛られて生きるのか、連続性に縛られない自分を持っているのか(の違いです)。

「古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました」とは、私たちが神を信じ神のうちにある時に、いつも約束されていることなのです。私たちの礼拝堂には、「今日という日は、あなたの人生の残りの第一日目です」ということばは書いてないです。
しかしこの礼拝を終えて会堂から出て行く時に、「今日という日は、あなたの残りの人生の第一日目である」というのは、毎週そうなのです。
神のうちにあるならば、連続した自分から一つ抜け出て、キリストにある自分というものを私たちはいつも意識するのです。

キリストにある自分というものを意識したとたん、自分はすべての罪を赦され、神の子どもとされて、イエス・キリストの復活のいのちが私のうちに注がれ、そして何より神はあなたの過去にこだわらないです(イザヤ38:17、同43:25、エレミヤ31:34、同50:20)。
あなたはこだわっているかもしれない。周囲の人もこだわっているかもしれない。
しかしイエスさまは、「わたしは全くこだわりを持っていない。『わたしのうちにあるならば、古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった』という目で、わたしはあなたを見ている」という、そのイエスさまの視線を感じて、私たちは、礼拝堂を出て日曜日に戻って行く時に、いつも新しくされているというその自覚をしっかり持って、今週も新しくスタートしたいと思います。

☆お祈り

そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。(ルカ6:10)

恵み深い天の父なる神さま、安息日の規則ばかりを考え、ある意味、神のみこころを尊ぶことばかりを考え、いつの間にか、苦しみ、苦悩している人たちをまるで見過ごすかのように、いや見殺しをするかのように、規則やあり方だけにこだわって生きて来た人々に、イエスさま、あなたは「人の子は、安息日の主です」とそれらの規則すべてを超えて、あなたが存在しておられるということを宣言してくださいました。

そしてあなたを信じ、あなたの中にある者とされ、あなたに信頼し、あなたについて行く者は「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった」(Uコリント5:17)といつも私たちを新しい目で見て、新鮮に愛していてくださるという、そのことを自覚することができるように、あなたの視線を感じることができるように、私たちを助けてください。

イエスさま、私たちはあなたの視線以上に、パリサイ人の視線を意識してしまうような世界に生きています。でも教会に来た時は、ただひたすらあなたの視線だけを尊ぶことができるように、私たちの信仰を造り上げてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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