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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/2 『キリストの愛に取り囲まれて』Uコリント5:11〜19
9/2 『キリストの愛に取り囲まれて』Uコリント5:11〜19

☆お知らせ

●TVで沢山防災の日に関するものをご覧になったと思います。高津教会でも防災は一生懸命やっております。秋になりましたら、連絡網を防災関係の連絡網としてまとめたいと思いますし、それから私たちの帰宅困難だった場合の防災委員会、光楽兄が考えてくださいました。その表が週報台の上に載っています。
自分はその時、委員として名前が挙がっていないけれども、いざという時のために自分も加わりたいという人がいらっしゃいましたら、光楽兄の方に届けていただきたいと思います。
教会には、水や非常食が備蓄されておりますが、非常食に関しましては今年の12月で賞味期限が切れます。これは、いわゆる防災非常食というよりは、皆さんが普通に召し上がっていただける、高カロリーの小さな朝ごはん的なもの、それを秋になりましたら、順番に売り出します(笑)。ぜひご協力を戴きたいと思います。

●掲示板に竹内姉のピアノレッスンの広告が出ております。個人レッスン。有料ですが、格安でありますし、竹内姉のピアノの腕は皆さんすでにご存じですので、ぜひ掲示板の広告を見て、竹内姉に個人的にお願いしていただきたいと思います。

●もののついでと言ったらナンですが、皆さんのおうちの外壁、内装は大丈夫でしょうか?(大笑)武井くんと一緒に橋さんのところでやっていますが、今、教会、教会員の特別キャンペーンで、近隣の教会に広告を出しておりますが、神学院教会も含めて、随分沢山の教会の、外装内装をやって来られました。ぜひ必要であれば、おっしゃってください。

●先週は募金活動のための、付箋の販売にご協力いただいてありがとうございました。今日はふれんどしっぷASIA の代表の田中祥一さんが横浜からわざわざ来ておられますので、ちょっとマイクを回していただいて、一言お話していただきたいと思います。

――田中代表のご挨拶――
この度、宮保さん、藤本先生、皆さまの温かいお気持ちによりまして、こういう場を提供していただいて本当に感謝しております。
小さな団体でフィリッピン、タイに教育を中心とした支援。1994年に活動を始めて約18年、なかなか厳しく満足な資金を得た活動は難しい。ネグロス島(マニラから飛行機で約1時間)沖で今年2月に起きたM6.9の地震により、耐震設計の構造ではなかったため、活動の拠点の施設が危険な状態に。その建物の修繕費用が必要なためこの活動をしている。この建物は“The Servants of Divine Mercy Convension”(神の愛の施行財団)という、地域の教会に集う方々が中心の団体で、信仰を深めるとともに、神の愛を人々の心の中にまた周りの人々に広めて行くということで、アウトリーチの活動もしている。普段は互助会的な活動だが、それ以外の方々にも広めようということで、貧困地区の家庭にクリスマスや学用品を贈ったり、医薬の講習会や青少年の教育をしたりする事に使われている活動の拠点だが修復が必要。(***この部分概要)
今日も宮保さんに言われてまた付箋を持ってまいりましたので、礼拝の後でご協力をしていただければ幸いであります。

――藤本牧師より背景のご紹介――
ふれんどしっぷASIAの会報がありますので、ちょっと読みます。
「もう一つの外国人墓地」という第36号。山手の外人墓地は有名。しかし保土ヶ谷駅からバスで10分ほどの丘の上にあまり知られていない外人墓地がある。日本に連れて来られた戦争捕虜の方々の墓地。日本軍は太平洋戦争で、14万人の英米人兵士を捕虜とし、そのうち3万5千人余りが現地で死亡。日本に移送収容された人々の数は約3万6千人。このような捕虜収容所は、閉鎖されたものを含めると、神奈川県内でもほとんどが横浜、川崎の工業地帯に15カ所もあった。横浜球場も収容所に使われた。日清製油、日清製粉、味の素、三菱重工、日本鋼管、東芝などで労働した。戦争時収容者の数は合計5千人、収容中の死者は215人。それらの方々の墓地。(***この部分概要)

ふれんどしっぷASIAは、田中さんは青山学院の雨宮(剛)教授のフィリッピンでの活動に感化を受けて創設されたという風に伺いましたけれども、今でも青山学院は初等部から大学まで含めて、毎年フィリピンにワークチームを送っています。それは単に豊かな国が経済的に貧しい国を助けるということだけでなくして、こういう歴史認識のもとに行っています。

こういう捕虜たちがどんなに大変な思いをしたかということは、松本幸四郎兄や、あるいは昨年天に召されました、小林武男兄から聞けばすごくよくわかるのだろうと思います。ぜひたかだか付箋ですが、なかなかいいアイデアですので、ご協力いただきたいと思います。

☆始めのお祈り

地よ。主の御前におののけ。ヤコブの神の御前に。神は、岩を水のある沢に変えられた。堅い石を水の出る泉に。
(この日の交読詩篇114篇より7〜8節)

恵み深い天の父なる神さま、九月の第一の聖日に、愛する兄弟姉妹、また新しく今日紹介できた方々とともに礼拝を捧げる恵みを心から感謝致します。

とっても暑い一週間でありました。雨を超えて、少し私たちに涼しさを与えてくださり、同時にさまざまなものが日常のペースに戻ることができるよう、小さな子どもたちをお守りください。

あなたは海を、山を、川を、支配しておられ、「ヨルダン川はさかさに流れ、山々は、丘は子羊のように、はねた」(同3節)と、大自然に奇跡をなしてくださるお方でありますが、その奇跡をもって、私たちの人生の岩を、水のある沢に変えてくださり、私たちの生涯の堅い石を、水の出る泉に変えてくださる(同8節)。

その希望と信頼をもって、あなたの御前に出ています。どうか、今朝礼拝にあずかることのできた私たち一人ひとり、その家族を見た者を祝福してください。そしてただひたすら、人に頼らず、ものや力に頼らず、あなたの力と愛に信頼を寄せている私たちを、憐れんで下さり、私たちの人生が抱えているさまざまな岩、石、海、山、川といった試練や課題を、あなたが動かしてくださらんことをよろしくお願いいたします。

どうか秋が伝道の秋となりますように。また秋が豊かな聖書の恵みを吸収する秋となりますように。また秋が、さまざまな疲れから立ち上がることのできる秋となりますように。どうか私たちの心の内側に新鮮な恵みの息吹を吹き込んでください。

今日遠くから近くからお出でになったお一人お一人に、その家族に、豊かな恵みがありますように。しかし同時に、礼拝を覚えながら来ることができなかったお一人お一人に、同じ恵みが届くことができますように、よろしくお願いいたします。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆聖書個所          Uコリント5:11〜19

11こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。
12私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。
13もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
14というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
15また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
16ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
18これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

☆説教    キリストの愛に取り囲まれて

2週連続で、出エジプト記からのモーセの学びを中断しておりますが、今日はまたUコリントの5章の14節〜15節を見ていただきたいと思います。

14というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
15また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

私は職業柄、人は何のために生きているのでしょう?とか、先生は何のために生きているのですか?――そういう質問をたびたび聞かれます。私は、いつも、さあ??という答えです(大笑)。

答えを言われて、はいそうですか、と納得できるような回答がすらすら言えるはずがないと思いますし、一番の問題は、本当にその質問をなさるその方が、果たして私の出そうとする答えを聞く気持ちがあるのかどうか、むしろそちらの方が私にわからないからです。

人は何のために生きるのか――それは自分で見つける質問であって、人に聞く質問ではない。自分で見つけようとしている私も、さぁと言うぐらいですから、それはそう簡単にわかるはずはないです。
それが人生だということは、誰でもわかっていることですから、そう簡単な気持ちで、何のために生きるのかという答えが出せるものではない。

でも、仮にですよ。キリスト者は、何のために生きているのでしょう?と尋ねられたら、自分の現実と、あるべき姿とがどんなにかけ離れていたとしても、そのあるべき姿をもって答えなければいけない。それがキリスト者の姿勢ですね。
自分の現実と、人は何のために生きているのでしょうという、その聖書が提示するあるべき姿がどんなに離れていても、自分の現実で答えてはいけない。自分の理想で答える。

簡単に3つのポイントでそれをお話したいと思います。

1)自分のために生きているのではない

これはもう明らかです。普通、人間は何のために生きているのですか、と問われたら、一般的な回答というのは、「自分のために」生きているのでしょうということです。
でもなかなかそう言いながら、そうなっていないということはよくわかります。

たとえば、子どもがなかなか勉強しない。親は何とかして子どもを励ます方法を考えるわけですけれども、ある時、お父さんは、勉強させることが難しい子どもにこう言います。
「いい加減にしろ、父さんがおまえの代わりに宿題をやってやることはできないんだぞ。勉強は自分のために自分でやるものなのだ。この勉強は何のためにあるかと言えば、全部お前の将来のためなんだぞ」

そう言われたら、子どもは、
 「そうかぁ、ぼくのためか。じゃぁ、頑張ろう」と言ってくれるか?(大笑)
 頑張らないでしょう。だから親は苦労するんですね。
  
「自分のために」という動機付けは、人生を生きる上において、案外弱いもので、これは明確です。 
人生で挫折や失敗をする――ごくごく一般的です。人生の危機ですよね。
その時、自分のために立ち上がる、自分のために奮起する、というのはおおよそできないのです。
ところがそれが、家族のため、友だちのため、自分の愛する人のために、自分の子どものために、この試練を乗り越えて奮起すると言うのは、わりと私たちも納得がいくのです。

先日、ロンドンオリンピックで、48キロ級で金メダルを取りました、自衛官の小原日登美(おばらひとみ)さんのインタビューを見ていました。
もともと小原という性は、結婚してそうなったのですが、妹さんの真喜子さんと一緒に姉妹レスラーとして活躍していました。
妹さんが48キロ級、その上の55キロ級には無敗の王者、吉田選手がいるし、あの人には絶対勝てない、(***51キロという級はオリンピックにない級だったので、満たされない気持ちで)小原さんは引退された。
妹さんは48キロ級でアテネオリンピックに挑戦しましたが、出場権を逃します。そして、妹さんから頼まれたそうです。
「私には無理だった、でもお姉ちゃんならできると思う」と言うので、彼女は一旦引退した51キロ級から48キロ級に体重を落として、今回金メダルを取ったのです。

オリンピックのインタビューを聞いていますと、ことごとくそういう話が出て来ますでしょう。
自分のために必ずしも皆さん頑張っている訳ではない。それが妹のためであったり、家族のためであったり、病気の甥っ子のためであったり、応援している人たちのためであったり――これが頑張るという力を産み出すのですね。

「星の王子さま」という物語を書いた、フランスのサン・テグジュペリという人はとても有名で、箱根に美術館があります。特にフランスよりも、日本では人気があります。
彼は飛行機にあこがれて、軍隊のパイロットの経験があり、飛行機輸送会社を設立し、フランスとアルジェリアと、アフリカの砂漠を飛んで物資を運ぶ。

彼は、第二次世界大戦のさなか、操縦中に行方不明になっている。
飛行機は砂漠に不時着をして、死を覚悟する。無線も使えない、救援も来そうもない。彼は、もうだめだと覚悟する。

そして彼の取った行動は、非常に興味深い。それは自分でもとても奇妙なことだった。
彼は留守の家族のことを思い出す。奥さんと子どもたちのことを思い出します。
そして、そこから奮起して立ち上がって、山に登るのです。なぜだと思います?

いよいよ自分の人生がだめだと考えたとき、彼が考えついたことは、せめて自分の死体が見つかるようにしなければいけない。
死体が見つからなければ、保険金が降りない(あ〜あ・笑)ということに気がつく。
自分は死んでいく、でも何とかして妻と子どもたちが、保険金を手にすることができるようにと、空から見える場所へ登り切らなければいけないと、彼は必死になって、小高い岩山に登るのです。

彼は、最後の体力を振り絞って登る。
結果的に、その岩山の上で救援隊の助けを得て、彼は助かり、やがて文筆家になっていくのです。

私はとっても興味深い。
人間、私たちっていうのは、「自分のために」という論理は結構弱くて、役に立たないです。
何と言っても、「愛する者のために」というこの力はものすごいです。
家族のために、子どもために、みなのために、友のために――自分のしていることが何か人の役に立っているという――この現実こそが私たちの人生の動機づけとしては恐らく一番力強いです。

難病と闘う、ガンと闘う人を見ても、最後は、自分のために闘っているのではない。
自分のためだったら、とうの昔に投げ出している。
それは、家族のために、自分の最期を看取ってくれている人のために闘っている。

2)何のために?

最初に言った「自分のために生きる」というのは、聖書の選択肢にはないのです。
では、何のために、人は、信仰者は、キリスト者は生きているのか?これは15節に明確に記されています。ちょっと心を合わせてUコリント5章15節を読んでみたいと思います。
 
15また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

キリストが私たちのために死なれた。生きている私たちはもはや、自分のためではなく、十字架にかかり、よみがえられたイエス・キリストのために生きるようになる。

ですから、およそ信仰者は、キリスト者は何のために生きるかと言われると、当面自分のためというものの言い方をするかもしれませんし、当面家族のためというものの言い方をするかもしれませんが、全部ひっくるめて考えれば、自分の人生はイエス・キリストのためと――そんな理想はパウロにしか当てはまらないんじゃないかと思うような――壮大な理想を、実は私たち小さき者であっても、頭から離してはならない。

自己中心で、自分の幸せのために私は生きているのではない。もちろん競争心やねたみや、恨みを背負って生きるのではない。何のために生きているのかと言えば、どこかで私たちはキリストのために生きている。

しかもパウロは、その「キリストがすべての人のために死なれたのは」(15節)と書いている――それは、私のために死んでくださったキリストです。

この方は、罪深い私のために、ご自身のいのちを投げ打ってくださった。
おおよそ私たちがキリストという名前も知らない、おおよそ私たちが自分の罪の中にもがいているだけで、自己中心な人生を送っている私のために、キリストは黙々とその十字架を背負って、ご自身のいのちを投げ出された――このお方のために(生きる)。
しかもこの方は、死んですべてが終わったのではなく、よみがえって今も共に私と生きておられる――この方のために生きる。

この方は単に死んでよみがえっただけではなく、私たちのそばに愛する者を置いてくださる。私たちのそばに、私たちの助けを必要としている者を置いてくださり、生みだしてくださり、私たちが人生のエネルギーを傾ける喜びをくださるお方です。

私たちは何の抵抗もなく、自分自身に愛する者が与えられていると思いますけれども、あるいは、自分が役に立てるような事柄が、何の気なしに転がって来たと思いますけれども、実はそうではない。
神さまがあの乞食のラザロを金持ちの家の門番に置かれたように、神さまは私たちにでもできるようなことを、私たちに与えてくださる。

私たちはキング牧師ではない。私たちはマザー・テレサではない。でも私たちでも、キリストの愛に応えて何かすることができるように、私たちのそばに私たちの助けを待っている人を置いてくださる。

私たちのためにご自身のいのちを投げ出し、よみがえってくださった方は、今日も私と共に歩んでくださり、そして私の人生をご自身の目的のために使ってくださる。

牧師というのは、なかなか辛い負い目を背負っています。どういう風に辛いかと言いますとね、自分の人生をイエス・キリストのために捧げ、「どうか神さま、私の人生を用いてください」とそのようにして、献身して神学校に行って牧師になるのですけれども、なんだか使ってもらえてないような気がする。

牧師の心の中には、どこかいつも祈りがありまして、「神さま、私を使ってください」というのは、「もっと私を用いて、伝道の機会を与えて下さい」「私を通して、もっと周囲の人がキリストの愛に触れる機会となりますように」「私を通して、もっと多くの方が洗礼の恵みに与り、神の子どもとされますように」という願いが、実は牧師の中には溢れているのです。それが溢れていないようでしたら、そもそも献身していませんもの。

ところが、この伝道のむずかしい日本という世界の中にあって、仮に教会を開拓し、そして力を注ぎ込んでその細工をして、教会の門戸を広げて、皆さんをお招きして、一向に伝道の成果が上がらないと、牧師はどこかで「自分は用いられてない」というメンタリティーに行くのです。

するとなぜ用いられてないのか、それは自分に足らないところがある。すると、その足らないところをカバーするために、もっと努力して、もっと頑張る。すると、いったい自分は何のために召されたのだというメンタリティーに帰って来て、精神的に病んでしまう牧師も出て来る。
ということは、一言で言えば、「神さま、私をもっと用いてください、あなたのためにこの人生をお捧げしたのですから、もっと何かの結果を出してください」と、ついついそういうメンタリティーのゆえに、結果を求める牧師になって来ます。

これは、ある意味で、健全な情熱から出て来るのですけれども、どこかで歪んでくる。そして、結果が出なければ自分は用いられていない、結果が出なければ自分は愛されていない、結果が出なければ自分の信仰は足りない、という誤った結論に流されていく。そういう気持ちは皆さんも、どこかで持っておられると思います。

つまり牧師として献身しなくても、自分の人生というのは、やっぱり神さまに用いていただきたい。しかし、用いられるどころか、自分はその世界で挫折を経験し、用いられるどころか、自分はその世界で失敗をしていく。
すると、私の仕事を通して、あなたの栄光を表わさせてください、と真剣に願った私の思いを、あなたは本当に受け取ってくださったのですか、とその真実なメンタリティーもやっぱり裏目に出てしまう。

そして自分が自分の結果に失望したり、結果が出せない人生を見ますと、神さまに裏切られた、結局結果が出ないということは、自分(の信仰)が足りなかった、と同じようなメンタリティーに運ばれていくのです。

そういう話を私は何度も何度も講壇からしているので、皆さんにとりましては、耳にたこができるぐらいではないかと思いますが、しかし、一つ考えていただきたいことは、それほどまで見込まれている私の価値というのは、私にはわからない。
振り返って考えてみると、神さまが私を召してくださったというのは、私の思い込みだったのではないだろうか――牧師は最終的にはそこに行きます――自分は実は召されていなかったのではないだろうか。

そうではないです。
15節に「キリストがすべての人のために死なれたのは」というのは、すべての人のために(の中に)私が入っているのです。すべての人と言うのですから、私も入っているのです。
すると、「キリストが私のために死なれたのは、私が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」ということは、イエス・キリストは、十字架にかかられたのは、私を用いるためです。
間違いなく私を用いるためなのです。
こんな私でも用いてくださるために、キリストは十字架にかかってくださった。
だから、用いられてないということは、実はないのです。

用いる分野は違うかもしれない。あるいは、もしかしたら、私は用いにくい、神さまにとって、ものすごく持ちにくい鉛筆なのかもしれない。
その持ちにくい鉛筆を神さまは削ってくださり、私たちが周囲に合うようにしてくださるのですけれども、人生のさまざまな試練を通して、私たちが用いられるように、用いられるようにと。

エイミー・カーマイケルという、インドで亡くなったイギリスの宣教師の話は何度かしたことがありますが、彼女は明治の終わりに松江に宣教師として遣わされて、わずか1年で日本を去ります。デング熱に冒されて生死の間をさまよって、日本を去り、中国に伝道しようと思うのですけれども、やはり中国でも悪い。
彼女はイギリスに帰る途中、インドに寄るのですが、インドに行った時に、こここそ自分の生涯、神に仕える場所だと、そして彼女はそこに大きな孤児院を建てるのです。

彼女はインドから離れることはありませんでした。20代前半に日本に来てから一度もイギリスに戻ることもなく、89歳の生涯をインドで閉じるのです。
人生の後半は、ずーっと寝たきりです。でも寝た切りの状況で彼女は祈り、元気な頃にはできなかった手紙書きに専念し、執筆活動に精を出し、そして、どんどん霊的な人物に造り変えられて行った。

やがて、世界中の人がエイミー・カ―マイケルを慕うように変えられて行くのです。
神さまは、私たちひとりひとりに生きる使命と目的を与えてくださる。その使命と目的のために、私たちは磨かれていくのです。
そして私たちが磨かれる最大の道具は、試練、困難、挫折、失敗。
私たちの苦々しい思い出というナイフをもって、神さまは私たちひとりひとりのペンを削ってくださる。
そして私たちは限りなく主に用いられ易い形で、教会の中にいる。

有名なキリスト教文学者の、「塩狩峠」を書いた、だれでしたっけ?(「三浦綾子さん」という声・笑)。三浦綾子さんが分からないようであれば、そのうちイエス・キリストの名前も出て来なくなる?(大笑)

三浦綾子さんはがんとの闘病を十数年。……晩年の講演で、最後NHKで取り上げられていましたが、こんなことをおっしゃいました。
『使命』という漢字は、いのちを使う、と書く。私がどんな状況になっても、神さまは最後の最後まで私のいのちを使い切って、私はやがて天に召される。どんな状況になっても、神さまは必ず私のいのちをご自身の栄光のために使ってくださる。

神さまに使っていただける人生ほど喜びに溢れた人生はない。でもその使っていただくという意味は、必ずしも世の中で言う、活躍される、用いられる、多いに業績を上げるという意味では絶対にないということだけは確かです。

さて、3番目に、
1番目に私たちは自分のために生きるのではない。
2番目に、私たちは最後の一滴に至るまで、このいのちを神さまに使っていただく。イエス・キリストのために生きる。
そう言われれば言われるほど、その理想と自分の現実とが離れて見える。ですから、パウロが14節で、「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました」と言って、14節から15節を記しました。

3)『キリストの愛が私たちを取り囲んでいる』ということを意識することが一番大切。

自分はもはや自分のために生きているのではない。
自分のいのちを使うべき対象というものを、神さまは必ず私の周囲に用意してくださる。
それが家族かもしれない。それがお孫さんかもしれない。それがアジアの友人かもしれない。それが教会の奉仕かもしれない。それが日常の働きかもしれない。
でもそれを通して、神さまは必ず栄光を表わしてくださる。

そのことを意識するならば、私たちは先ず、『キリストの愛が私を取り囲んでいる』ということを意識しなければいけない。
今の私を取り囲んでいるのは、妬みでも恨みでもない、自己中心な思いでもないし、挫折の苦々しい思い出でもない。
キリストの愛があなたを取り囲んでいるという事実が、あなたの生き方の方向性を決定する。
自分の為ではない。キリストの栄光が表わされるように、キリストの愛が証しされるように、愛が私を取り囲んでいる。

今年から日本ハムファイターズの監督になった栗山英樹さん。
元ヤクルトスワローズの選手で、スポーツコメンテーターで野球の畑でずっと活躍して来ました。なかなか甘いマスクで、知的で、優しくて、なかなか好感が持てる。

彼は、学芸大学卒業で、彼は学校の先生を目指していた。小学校の先生、中学、高校と、いずれの教員免許も持っているのです。ところが野球が好きで好きで仕方がない。

彼は、プロテストからヤクルト入団。
テスト生として入団して、苦労の末に一軍に上がるのですが、間もなく彼は病気になります。それがメニエール病でした。メニエール病を持っていたら、スポーツ選手は完全に終わりですよ。
でも彼は、その病を克服して、復帰します。そして立派な成績を収めます。

その闘病の期間中、彼の心を支えたのは何だったでしょうか。
彼は、どこかに記していますが、病気の時、彼のお母さんが泣いて言った。
「代わってやりたい。おまえに代わって、この病気を母さんが背負ってやりたい」

代われるわけはないのです。代われるわけはないんですけれども、「代わってやりたい、おまえに代わって、この病気を母さんが背負ってやりたい」というそのことばに、彼は奮起して、諦めていた野球選手の道を彼は追求し続けるのです。

「代わってやりたい、おまえに代わって、この病気を母さんが背負ってやりたい」というのは、お母さんの愛で、そのお母さんの愛を受けて、お母さんの愛に取り囲まれて、彼は病気を克服していくのです。

もう一度言います。「代わってやりたい、おまえに代わっておまえの罪を十字架に背負いに行く」とおっしゃったのは、イエス・キリストでしょう。
『キリストの愛に取り囲まれている』という現実を、私たちはどういう風にして認識するのか。
実感できませんと言われたら、それまでですけれども、どういう風に実感するのかと言えば、それは紛れもなく、あなたの罪を身代わりになって背負った、十字架のイエス・キリストに出会って、初めて私たちはキリストの愛に取り囲まれるのです。

この方の愛が、この方の十字架が、私の生きる最大の原動力となる。
私たちが礼拝で賛美歌を歌う時、礼拝で祈りを捧げる時、教会を見て十字架を眺める時に、すべてがこの十字架という一点に集中しますでしょう。
十字架なくして教会なし。どんなに素晴らしい説教を聴いても、どんなに素晴らしい賛美を聴いても、その中に十字架がなければ、私たちは神のメッセージとして捉えることができないぐらい、十字架が中心なのはなぜか。

それは、十字架を見上げる時に、私たちはキリストの愛が私を取り囲んでいることを意識するからですね。
そんな私は、どんなにしくじっても、どんなに予定外、想定外の展開であったとしても、神さまは必ず私のいのちを全部使い切ってくださる、という信頼をふうっと抱いて、座席から立ち上がり、場所を新しく生きる――これを信仰という。

今日も、心いっぱいキリストの愛を賛美し、その愛に取り囲まれている自分を意識し、そしてまた現場に戻って行こうではありませんか。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、あなたの御子イエス・キリストは、私に代わって、私に代わって、私の罪を背負っていただきましたが、その愛に取り囲まれて、自分は今生きているのだ。生きている自分はもはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きている――主よ、どうかこの聖書のみことばを、自分の人生の内側にしっかりと留め(させてください)。

私たちの現実はイエス・キリストを脇に退けて、いつの間にか、自分が主人になっているかのように感じますけれども、いやいやそうではない、キリストの愛が私を支え、私はここまで来ることができ、そしてその愛は私を離れず、いつも私を取り囲んでいるのだ、というこの霊的実感をもって、力を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2012.09.03 - 23:39

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