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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/9神の人モーセ(28)十戒(8)盗んではならない
9/9神の人モーセ(28)十戒(8)盗んではならない

☆お知らせ

●来週は敬老の聖日です。ぜひこの日を覚えて、ご高齢の方々のために、日頃からあらゆる祈りの場にあって祈っておりますが、元気でいらっしゃいますように、私たちの教会にご高齢の方々はどれくらいいらっしゃったのだろうかということも、覚えておきたいと思います。年齢がいかれてもう礼拝にいらっしゃることができないという方もおられますので、ぜひ心に留めていただきたいと思います。

わりと年齢を明かしてくれるな(笑)という皆さんの願望がありますので、以前敬老の日と言うと、敬老の方だけ前に出て来ていただいて、お祈りをしていましたが、私は出たくないと言う方もいらして(笑)、そのあたり微妙な心理が働きますので、もうそういうことは止めました。それで自己申告制になっています(笑)。私たちの教会でご高齢の方と言った時、基本的に75歳以上です。(***教会から小さな敬老のお菓子が配られますが、人数の把握が必要ですので、新高齢者は誰かを通すなどしてぜひ圭子先生まで)。

来週(9/16)午後にフェローシップがあります。夏の間にヨーロッパ・アルプス・トレッキングにいらっしゃった横溝恭一兄姉の証しと報告の予定。

●ご高齢の(方の一人)相馬姉(***川越のケアハウス在住)が6日の朝、具合が悪くなって入院をされました。かなり重症の肺炎です。しばらく入院が続くと思われますが、横溝兄が面倒を見てくださっています。栄造先生もいらっしゃいました。私も行って少し話はできましたが、少し様子が変わっていたと思います。大分苦しそうだなと思いました。抗生剤で何とかしようと思っているところですが、心臓もそんなに強くないので是非お祈りに覚えてください。

●宮保姉のご友人、ふれんどしっぷASIAの代表の田中さんが先週来られて、フィリッピンの地震で倒壊した建物の補修の寄金を、付箋を買っていただくという方法でアピール致しました。2つの聖日で300個、全体の10分の一を高津教会の皆さんの温かい愛と祈りの中で売り上げることができたと喜んでおられました。ぜひ皆さんによろしくということでしたが、ご協力を心から感謝致します。

●福井教会から○兄姉をご紹介したいと思います(拍手)。姉は教会学校時代から武蔵新城に住んでおられて、やがてご主人と結婚されて、神戸、大宮、久留米、福井、そしてとうとう高津へ戻って来ることになりました(ほう〜)。それで今家を探しておられるそうです。是非お祈りください。

●今日は長岡兄姉のお嬢さん△さんが来ておられます。22日の土曜日に結婚されます(拍手)。私が式を挙げて、品川のホテルで致しますけれども、ぜひ健康で式を迎えることができるようにお祈りください。
今度ご主人連れていらしゃってください。その時、花束を贈呈したいと思います(笑)。いつでも来ても間に合うように、花屋はすぐそばにあります(大笑)。

☆始めのお祈り

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。
(この日の交読詩篇138篇より8節)

恵み深い天の父なる神さま、賛美は私たちの祈りです。「わが主イエスよひたすら 祈り求む愛をば 増させたまえ主を愛する 愛をば愛をば」(***この日の賛美バス独唱 横溝眞理兄・イ讃美歌562番より1節)。さまざまな祈り、願いを持って教会の門をくぐりました。しかし礼拝しているうちに、一番祈らなければいけないことは、「あなたに対する愛の乏しさ、その乏しい愛を増してください」(ということや)、「辛いことも悩みもいとわず、勇み歌わん主を愛する愛をば」(***同讃美歌3節・ということだと分かります)。

問題課題を解決されることをも祈りますが、しかしあなたは私たちを愛しておられ、その愛に応えていく時に、あなたはさまざまに、人が為した問題課題さえ益と変えてくださる。――神を愛する者のためには、神はすべてのことを相働かせて益としてくださる(ローマ8:28)――あぁ本当に自分に必要なのは、あなたを愛することなのだなぁと、私たちは考えさせられました。

私たちがもしあなたを愛するなら、あなたは私に関わるすべてのことを成し遂げてくださる(詩篇138:8)というお約束をいただきました。
礼拝の時がたましいの安らぎの時でありますように。同様に、礼拝の時がこの内側から、あなたにきたえられ、あなたに注ぎ出し、力を得る時でありますように導いてください。

長岡△姉をご紹介することができ感謝致します。結婚式まであとわずかでありますが、その一走り十分な準備を整えることができますように。またあなたが導いてくださいました結婚でありますので、式を栄光のうちに収めてくださり、心から家族が一つとなり、あなたを感謝する式でありますように導いてください。
福井から来た○兄姉が一生懸命家を探していらっしゃいます。どこにあっても、転勤先で教会を大切にして来られました。最善の場所を備えてください。

しばらくみことばに耳を傾けますが、今日病の床にあって、一生懸命この礼拝の時を守っておられる相馬姉のことを覚えます。私たちの教会を、長きに亘って荷ってくださった姉妹であります。どうか姉妹の胸を安らかにしてあげてください。
これからさまざまなことが可能性として考えられますが、後見人として奉仕しておられる横溝兄を助けてくださり、いろいろ手続きが順調に進むことができますように、よろしくお願いいたします。
みことばを心から待ち望み、主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆聖書個所      出エジプト20:15      

ルカ20:19〜26 (新改訳第3版)    ***司会者により朗読された個所

19律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた。
20さて、機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った。
21その間者たちは、イエスに質問して言った。「先生。私たちは、あなたがお話になり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
22ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
23イエスはそのたくらみを見抜いて彼らに言われた。
24「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。
25すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
26彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった。

☆説教     盗んではならない

今開いていただきましたルカの福音書はそのままで、出エジプト記の20章を開いてください。
十戒に戻りたいと思います。(出エジプト記)20章の15節を見てください。十戒というのは、20章の2節から始まります。

 2わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

そして十戒の第1番目は
3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
2番目は、
4あなたは自分のために偶像を造ってはならない。
3番目は、
7あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。
4番目は
8安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

そうこうしているうちに数が合わなくなりますね(笑)。8番目ですよね、「盗んではならない」というのは。
(***参考までに書き出しますとこうなります)
         5番目は12あなたの父と母を敬え。
         6番目は13殺してはならない。
         7番目は14姦淫してはならない。

17節の「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」というのが10番目で、16節の「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」というのが9番目、(15節)「盗んではならない」というのが8番目ですね。

今日はその(8番目・15節)「盗んではならない」ということに、ちょっと心を留めていただきたいと思います。

盗んではならないとは、だれかの所有になっているものを奪ってはならない、という意味です。それは物だけではありません。人の尊厳を奪ってはならない。人の名誉を奪ってはならない。人の権利を奪ってはならない。その自由も、これらはすべて、その人に固有に存在するものを奪ってはならない。

恐らく十戒の中で、これほどどの時代のどこの文化にも共通して理解されているものは他にないでしょう。「殺してはならない」もそうかもしれませんが、これよりももっと単純に「盗んではならない」というのが入っています。

近代哲学に、「経験論」という流れがあります。経験というのは、私たちが五感をもって体験するもの。イギリスが発祥で、ジョン・ロックやバークリーという哲学者が提唱しました。
私たちが得ている考え方、価値観、善悪の判断、そうしたものはすべて経験を通して学んでいるのだ――これが経験論のものの考え方です。
そのことを言うために、近代の哲学者たちは(「経験論」の哲学者たちは)、生得観念(せいとくかんねん)を否定しました。
            
ちょっと難しい表現ですが、もう一回説明しますので、聴いてください。
要するに、生得――人が生まれながらにして与えられている観念――そういうものはないと言われます。全てのものは、私たちはこの世界で生きているうちに、ある文化社会の中で生きていくうちに、五感を通して経験を通して、学んで体得していくものだというのが、「経験論」のものの考え方です。

すると当然、生まれながらに持っているとされる生得観念というものを否定しなければならない。私たちの価値観、善悪の判断、それらはみな経験から来る。つまり時代や文化によって異なる。

そういうものの考え方で行きますと、もはや、絶対的な真理はありません。すべてがその時代、その環境における経験に従って決まりますので、全部相対的になります。
典型的なのが、一夫一妻が当然だと思っている文化もあれば、一夫多妻が当然だと思っている文化もあります。と言われますと、生まれながらにして一夫一妻は当然だということではなく、私たちは文化、その時代の情報によって、教えられて経験して、善悪というものを考えているのだと言えます。

ちょっと難しい話で申し訳ないのですが、でも、私は「経験論」はある程度当たっているなぁと思うのですが、大学の頃、この生得観念の否定を論破した哲学の本を読んだことがあります。私はその本の著者の名前も覚えていないのですが、結論はなるほどと思うぐらい強烈でありました。

さまざまな考えは、おおよそ人間の経験を通して与えられると認めた上で、一つだけ、そうとは言えない観念があるんじゃないか、つまり一つだけ、どの時代のどの人も共通して、生まれながらに与えられている概念があるんじゃないか、と言うのです。
その概念というのは――私のものは私のものであって、あなたのものではない――この概念だけは、どの時代のどの文化の人も持っているのではないか、ということを論じた本を私は読んだ記憶があります。

ですから、一夫多妻の文化であっても、自分の妻は20人いようが、それはあくまでも“自分の”妻であって、それを奪われることを人は良しとしない。
その意味で第8番目の戒め、「盗んではならない」という戒めほど、誰もがわかる神の戒めはないのではないか。それは生まれながらにして得ている観念だからですね。

もう一人、哲学の話をさせてください。
今度はマルクスです。私は哲学の話は講壇からめったにしないのですが、大学は一応哲学なので、許していただきたいのですが(笑)……。
マルクスというのは言うまでもなく唯物論者で、無神論者でありました。彼はものすごくキリスト教的なのです。特に、彼の哲学の中心となります「労働論」というのは、キリスト教そのものです。

長い哲学の歴史の中で、哲学者というのは、哲学すること、真理を追究することは、最も高貴なことで、労働は最も低俗なことと理解して来ました。一番強いのはギリシャ哲学がそうですね。労働というのは、奴隷がすればいい。自由人、ギリシャ市民は、哲学してアレオパゴスであるいはアテネの神殿で、それをさまざまに体験し学んでいくことが自由人のモットーだと。

ところが、その長〜い哲学の歴史の中で、マルクスは初めて、労働を人間の最も尊い営みだと言った人です。
何かを生み出す、作り出すこと――それは人が生きていることを実感し、満足する――人にとって労働とは最も尊い体験だと。
彼はそもそもユダヤ教徒の家庭に生まれていますので、私はここに旧約聖書の教えがそのまま生きていると思います。

神さまの存在(について)は、神さまは「わたしが生きていることを証明する」とは聖書は一言も書いてない。聖書の一番最初の行は、「初めに、神は天と地を創造された」(創世記1:1)という、神の働き、いわば神の労働で始まっています。
そして、天地創造の一番最後、その働きが終わった時に、神さまは休んで、それをご覧になって、(口語訳では)「はなはだ良い」(***新改訳では「非常に良かった」とおっしゃっています)(創世記1:31)。「はなはだ良い」というのは、満足ですよね。

聖書の創造の教えは、マルクスの労働理解と重なっていると思っています。
神さまは創造という働きの中に、ご自身の存在意義というものを現わされました。
私たちも何かを造り出すことで、自分の存在意義を感じます。 
人の労働は、神の創造とつながる。人間は神さまの似姿に作られているのですから、人間とて何かを作り出すことに喜びを感じて当然です。

さて、ここでマルクスの資本主義批判が始まるわけです。
私は、彼の考え方は正しかったと思いますが、労働者が作り出した製品を売って得た利益というものがあります。
マルクスは、当時の資本主義社会で疑問を投げかけるのですね。
労働者が、いのちを削って造り出した製品を売って得た利益を、いったい誰が持っていくのかと。
          
その利益というのは、その人の苦労の賜物で、労働の報いで、それが私たちのところに返ってくるのか――いやいや、資本主義ですと、そうはいきません。
働いて生み出された産物は、その利益は資本家のところに吸い上げられ、私たちは賃金労働者として使われているだけだ、と。
これは、人間としての存在意義を、喜びを奪われているのだとマルクスは訴えたのですね。
          
一生懸命に働いて、あるものを生み出し、創造し、その成果はまぎれもなく私のものなのです。
ところが、いとも簡単に資本家がそれを持っていく――これをマルクスは、搾取と呼びました。
私たちの労働成果が搾取されているだけではなく、私たちの存在意義そのものが搾取される。
なぜそのようなことが可能なのかと言うと、 私たちは雇われ人だからです。昔で言うならば、それは小作人です。
そうして労働の成果を搾取されることは、人間にとってとっても辛いことだ、と言って彼は、共産主義革命を始めていくのです。もちろんそれも思うようにはいきませんでした。

今お話した一連の話の中で、「盗んではいけない」ということがどれほど正しい教えなのかかが分かると思います。
努力して生み出した成果を、ほかの人がやって来て奪って行ってはいけない。
ある人ががんばって生み出した成果を、横取りしてはいけない。
ある人の手柄を自分のものにしてはいけない。
人の賞賛を奪って自分のものにしてはいけない。
その人に属するものは、あなたのものではない。

家族の中でも気をつけなければいけないですね。妻には妻の尊厳があり、子どもには子どもの尊厳がある。
最近よく言われる医療の倫理でも、患者には患者の尊厳がある。それを医者の思いで、尊厳を奪うかのように治療を施してはならないということが、一般的に言われるようになりました。
学校の教師と生徒の関係、教会の牧師と信徒の関係、信徒一人ひとりにはキリスト者としての尊厳がある。それを牧師が奪うということは、今の社会で言えば、モラル・ハラスメントということばで表わされます。
一人ひとりの信仰の尊厳をどのように尊重するのか。

さて聖書は、人が他の人に属するものを奪うことを、盗むということばで表します。「盗んではいけない」――これはあまりにもよくわかっていることなので、今日は、「神のものを盗んではいけない」という表現が出て来ます。それを二箇所ご覧いただいて、メッセージとしたいと思います。

1)マラキ3:8〜10

一番目がマラキ書です。マラキ書というのは、マタイの福音書の一つ前です。それから、先程のルカの福音書に戻りますので、マラキ書の3章8−9−10節と交替に読みましょう。

  8人は神のものを盗むことができようか。
   ところが、あなたがたは
   わたしのものを盗んでいる。
   しかも、あなたがたは言う。
   『どのようにして、
   私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』
   それは、十分の一と奉納物によってである。
  9あなたがたはのろいを受けている。
    あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。
    この民全体が盗んでいる。
10十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、
    わたしの家の食物とせよ。
    こうしてわたしをためしてみよ。
    ――万軍の主は仰せられる――
    わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、
    あふれるばかりの祝福を
    あなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

人が神のものを盗む、なんてあり得ないか?いや、ある、と神さまはおっしゃいます。それは、旧約の民に、あなたがたは十分の一を携えてわたしのところに持って来なさい、とおっしゃいました。
アブラハム(***創世記14:20)も、ヤコブ(同28:22)もこれを実践していまして、やがてそれが旧約聖書の律法(***マタイ23:23、ルカ18:12、申命記14:22)となりました。これは、このマラキに記されているように祝福への道です。

10十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、
    わたしの家の食物とせよ。
    こうしてわたしをためしてみよ。
    ――万軍の主は仰せられる――
    わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、
    あふれるばかりの祝福を
    あなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

という大変大きな約束のチャレンジを、神さまはくださいました。(――神は感謝して献げる人を、すべてのものを備えておられる神に信頼する人を、存分に祝してくださる、という神さまの側の約束なのです)。

その献金を怠ることを、神さまが「わたしから盗んだ」とおっしゃっておられることは、考えなければなりません。
旧約の民にとっても、私たちクリスチャンにとっても、生活というものは、この人生は神から与えられた贈り物です。
いや、私たちが稼いだ、と言うかもしれませんし、私たちのために苦労しているのかもしれませんが、確かに日々努力しているのは私たちです。
しかし私たちのいのちを支え、十分な恵みを与えてくださっている神さまを神とする――それがこの献金の独特な恵みです。

献げることは独特な恵みです。それはある意味、これがあったらこれに使えるとか、いろいろ考えていることを聖別して、「私の人生すべてはあなたのものです」と、それを(私たちは誰にも強制されることなく、)自由な感謝と期待をもって神さまにぶっつけて行く、神さまにお返ししていく、(その信仰告白のできる恵みです)。

献金は私は律法ではないと思います。旧約聖書では律法として書かれています。しかし新約聖書は十分の一を献げることを律法とはしていません。五分の一でも二分の一でもいい。
しかし同時に、神さまを恐れることもなく献げる時に、なにか献金を所詮自分に関係のない、一種の会費であるかのように献げる時に、「盗んだ」と言われる(マラキ書の)神のことばを恐れるような信仰を与えていただきたい。

先々週でしたか、圭子が一枚のメモを見せてくれました。それは献金袋の中に入っていたとのこと。私はそのメモだけ見せてもらいましたが、その方は献金を入れ忘れたのかどうか、悔い改めのことばが書いてありました。
どこか自分の意識の中で、今月も収めればいいんだというような、会費感覚の意識があったと、神さまに大変申し訳ないことをしたと。

さっと考えると、人は誰でも忘れることはあるのだし、そこまで深刻に考えることはないんじゃないですか――さっと考えるとそういうことなのです。でもマラキ書のことばはさっと考えるなと(言われているのです)。
つまり私たちがどんな額でも献げる時に、自分の働き、自分の努力、自分のいのちの背後に神さまの支えがある。そして心から感謝し、次の月の働きに心から期待し、願い、感謝と祈りを込めて献げているかと(問われているのです)。
もしその感謝と祈り、信頼がなければ、どんな額を献げても、依然として神さまから盗んでいることには違いない――というのがマラキ書の言いたいことです。

2)ルカ20:19〜22
  
次に、ルカの福音書の20章、最初司会者に読んでいただいたところを見ていただきたいと思います。ここでは直接に「盗んだ」ということばはないのですが、「返せ」というのは、奪ったものを返せと言うことは、盗んだという意味だろうと思います。

20章の21節から読みましょうか、

21その間者たちは、イエスに質問して言った。「先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
22ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」

律法にかなっているか、かなっていないか、というのはこういうことです。
ここにあるカイザルというのは、ローマ帝国の皇帝ですね。当時、エルサレムはローマ(帝国)の直轄地です。ガリラヤはそうではありません。でもエルサレムは直轄地で、すべての税金は直接ローマ帝国に納めなければいけない。

イスラエルの歴史で、長い間それは植民地の歴史でありました。
しかし、その歴史の中で、支配者に税金を治めてはならない、と主張する預言者は実は一人もいなかった。

むしろ預言者の考え方は、もしも外国の国が支配することになれば、それは全世界を治めておられる神が、私たちの国を裁くために、一時的にお許しになったことであるから、外国の支配に、相応の服従とともに、税金を払うべきである、というものでした。 

ところが、その考え方が崩れて行きます。それが、ちょうどイエスさまが現れる30〜50年前でした。
神がイスラエルの唯一の支配者である限り、外国の君主に税金を払うことは、神に対する裏切り行為だと、そして、反乱・暴動が繰り返し起こっていきます。

そうした背景があって、パリサイ人と律法学者は、イエスさまを罠(わな)にはめようと近づいて来ました。
イエスさまが、皇帝への税金を批判するとしたら、ローマ帝国に対する反逆とみなされます。
しかし反対に、異教の王に対する税金をよしとすれば、当時の人々にとっては、ユダヤ人の王として到来した、イエスさまの信憑性がひどく傷がつくことになります。
私たちの支配者は神ではない。そしてメシアはその支配を確立するために来たのではない、(と多くのユダヤ人は、イエスさまに失望して去っていく)。

そのメシアとして来たイエス・キリストが税金をローマに払えと言ったら、妙なことになりはしないかと、イエスさまを罠にはめようとした時に、イエスさまは、こう答えられました。

24「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは「カイザルのです」と言った。
    
デナリ銀貨とは、ローマ帝国の銀貨です。
そこには、誰の肖像があるか、誰の銘か。
当然、ローマ皇帝です。皇帝が作らせた銀貨です。
帝国の流通をまかない、税金を払い、ローマ帝国の平和という恩恵を受けているあなたがたは、その銀貨で税金を払いなさい。
神の主権が、そんな銀貨一枚で、どうにかなると思ったら大間違いです。

そして、イエスさまはおっしゃいました。「神のものは神に返しなさい」(25節)。
あなたがたにとって大切なことは、カイザルの顔のついている銀貨に一生懸命になることではない。
あなたがたにとって大切なことは、福沢諭吉の顔がついている(笑)、日本銀行という銘が入っている御札に執着することではない。
一番大切なことは、神のものは神に返しなさい(、ということです)。

「返す」ということは、あるものをそれが本来所属するところに戻すことです。それを自分の欲しいままにしていることは、それを神から奪っていることです。
では、何が神に属するのか。何に神の顔が刻まれ、何に神の名前が彫ってあるのか。
一つしかない。聖書の中では一つしかない。
神の銘が彫られた存在というのは、私たちです。

私たちには、神のかたちが刻まれています。創世記の天地創造、人間の創造の中で、神はご自身のみ姿に似せて、私たちを創造された(***創世記1:26、27)。
私たちは正義を喜びます。平和を愛します。互いを愛することに喜びを感じます。私たちは人の必要に仕えることに人生の生きがいを感じます。クリスチャンになってもそうかもしれない。でもそれだけではない。創造者を崇め、賛美し、創造者に感謝するように、人間のたましいには神の銘が刻まれている。

イエスさまは、そんな要領でおっしゃっています。
カイザルの銀貨は、カイザルのものだ。だが、あなたがたは、神のものだ。
税金は払いなさい。でもあなたがた自身が、どんな罪人であろうが、どんなに汚れた人であろうが、どんな社会階層の人でも、おじいさんでも、小さな子どもでも、人から後ろ指さされるような収税人でも遊女でも、み〜んな人間には神の銘が刻まれている。

それが、どうしたというのですか。
それが、奴隷として売られたかのように、あなたがたは罪の虜になって、死と恐怖に縛られて、サタンにいいように扱われ、サタンの市場に出回っているではないですか。
神を賛美するために与えられた唇で、あなたがたは人を呪う(***ヤコブ3:9)、そんな生活をしているからです。
神の栄光を現わすための身体を、情欲の奴隷として使い(***Tコリント6:19)、神の御心のために生きる人生を、むなしく浪費している――それは神のものを盗んでいるのと同じです。

「あなたは神のものです。それを盗んではいけない。あなたの人生を神に返しなさい。わたしは、そのために来たのです」というのが、イエス・キリストのおっしゃることです。
少なくとも、私たち人間は、人のものを盗んではいけない、ということは解っているはずです。でも私たちは往々にして「自分のものは自分のもの」というその一文に居座り、自分のものはすべて自分のもの、と思いながら自分の人生を考えている。

神さまがおっしゃったことは、――いやいや、全部あなたのものではない。そもそもあなたの存在そのものは、わたしの愛するわたしのたましいだ。わたしのところに帰って来い。
でもあなたのたましい、あなたの救いだけではない。そこから始まるあなたの人生はわたしが支え、わたしが導き、わたしが切り開き、わたしが祝福するということをあなたは忘れるな。
そのことを肝に銘じて信仰生活を送っていきたいと思います。

☆お祈り

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
(ルカ20:25)

恵み深い天の父なる神さま、今朝、あなたは私たちひとりひとりに向かって、「あなたはわたしのものだ」とおっしゃってくださる恵みを心から感謝いたします。こんなに拙い、こんなに醜い、こんなにどうしようもないと思っている自分が、実は神の肖像が刻まれ、神の名前が彫られた、神のものであると、(教えていただきました。)

主よ、どうか、私たちを導き、私たちを助け、あなたのみもとにすっぽりと収まることができますように、あなたから離れ出て行くような人生を、その端くれを、もう一度しっかりと取り戻して、あなたのものとされることができるように、私たちに力を授けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2012.09.10 - 18:54
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