9/16 敬老の聖日:信仰生涯の深み―本物になる 創世記22:1〜14
☆献児式 藤本航平ちゃん(藤本直樹兄・由紀乃姉の次男・長男翔太くんも同席)
●イ賛美歌157「われはおさなご」を賛美、式辞 ●藤本牧師のお祈り ……直樹兄は本日から仙台に引っ越されますが、どうかあなたが共にいて、知らない土地で、良い友人、良い教会、愛する兄弟姉妹を備えて、その恵みの中を行くことができますようによろしくお願いいたします。そして「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)というみことばの証しとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。 ●直樹兄のひとことご挨拶 (拍手)え―、皆さまに祝福されまして、ありがとうございました。本日から仙台に引っ越しをしますけれども、引っ越し先でも、家族ともにお祈り戴けるよう、よろしくお願いします。ありがとうございました。(可愛い翔太くん、航平くんに笑と拍手)
☆お知らせ
●今日は敬老の聖日でございまして、75歳以上の方には、教会から小さお菓子がございます。お荷物になると思いますけれども、是非お持ちいただきたいと思います。 今日の午後のフェローシップは、夏にアルプストレッキングをなさいました横溝兄姉、それから岡林姉のお証しを聞くことができるようにと思っています。
●次聖日(23日)は、いのちのことば社の副社長の、横浜の兄弟団の教会員だったと思います、岩本兄を迎えて、「文書伝道礼拝」を行います。年に一回ことば社の方を迎えてやっておりますけれども、横浜ライフセンターがやって来て、書店を出します。ぜひ本を買いましょう(笑)。良い本を買ってください。 それと共に、私はいのちのことば社や、ライフセンターが教会と仲良くなって、本当にその地域に伝道するために、孤軍奮闘している皆さんの証しを聞きながら、私たちの信仰も強められたらと願っておりますので、ぜひお出でください。
●お祈りいただきました(釧路教会・福田牧師夫人)秀子師は、土曜日に無事、男の子を出産されました。予定日よりも1週間、2週間早いのだろうと思いますが、名前が大翔(ひろと)くんという名前で、2300(グラム)でまだ保育器に入っているけれども、とっても元気だと、もう今日ぐらいは出ているだろうと思いますが、ぜひお祈りください。
●明日は神栖教会の献堂式です。私たちインマヌエルの教会の中で、唯一3・11の地震で全損壊になったのは、神栖教会です。(高津)教会からも昨年のクリスマスのときに(新会堂のために)献金を贈りました。また市の建物を崩す代金としてや、教団からの献金、皆さんの献金によって、新しく会堂ができました。小さな平屋の会堂でありますけれども、とてもよい会堂です。私(藤本牧師)が司式を致しますけれども、神栖教会を特別に私たちも祈って捧げましたので、ぜひお祈りに覚えていただきたいと思います。
●相馬姉、一応ICUから別室に移ったということで、横溝兄姉がいろんな意味で世話をしていてくださいます。もちろん川越という遠方ですから、面会は難しいですけれども、ぜひお祈りに覚えていただきたいと思います。
●今日から新しい「教会福音讃美歌」を少しずつ取り入れて行きます。(週報の)間に挿みましたブルーの(紙の)讃美歌485「あなたの平和の」、恐らくこの讃美歌が世界中で一番歌われている讃美歌です。 私はどうしてもこの聖公会の讃美歌を、「教会福音讃美歌」に入れてくれと嘆願書を出しまして、入れてくれました。イギリス人の大好きな讃美歌で、カトリックもプロテスタントも一番歌っている讃美歌だろうと思います。ぜひ私たちも学んで行きたいと思います。 週報の裏側を見ていただいて、その前に「喜び広げよう」という讃美歌があります。これは翔太が好きな讃美歌として、ここに出しましたので、みなさんもお付き合いください。昔、教会学校では頻繁に歌ってましたけれども、最近ちょっと歌わなくなりましたね。知っておられる方も多いと思いますので、一緒に賛美を歌いたいと思います。 では園恵ちゃんお願いします。――それでは翔太くんのために、「喜び広げよう」を歌いましょう。(と讃美をリードする横溝園恵姉)。
☆始めのお祈り
神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。 私は生まれたときから、あなたにいだかれています。 年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。 私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。 (この日の交読詩篇71篇より5節、6節前半、9節、14節)
恵み深い天の父なる神さま、あなたはこの高津キリスト教会に45名を超える75歳以上の、元気な愛する兄弟姉妹を与えていてくださることを心から感謝致します。まだまだ信仰年限の薄い、あるいは人生経験も薄い私共の、わからない信仰の深みを味わって来られ(た方々です)。いつもあなたは私たちの信仰の先輩・人生の先輩を通して、この教会を励まし、力付け、導いて賢くしていてくださることを心から感謝いたします。どうかお一人お一人に、長いいのちをお与えください。
特別に今朝、教会にいらっしゃることのできない方々を覚えます。F 姉、T姉、相馬姉、勝間田姉、市川姉、横田姉、大橋姉、英姉、糸井姉。特別に病院で治療のために専念しておられる相馬姉のことも覚えます。あるいは、すでに施設に入っておられる大橋姉や糸井姉のことも覚えますが、普段なかなか礼拝にいらっしゃることのできないお一人お一人の上に、あなたがともにいてくださり、かつて学んだ聖書のことば、かつて親しんだ讃美歌から、今も礼拝の時を持つことができるように、あなたが助け励ましてください。
不自由なことを乗り越え、またいつでも愛する者たちの要として、心優しい、力強い存在としてお一人おひとりを強めてください。時に認知症になることもあるでしょう。しかし、その時には遺産が入ったかのように、あなたにひたすら信頼し、天国を仰ぐ兄弟姉妹とさせてください。
このような聖日を私たちに与えてくださいましたことを心から感謝し、愛するイエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。
☆聖書個所 創世記22:1〜14 (新改訳第3版)
1これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。 2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」 3翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。 4三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。 5それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私とこどもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。 6アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。 7イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」 8アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。 9ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。 10アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。 11そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」 12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。 14そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。
☆説教 信仰生涯の深み―本物になる
先ほどの讃美、なかなか良かったでしょう(一同頷き)。……イギリスのSebastian Templeという人が曲をつけまして、そういった意味で世界で一番有名な讃美歌だと言えます。これからこのようにして、毎週礼拝で何曲かご紹介していきますので、歌ってください。
旧約聖書のレビ記という所にこういうみことばがあります。
あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。(レビ記19:32)
これはレビ記19章32節ですね。白髪の老人の前では起立し、老人を敬いなさい。こうして神さまを恐れなければならないと言うのは、私たちの教会も変わらぬ姿勢です。
恐らく旧約聖書のユダヤの村というのは、とても素朴で、単純な農耕社会、あるいは牧畜生活をしていたと思います。 男性は一日、野にいます。女性は粉をひいて、パンを焼き料理をします。一日2食でありました。 夕食の後に、「ソード」という集いが共同体の中にあるという記録が、いろんな所に残っています。 広場に集まって、その日の出来事や昔話に興じます。そんなときに、人生経験を積んだ老人は、長老として昔話を聞かせます。そこにはもちろん、神さまの教えやあるいは神さまの御業を、そして自分たちが神の民であることを語り告げた。
そういう老人の前ではあなたがたは起立して敬いなさい。 なぜ老人は、尊敬されるのか。 私は一言で、長く生きてきただけで十分に尊敬に値するということだと思います。神さまによって長く生かされてきたということだと思います。 長く生きている・長く生かされてきた、とはとっても含みがあることです。
先日、ある席で、お年を召された牧師夫人の隣で食事をしていましたときに、 「先生の牧師生涯で、一番心に残る聖書の御言葉は何でしょうか?」という質問をしました。その先生は、
あなたがたの会った試練は、みな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(Tコリント10:13)
というみことばを挙げておられました。 あぁ、人生、長生きすれば、試練の数も増えるんだなぁ……(と考えさせられました)。
伝道者の書には、こうも記されています。
人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。(伝道者の書5:17)
モーセの詩篇90篇でも歌われています。 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。(詩篇90:10)
長生きした分、試練の数は増える。でも同時に神さまの真実がより深く分かるようになる。長生きした分、人生の苦労が分かる。同時に、試練と共に脱出の道を備えてくださる神の憐れみが分かるようになる。それは、若くて自由に生きていた時とは全く違う味わい、神さまの真実でしょう。
そう考えますと、今朝開いていただきました、アブラハムが受けた試練はとても意味があります。 彼は、晩年になって、自分の人生最大の矛盾、最大の試練を受けることになります。 理由はよくわかりません。なぜこんな試練を受けることになったのか。 状況もよくわかりません。しかし、間違いなく、最大の試練は晩年にやって来るのです。
アブラハムの場合は、こうでした。(創世記)22章の2節を見てください。神はいきなり仰せられます。
2「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私があなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとして(そのひとり息子)イサクをわたしにささげなさい。」
というのは、耳を疑います。絶対にあり得ないことです。 子どもをいけにえとして捧げる宗教は、古代中近東にはありました。でも後のイスラエルの歴史の中でわかることですけれども、神さまはそのようなことを忌み嫌われる(***エレミヤ19:5)。イスラエルの民に、絶対断じてそういうことがあってはならないということを神さまは誓います。
イサクは、神さまが約束してアブラハムに与えてくださった奇跡の子どもです。(***創世記17:15〜21) あなたの子孫を増やす、星の数のように(***同 15:5)、海の砂のように(***エレミヤ33:22ダビデ王家復興の預言)、あなたの子孫を増やすとおっしゃった神さまの約束は、このイサクにかかっているのです。 あり得ない試練がアブラハムに課せられ、そうなりますとアブラハムの現実は、イサクをささげる、イサクを失う方向に向かっていくわけです。
旧約聖書の中でいくつもよくわからない出来事があります。ある意味で、(ここも)理解に苦しむ、矛盾を感じる物語の一つです。 しかし、敬虔な信仰者アブラハムを襲った現実という風に考えますと、なるほど私たちが到底受け入れられない、想像もできない現実というのは、こういう風にして私たちの所にいきなりやって来るのか、と考えさせられます。
さて、この物語で私たちは何を学ぶのか。3つ見ていただきたいと思います。
1)アブラハムの従順さ
2節に「あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい」とありますよね。3節にそのまま「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて、出かけて行った」とあります。 きっと、(アブラハムは)一晩抵抗したに違いない。抵抗しながら、神さまはもしかしたら心を変えられるのか、あるいは違う方法になるのか、でも神さまがおっしゃったとおりに自分は行こうと、翌朝イサクを連れて家を出るのです。
4節に「三日目」とありますが、伝説では、モリヤの山というのはエルサレムですから、アブラハムがいたベエルシェバからエルサレムまでは約80キロです。80キロ、イサクとその若い者を連れて、黙々と歩く。事情を知っているのはアブラハムだけです。 5節で、アブラハムはふたりの若い者を残します。そして、何も言わずに、何も言えずに、そこに残して、親子二人で山を登る。
6アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、二人はいっしょに進んで行った。 黙々と進んで行きます。 そうして、(アブラハムが)とうとう息子イサクを手にかけようとしたときに、11節、ご一緒に読みたいと思います。
11そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
「はい、ここにおります」――私は何度でもこの話をしたことがありますが、1節を見てください。22章の1節。
1これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
これがアブラハムです――いつでも神さまから呼びかけられると、「はい。ここにおります」(と答える)。 この試練の物語は、(22:1の神さまの)アブラハムに対する呼びかけで始まり、アブラハムが「はい、ここにおります」と答え、そして11節も同じように神さまはアブラハムの名前を呼び、「はい。ここにおります」で試練が終息に向かうのです。 「はい、ここにおります」というのは、「はい」だけではない。「私はあなたの(***神さまの)前におります」ということです。
私たちの人生どこかで、かつて信仰を持っていたのに、今の自分はいったいどこにいるのだろうと思うことがありますし、かつて教会に通うことができるようになった頃はいつも礼拝していた、だけど今は教会で礼拝を守ることができない(という事態も起こります)。自分はいったいどこにいるのだろうかとも思いますが、しかし、神さまが自分の名前を呼んで近づいてくださったときに、いつでも「はい。ここにおります」という従順さを、アブラハムは持っていた。
神さまの祝福を求めて信じているのではない。神を神として信じていた。自分を創造され、自分を贖ってくださり、自分を救ってくださり、自分を守り導いてくださった神として信じているのですから、この方は善にして善をなしたもうお方。ですからいつでも「はい。ここにおります」と答えるアブラハムです。
2)アブラハムの希望
どんなに年齢がいっていても、彼は希望を失わない。 7節で、息子イサクが不安を抱きますね。すべてが変なのです。
7イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると、彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
アブラハムは、8節でこう答えました。
8アブラハムは答えた。「イサク(脚注に「我が子よ」とあります。とっても愛情のある表現です)。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる(神が見つけてくださる)のだ。
ギリギリのところで、アブラハムはわからない。だからアブラハムは息子イサクを縛るのですね。くくりつけるのです。でもきっと神さまは何とかしてくださるはずだという信頼と希望は彼の内側にある。
8アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。 新約聖書のヘブル人への手紙の11章、17節から19節まで交替に読みましょう。
へブル11:17信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
18神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」(***創世記21:12)と言われたのですが、
19彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。
アブラハムの信仰が記されています――神には人を死者の中からよみがえらせることができる。だから自分がこの試練を受けたとしても、神は必ずよみがえらせてくださるということを確信してイサクをささげるのです。
(1番目に)アブラハムは晩年に人生最大の試練に会いました。でも彼は従順にそれを受け止めた。 2番目に、彼は希望を失わなかった。3番目にこれが最後ですが、
3)アブラハムは信仰の深みに達する
もう一度創世記の22章に戻って22章の11と12節を交読します。
11そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
12節にとっても興味深いことばがあります――「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった」――これには、一瞬驚きます。 えっ、神さま、今までわからなかったのですか?私がこれまでの生涯、どんなにあなたを畏れかしこみ、あなたを尊び第一として来たかを、あなたにはおわかりにならなかったのですか? ずっとあなたに従ってきました。「父の家を、生まれ故郷を出て、わたしの示す地に行け」(***同12:1)と、あなたがそうおっしゃったときに、私の信仰生涯は始まりました。 それが、もう晩年になって、それもこんな試練を与えられて、それで「今、ようやくわかった」と言われても、じゃ私の人生は何だったのでしょうか――というぐらいに、これは奇妙なことばです。
「今、わたしは、あなたが神を畏れることがよくわかった」――でもこれは、今に至ってようやくわかった、ということではないです。 今ここで、絶対的にアブラハムの信仰は深められた、ということです。アブラハムはかつても神さまを信じていました。かつても神さまに信頼して来ました。かつても神さまに従って来ました。
直樹が小さかった頃に、一番最初にスイミングに入れまして、ガラス窓から、キャップをかぶって、後ろに浮かせる何か発泡スチロールを背負って、バタ足で泳いでいるのが見えるわけです。顔に水をつけるのが嫌いで嫌いで、もう顔にちょっとでも水がかかると、こうやってはらってはらって(笑)泳いでいた。それを私たちはビデオに撮っていたのですが、この子は泳げるようになるんだろうか(笑)と思いましたよ。あそこまで水を嫌うってのはどういうことだろうかと。
やがてクロールを泳ぐようになりますね。そしてやがて、「直樹、何が一番好きなの?」(と訊くと、)「潜水が好き」と(答えるまでになった)。潜水25メートルをダーッと行くのが好きなのです。あれほど顔に水をつけるのが嫌だった子が、やがて潜水をするようになる。
では、あの4歳5歳の時に彼を連れて行って、泳いでいたのは彼は本気じゃなかったのか?いや、そうではない。本気で頑張っているのですよ。でも本気で頑張ってもせいぜいバタ足なのですよ。それが5年7年経つと、潜れるようになる。そして彼の全力を出せば、25メートル潜水で泳いでしまう(ようになる)。いつでも全力なのだけれども、その全力の高さが違う。
みなさんが初めて教会にいらっしゃって、イエスさまの救いに与ったときに、その信仰は真実だったと思います。 アブラハムはかつて、「あなたの生まれ故郷を出て、わたしの示す地に行け」と言われた時、それはアブラハムなりの全力でした。そして、今回もアブラハムなりの全力です。しかし、その深さは全く違います。 そう考えますと、アブラハムは試練を受けるたびに本物になっていくのです。本物になっていくということを、アブラハム自身、実感したのじゃないかなぁと思うのです。
「ベルベット製の兎」という童話がありますが、その中にこんな話があります。ちょっと、含蓄のある話なので、ゆっくり話しますので聞いてください。
ある時、子供部屋に、新入りの兎のぬいぐるみが、買ってもらって、入って来るわけです。そこには古顔の馬のぬいぐるみがいる。 隣どうしに並べられて、新入りの兎が、古顔の馬に尋ねます。 「本物ってどんな感じだい? それは、お腹を押せばキューとか鳴ったり、不思議な取っ手が横についていたりするやつかい?」
古顔の馬のぬいぐるみがこう答えます。 「いいや、本物というのは、おまえさんがどう作られているかじゃないんだ。それは、おまえさんにこれから先起こることなんだよ。 子供は、長〜い、長〜い間可愛がってくれて、ただ遊ぶだけじゃ駄目なんだ。長〜い間、子どもが本当に愛してくれると、おまえさんはだんだん本物になっていくもんさ」
それを聞いた新入りの兎が、こわごわと尋ねます。 「それって、痛いこと?」 「ああ、痛いこともあるよ。 でもな、おまえさんが本物になっちまうと、そんな傷などどうでもいいんだよ」
兎は、また尋ねます。 「本物になるって、ネジを巻かれたように、ある日突然そうなるのかい? それとも、少しずつそうなって行くのかい?」
古顔の馬は、しっかりとした声で答えます。 「いいや。突然というわけにはいかないよ。本物になっていくには時間がかかる。 だからね、簡単に壊れてしまうおもちゃや、刺とげしているおもちゃ、それに大事に袋にしまってもらっているおもちゃは、絶対に本物になれないぞ。 だいたい、本物になったなって思う頃には、自分は色もあせているし、毛なんか抜けているし、目なんか取れているかもしれない。手だって、抜けているかもしれないぞ。それが糸で縫いつけてあるかもしれない。 でも、そんなことどうでもいいんだ。本物になってしまったら、絶対に醜くなんかない。本物には、本物の輝きがあるんだよ。まぁ、なってみないと、わからないと思うけどなぁ」
そうして、アブラハムは本物になっていった。 「簡単に壊れるようだったら本物にはなれない。大事に袋に入れてもらっていても、本物にはなれない。本物になるためには、傷つくことを恐れず、でも取れた手はきっと縫いつけてくれるし、時間をかけてどこまでも愛し抜かれて、初めて本物になる」と言われれば、年月が必要です。 そしてそこには紛れもなく、試練が必要で、神さまがアブラハムに対して(おっしゃた)、「わたしは今、あなたがわたしを本当に畏れることがわかった」ということは、アブラハムの信仰生涯の中で、本当に本物になっていった、ということでしょう。
私たちはそういう意味で、さまざまな試練を背負いながら、晩年の不自由さを生き抜いていかれる信仰の先輩、人生の先輩を心から尊敬して住まわなければいけないと思っています。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、 本物というのは、私たちがどう造られているかではなく、これから先起こることなのだ。長い間多くの試練を乗り越えて、だんだん本物になって行く、(童話「ベルべット製の兎」より)神さまがその旅路を用意してくださる。
主よ、どうかそう簡単にわたしの信仰が壊れてしまうことがないように、いろんなことがあると思いますが、どんな時にも脱出の道を用意してくださる(Tコリント10:13)という、あなたの真実さ(を分からせてください)。 そしてその真実を味わえば味わうほど、あなたに愛されることの尊さを分かるような、そんなクリスチャンに私たちをしてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。
|
|
LAST UPDATE: 2012.09.18 - 09:15 |
175.133.12.55 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 6.0; Trident/5.0; SLCC1; .NET CLR 2.0.50727; InfoPath.2; .NET CLR 3.5.30729; .NET CLR 3.0.30729; .NET4.0C; OfficeLiveConnector.1.5; OfficeLivePatch.1.3; BRI/2; BOIE9;JAJP)
|