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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   イースター「復活の主はあなたに出会う」
イースター「復活の主はあなたに出会う」


 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。(ヨハネ二〇・一五〜一六)

                ●「わたしだ」

 アウシュビッツの収容所に捕らえられ、それを生き抜いて多くの書物を記すことになったビクトル・フランクルという精神科医のことは、ご存じでしょう。多くが翻訳されていますが、なかでも収容所体験を記した『夜と霧』に親しんでおられる方は、多いと思います。
 その中で、死を前にして、「感謝」ということばをフランクルに語る、若い女性がでてきます。暴虐の中で、彼女は心の自由、精神の自由に目覚めたことに感謝するのです。それを聞いたフランクル自身が、「この、一見、絶望的な強制的な状態の下でも、精神の自由が内的に存在できるのだ」ということに驚嘆しています。
 この女性は、バラックの窓の外を指して、フランクルに言います。
 「ほら、あそこにある木は、ひとりぼっちのわたしのただ一つのお友だちです」
  そこにあるのは、カスタニエンの木でした。それを指して、彼女は告白するのです。「あの木は、わたしに語ってくれました。『わたしは、ここにいる。わたしはいるのだ。永遠のいのちだ』と」
  一本の木が語りかけた、あるいは一本の木を通して、神が語りかけたと言った方が良いのかもしれません。死の収容所です。混乱した暗闇です。しかし、そこで神はこの女性に声をかけられました。「わたしだ、わたしはここにいる、永遠のいのちだ」。
 これを読んだときに、イースターの聖句を思い出しましたそれが、このマグラダのマリヤです。「マリヤ」――「マリヤ、わたしだ、わたしはここにいる」と言わんばかりのイエスさまの呼びかけです。
 マリヤは、金曜日に、その目で、イエスさまが葬られたのを見ました。いや、それだけではありませんでした。弟子たちは、木曜日の夜にイエスさまが捉えられて、蜘蛛の子を散らすように逃げるのも見たでしょう。真っ暗闇を、バラバラに、一目散に逃げます。次の朝、あれほど慕ってきた、あれほど尊敬し、信じてきたイエスが、重い木の十字架を背負って、エルサレムの町を引き回されています。その背中には、むちで打たれて血が流れています。
 やじる人々の声。やがてゴルゴダの丘での残酷な処刑シーン。木が地面に寝かせられ、その上に主が寝かせられ、太い釘を手首にのせたかと思うと、兵士は大きな木槌を振り上げて、釘を打ち付けます。そのときの主の悲鳴。マリヤの耳にまだその叫びが残っています。午後三時頃、空は暗くなり、「父よ、我が霊を御手にゆだねます」と大声で叫んで、息絶える主の姿です。それを見届けた人々の胸も重くなってしまいました。その光景は、マリヤの頭から離れません。
 土曜日はうってかわって、町は静まりかえっていました。でもマリヤの心は、ただ呆然と、どんよりとした闇の世界に飲まれていくだけでした。おそらく一睡もしていないでしょう。悲しみのうちに悶々ともだえ、眠れなかったに違いありません。そして、漠然とした不安です。これからどうしよう、どうなるのだろうか……。
 このブルーな、絶望的な闇の世界に、主はマリヤに現れ声をかけられました。
 「マリヤ」
 それは温かい、優しい、落ち着いた声だったのでしょう。平安に満ちた声だったのでしょう。主は、マリヤの名前を呼ばれました。あたかも何にもなかったかのように、すべてが今まで通りであるかのように、全部だいじょうぶであるかのように、呼ばれました。いや、そういうことではないでしょう。わたしだ、わたしはここにいる、あなたの主だ、あな たの神だ、永遠のいのちだ――そう、イエスは声をかけられたのです。その瞬間、マリヤの真っ暗な世界に、神の光が差し込んできます。それはいのちの光でした。

               ●一人一人に現れる

 復活は、イエスさまのご生涯で最も重要な歴史的な出来事です。復活がなければ、救い主は十字架の上で死んだだけです。復活がなければ、イエスさまは昔の人です。偉大な、とてつもなく偉大な神の人にすぎません。復活があって初めて、キリスト教が成立するのです。
 しかし、復活というのは、その過去の出来事だけを意味しません。そこには、やがて私たちが死からよみがえる、私たちの復活があります。でもそれだけでもないのです。この復活こそは、私たちの信仰生涯における、神との出会いのパターンを示しています。
 聖書のなかで、十字架と復活はいつも一つにつながっています。十字架のあるところには復活があります。これが離れることはありません。十字架が、私たちの日常の暗闇、驚き、恐れ、不安、疑い、混乱、絶望を現しているとしたら、十字架が金曜日と土曜日の現実であるとしたら、イースターは、そして日曜日の礼拝は、主が暗い世界に入ってこられ、私たちと出会い、私たちの名前を呼び、私たちに語りかけてくださり、私たちの目を覚まさせ、力を与え、希望を与え、いのちを吹き込んでくださる神の出会いを指しているのです。
 マリヤだけではありません。この復活の記事を見ると、たいへん印象深いのです。
 二〇・一六に「イエスは彼女に言われた。『マリヤ』…  …」とありますが、二七節には「それからトマスに言われた……」あります。
 さらに二一・一五では、「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモ  ン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン……』となります。
 主は、マリヤに現れ、トマスに現れ、そして弟子たちに特にペテロに現れています。それぞれが、独特な十字架の暗闇に閉じこもっていました。マリヤは、悲しみという暗闇で泣いていました。愛する主を失った悲しみです。トマスは失望と疑いという暗闇に閉じこもっていました。ペテロは、主を裏切ったという挫折の暗闇です。その一人一人に、復活の主は出会っておられます。「わたしだ、わたしだよ」と出会ってくださるのです。 
 そして出会ったとき、マリヤは「ラボニ」と振り向き、トマスは「我が主、我が神」とひざまずきます。湖畔に現れた復活の主がわかったとき、ヨハネは「主です」と叫びました。
 訳の分からない神と出会ったのではありません。温かい、やさしい、力強い、イエス・キリストに出会ったのです。しかも、非常に個人的な感情を込めて、それぞれは応答しています。

                 ●復活の主

 それは紛れもなく、彼らが知っていた、彼が慣れ親しんだ、彼らが慕ってきた主イエスでした。しかし二つだけ、決定的に違うことがありました。それを簡単にごらんいただいて、メッセージを閉じます。
 第一に、彼らが出会ったのは霊なるイエスでした。
 「イエスは彼女に言われた。『わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。』」(一七節)
 主は、弟子たちが恐れて戸を閉じていた部屋にすり抜けて入ってこられます(一九節)。トマスに現れた場面でも、戸が閉められていたにもかかわらず、それをすり抜けてこられます。
 「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように。』と言われた」
 よみがえりの主は、いかなるところにも入ってこられます。しかも主は、同時に複数の場所に現れておられます。これを神学的に普遍の「遍」と存在の「在」で「遍在」と言います。霊的な存在でも、たとえばそれがニューヨークにいたら、同時に東京に出現することはできません。悪霊でも天の使いでも、空間を超えていても、存在は一つの場所にしか現すことができません。しかし、復活の主は違いました。肉体的な制限を越えたお方は、同時に、世界のどこでも現れることのできる方です。
 霊となったイエスは神出鬼没である、ということを伝えているのではありません。霊となられた主は、よみがえりの主は、私たちのどんな境遇、どんな状況、どんな場所、それに制限されることなく、同時に、世界のどこでも現れることができるのです。今日、世界中の教会がイースターを祝っています。そのどの教会にも主は現れることがおできになるのです。いやもっと個人的に考えてください。二千年前、マリヤに、トマスに、ペテロに出会って、声をかけられた主は、今日のあなたに声をかける、ということなのです。
 もう一つ、よみがえりの主が決定的に以前の主と違うところがあります。それは、その手にある十字架の釘の跡です。
 「それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(二七節)
 トマスは、主がよみがえられたのなら、その証拠として、「私は、その手の釘の跡を見て、私の指を釘のところに差し入れなければ、信じない」と言いました。いま主が、現れて、「さあ、あなたの手をここにつけて、私の手を見なさい」とおっしゃったとき、それは自分で確かめて信じる者になりなさい、という意味があるでしょう。
 しかし、「十字架の傷跡に触れる」というのは、さらに深い意味があるのではないでしょうか。この十字架は、主がトマスを愛しておれれるということのしるしです。この傷跡は、主がトマスの罪を背負われたということのしるしです。この傷跡は、彼の罪が赦されたことのしるしなのです。
 トマスは、それに触れて、ひざまずきました。
 「我が主、我が神」
 トマスは、死をうち破った神の力を知ったのです。のみならず、彼は主の愛を知りました。私たちは今朝、十字架の傷跡をもったよみがえりの主に出会って、死をうち破ったキリストの力にあずかり、同時に、罪を赦してくださる主の愛をしかと受け止めるのです。

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DATE: 2003.04.23 - 23:24

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