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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/14 キリストに見つめられる ルカ22:54〜62
10/14 キリストに見つめられる ルカ22:54〜62

☆お知らせ

●来週の日曜日は、午後、洗足学園音楽大学の「教会で讃美歌を歌おう」というゼミがあって、昨年もいたしました。飯(いい)先生が、ゼミの学生の実習のために高津教会でコンサートをしてくださいます。チケットは不要です。ぜひ秋に行われ、クリスマスのときに行われるコンサートを、伝道の機会として用いていただきたいと思います。

先週、これも学生が作ったチラシなのですけれども、先週の週報にこれを挟みました。友人やご家族の方々をお誘いいただいて、このチラシは週報台に載っていますけれども、お越しいただきたいと思います。またゼミの学生さんには、「高津教会の方々は礼拝が終わってコンサートが始まるまで、間が空けば空くほど帰ってしまうよ」と言って(笑)、とにかく間を詰めてくださいと話をしました。彼らにしてみれば、リハーサルはありますし、会場の確認はありますが、大急ぎで開演をする段取りでしておりますので、楽しみだなぁと思います。

飯先生は伝道のために単に大学でゼミをするのだったら、教会で讃美歌を歌わせたいとの思いをもって、溝の口に一番近い私たちの教会を指名してくださっていますので、私たちもやっぱりその思いにお応えしたいと思っております。

●毎年2回聖化大会が淀橋教会で開かれます。先週の週報にこのチラシを挟みましたが、特に午後6:30から月、火と聖化大会が開かれます。また火曜日の朝10:30からは女性大会があります。ぜひ足を運んでいただきたいと思います。

●27日(土)と28日(日)、福島の被災地(仮設住宅)に訪問団を派遣いたします。今回も山本健(たける)兄・真由美姉の接骨院のマッサージチーム(4人)の方々が行って、マッサージのお助けをする。あるいは窪倉兄姉、小柳さんをはじめとするオリーブの讃美(3名)が参加します。

もう大体人数的には上限という風に窪倉兄から聞きました。窪倉兄と話をして、自分が行くか行かないか判断に迷っておられる方もおられるかと思いますけれども、今日中に小柳さんにそのことを伝えてご確認をお願いしたいと思います。

●私たちからの献身者でいらっしゃいます小林佳先生、心臓の検査のために先週入院いたしましたけれども、無事に退院されて、一応ステントを入れていろいろ治療を致しましたけれども、経過は良好である。ステントを入れたのは、一年前になりますけれども、その後の経過は良好で、今ちょっと……なんですが、それはストレスがあるということでした。ぜひ小林兄のためにお祈りいただきたいと思います。神学校を卒業して、すぐに牧師になるわけですけれども、とってもストレスは嵩むことだろうなぁと思います。

●福井の方から転勤して、ようやく引っ越されたO姉とお子さんたちが来ていらっしゃいます。もう何回もご紹介していますが、先週引っ越してこの教会にようやく戻って来た。(拍手)今日はご主人はお休み?(二階の和室に子どもさんと一緒の奥さまにガラス越しに)ああ、ご主人は下にいる(大笑)。
奥さまの方は高津教会の教会学校からの生徒で、すぐそこら辺に住んでいて、やがてご主人と結婚され、ご主人は神戸で洗礼をお受けになったのですね。(大宮です)。結婚して最初に行った先が神戸だというお話ですけれども(はい)、そこで神戸教会に通うようになった。

●神戸教会から献身された、河原さん今日来ておられます?神学生ですね(拍手)。まぁ後々またお話する機会があると思いますが、河原姉は鹿児島県の鹿屋教会の寺村達郎先生と婚約をされました。そしていつ結婚されるのですか?(来年の四月)。それまでの間河原姉自身も神学校に入学されました。ですから、ちょうど私たちの教会で言うと、荻野姉(***現在釧路教会福田牧師夫人)と同じですね。牧師と結婚するにあたって、短い期間でありますけれども神学校に通われ、研修先が高津教会です。

高津教会は最初は山本真由美姉、それから日本イエスの河原崎姉とか、神戸出身者がとても多い。学生時代は(***今年の四月から高津教会副牧師の)酒居先生もインマヌエルの神戸教会にいらっしゃいましたので、ぜひ良い交わりをしていただいて、歌がとても好きということで、来週の日曜日先ず歌ってもらおうということで(大笑)お願いしました。とても難しい曲をお願いしたのですが、あの曲でなくていいです(笑)。よろしくお願いいたします。

●それから私は、お盆休み明けに、阿部助富さんが息子さんの俳優の阿部寛さんと一緒に、高津教会を訪れられたという話をしましたよね。それで父(先代・藤本栄造名誉牧師)が連絡を取ってくれたのだと思いますけれども、今日阿部助富さんが来ておられます。これは高津教会に来られるのは何年振りかということですので、ちょっとマイクを回していただいて、その後のことを聞かせていただきたいと思います(拍手)。阿部助富さんの当時を知っておられるのは、横溝兄姉と吉田兄姉、そして高橋兄姉ですね。ほんとによく来てくださいました。

――阿部兄のご挨拶――
(拍手)今日高津教会に参りまして、皆さんのお顔を、51年経ちます、名前は知っておりますが、顔はわからない。これからいろいろと紹介していただきたいと思います。私は、その後、横浜戸塚バプテスト教会に出席しています。もう58年になりますが、信仰を持ち続けていました。しかし、電車に乗ったとき、この教会があるということを、いつも思い浮かべて、皆さんがお元気かと思い出しておりました。私も、神さまの恵みによって、いろいろなことがありましたんですが、今日まで何とか暮らしております。

8年前に家内を失くしまして、その関係で、この教会に訪ねて来たことがあります。教会の奥さんが出たと思うのですが、8時ぐらいでそのまま帰りましたので、それを入れると今回が3回目です。
この間(八月のこと)、子ども(***俳優の阿部寛さん)と一緒に参りまして、教会の中を見せていただきました。当時、藤本先生のお父さんですか、一緒にいろいろと伝道をしてまいりました。そして、この教会でも奉仕もしてまいりました。この教会の十字架を塗装したことがあります。今は非常にそのことを思い出して、十字架をもう一回見上げました。……当教会を生まれ故郷と言うんですかねぇ、そういうことを思い出しております。

53年間いろんなことがありました。そして神さまが、今までここまで導いてくださった、その恵みをこの教会に来て初めて知ることができました。ありがとうございます。
話が長くなりますけれども、私は藤本先生の名前だけは覚えていたのですね、……皆さんの顔を見ますと本当にうれしく思います。その中で、名前はわかっているかもしれないけれども顔が分からない。それで今日来ることにしました。

私も信仰を全うしております。希望の勝利と言えます。いろいろなことがありますけれども、本当に神さまに助けられ導かれて、今日この場に来れたことを、本当に皆さまのお顔を見れて、本当にありがとうございました(拍手)。

ありがとうございました。私は見なかったのですけれども、教会の方がご覧になって、先週の日曜日、息子さんの阿部寛さんがTVのインタビューでいろいろ話していた時に、息子さんとお父さんの話はもっぱら教会のことだったと。それほど、まぁ父(栄造先生)が言っていたのですけれども、伝道一本で本当に熱心な信仰を、いろいろ紆余曲折があったのだろうと思いますけれども、保って来られて、そして53年ぶりにこの教会の礼拝に出席になったということは大変ありがたいことです。後ほど、教会の50周年の記念誌がありまして、そこに古い写真が出ておりますので、お渡ししたいと思います。

●今日は10月14日ですけれども、なんと今日、50年前の今日、この教会で高橋兄姉が結婚式を挙げられました。ちょっと前に来て頂いて、小さな花束を小さな子どもたちからと思っておりますけれども、これも一言挨拶をいただきたいと思います。
私たちの教会で結婚式を迎えられたのは、菅野兄姉が一番上かなと思っております。それから横溝兄姉、それから今日の高橋兄姉、来年吉田兄姉という風になっております。
(3人の小さな教会の子どもたちからの花束贈呈に笑いと大きな拍手)。はい、ありがとうございました。

――高橋兄のご挨拶――
ひとことで言えば、「感謝」のひとことで、ホセアの6章に「神さまを(知ることを)切に求めよう」と書いてありますけれども、その通り、神さまをもっともっと求めてこれからもいたいと思います。神さまのご愛の中に支えられてここまで来た事は本当に心から感謝をいたします。いろいろなことがありましたけれども、その一つ一つが全部神さまが教えてくださり、学んで行けたことを心から感謝しています。これからどのくらい生きるか分からないんですけれども、よろしくお願いいたします(拍手)。この教会のいちば〜ん低い席に座らせていただきたいのが、私たちの願いであります。よろしくお願いします(拍手)。

――和子姉のことば――
50年間支えられましてここまで来ました。本当に感謝しています。そうですね、教会に来たのが二十歳でした。だいたい(年齢が)計算できますね。昭和32年でした。結婚は昭和31年に藤本栄造先生の紹介により、結婚しました。いろいろありました。ほんとに(***力を込めて)ほんとに、もう話すと長くなる。ですけども、その中で神さまがいつもいつも導いてくださって、周りから見たらこんなことと思われるようなことも、神さまは助けてくださり、平安にしてくださいました。感謝しています。75になりましたのでもうあまりご用はできませんが、よろしくお願いいたしま〜す(拍手)。

☆新しいさんび (賛美グループのリード)

@教会福音讃美歌480「主の愛を伝えよう」
A「私のすべて」――(元は韓国の歌でしょうかという小柳姉のコメントでした)

☆始めのお祈り

目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は、精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
(この日の交読イザヤ40章12〜26節より26節)

恵み深い天の父なる神さま、天地万物を創造されたあなたは、私たち一人ひとりを創造してくださいました。この方は精力に満ち、その力は強い。その強い力に導かれ、私たちを救いの恵みに導き保ってきてくださいました。あなたは私たち一人ひとりの名をもって呼ばれ、ひとりとしてもれることはないというこの約束を、心から感謝いたします。

ですから、私たちは今朝目を高く上げ、私たちを創造してくださり、この世界を創造されたあなたを仰ぎ見ています。53年ぶりに高津教会に、その礼拝に与ることのできた阿部助富兄の人生をあなたは祝しに祝してくださいました。金婚式をお迎えになられた高橋正義・和子兄姉の人生をあなたは導き支えてくださいました。

どうかそのような恵みに私たち一人ひとりもあずかることができるように、あなたはこの教会に信仰の先輩たちを沢山備えて力づけてくださいました。どうか私たち一人ひとりもまたキリストに従いつつ、先輩の足跡をともに踏みつつ、天国への道を全うすることができるように、私たちの今日の礼拝を助け導いてください。

私たちは目を高く上げてあなたを仰ぎ見ています。今自分が置かれているさまざまな境遇の課題、困難、試練、迷い、疑いを、あなたを見上げることによって乗り越え、あなたを見上げることによって、慰め力づけられますようにどうか助けてください。

伝道の秋と思っていろんな企画を用意しておりますけれども、どうかこの教会に伝道の力を授けて下さり、あなたの愛の魅力に溢れさせてください。愛する兄弟姉妹たちを用いて、あなたの愛にあずかる魂を、あなたご自身がこの教会に授けてください。

しばらくみことばに耳を傾けますが、どうか祝福してください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆聖書個所        ルカ22:54〜62(新改訳第三版)

54彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
55彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
56すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
57ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。
58しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。
59それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。
60しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
61主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。
62彼は、外に出て、激しく泣いた。

☆説教      キリストに見つめられる

今日は特別にルカの福音書の22章で、特にこのことばを見ていただきたいと思います。
61節をご一緒に読んでみたいと思います。

61主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

62節に、そして「彼は、外に出て、激しく泣いた」と記されています。61節の、「主が振り向いてペテロを見つめられた。」

キリスト教信仰というのは、単に教えを暗記することでも、理解することでも、また勉強することでもありません。キリスト教というのは、イエス・キリストとの出会いです。
         
そして、聖書の中でキリストと出会った人たちが、みな「キリストに見つめられる」という場面があります。イエス・キリストのまなざし(を感じる)。

61節、イエスさまが振り向いてペテロを見つめ、そして数時間前にあったイエスさまとの会話を思い出して、ペテロは外に出て、大声で泣きます。
わずか数時間前に、ペテロはイエスさまにこう言いました。33節と34節を見てください。

33シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
34しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

ペテロはイエスさまを十字架を前にして否みます。
いつもイエスさまのそばにいて、十二弟子の中でも自分が一番だという自覚があって、そしてイエスさまが危機に追い込まれていく時に、牢であろうと、死であろうと私はついて行きますと、勇ましく豪語したペテロ。
豪語して数時間後、彼は見事なまでにイエスさまを知らないと三度否みます。
          
その瞬間、裁判を受けて出てきたイエスさまと目が合い、主は振り返ってペテロを見つめました。
そのまなざしは、どのようなものだったのかということを、今日は一緒に考えてみたいと思います。

1)それは神の裁きのまなざしではなかった

イエスさまは振り向いてペテロを見つめられますが、「やっぱりお前はだめだったか」と、彼を裁くようなきつい眼差しではなかったと思います。
もちろん、神さまのみことばというものは、聖書にありますように、私たちの心の奥底の罪までも刺し通す、両刃の剣のような視線というのもあると思います。
でもペテロはそのような鋭い視線を受けて、外に出て、激しく泣いたわけではない。
彼は何とも憐れみに満ちた、悲しげなイエスさまの眼差しを見て、外に出て泣いた。
依然としてペテロを愛しておられる主の愛のまなざしに触れました。

宗教というものは、英語でreligionと言います。これはラテン語の、レリギオから来ていますが、レリギオという言葉は「再び結び合わせる」という意味です。と考えますと、キリスト教というレリギオは、再び神と結び合わされることで、あるいは私たちがキリストと自分が再び結び合わされている状態が信仰であります。     
私たちはいったいどのようにしてイエスさまと結び合わされているのか? 

この時のペテロのケースを考えますと、
33節で、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と、彼は純粋で真っ直ぐな決意と、純粋な覚悟をもって、自分とイエスさまの結びつきを告白しました。
ペテロは嘘をついている訳ではない。それから無理をしているわけでもないです。彼は純粋に、自分は死の覚悟をもって、あなたを離さない、あなたと結びついていますと断言いたします。                  
しかし、数時間後に、それが一瞬にして、砕かれていく様子を私たちは現実として見てしまう。つまりペテロの結びつきの覚悟は、見事なまでにもろさを露呈したということです。

ペテロは裁判に出ていたわけではありませんでした。それはちょっとしたやり取りから始まります。54〜56節を見てください。

54彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
55彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
56すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」

「まじまじと見て言った」――ペテロは、自分のやましさを感じるほど、自分の内側に切り込んでくるような、人のさばきの眼差しにやられてしまいました。

このプレッシャーから、全力を込めてつかまっていたイエス・キリストという枝からついに手が離れて、彼は崖の底へと吸い込まれて行きました。
もしも、私たちのレリギオが、結びつきが、自分の決意と決断だけの信仰であるならば、それはいつか必ず落ちていくのではないでしょうか。そこから見える(神の)眼差しは、手を離した私たちを裁く、神の厳しい眼差しにすぎないでしょう。
しかし、ペテロが見たキリストの眼差しは、そのようなものではありませんでした。
それは憐れみの眼差しでした。

2)イエス・キリストのあわれみの眼差し 

同じ章の31節と32節。私が31を読みますので、みなさんが32を読んでみてください。

31シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
32しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

イエスさまを三度否んだペテロを振り返って、ペテロを見つめられたまなざしが、どうして裁きのまなざしではなく、憐れみのまなざしであったと言うことができるのか?
それはこの32節のことばがあるからです。――しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを元気づけてやりなさい――ということは、あなたは絶対に立ち直ると、イエスさまは約束しておられます。

麦のようにふるわれるというのは、まさにこの瞬間のこと、イエスさまを知らないとペテロが三度否定することを、(***34節で)イエスさまは予告されています。でも否定する(予告)に先だって、イエスさまは「あなたの信仰がなくならないようにわたしは祈る。そしてあなたは必ず立ち直ってくる。そして立ち直ったならば、その苦しみをその挫折を用いて周囲の人々を励ましなさい」 と言われました。          
  
ペテロとキリストとの結びつきは、もしそれが、ペテロの決断や決意だけだとしたら、それはみじんに砕かれて、やがて裁きの底に吸い込まれるほどの力しかなかったことなのでしょう。
ペテロとイエス・キリストの結びつきの力は、イエスさまの祈りの中にありました。ほんの小さな決断に応えてくださる、神の恵みの中にありました。

私たちの信仰は、確かに私たちの決断や決意とに関わっています。どこかで私たちは、一歩踏み出して、イエスさまについていくという決断をして、そして洗礼の恵みに与ります。しかし、その信仰は、私たちの意識の背後で、イエスさまに見つめられ、温かく見守られています。

振り返ってペテロを見つめた、イエスさまのまなざしは憐れみのまなざし、そして祈りのまなざしでありました。
もしもペテロの裏切りに対して、注がれた主のまなざしが、「ほらごらん、私が言ったとおりになった。おまえは私を裏切った」という鋭い、咎める視線だったら、恐らくペテロは、ユダのように自殺へと突っ走っていったに違いないでしょう。

イエスさまのまなざしは、私たち人間の欠点や弱さを暴露するだけではありません。それだけだったとすれば、私たちは見つめられるたびに、絶望と失意の坂を下っていきます。
悪いところ、足りないところ、罪深いところを、思い知らされるということは大切です。でももしそれだけだとしたならば、私たちは、自分の人生に励ましも、希望も、期待もない。いつも下を向くだけ。いつも下を向きながら、ようやく神さまとつながっているだけの信仰生涯でありましょう。

でも先ほどの交読個所(***イザヤ40:26)のように、上を見上げる、神を見上げる、この方はすべての天の万象を一つ一つの名をもって呼び出し、その一つだにもれることがない。私たち一人ひとりの名をもって、私たちを呼び出し、私たち一人だに主の御手からもれることがないということは、イエス・キリストはいつも祈りを込めて、私たちを見ていてくださる、ということです。
  
神さまが私たちを見つめてくださるということを考えます時に、もう一つ大切な聖書の箇所があります。
今ルカを開いていますが、その一つ前がマルコです。マルコ10章の27節。
17節からの箇所というのは、有名な富める青年の話。富める青年が永遠のいのちを得るためには、自分はいったい何をしたらいいのでしょうと、始まります。 

イエスさまは、彼には厳しいことをおっしゃいます。21節に「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」。(22節)「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。」

でもこの場面の一つ前、21節(の初め)に「イエスは彼を見つめ、(その人をいつくしんで言われた。)」とあります。これはきっと優しいまなざしだったに違いない。彼を見つめ、そしてわたしについて来なさいと言われた。

もう一回イエスさまが見つめているところがありますので、23節から27節を一節ずつ私と皆さんで交替に読んでいきたいと思います。

23イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」
24弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
25金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
26弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
27イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

そもそも富める青年が永遠のいのちを受ける、神の国に入るということは、人にはできないことです。あるいは彼が財産を放棄してイエスさまについて来るということも、人にはできないことなのかもしれません。その両方の場面で、イエスさまが じっと見つめておられます。「持てるものを放棄して、わたしについて来なさい」と、あわれみの目をもって、彼らを見ていました。
弟子たちは同じように財産を放棄してついて行くことのむずかしさをよく知っていました。そんな風に言われたら、自分たちもまたできない。

26節で、弟子たちはますます驚いて互いに言った。「それではだれが救われることができるのだろうか。」そもそも誰かが救われて永遠のいのちに入る、神の子どもとされるということは、だれがそんなことができるのだろうか?
イエスさまは彼らをじっと見て憐れみの思いをもっておっしゃった。「それは人にはできないことですが、神はそうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」(27節)。

3)いつ、イエスさまの憐れみのまなざしが注がれるのか?
   
   *それは私たちが自分の限界に直面しているときです。
イエスさまはいつ私たちをじっと見つめてくださるのか?
   *それは「人にはできない」という現実に私たちが直面し、そして首を垂れているときです。

上に上がれないとき、変えようと思っても変えることができないとき、自分の罪が示されたとき、自分が挫折したとき、自分が転んだとき、サタンが私たちを麦のようにふるいにかけたとき、自分の決意や決断がもろくも崩れ去るとき、人に裏切られるとき、自分が裏切ってしまった時、あきらめるとき、弱いとき、イエスさまは私たちをじっと見つめておっしゃる。
「それは人にはできないのだ。でもわたしにはできる。どんなことでもできる。だからあなたの悲しみの顔を上に向けなさい。」

イエスさまはいったいどういう場面で、じっと人を、私たちを見てくださるのか?
それは「わたしについて来なさい」と私たちを呼び出す時。
そして私たちがとんでもない失敗をして、もう自分の人生はだめだと思う瞬間。
あるいは、私たちが自分自身の限界と足りなさに直面して、ああ自分はもうこんなものだ、イエスさまについていけない、と思うようなその瞬間。

そんな時に、主は私たちをじっと見てくださり、(約束しておっしゃる)。
「思い出してご覧、それは人にはできないことだよ。あなたが信仰の中に入ったというその時点から、【それは人にはできないことである。でも神にはできる】ということを覚えておきなさい。
立ち上がりなさい。そうして立ち上がったら、周囲の人を励ましてあげるほどの力をわたしはあなたに与える」と。

今日、私たちはある意味、特別な礼拝を迎えたように思います。
高橋兄姉は教会で結婚式を挙げられて50年を迎えられました。昨年愛する望くんを天に送ったということは大変な悲しみであったことを、私たちはよく知っています。
そして、ここで結婚式を挙げられた、53年ぶりにここで礼拝をなさったという阿部助富兄がお証しをしてくださいました。
おっしゃったように、五十数年、一言で表現できない。話せば長くなる。いろんなことがありました。これが私たちの人生の事実だろうと思います。
人生の山坂を超え、多くの試練を乗り越え、なお良き羊飼いでいらっしゃるイエスさまに手を取られて、天国への道を歩んでいく。

私たちは誰もが、自分の信仰生涯を振り返ると、それがたとえ一年であれ、二年であれ、よくここまで来たものだと、足を止めて感謝する時があります。
その時、いつでもイエスさまの温かいまなざしを感じます。
わたしがあなたのために祈ってきた。わたしがあなたの手を取って、共に歩んできた、とおっしゃる。

日本基督教団の、もう天に召されました清水恵三先生が、「手さぐり信仰入門」という本を書いています。私の大好きな本なのですが、手さぐり信仰という題名なのですが、決してあやふやな信仰、心許ない書物ではないのです。しっかりとした信仰書です。

でも、清水恵三先生がおっしゃるには、人のその信仰というのは、ペテロの決意・決断ではないけれども、いつでも、あやふやな部分がどこかに潜んでいる。私たちが大いなる神さまを捕えようとするときに、手探りの信仰にしか過ぎないと。
でも、ご自分の信仰を息子さんの作文を引用して、あとがきを記しておられるのが印象的です。息子さんの作文です。

「きょう、わたしたちかぞくみんなで、のじりこ一しゅうをしました。すこしつかれたけど、ほんとうにたのしかったです。いろいろの木のみや、花のさいたあとのみや、いろいろなものがとれました。
つかれた人はおとうさんと手をつなぎます。ぼくも、つかれてつまずいたりしました。けれども、おとうさんと手をつなぐと、ふしぎにげんきがでてきます。
おとうさんの手はとても大きくて、あったかいので、とてもじぶんの手があたたかくなりました。」(『手さぐり信仰入門』、YMCA出版、二〇三頁)

息子さんの作文です。でもまさに私たちの信仰というのはそういうもので、人生の旅路を行くときに、疲れてしまう。でもそんな時に、手探りであるかのように、イエスさまに向かって手を伸ばすと、イエスさまは私たちの手をつないでくださる。すると、不思議に元気が出てくる。お父さんの手はとても大きく温かで、とても自分の手が温かくなります。
 
私たちにとって、信仰の先輩方の手を握るということは、温かな経験です。自分の信仰の力、自分の力量では所詮何もできない私たちが、イエスさまの手に握られて、信仰の先輩方に後押しされて、教会で信仰を続けていくことの何とも尊い有り難い姿を、私たちはペテロの生涯の中にも見ます。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、あなたを三度否み、二度とあなたの所へ戻って来ることはできないと思われたこのペテロのために、あなたは先回りして、「あなたの信仰がなくならないように、わたしは祈りました」(ルカ22:32)と言ってくださいました。

私たちの信仰がなくなりそうな、あるいは信仰のエネルギーが吸い取られていくような、辛いさまざまな問題課題が沢山あります。
そのたびに「天を見上げなさい。この天の万象一つ一つを、名前を呼んで呼び出し造られた神は、その一つだに漏らすことがない(イザヤ40:26)。
同じように、あなたがたの名を一人ひとり呼んで、信仰の道に導き出したわたしは、あなたの手を離すことはない」と私たちに語りかけ、私たちに、温かなまなざしを意識することができるように、あなたを見せてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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