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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   十戒(10)むさぼってはならない
10/21神の人モーセ(30)十戒(10)むさぼってはならない

☆説教      
          
しかし、キリスト教では、欲求が悪なのではありません。もし欲求がなければ人間生活は成り立ちません。
食物に対する欲求があればこそ、健康でいられるのです。
性的な欲求は、愛と結婚に不可欠です。それによって愛が表現され、いのちそのものが創造されるということは、私たちが認めるべきことです。
また、私たちはだれでも、人からの評価と尊敬を求めます。簡単なことで言えば、それによって、私たちは顔を洗い、服を洗濯し、髪をとかします。
社会のルールや作法に適合し、周りの人々とうまくやっていきたい、というのもまた一つの正当な欲求であります。

では、むさぼるとはどういうことでしょうか?それは先ほど読みました出エジプト記の20章の(十戒の)最後によく出てまいりますね――自分の家があるにもかかわらず、なおかつ、他の人の家を欲しがる。
むさぼるというのは、自分の持っていない何かを欲しがるということではない。自分の持っていない何かを欲しがってこそ、私たちは進歩を生み出します。

欲求は霊的な世界においてさえ必要です。
パウロはTコリント12:31でこう言いました。「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」――そしてそのより優れた賜物が愛ですけれども、神さまがくださるものがある、その賜物を熱心に求めなさい。
イエスさまもマタイ5:6で「義に飢え渇いている者は幸いです」とおっしゃいました。財に欲望に飢え渇くのでなく、同じ飢え渇くなら、正義に飢え渇きなさいと。

ですから、むさぼりとは、ただ何かを欲することや、自分が持っていないものを求めることでもありません。
むさぼるとは、過度に、または不法に欲しがることです。人の家、人の妻、人のしもべ、人の財産を欲しがる。
自分のものを持っているにもかかわらず、それに加えてもっと自分の所有欲を満たして行きたいというのが、むさぼり。

人は、こうした法外な欲求を満たすために、隣人を傷つけ、殺し、うそをつき、盗みさえします。
むさぼりは他人の権利も自分の理性をも踏み越えて、望むものを得るまで暴走する欲望です。
  
これ以上説明することもないと思いますが、インドのことわざにこうあります。
「お金の話をすれば、死人も口を開く」(笑)。その話にだけは皆さんが聞き耳を立てる。人は、それほどにむさぼるものです。

さて、このむさぼりの根底にあるのはいったい何か、それを今日は聖書から一緒に学びたいと思いますが、むさぼりの根底にあるのは、満たされることを知らない心です。あるいは感謝することを知らない心です。ですから、むさぼりの反対は感謝です。

むさぼりは、感謝を忘れることから始まります。私たちが、今ある恵みに感謝するなら心から感謝してさらに神様に何かを求めるのなら、それはむさぼりにはならない
しかし、今ある恵みを忘れて、日々の恵みに感謝もせずに生きるなら、それは必ずむさぼりにつながるのですね。

民数記11章には、一連の出来事が記されています。これは私はよく開きますので、高津教会の方々は何度も聞いたことがあると思います。
読んでおりませんけれども、この章の最後に、一連の出来事にちなんで、荒野の一角に名前が付けられます。民数記11章の34節にこうありますね。

34こうして、欲望にかられた民を、彼らがそこに埋めたので、その場所の名をキブロテ・ハタアワと呼んだ。

キブロテ・ハタアワというのは、(欄外を見たら分かりますが、)「欲望の墓」「むさぼりの墓」です。欲望にかられた人が死に、埋められた墓。多くの人々が、むさぼりに駆られて、この墓に落ちていったというのが民数記11章の物語です。
11章の1節にまず目を留めて、物語を理解して行きましょう。

1さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
2すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。
3主の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。
 4また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。
5エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。
6だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」

出来事は、1節に、神さまに対する不平・つぶやきで始まります。そして、4節でそれが一段上がって、「ある者が激しい欲望に駆られ」、イスラエルの人々はその欲望の声に引きずられるかのように、「みんな大声で泣いて、言った」。
どうして、そこまで泣き叫ぶのか?彼らの目の前に見る食料は見渡す限り、マナばかり、マナしかない(6節)。

マナというのは、神さまがイスラエルの人々が荒野を旅する時に与えられた天からのパンです。天からのパン。
一番最初、天から白い霜のようにマナが降りて来た時に、イスラエルの人々は、「まあこれはいったい何でしょう?」と言った(***出エ16:14〜15)まぁ、これはいったい何でしょうという驚きのことばがマン・フー(***へブル語)です。そこからマナということばが付いたと言われています。

7節〜9節、ちょっと読んで行きますね。

7マナは、コエンドロの種のようで、その色はべドラハのようであった。
8人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。
9夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。

それは、夜のうちに備えられる神さまからの恵みの糧でした。毎日毎日(***daily bread)、
その日の、その人の必要に十分見合うところの神さまの恵みで――各自が、自分に必要なものを自分の手で集めにいく――これが、神さまの恵みの象徴、マナでした。

そのマナに飽きた。毎日マナしか食べていない。神さまの恵みに飽きる――これをもって、人々は欲望の墓に落ちていきます。
かつてはマン・フー、これはいったい何だと感動し、かつては感激し、かつては新鮮に思えたのですけれども、毎日こればかりで慣れてしまった。飽きてしまった。

不平を見てみると興味深いですね。
4節の後半には、「ああ、肉が食べたい」――これは今、到底手に入らないものを求めて彼らは不満を言う。恐らくこれはエジプトでも食べていなかった。(彼らは)奴隷ですから。
5節では、「エジプトで食べていた魚が恋しい、キュウリも、スイカも、にらも……」――これはナイル川流域ですから、自由に手が届いた。しかし、以前手にしていたけど、今は手に入らない、失ったものを求めて不満なのです。
        
私たちの不満の姿を代表していますよね。つまり欲しいのだけれども、手に入らない。手にしたことのないものを求めて欲望に駆られ、失ってしまったものを思い出して不平を言う。そのようにして、神さまの恵みをすべて忘れていくのです。

今日は、十戒の最後「むさぼってはならない」を心に刻むため、感謝すること、今ある恵みに感謝することを学んでみたいと思います。

1)「むさぼり」が法外であるとしたら、「感謝」は素朴なものです。

むさぼりが度を超して、とんでもない方向に行くとしたら、 感謝はとっても小さな素朴なところにあります。

1700年代に英国のダニエル・デフォーが『ロビンソン・クルーソー漂流記』を記します。図書館に行って子どもの図書のコーナーに行くと、必ず置いてありますよね。

主人公ロビンソン・クルーソーは、家に縛られることが嫌で嫌で、家を飛び出して行った青年。やがて船乗りになって、その船が嵐で難破し、彼一人船といっしょに無人島にたどり着いて、生き延びていく生活が書かれています。確か53歳か57歳ぐらいでイギリスに帰るのですが。

ロビンソン・クルーソーは、難破した船の中に聖書があることを思い出す。彼は教会の礼拝に行ったことはない。でも聖書を読むようになり、やがてこの聖書を頼りとして無人島で生きていくという話です。
付近の陸地に住んでいる人食い人種が、処刑のために捕虜を島に連れて来るのですが、この捕虜を救い出してキリスト教に導き、他にも漂流してきた人々を助けて、導いて、キリスト教の共同体を作って、やがてイギリスに帰るという話なのですけれども。

何と言っても興味深いのが、全くの孤独の中、無人島で生き延びていく彼の心の動きですね。私は映画ではトム・ハンクスの“Cast Away”というのを見てほしいなぁと思いますけれども、あれは同じように現代版で、飛行機が墜落して無人島で3年4年暮らすひとりの男の心の動きを描いています。

ロビンソン・クルーソーは、漂流して島に生き残ってしばらくして、自分が直面しているすべての問題のリストを作る。たとえば着るものがない。着るものが欲しい。船に積んであった食料を全部食い尽くした。すると食べものが無い。物資がない。
彼はそのリストを作っているうちに、同時にもう一つのリストを作ろうと思いつくのです。それは、今自分に与えられているもののリストです。

するとこちら側には、着るものがない。こちら側には、でも身体は何とか支えられている、この島は想像以上に温かい。
着るものはない、どうして洋服を作ろうか?こちら側には、でもだれもいないのだから、一週間同じものを着ていてどこが悪い(大笑)。
物資は流された。どうやって食べて行こうか?でも、考えて見たら、島には果物がある。そして泉もある。
            
このリストを作っていくうちに、彼は正気を取り戻すのです。
自分にないもの、自分にとってああ不幸だと思うものばかり、リストに並べますとだんだん気が狂って行く。
でもふと我に返って、すごく身近な素朴な世界――身体一つ、洋服一つあればそれでいいじゃないという――もうすごく素朴な世界に戻って行きますと、人はむさぼりの墓から引きずり出されるかのように、正気に戻るのです。

今は到底手に入れることができないもの、かつて手に入れることができたもの、でも今は失ってしまった、と延々と不平不満の坂を下っていくとき、イエスさまはおっしゃいました。「持たない者は、持っているものまで取り上げられます」(***マタイ25:29、マルコ4:25、ルカ8:18)。

そうですよね。私たちはいいろいろ、ないものは沢山ありますよ。でもそればかり見つめていたら、持っているものさえも何の有り難みも感じなく、取り上げられてしまう。
でも与えられた素朴な祝福を数えて、感謝の坂を上って行くという道もクリスチャンにはあるのですね。

神の民イスラエルが荒野に足を踏み入れて以来、手に入らないものはたくさんありました。
しかし、神さまの恵みは、このマナにたとえられて途絶えることがない。一日たりとも。
40年間、彼らがやがて約束の地に入る、その前の日に終わるのです。
でもその日に至るまで途切れることなく、神さまは天からマナを供給してくださいました。

エレミヤの哀歌(***3:23)に、神の恵みは朝ごとに新しい、という言葉があります。きっとエレミヤは、荒野をたどりながら、苦難の最中にありながら、毎朝、新しくマナを降らせてくださった神さまの恵みを思い起こしているのではないでしょうか。
神の恵みは朝ごとに新しい――エレミヤは、廃墟と化したエルサレムの中で、すべてが終わりだと思ったときに、いやそうではない、生かされている者に神の恵みは朝ごとに新しいということに気が付くのですね。

2)「むさぼり」はひたすら自己中心です。それに対して、「感謝」は神を中心に物事を考えます。

むさぼっているイスラエルの人々の自己中心さをちょっと見ていただきたいと思います。(民数記11章の)32節。私が31を読みますので、みなさんが32節を読んでください。

 31さて、主のほうから風が吹き、海に向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営の回りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。
32民はその日は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、――最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた――彼らはそれらを、宿営の周りに広く広げた。

神さまは彼らに、そんなに肉が食べたいのなら「うずら」を食べさせるとおっしゃいました。そして、地中海から風が吹いて来て、うずらを運んできた。(よくあることのようです)。
民は2日間、しかも一日中、32節「終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、――最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた」と書いてありますが、1ホメルというのは1日分の食料です。

ですから、最も少ない者でも、うずらを20羽集めた。ひたすら、ひたすら、それを集めた。
冷蔵庫無いんですよ(笑)。それだけ集めてどうするんだと思いますけれども。
もう、お金が空から降って来たかのように、なりふり構わず、彼らは24時間、2日にかけてそれを集め、集めたものをどうするかも考えずにそれを集める。
自己中心のかたまりというのはそういうことだろうと思いますが。

すると33節に、
33肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打った。

そうして、この章の最後、むさぼりの果てにいのちを落とした人々が埋められた場所が、「欲望の墓」(キブロテ・ハタアワ)です。
神さまは、ご自身の恵みに対する感謝を忘れてむさぼる者に厳しい、と言うことがよく分かります。
神さまはあわれみ深い方です。でもご自身の恵みに対する感謝を忘れて、むさぼり走る者に対しては神さまは厳しい。
神さまの恵みを忘れて、自己中心にひたすら自分の欲望を満たすために、到底自分では消化することができない10ホメルの食料を、ひたすらうずらを集め歩いている姿を、神さまは天から見て何とも情けない気持ちになることでしょう。

私たちは余るほどのものが欲しい。余るほどの余裕があればとも思います。でもそれは、どこかで、私たちの今ある恵みを忘れて、むさぼりの世界に私たちを引きずり込んでいくという危険性を考えておかねばならないと思います。

ダニエル・デフォーが『ロビンソン・クルーソー』を記す百年前、イギリスで迫害を受けていたピューリタンたちは、メイ・フラワー号に乗ってアメリカに移住していきます。
ウィリアム・ブラッドフォードという歴史家が船の中にいました。やがて彼はその旅路を記録し、後に百名の旅していた人々の指導者となります。

メイ・フラワー号には百名を越える人々が乗船していました。その中に、荒くれ者がいまして、怒りっぽく、暴力をふるう男性で、何かといえば、「おまえを船から突き落とすぞ。そしておまえの財産はおれのものだ」と脅していました。ところが、この男が最初に病にかかります。

ブラッドフォードは記しています。
「神は恐ろしい病をもってこの男を打たれた。結果的に、船から海に突き落とされる最初の人間は、この男になった。そして残っていた者たち全員は、自己中心な、どん欲なこの男を裁かれる神の御前に遜った。」

当時の船を考えてみたらわかります。夜は真っ暗。嵐に見舞われたら、水浸しになります。烈しい波が船に打ち付けます。風でマストは倒れ、それを修理して、また帆を上げて、そうして大西洋を渡っていくのです。

数ヶ月後、死者を2名、そして新しく生まれた2名のいのちを乗せて、いまのボストンの岬に碇(いかり)を降ろします。ブラッドフォードによりますと、碇が降ろされたその瞬間、乗客はみな、感謝します。そのことばは、
T歴代16:34「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」
詩篇にも何度も出て来ますよね。(***詩篇106,107,118,136など)
「主に感謝せよ。主はまことに慈しみ深い。その恵みはとこしえまで。」

でもそれにとどまらないのです。海流の加減で先に移住していたはずのバージニアのコミュニティーに合流ができなかった。彼らは誰もいないボストンに碇を降ろすことになった。だから彼らを助ける者たちはいない。そして、季節がずれてしまって、9月に上陸するはずが11月になってしまった。上陸したとき、すでに冬の足音が聞こえていました。

頼りにしていた仲間の家もない。住む家も建てることができず、食料らしきものにもありつけず、その冬、半分の人々が生命を落とします。ボストンの東に碇を降ろした時に、「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と皆で賛美したのですけれども、その冬、半分の者たちの生命が失われます。
希望にあふれた彼らを、大自然のきびしさが容赦なく襲いかかり、最初の三年間で移住者の三分の二が死亡しています。

それで移住して三年目の秋、収穫を終えた時点で、移住者のリーダーであったウィリアム・ブラッドフォードが居住区におふれを出しました。そのおふれは皆さんに何度も紹介したことがあります。
「偉大な神は、今年もとうもろこしや小麦、豆、スクワッシュ、庭の野菜の収穫を豊かに祝し、森を獲物で満たし、海を魚や貝で満たしてくださった。
そして神は、今年も我らをこの極限の環境から守り、病から生命を助け、神を礼拝する自由を与えてくださった。ですから私は、皆さんの上に立つ者として提案する。
新大陸に移住して三年目、主イエスの誕生から1623年目の11月29 日の木曜日、あなたがたは、妻と子供、家族全員で村の集会場に集まろう。そこで牧師の言葉を聞き、全能なる神に、すべての恵みに対して感謝を捧げよう。」
   
という感謝はものすごく深い感謝です。
迫害されていた母国を去り、嵐の船で、食料も尽き果てた頃に、何とかかんとかアメリカに着き、しかし待っていたのは厳しい冬です。
しかし、食料らしいものはなく、家らしき家もなく、家族を失い、それでも生かされている限り、彼らは神さまの恵みを忘れず、礼拝の喜びを忘れないのです。
 
私はそれはそれは、深い感謝だったと思います。
人生良いことがあって感謝と言うのも立派な感謝です。
しかし、実は人生苦難の連続だ。でも苦難の連続だけれども、今与えられているところに目を留めると、素朴にも感謝の思いが溢れて行く。主の恵みは朝ごとに新しいという感謝は、同じ感謝でもその深さは全然違います。

きっと私たちの人生も、この時のピューリタンのような、あるいは無人島のロビンソン・クルーソーのような「あれもない、これもない」という問題が山積しているような人生です。          
しかし、私たちは困難の中にあっても、豊かさの中にあっても、むさぼることはしない。自己中心に欲を満たすことはしないのです。
むしろ、主が与えてくださる一日一日を、素朴に感謝することを学んでいきたい――それが、むさぼるなかれの意味するところです。


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