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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   モーセの会見の天幕(祈りのシリーズ12)
モーセの祈り(1)「会見の天幕」

 「モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった」(出エジプト三三・七)

                ●重荷を背負って

 何十万というイスラエルの民を引き連れて、エジプトを脱出したモーセです。民は混乱していました。何の準備も計画もなく、ただモーセに従って脱出してきたのです。しかし、これほどの荒野を彷徨うことになるとは、想像していませんでした。モーセも、これほどの混沌とした状況、その責任が、自分の肩に掛かるとは、想像していませんでした。
 荒野で、何十万の民が宿営を張るということは、どういう状況を想像したらいいのでしょうか。しばらく前に、アフガン戦争の結果によって出たアフガンの難民キャンプがありました。さらに前には、ルワンダの難民キャンプがありました。私たちはテレビの映像でその様子の断片を知っています。食料が届かない、配給がうまくいかない、いやそれ以上にお手洗いはどうなるのでしょうか。その宿営が移動するのです。そこには老人も生まれたばかりの子どもも、病人もいたはずです。当時の混乱や無秩序は、現代社会の難民の比ではなかったかもしれません。
 ときどき、民の不平が怒濤のように押し寄せてきます。民数記一一章を見ますと、民が食事のことで泣き叫んだと記されています。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも」。民は家族ごとに、自分たちの天幕の入り口で泣き叫ぶのです。
 モーセは重荷に耐えきれず、神に訴えました。
 「私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください」(民数記一一・一四〜一五)
 荒野を民を率いて進んでいくモーセの姿は、悲しくもあり辛くもあり、孤独でもありたくましくもありました。

                ●会見の天幕

 この荒野の旅路のなかで、モーセを支えていた空間、モーセを養っていた時間がありました。それが「会見の天幕」でした。「会見」とは、まさに神と会見するための特別の場所でした。モーセが入ると、そこに神が降りて来られました。
 「モーセが天幕にはいると、雲の柱が下りてきて、天幕の入り口に立った。主はモーセと語られた」(九節)
 それはモーセが神と語る、祈りの空間、祈りの時間でした。この「会見の天幕」がモーセにとってどのようなものであったのか、七節に丁寧に解説されています。
 「モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた」
 「いつも」ということは、モーセは日常的に、どこに宿営を移動しても、どんな状況でも、祈りの天幕を張っていたということです。
 「自分のために」――それは、かならずしも民のためではありませんでした。仕事のためでもありません。自分のために、この荒野で多くの責任を担いながら、自分が正気でいられるために、任に堪える力と知恵を得るために会見の天幕を張りました。
 そしてモーセは、それを「宿営の外の、宿営から離れたところに」張りました。日常生活のど真ん中でも、日常生活から距離を取って、神に祈りました。
 私たちは何のために祈りの時を持つのでしょう。日常生活の雑事に埋もれないため、その泥流に押し流されないために、私たちは憤り、敵意、ねたみに満ちたこの世界から距離を取って、神との会見の場にやってくるのです。問題課題で頭がいっぱいの自分が、もう少し広い神の視点から人生を見つめるために、失敗で打ちひしがれ、押し寄せる問題につぶされてしまわないあtめに、「いつも天幕を取り、自分のために」、「宿営から離れたところに」、神と会見する天幕を設けるのです。
 それが祈りです。自分の部屋の中に、家の中に、祈りの天幕を設けることができます。職場でクリスチャンが数名集まって、そうした天幕を張ることができます。もちろん、教会も神との「会見の天幕」なのです。
 会見の天幕をもっている人、もっていない人――この違いは、決して小さくありません。週に一度、会見の天幕に来る人と、まったく神との会見を望まない人――この違いは、大きいのです。しかし、あえて言うなら、「モーセはいつも天幕を取り」とあるように、週に一度しか会見の天幕に入らない人と、毎日、いつも、自ら宿営の外に出て、主と会見するために祈りの天幕を張る人との違いは、決して小さくないのです。

                  ●ローマの聖堂のように

 カトリックの司祭で、ハーバード大学教授の席を辞任して、知的障害者の施設ラルシュ共同体の神父となったヘンリ・ナーウェンの本から、私は良く引用します。まだイエール大学で教えていた頃、ナーウェンは研究の休暇をもらってイタリアで過ごしていたときがありました。彼はローマの町を歩きながら、都会の喧噪に圧倒されながら、そこで独特な霊的洞察を得ています。

 ローマの都を見渡し、町を歩き、バスに乗って出かけてみると、この町が家にあふれ、人にあふれ、車に、そう猫にあふれているのすぐに気がつきます。人々は様々な方向に足早に歩いていきます。楽しげな声、時には怒ったような声が町の喧噪と共に耳に響いてきます。様々な種類の香り、特にカプチーノの香ばしい香りを吸い込みます。時にはイタリア特有の包容を受けて、友を得るか、お金をすられるかという体験もします。忙しい喧噪に満ちた都会です。人のいのちが、騒々しく、強烈に現れている都会です。
 しかし、ローマの町全体が、生き生きとした色鮮やかな家に人に車にあふれているなかで、いくつもの教会が、聖なる方のために聖別された空間として町のなかに場所を占めています。数ある教会は、人の生活のすべての中心として静かに存在するお方を指し示すかのように、からの空間を保つフレームとして喧噪の都会に立ち並んでいます。教会は機能的にはできていません。すぐになにかの役に立つわけでも、なにかの必要にこたえるわけでもありません。教会は静かな場所で、奇妙なことに人でごった返していることはほとんどありません。そこでは、周囲の世界とは違う言語が話されるのです。教会は博物館たろうとはしません。教会は綿下を招いています。「静まりなさい。座るかひざまずくか。そして注意して耳を傾けなさい。全身全霊で休みなさい」と。(Henri Nouwen, Clowing in Rome, pp.37-38)

 私は大学院の時に、友人といっしょにローマを旅しました。夏の暑さは四〇度近くありました。貧乏旅行で、ともかく歩きました。そして疲れると近くにある教会に入って、座って静かに一息ついたことを思い出します。まさに礼拝堂は、会見の天幕です。私達の生活は、活気づいて、騒がしく、目が回るようなスピードで進んで行くローマの町です。しかし、その至るところで、私たちは、白いドームに避難することが出来ます。それが祈りの空間、祈りの時間なのです。
 モーセが荒野で、混沌とした宿営から逃れて、祈りのために、神さまとお会いするために会見の天幕を張ったように、私たちも、祈りの天幕を日々の生活の中に張ります。自らの会見の天幕を、宿営の外に持ち、そこに頻繁に出かけていくのです。

                  ●謙遜である

 九節に「モーセが天幕にはいると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。主はモーセと語られた」と記されています。会見の天幕で、モーセは神を求めていたのではありません。神を探していたのではありません。主もまた、そこに降りて来られました。そして主は、「友と語るように、顔と顔を合わせて」(一一節)モーセに語りかけてくださいました。ああ、私が祈っても、神はそのようには語ってくださらないだろうな……。そうかもしれません。モーセは偉大な信仰者です。選びの器です。
 しかし私たちは、そう悲観する必要はありません。民数記一二・三に「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」という証言があります。地上のだれにもまさって、偉大な信仰者であった、とは記されていません。だれにもまさって謙遜であったとは、だれによりも神を必要としていた、ということではないでしょうか。
 だれよりも、モーセは強く自覚していたのです。主に祈 らずには、何もできないと。その意味で、宗教改革者のルターも謙遜でした。毎朝二ー三時間と祈った彼に、「どうしてそんなに祈るのか」と尋ねると、彼の答えは「朝、それだけ祈らなかったら、私はこれだけの仕事はこなせない」と答えたというのです。
 一日の平安も余裕もエネルギーも、祈りが供給してくれます。そのことを、モーセほど深く認識していた人はいなかった、というのが「謙遜」の意味ではないでしょうか。

                                  ●主を仰ぎ見る

 そして、そんなモーセは会見の天幕のなかで、神と祈り語らうとともに、「彼はまた、主の姿を仰ぎ見ていた」(八節)のです。祈りの小部屋で、祈りの空間と時間で、一生懸命に祈りの言葉を並べるのではなく、モーセは単純に、そして何にもまして、主の姿を仰ぎ見ていました。
 エイミー・カーマイケルという、アイルランド生まれの女性の宣教師がいます。二四歳のときに宣教師の召命を受けて、二五歳でバックストンの待つ日本の松江で宣教師の生涯を開始します。明治二六年のことでした。しかし、日本脳炎にかかり、一五か月で日本を去って、一旦上海で静養し、今度はインドに向かいます。
 エイミーは、バンガロールからはじめて、さらに南のドノバーで働きをはじめます。貧しい少年少女の救済、学校と病院の建設、やがて八百人の大きなドノバーフェフォーシップという愛の共同体を作り上げます。エイミーは五五年間、インドで神に仕え、八三歳で生涯を閉じました。
 六〇歳を過ぎてからエミーは骨折にはじまり、リュウマチに悩まされて、晩年の二〇年間は、ほとんど部屋から出ることができないからだになります。
 七三歳の時の手紙にこうあります。
 「昨晩、祈ろうとしましたが、みじめな敗北を味わいました。そばにあったイザヤ書の分冊を開くと、シオンの門について書かれている言葉が私の目を捕らえました――門は絶えず開かれています。それは、昼も夜も閉じられることはない(六〇・一一)。父なる神のご臨在に近づく門は絶えず開かれているのです。門の扉を押す必要はありません。祈ろうと努力するのは、門を押すようなものでしょう。門が開かれているなら、入る以外に何もしなくて良いのです。単純すぎるように思えますが、私にとっては大きな助けになりました。」
 祈ろうとして味わう、みじめな敗北を私たちも知らないわけではありません。祈れないのです。しかしここで、エイミーは発見しました。それは私たちにとって大きな励ましとなります。
 第一に、祈りの天幕は自分の力で行くのでもない、ということです。モーセは会見の天幕を自分で張りました。しかし本当は、主が会見の天幕を用意してくださり、そこに来るように招いてくださったのです。祈りというは、主の招きです。喧噪のローマに聖堂がいくつも立っていて、その扉には鍵がかかってなくて、いつでも私たちを招いているように、主が会見の天幕を備えて、私たちをまねていくださいます。そこにある天幕に気がつきさえすれば、私たちは祈りに入ることができます。何の準備もせずに、入ることができるのです。
 第二に、祈りの天幕のなかで、言葉を並べることに専念するのではない、ということです。言葉を並べるのではなく、ただ主を仰ぎ見ることができます。ただ主に目を向け、その偉大さに心を向け、礼拝するのです。自らの小ささ、罪深さを感じながら、あわれみ深い、恵みにあふれた神を仰ぎ見る。息を整えて、十字架の主を仰ぎ見る。それが会見の天幕で、私たちがまずすべきことなのです。それが最も大切なことなのです。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2003.04.27 - 22:17
LAST UPDATE: 2003.04.27 - 22:20

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