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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/28召天者記念礼拝:信仰の杖一本で  創世記32:9〜12
10/28召天者記念礼拝:信仰の杖一本で  創世記32:9〜12

☆賛美「主の祈り」
独唱   河原神学生       ピアノ  竹内梨瑛姉

☆お知らせ
●今日は召天者記念礼拝、午後は津田山の市営緑ヶ丘霊園の教会墓地にて、墓前記念会を行います。送迎の必要な方は、米山石材店の前にお越しください。雨が降っているときは墓前記念会の方は中止となります。(***しかしちょうどその時間、雨も止み、今年も良い墓前記念会ができましたことを感謝)。

●先月から「教会福音讃美歌」を歌っています。今はブルーの紙で、毎週2曲取り入れて歌うようにしています。しかし正式に、11月の第3聖日から全曲「教会福音讃美歌」に変わります。

●高橋武兄は、明日、井田病院で腎臓の関係の手術をされます。今晩行ってお祈りをいたしますけれども、ぜひ皆さんもお祈りください。

●長岡兄は、パウロの足跡をたどって、キプロス島までギリシャ・トルコの旅に行って無事に戻って来られました。また写真でいろいろご報告される機会があると思います。

●今日は全員で11名の方々が高津教会から、福島の被災地仮設住宅を訪問し、マッサージや賛美、いろんな奉仕をしておられます。私たちはこの前のコンサートもそうですが、クリスマスのときにもう一回コンサートがありますけれども、そういった時の義援金を全部そちらに持って行きますので、ぜひ覚えていていただきたいと思います。

●来週(11/4)、日本聾話学校の鈴木実先生の証しとメッセージがあります。この先生はなかなかの説教者と聞いておりますが、日本聾話学校と言いますのは、私たちの教会員の加藤剛兄が事務長をしておられたのは、3月までだとお聞きしました。
この学校はライシャワー駐日大使のご両親がアメリカの長老会の宣教師だった。お嬢さんが熱病のため聴覚を失った。日本でのことです。(***そこからライシャワー宣教師によって始まります。)
その頃から、いろいろ日本の聾話教育に心を向けられて、やがてアメリカから聾教育の経験を持っておられたクレーマー先生を呼び寄せて、手話ではなく、当時読唇術を使って、今は人工内耳を使ってほとんど聴覚のない子どもたちがハンドベルを取り、クリスマスの劇をし、本当に日本で唯一そういう教育をしております。もちろん聾学校としては、日本で唯一のミッションの学校でもあります。
先生がお書きになった絵本を加藤兄が50冊学校の方から寄贈してくださいました。ぜひ来週の日曜日来ていただいて、同じような境遇にある子どもたち、そして戦っているご家族、そしてそれに一生懸命神さまの愛を伝えようとしておられる学校の方々、そういった証し、いろいろなことを見ていただきたいと思います。

●11/11(日)は子ども礼拝であります。この日は教会学校はありません。子どもたちも一緒に礼拝を守って、子どもたちの祝福の礼拝をしたいと思います。私たちの教会の7・5・3礼拝ですね。ぜひこの日を覚えてください。

☆始めのお祈り

10私たちの齢(よわい)は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。
12それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。
14どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。
15あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。
(この日の交読詩篇90篇より10節前半、12前半、14〜15節)

恵み深い天の父なる神さま、今朝は神の人モーセの祈り、詩篇の90篇をともに交読いたしました。私たちはまさに「朝、移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れ」(同5節〜6節)、七十年、八十年、あるいは九十年という生涯だったとしても、「その誇りとするところは労苦とわざわいで」、あっという間に人の一生は過ぎ去り(同10節)、私たちは病み、またこの地上の生涯を閉じます。

しかしあなたを信じている私たちにとりまして、決して人生の虚しさにおぼれることなく、むしろこの世の苦しみ悲しみは希望に変えられ、朝にはあなたの恵みで、あなたは私たちを満ち足らせて(14節)くださいます。「私たちの悩まされた日々に応じて、あなたは私たちを楽しませて」(15節)くださいます。
「♪やがて天にて喜び楽しまん」というあの讃美歌(イ讃美歌687「みくににすまいを」)とともに、私たちの苦難多き地上生涯は天の御国における喜びにつながっていることを、この聖日を覚えることができる恵みを心から感謝いたします。

少し寒さが深まってまいりますが、私たちの教会家族の秋の営みをあなたが祝福してください。高橋(武)兄のように手術を受ける方もいらっしゃいますし、また肉体的な弱さを覚えておられる方々も、さまざまでありましょう。しかし常に復活の息吹をあなたが吹きかけてくださり、私たちの弱さを支えて、私たちを明日に向かわしめてください。ともにクリスマスを楽しみにすることができるように、私たちに内なる力を備えてください。

今日初めて教会に来られた方々、また特別に年に一回、この聖日集まって来られるご遺族の方々に、豊かな恵みと憐れみがありますように。一年間あなたに支えられました。また再び一年間、あなたの祝福を受けて進んで行くことができるように、強めてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆聖書個所   創世記32:9〜12
 
9そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。私はあなたをしあわせにする』と仰せられた主よ。
10私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。
11どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。
12あなたはかつて、『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数え切れない海の砂のようにする』と仰せられました。」

☆説教      信仰の杖一本で

今日は創世記の32章を読んでいただきました。目を留めていただきたいみことばは一節だけですので、32章の10節、お読みいたしますので、聖書がお手元になければ耳を傾けて聴いてください。ヤコブのことばですが――

10私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。

先週の祈祷会で、私はイエスさまが話してくださった天の御国の話をしました。イエスさまは最後の晩餐の席で、弟子たちを前におっしゃいました。(***ヨハネ14章1〜3)

1「あなたがたは心を騒がしてなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2わたしの父の家(***天の御国)には住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。(***迎えに来る目的は一つ、)わたしのいる所にあなたがたをもおらせるためです。」

私たちは誰も天国を見た者はいません。天国の喜びを味わった者もいません。強いて言うならば、死の陰の谷を歩いた者もありません。
弟子たちはイエスさまから、いきなり天国の話を聞かされたときに、よくわからなかったと思います。そして矢継ぎ早にイエスさまに奇妙な質問をいたします。そして、どんなに教えてもらっても、その場の彼らにはわかりませんでした。

それは私たちとて同じです。今の人生を必死で生き抜いている私たちにとって、天国というのは究極のゴールではあっても、今の私たちにはなかなか実感できないことなのかもしれません。

天国っていうのは、いったいどういう所なのだろうか。死の陰の谷を一人で歩くとは、主がともにいてくださっても、その道を行くということはどんな寂しさや痛みを伴うのか、そしてやがて天国の門の前に立つ時、どういう緊張、どういう恐れをもって、何を考え、何を思い、どんな祈りを捧げるのか、どのように自分がそこで振る舞うのか、そんなことはわかりません。

唯一、リアルにわかる方法があります。それが、先に天に召された愛する兄弟姉妹、そしてその家族、私たちの愛する者たちが、自分の一生をどのように過ごしていき、最後どのように幕引きをして来たのか、最後の祈りをどのようにささげたのか、愛する兄弟姉妹の背中を見ることによって、私たちは唯一天国のリアリティーというものを実感いたします。それが教会にとって、召天者記念礼拝の意味するところです。

今朝は、この杖一本をもってヨルダン川を渡り、またヨルダン川のこちら側に帰って来たというヤコブを一緒にご覧いただきたいと思います。

ヤコブという人物が初めて神さまに出会ったのは、双子の兄エサウをだまして兄の長男の権利を奪い取り、兄の怒りを買って荒野へ逃亡したときのことでありました(***創世25〜27章)。
ほとんど何も持たずに逃亡してきたヤコブは、その夜、石を枕にして眠りに就きます(同28:11)。石を枕にして眠りに就く私たちの地上生涯、歌にもありますように(***イ讃美歌25「主よみもとに近づかん」福407「主よ、みもとに近づかん」)とても象徴的です。そして神さまは彼に現れて、祝福を約束してくださいました。
その祝福を胸に抱きながら、彼は勇気を得て、杖一本で遠い国へと旅立っていきます。

やがて、二十年が経過して(同31:41)故郷に帰るときがやって来ました。「故郷に帰れ」という神さまの命に(同31:3、32:9)、帰ろうとするのですけれども、故郷が近づけば近づくほど、兄の殺意にあふれたあの憤りの顔を忘れることができません(同32:7、11)。
昔は自分は杖一本でヨルダン川を渡った。しかし今や、彼はふたりの妻とふたりの女奴隷と、子ども十一人を連れて、しかも多くの家畜としもべの家族を連れて、移動しています。それらはある意味、二十年の彼の努力が築き上げてきた富であり力でした。

しかし、それが彼の人生の助けになるのでしょうか。ヤコブはそうは考えませんでした。
彼は当時の杖を今も握っていますが、その杖はただひたすら神に信頼し、神の助けだけに頼る自分の信仰の杖でした。

石を枕にして寝た夜(の彼)も、今多くの財産と家族を引き連れて故郷に帰りながらも、不安におびえる彼も、いつもと同じように信仰の杖だけを頼りにして神に祈っているというのが10節のみことばです。――私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りました。今は二つの宿営を持つようになり、しかし、不安で不安で仕方がなく、私はひたすら杖一本を握って、あなたに祈ります――という彼の祈りです。

短く3つのポイントでお話したいと思います。
  
1)ヤコブの人生を導いたのは、この信仰の杖

私たちの生涯を導くのは、この信仰の杖一本だというのが、信仰者のモットーだろうと思います。今日は週報の間に、私たちの教会の召天者の顔写真を渡辺兄が作ってくださいまして、挟んであります。私がこの教会で牧会を始めた頃、恐らく上の一段だけでしたが、多くの方のお顔が増えるようになりました。

高津教会の設立に尽力された――鈴木将照兄、鈴木節子姉、永岡幸姉、横溝寿満姉、相馬木一兄、堀越兄、今村綾姉、勝間田保生兄、勝間田房子姉、佐伯恒子姉、勝間田英生兄、石井延彦兄、写真にはありませんが吉田初枝姉のお母さまの藤井姉――皆私にとりましては信仰の大先輩である方々です。
戦争を越え敗戦の貧しい中を信仰一つで生き延び、そして教会とご家庭を信仰をもって引っ張って来られた方々ばかりです。
私たちは皆、これらの方々から教会生活のあり方を、信仰者の基本姿勢を学んでまいりました。
            
そのような信仰の先輩や、例えば晩年に移って来られた――玉木芳一兄、あるいは福井兄、小林武男兄に――皆私たちは信仰の基本的な姿勢、杖一本だけをもって、人生の山坂を上って行くという姿勢を学びました。豊かな時も厳しい時も、健やかな時も病める時も、いつもその手には信仰の杖が握られていました。

信仰こそ私たちの旅路を導く杖です。讃美歌にもありますが(***イ498『信仰こそ旅路を』福348『信仰こそわが身を助ける杖』)、ヤコブにとりまして、たとえ12人の子どもたちが生まれ、そして二つの宿営に分けられるほどの多くの家族、しもべたちの家族、家畜、神さまがどんなに豊かに彼の人生を祝福してくださったとしても、所詮最後、自分が試練にあったときに頼りにするのは、これまで自分の人生を助け導いてくださった神さまだけだと。
  
この納骨者のリストにはありませんが、今年88才で天に召されました松岡春樹さんという方がいらっしゃいます。若い頃に大森めぐみ教会で洗礼をお受けになりました。人生の中盤で、千葉に引っ越して千葉の教会に集われるようになりました。晩年には、ご子息の松岡玉樹さまの住んでおられる川崎の介護施設に入られ、そして最後に神さまは高津教会に結び付けてくださり、高津教会で葬儀をいたしました。

私は松岡春樹さんがどのような信仰生涯を行き渡って来たのかということは、実はあまり存じ上げておりません。しかしこの方が若い頃から、そして最期、人生の締めくくりに至るまで、信仰の杖を離したことがない。

私たちはある教会で洗礼を受け、しかし人生を閉じるときには、全く別の教会でという場合もあるでしょうし、もしかしたら、教会が周辺に無い地域に自分が引っ越して行き、ひたすら自分の手に聖書を持ち、主の祈りを唱え、自分の思いを神さまに伝えながら、人生の幕引きをするということもある。

私たちの教会は、そしてどの教会もそうでしょうけれども、イエス・キリストの名において洗礼を受けた方を私たちは大事にします。どんなに晩年になって高津教会に身を寄せるようになった方でも、生ける石として教会家族に結び合わされた尊い尊い存在であるということを私たちは認識しながら、この召天者記念礼拝を迎えています。

あまりにも人数が多くなってしまいましたので、ご遺族の方々を紹介することは止めますということを、昨年からいたしましたけれども、昨年から今年に至るまでの間に天に召された方々に対しては、ご紹介したいと思います。今日は松岡春樹さんの、松岡玉樹さんのご家族が来ておられますので、お顔を皆さんに見せていただきたいと思います(拍手)。よく来ていただきました。

2)信仰の杖は、戦いの杖でもありました

戦いの杖は、事業の発展や仕事の展開、家族の問題とさまざまな機会に用いられましたが、何と言っても闘病において、私たちの先輩はひたすらこの杖だけを頼みにして病と戦われました。

がんとの壮絶な戦いを越えて、若くして天に召された松本興四郎兄。私は松本興四郎兄の葬儀を出した時には、自分がまだ若かったですから、若くして天に召されたという意識はありませんでした。しかし改めて年齢を見ますと、67歳というのは若いなぁと思います。相沢広一兄も67歳でがんでした。

倉持順次兄は65歳、金子光夫兄は64歳、三好正彦兄は48歳、肝臓がんでした。田島勇一兄は51歳、私は48歳ぐらいのときに、田島兄の葬儀をいたしました。藤川静子姉は56歳、今の私と同じ年齢です。臼井健二兄74歳、89歳で天に召された小林武男兄――皆壮絶な(がんの)痛みの中で、どんどん信仰が研ぎ澄まされていく姿を、私たちも御家族の方々も体験して来ました。

松本興四郎兄は、がんと宣告された時に、聖書から一つのことばを引用されました。それは「死に至るまで忠実でありなさい」(***黙示録2:10)。そのイエス・キリストのことばを心に刻んで、とても心臓が強かったので、闘病期間が長かった。奥さまも苦労されましたけれども、ご本人の痛みというのはどれほど辛いものでしょう。
田島兄や藤川静子姉、その闘病の辛さの中で、周囲の者がもう目を背けたくなるほど大変な中を通って行かれました。

昔のクリスチャンは、迫害の中、殉教で命を落とした人たちを聖徒と呼びましたが、病と闘う方々が信仰の杖を放すまいと、それだけを握りしめて、痛みと戦ってイエスさまにすがりつき、踏ん張っていた姿は、私たちにとっては聖徒のようでした。

苦しいのは、辛いのはガンだけではありません。勝間田寛兄45歳、大西カジャ姉40歳、高橋望兄37歳も皆、病の中で信仰の杖一本を握りしめた方々です。
 
時には、自分はそもそもそういう信仰の杖など持っていなかった。でも試練に遭ってそれを握ることを体得した方々もいます。写真にはありませんけれども、池田姉のご主人がそうです。そして森廣姉のご主人もそうです。

そして、今年天に召された塩口昭子姉(81歳)は、中村洋美姉のお母さまでいらっしゃいますけれども、若い頃は熱心に教会にいらっしゃって、それからは遠ざかってしまいました。がんが分かって、そしてお嬢さんご夫妻は一生懸命、お母さんのために祈り、最後お母さんに「お母さん、私たちが信じている神さま、イエスさまを一緒に信じて、同じ一つの家族になって、同じ神の子供にならない?」と誘われ、病床で洗礼を受けられ、3日の後に天国に召されました。

杖は貸すこともできれば、あるいは人生の最後にイエスさまがすっと差し出してくださった杖をその手に取って、天国に引き上げられるという場合もあります。
塩口昭子姉のご家族、中村洋美姉のご家族、ちょっとご紹介いたします(拍手)。
そうして、病と闘い、肉体の衰えを感じながら、最後は信仰の杖だけを握って、死の陰の谷を歩んで行かれ、そして天国の門を叩かれるのですね。

この信仰の杖こそ、一人の人間に過ぎない私たちにとりまして、この信仰の杖以外、聖なる神さまの御前に立つ資格を与えてくれるものはない。この杖こそが、救い主キリストを信じる杖です。
ヤコブは言いました――私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です――どんなに祝福された人生を送ったとしても、私たちはその恵みとまことを受けるに足りない者であって、ましてや私たちは天の御国の門をくぐるのにふさわしくない者です。
私たちはイエス・キリストを信じる信仰の杖を持ってのみ、この天の御国の門をくぐることができます。

モンテーニュという18世紀のフランスの哲学者がいますが、彼はアルビュケルクというインドの大守について、こんな話を残しています。

アルビュケルクが舟で旅をしていたとき、乗っていた舟が突然の海難事故に遭います。
舟はみるみる傾き、立っていることもできなくなります。
捕まるものもなく、海に沈み行くアルビュケルクは、とっさに、そばにいた幼い少年を自分の肩に乗せました。モンテーニュが言うには、勿論それは、幼い少年を助けようとしたのではありません。

アルビュケルクは思いました。
*自分は神の御前に立つことはできない。
*しかし、神はこの純潔な少年を顧みられるだろう。
*もしや、この純真な小さな少年を肩に乗せ、この少年と最後の運命をともにすることができるなら、自分も助けてもらえるかもしれない。
インドの大守は、こうして少年にしがみついたという話です。
 
私たちは、死の陰の谷を行く時に、いったい誰に、何にしがみつくのか。愛する者の手を握るのか。しかし、愛する者は死の陰の谷をともに行くことはいたしません。
しかし詩篇23篇を読めば、「死の陰の谷を行く時、私は恐れない。あなたがともにいますから」(と4節にあります)。私たちはイエス・キリストの十字架にしがみつき、十字架にかかられたイエス・キリストが、私たちの手を取って引き連れてくださるから、私たちは勇気をもって死の陰の谷を行くのです。

ヤコブのように宿営を持つ者になったとしても、死ぬときは独りです。しかし死ぬときはイエス・キリストの十字架のみを握って、私たちは天国の門を叩くのです。

3)この信仰の杖は、家族に渡されていきます

この杖を使いなさいと、先に天に上りし私たちの愛する者たちは、この杖を私たちに手渡して天に上っていきます。
松本興四郎兄ががんとの激しい闘病を終えて、天国に召された時に、お兄さんの健次郎兄が、「弟の代わりに礼拝に来ます」と言って、信仰を持たれて洗礼をお受けになりました。今では健次郎さんは、礼拝に出席する男性の最高齢者です。

奥さまの車いすを押して礼拝に石井寛さんはいらっしゃいました。奥さまの米子姉(77歳)が亡くなられた後、奥さまの車いすの置かれていたところに座ると言って、そこで礼拝を守っておられます。今日はお嬢さんご夫妻が来ておられますけれども……。
昨年天に召された前田達也さん(79歳)の奥さま信子姉は、今年洗礼の恵みにあずかりました。

ヤコブは、晩年この杖を一生離さずに持っていたということがよくわかります。新約聖書のへブル人への手紙11章の21節。開かなくても結構ですが、味わい深いことばがそこにあるのです。

ヘブル11:21 信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。

杖一本を持って、若い頃ヨルダン川を渡り、二十年後にもう一度ヨルダン川を渡り、そして自分の故郷に帰る。でも死ぬ時、ヨセフの子どもたちというのは、自分の孫です。自分の孫ひとりひとりを祝福し、そして今なお持っているその杖のかしらに寄りかかって神を礼拝したヤコブ。この杖は孫たちに引き継がれていきます。それが召天者記念礼拝です。

確かに、自分が握って来た信仰の杖に寄りかかりながら、私たちは人生の最期を迎えますけれども、残された者たちを祝福しながら、天に召された者たちは天国に帰って行きます。

病院で最後の最後まで、聖書の写本をしていた小林武男兄の背中を私たちは見ます。写本が全〜部終わって、製本に回したのは、兄弟が天に召されてから3か月後でありました。今その聖書はバンコクの日本人教会に納められています。

闘病でやせてしまって、もう身体中の肉が無くなり、ベッドに座ることができないほど衰えてしまった臼井健二兄。病院にお見舞いに行きましたら、「先生、私は今一生懸命旧約聖書を読んでいます」と、おっしゃった。そして、病院に伺いますと、体を起こされる。「身体を起こす力もない方が、……寝ててください」。でも体を起してでないと、お祈りを受けない。「いや、寝たままで額に手を置いてお祈りしますから」(と言いましても)、ものすごく神さまの御前に立つ時に、自分の信仰姿勢を身体で表現する方で、お祈りしようとしますと、無理やりにでも起きて身体を真っ直ぐにされる兄弟。その兄弟の信仰は、確かに家族に、そして教会に残っています。

私は、それはきっと、生まれて間もなく(1歳)天国に帰って行かれた山本豊くんがしてくれたことだろうと思います。山本兄姉は今日も来ておられますけれども、豊くんが天に召されたことによって教会に導かれました。

長尾幸恵さん(1歳)もそうです。神さまが与えてくださるいのちの尊さ、家族の絆、天国への希望、それらは何と生まれて間もない小さな小さないのちから、家族の者たちが教えられて来た。

ヘブル人への手紙11章4節には、こういうみことばがあります。

へブル11:4彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

今もなお、私たちの先輩たち、私たちの家族は、キリストの救いにあずかるという信仰の杖に寄りかかりながら、ヤコブのように私たちのために祝福を祈り、ヤコブのようにこの杖を使えと、私たちに信仰(イエス・キリストの十字架)を差し出している姿を私たちは見ることができます。
今もなお語り続ける信仰を、この教会も、なお次の世代に語り続けることができるように、神さまのみ守りをお祈りいたします。
  
☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、いったい自分は何を頼りに、自分の人生の最期を迎えるのであろうか?いやいや、その時が来なければわからない、と言いますが、その時が明日かもしれず、そして突然、絶望の谷に突き落とされるかのように、私たちはこの地上生涯を閉じるに違いありません。

でも私たちの目の前に、信仰の杖をしっかりと握り、イエス・キリストを肩に乗せ、死の陰の谷をともに主と歩んで行った、信仰の先輩たちがこれほど沢山いることを覚えますと、どこにいたとしても、最後にどんな施設で自分の人生の最期を終えたとしても、あなたの十字架に信頼し、あなたからの救いをいただいている事実をしっかりと心に受け止め、不安はあるでしょうが、でも頼るべきはキリストの十字架のみと、心から信じて天国に召されることができるように、私たちを導いてください。

今日名前を引用することができなかった方々も、沢山いらっしゃいますが、あなたがひとりひとりの家族を今日もなお祝福してください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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