12/2アドベントT:「主イエスを拝する」 マルコ6:1〜6
☆お知らせ
●教会福音讃美歌に変えまして、全く歌詞が変わってしまいましたが、先程のクリスマスの讃美歌を聞いておりますと、皆さん力強いですね。聖歌隊は元旦礼拝に向けて、ホルストの「ジュピター」を練習しています。ぜひ積極的にご参加いただきたいと思います。
●ラブ・ローフを年4回(3,6,9,12月)回収しております。今年最後の回収になります。お祈りと共にお献げください。
●週報の間に「天の窓」が挟んでありました。田中兄はじめ編集の方々が、様々な労を取ってくださいます。なかなかいいです。私(藤本牧師)がいつも個人的に楽しみにしているのは、本の紹介です。今回は「寅さんとイエス」、先ほどちょっと田中兄と話をしたら、思いのほか奥が深くて、結構難しいものだと、いろいろ私たちもイエスさまについて知らなければいけない部分があるのですけれども、聖書の中だけでは足りないと思うくらい、キリスト教の伝統も、またユダヤ教の伝統も、また当時の初代教会の伝統も奥が深いという風に考えます。
●ずっと案内をしてまいりました「教会で聴くクリスマス・オラトリオ2012」、これは一大イベントです。それで、申し訳ないのですけれども、もしチケットを取ったけれども行くのが難しくなった、という場合は英姉に戻してください。何百人もWAITING LISTに載っています。それであまりにも申し訳ないので、(全体の半分を高津教会が受け持ち捌く内の)20枚ほどを東京バロック・スコラーズに返しました。
指揮者の三澤さんは新国立劇場の指揮者です。総勢70人でやって来ます。総勢70人でやって来るオーケストラ付きの……、一体ここにどういう風に入るのかというのは、またこれは見ものですね(笑)。常識的には絶対入らんだろうと思いますけれども(笑)、午後に2回の公演をして何とか振り分けるということです。彼はできると言っていますので、ただ和室から準備室から応接室から全部彼らの着替えの場所になってしまいますし、講壇のものも、全部外に出しての演奏会になりますが、9枚まだ英姉がチケットを持っておられますので、私は繰り返して申しておりますが、何でもこの教会は早い者順です。どうか、遠慮せずにそれを取られた方がいいのではないかと思います。
関心がありましたら、「東京バロック・スコラーズ」で検索していただければすぐに出て来ますし、高津教会の地図も出て来ます。
ごめんなさい、私、チラシ送っていただいたんですけれども、いまだに出て来ないので(笑)、一生懸命、口でアピールしているのですが、皆さんにとっては実感が湧かないというのがあると思うのです。ただすごいのがやって来て、多分二度とやって来ない(笑)、と思いながら、ぜひ申し込んでいただきたいと思います。
●年末感謝献金が始まりますので、会計役員の折井兄にご案内していただきたいと思います。(折井兄の話)――ありがとうございます。ぜひご協力をよろしくお願いいたします。何よりも支えられる恵みに富むクリスマスでありますように願っております。
●先週、ギデオンの(前全国会長の)大山昭夫兄がいらっしゃって、よい証しと、皆さんから聖書の献金が捧げられました。総額で100.001円。橋兄が、恐らくこの近辺の教会では10万円を超えるということは先ずない、と。本当に沢山の捧げ物が与えられたことを、私たちの小さな小さな誇りにし、また捧げることができた恵みを主に感謝しています。
☆聖書個所 マルコ6:1〜6
1イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。 2安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。 3この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。 4イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」 5それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。 6イエスは彼らの不信仰に驚かれた。 それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
☆始めのお祈り
見よ。わたしのささえるわたしのしもべ。 彼は傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。 彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。 (この日の交読イザヤ書42章1〜4節より1.3.4節)
恵み深い天の父なる神さま、イザヤ書が預言している「わたしのささえるわたしのしもべ」(1節)である、御子イエス・キリストの生誕を賛美し、感謝する第一の聖日を、愛する兄姉とともに迎えることのできた恵みを感謝いたします。
あなたは「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」(3節)、私たちの心も身体も見事にぽっきり折れてしまう弱い葦であり、人生どこかで自分はくすぶっているんじゃないかと思うような、弱い弱い燈心でありますが、でもあなたはそれを折ることもなく、消すこともなく、私たちを支え、いつでもこの心に小さな信仰の燈心を残していてくださることを心から感謝いたします。
今年も祈られたように様々なことがありました。この月も様々なことがあるでしょう。しかし、父なる神さま、あなたは御子イエス・キリストを支えられました。私たちも御子イエス・キリストに倣って、神のしもべでありたいと思います。ですからどうか私たちを支えてください。
今日、病や様々な事情で教会に来ることができない、そのお一人お一人にあなたが同じ恵みをもって届いてください。 みことばに耳を傾けることを願っています。そのためには、語る者も聴く者も聖なる助けをいただいて、あなたの御声を心で受け留めることができるように私たちを導いてください。 すべてを御手に委ね、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆説教 主イエスを拝する――Your God is too Small
先ほど(司会者の)加藤兄に読んでいただいたのは、マルコの福音書ですが、そこにちょっと挟んでおいていただいて、読んでいただきたいところがあります。それがルカの福音書の1章です。ルカの福音書の1章の46.47.48節、これを声を合わせて一緒に読みましょう。
46マリヤは言った。 「わがたましいは主をあがめ、 47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。 48 主はこの卑しいはしために 目を留めてくださったからです。 ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、 私をしあわせ者と思うでしょう。
有名な受胎告知の後のマリヤの賛歌。ルカの福音書には「賛歌」と呼ばれる聖書の個所がいくつも載っています。一番最初が受胎告知をされたマリヤで、46節の一番最初の行、「わがたましいは主をあがめ」の「あがめ」が、ラテン語で「マグニフィカート」ですから、このマリヤの賛歌は「マグニフィカート」と呼ばれています。
ラテン語の聖書からイギリスのキング・ジェームズ――これは17世紀の初頭ですね、1603年に作られたもので、一番大きな欽定訳と呼ばれる聖書ですが――それはマグニフィカートをそのままmagnify・マグニファイ・(拡大鏡のように)拡大して見ると訳しました。ですから、「神さまをあがめる」ということは「神さまを大きく見る」(という意味で記されています)。
今日の私のアドベント第一(週)のメッセージのテーマは、神さまを実に小さく見ていた人々です。それでマルコの福音書の6章を見ていただきました。
クリスマスというのは、言うまでもなく、キリストの誕生ですけれども、至る所で幼子イエスは母マリヤに抱かれる、幼子イエスが母マリヤに抱かれというのは、○ちゃんがお母さんに抱かれるという状況と何ら変わりはない。
1)しかし、やがて福音書の中で、イエス・キリストのところに来て、ひざまずいて礼拝している人々が出てきます。
●ハンセン病に冒された人が、主のみもとにやってきて、ひれ伏して言います。 聖書で「ひれ伏す」とは、「拝んで」と訳されることもあれば、「礼拝して」と訳される場合もありますので、みんな同じことばです。 彼はひれ伏して、拝んで、礼拝して、イエスさまに言います。 「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます」(***マタイ8:2、マルコ1:40、ルカ5:12) この出来事というのは、どの福音書でも最初に出て来る癒やしの出来事です。 そして、イエス・キリストは、何のためらいもなく、この人物の礼拝を受け取っておられます。
これは、よく考えてみなければなりません。
●ペテロが異邦人で信仰のあったコルネリオのところに遣わされたとき、コルネリオは神の使者がきたと思って出迎えて、ペテロのもとにひれ伏します。それは平民がお代官様にひれ伏しているのとはちょっと違う。 そのとき、ペテロは直ぐに彼を起こして言いますね。 「お立ちなさい。私もひとりの人間です。」(使徒10:26)
つまりこの旧約聖書、新約聖書の世界で、人間でない対象にひれ伏すとしたら、それは神以外にはない。人間の前にひれ伏すという行為をしない。ですから、ひれ伏してペテロを迎えているコルネリオに対して、(ペテロは)「お立ちなさい。私もひとりの人間です」と言ったのです。
●例えば、パウロとバルナバが、ガラテヤの地方に行ったときに、生まれつきの足の不自由な人を癒すのです。 それはかつてイエスさまが奇跡を行って癒された、驚くべき出来事と同じです。 その時の出来事が使徒の働き14:11から、こう記されています。
11パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。 12そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。 その時二人は何と言ったでしょう。15節に、 15「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。」
(ペテロがコルネリオに言ったのと)全く同じことを言っていますよね。 それは、何ができようが、何をしようが、どんなに偉大な業績をなしたとしても、あるいは奇跡の働きをなしたとしても、ペテロもパウロもバルナバも言うのです。 「私たちは、あなたがたと同じ人間です。決して私たちを拝んではいけない」と。
ところが、同じユダヤの文化の世界でありながら、イエスさまは至る所で礼拝をお受けになっています。そして、拝まれることを全く拒まれません。
●会堂管理者は、その娘が死にそうな事態に遭って、イエスさまのところに走って来てひれ伏して願います。 「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」(***マタイ9:18、マルコ5:22、23、ルカ8:41)
私たちは――こういう場面で、申し上げました――ひれ伏して願っているというのは、単なる尊敬を払っているとか、あるいは真剣であることの表れだと捉えてしまいますが、決してそうではありません。 彼は会堂管理者です。つまり旧約聖書の信仰を持ったユダヤの人ですから、つまり、天地の創造主である神以外、だれに対してもひれ伏すことなどしないのです。 そして、もしイエスさまがペテロやパウロと同じなら、直ちにおっしゃったことでしょう。 「立ちなさい。私もあなたと同じ人間ですから。」
しかし、イエスさまは、平然と、当然と、彼らの礼拝を受け取っておられます。
●悪霊につかれた男でさえ、駆け寄って来てイエスさまを礼拝して言います。 「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか?」(マタイ8:29、マルコ5:7、ルカ8:28)
イエスさまを見た途端、「いと高き神の子」と判断して、駆け寄って来てイエスさまを礼拝するのです。
●イエスさまが嵐の中、湖の上を歩いて来られたとき、ペテロは言います。 「確かにあなたは神の子です。」(マタイ14:33)
そう言われた時にイエスさまは、「冗談は止めてください。わたしもあなたがたと同じ一人の人間ですから」とはおっしゃらなかった。
●復活の後で、イエスさまは墓にやって来た女たちに出会います。すると、女たちは、主の足を抱いて礼拝したと記されています。(マタイ28:9) これも、「ひれ伏した」とか「拝んだ」ということばと同じギリシャ語です。
それに対して、ここマルコの福音書6章に出て来る、ナザレの人々を見てください。1節から読んで行きます。
1イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。 2安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。 3この人は大工ではありませんか。
「この人、この人、この人」が何回も繰り返されています。 3節は(彼らのイエスをあがめない気持ち、礼拝しようとしない態度が)よくわかりますね――この人は大工の息子ではありませんか。母親はマリアで、彼の兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみんな私たちといっしょにいたではありませんか。
父ヨセフは出て来ない。まぁ、父親は大体出て来ない(笑)。 おかしいなぁと思われる状況なのか、あるいは、既にこのときには亡くなっていたからでしょうか、わかりません。 とにかく、主イエスがヨセフとマリアの家庭で育てられ、成長していった様子を彼らは見ているのですよね。子供の頃からのことをつぶさに知っているのです。
近所のおばさんがイエスさまの姿を見て言います。 「あらまあ、ちょっと見ないうちに、こんなに大きくなっちゃって」 そういう世界です。 友人がいたでしょう。そして言われるのです。 「あっ、俺あいつ知っている。あいつが、幼稚園の時、ドブにはまって泣いているのを、助けてやったことがあるよ」「駄菓子屋でおごってやったこともあるんだぜ」
そういう恩着せがましいことばで言われて、故郷の人々は公の生涯に立つ前の、昔の以前のイエス、ナザレのイエスしか知らないのです。 ある意味、イエスさまのイメージが全くその時以来、変わっていないのです。これは私たち責められないのです。
今日は三浦Uちゃんが来ていますけれども、ほんとに見るたびに、「あらもう大きくなって」と言わざるを得ないです。中学生になって素敵なお嬢さんになっているのに、申し訳ないです。 あなたがたが神戸にいらっしゃる間に、「Uちゃん、どうしているだろうね」と(時々思い出す時がありました)。
そのUちゃんというのは、圭子と私は野毛山動物園に2回ぐらい連れて行きました。 もう3歳ぐらいで、秋の寒い頃、Uちゃんはずーっとしゃがんで何しているのだろうなと思ったら、一生懸命ドングリを拾っているのです。 ジャンバーなんか脱いでしまって、「先生ドングリ上げる」と言って来るのですね。 圭子が手洗いに行って、自分の目に見えないと、「けいこちぇんちぇいは?けいこちぇんちぇいは?」って。そんなに僕じゃ不安かって……(大笑)。
そういうイメージというのは頭に焼きついていて、離れないのです。 つまり、三浦Uさんはどんどんきれいなお姉さんになっているのに、私の頭の中ではそのドングリを拾っている姿が焼き付いてしまっている。
ナザレの郷里の人々は、イエス・キリストの幼い姿が焼き付いてしまって、それ以上成長していかない。私たちは今日、このテーマを考えていただきたい。
例えば、自分はクリスチャン・ホームに育って、とても厳しい教会学校の先生だった。とっても厳しい教会学校の先生というのは、私は高津教会で育ちましたから、ああ先生って厳しいなぁってのがあるわけです(笑)。 そして何かすると、「そんなことをしていると地獄に行くわよ」(大笑)と言われる。それはもちろん親からもそういうことを言われたし、子どもにとっては、一番分かりやすい。 「イエスさまは愛のお方でね、イエスさまはあなたを赦してくださってね……」と言われるよりも、「そんなことをしているとね、神さまが罰を与えるよ」という方がはるかに頭に入り易いのです。 そして教会学校の先生は時にそういうことを言って、子どもに神なる存在を教えるのですけれども、そのイメージが全然成長しない。大人になっても、そういうイメージで私たちは生きてしまうのです。
2)とっても考えさせられます。 つまりアドベントの第1週に、マリヤのようにイエスさまを見る目、イエスさま観、イエスさまイメージというものをどれぐらい大きくできるかで、今年のクリスマスの恵みが決まっていくのです。
皆さん、世界のニュースメディアの先頭に立っているのは、どこかわかります? それは言うまでもなく、CNNです。創立されてわずか40年にも満たないと思います。1990年の湾岸戦争までは、小さなケーブルテレビにニュースを配信していただけです。
それが、あの湾岸戦争の時、空爆を行うので、西欧のすべてのメディアがイラクから撤退するように言われていたときに、CNNだけはTVカメラと発信機をホテルに隠し持って、真夜中に爆弾が落ちてくる状況、空爆の生中継をつぶさに世界中に発信して、一躍マスコミのトップに躍り出ます。 創設者はテッド・ターナー、1991年にタイム・マガジンが、Man of the Yearに選んだ人物です。 彼の父親は億万長者の実業家でした。ヨットで遊んで、50歳で広大な土地に大邸宅を建て、財を尽くしました。 しかしこれほどの成功にもかかわらず、この父親は53歳で自殺をします。
その息子、CNNの創設者テッド・ターナーが53歳に近づいたとき、彼は自分もまた父親のように悲劇的な死を遂げるんじゃないだろうかと強迫観念にとらわれます。 彼にとっての最大の恐怖は、死の恐怖となり、彼は心理療法を繰り返し、ありとあらゆる薬を飲むようになります。
若い頃テッドは、宣教師を志していました。しかし、20歳の時に信仰を失います。神さまが生きておられるなら、どうしてこんな姉さんの病を許しておられるのだろうと、難病に苦しむ姿を見ながら、信仰を失うのです。 かつて宣教師になりたいと、自分が燃えていた聖書の確信を捨てます。
そうして父親のようになることに追い立てられながら、同時に父親のように死んでしまうのではないか、という恐怖におびえながら生きるようになります。
人間はだれも、信仰が萎えてしまうことは事実です。信仰を捨てるようなことがあることも、確かです。 でも、このテッド・ターナーを見ているとよ〜くわかります。 彼が持っていた熱心な信仰は、結局教会学校の頃から何ら成長することがなかったということです。 なおかつ、その信仰の背後には、彼自身の神観、神イメージというのがありまして、どこか、自分の父親と重なっているのです。 神さまというお方は、支配的で、いつも見張っていて、怒鳴り散らして、自分の欠けに厳しく要求を突きつけてくる、パリサイ人のような神観で、彼は教会学校時代に育ち、それを背負って宣教師になろうとし、やがて自分の姉の苦しむ姿を見て、彼は信仰的に挫折してしまいます。
自分の神観、それはなかなか難しいです。それはどんな形で聖書から学び直しても、幼い頃にすりこまれた神観はどこか離れない。 テッド・ターナーは、父のように成功を追い求め、そして父の死を恐れながら、精神的に病んでいきます。 成功をして、社会的には認められますけれども、彼の精神は子どものようでした。 そして、その根底に――彼が神さまのことをどう思っているのか、イエスさまのことをどのように考えているのか――それもまた、子どもの頃から何ら成長していませんでした。
イエスさまの故郷ナザレの人々の反応に、そしてテッド・ターナーに、私たちの姿を映し出し、考えさせられます。 この人は大工ではありませんか――恐らくこれが一番最初に聖書を読んだ時の印象でしょう。 この人はユダヤ人ではありませんか――そうです。 この人は素晴らしい教えをなさった――でもこの人もまた人間ではありませんか。 故郷の人は誰一人として、イエスさまの前にひざまずくことはない。 でも多くの他の人々はイエスを礼拝し、イエスは何の躊躇もなく、その礼拝をお受けになる。
私たちはイエス・キリストというお方を感動的に信じている。その感動が増し加えられていくクリスマスであってほしい。 それが、クリスマスの音楽を聴き、あるいはキリスト教の建築を見、キリスト教的な映画を観、キリスト教の復活の話を読みながら、私たちのイエス観というものが、どんどんどんどん膨らめば膨らむほど、私たちは、あぁこんなはしためにも目を留め、救い出してくださるイエスの恵みを深く理解するようになります。
イギリスの聖書学者でJ.B.フィリップスという人物がいます。何が一番有名かと言うと、自分ひとりで聖書を翻訳したフィリップス訳というのがあります。 彼は1950年以前の人間ですけれども、今に至るまで、どんな牧師でもフィリップス訳は参照することになります。 彼の書物に、「あなたの神は小さすぎる」(Your God is too Small)があります。
御利益信仰のように、何か私たちの願いだけを叶えてくださり、その願いが叶えば、それで神さまとのつきあいも終わりであるかのような、どこか自分の人生の外側にいる神。 あなたの神は小さすぎる。 厳しい目つきで、私たちを見張り、私たちの人生を支配し、罪に対しては罰を、善行に対しては祝福を。 あなたの神は小さすぎる。 天地を造られた神は、そんなことに目くじらを立てて、あなたを追い回すわけではない。
試練に納得がいかなければ、信仰を捨てる。 あなたの神は小さすぎる。 神は、あなたの羊飼い。あなたを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴い、しかし時には、共に死の陰の谷を行き、あなたが敵の前に立つときには、あなたのために食事を整える。(***詩篇23)
あなたの神は小さすぎると言われれば「はい(その通りです)。」 どうか、ガブリエルがマリヤの前に現われたように、私の前にもあなたの使いを送り、私のイエス・キリストを思う思い、聖書の世界、神の力、その恵みの大きさ、とことん私に付き合ってくださる神の愛、それをもっと深く解ることができますように、どうか私の信仰を大きくしてください――これが私のアドベントの祈りです。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、どこかであなたの愛に甘えている自分がいます。どこかであなたの厳しさに怯えている自分もいます。どこかでこういう問題は解決してもらえないだろうと、信仰を控えている自分もいれば、どこかでみ業がなされないことに失望している自分もいるでしょう。
私たちは聖書に描かれている神さまを、隅から隅まで知り尽くすことはできません。でも栄光の座を捨て、身を低くし、私たちの痛みや悲しみ悩みを分かってくださるために、馬小屋で生まれ底辺の生活をし、そして何よりも私たちの罪を背負い十字架にかかり、死に至るまで従順であるとはどういうことなのかを教えてくださり、そして私たちの勝利のために死を打ち破って下さったあなた、私たちは至る所でイエス・キリストを拝することの大切さを知っています。
ですから試練の中でもあなたを拝することができるように、また祝福の中でも、心からあなたを拝することができるように私たちを導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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