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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   モーセの祈り(2)――とりなしの祈り(シリーズ13)
礼拝:モーセの祈り(2)――とりなしの祈り
     出エジプト32:1ー6、25ー34

 モーセの祈りです。四〇歳までエジプトの王宮でプリンスとして過ごし、八〇歳までミデヤンの荒野で遊牧民として過ごし、八〇歳にして荒野で神の声を聞き、その後、奴隷として苦しんでいたイスラエルの民をカナンの地に導き上るために、荒野を民を率いて旅するモーセです。彼は、荒野のどこにあっても、彼はいつも会見の天幕を張り、神に祈りました。彼の、壮大で孤独で、挑戦と混乱に満ちた人生のどのページを開いても、そこには神との会見の天幕、祈りの場がありました。そのモーセの生涯で、最も尊い祈りを、今朝いっしょに学ぼうとしています。
 最も尊い祈りとは、モーセが、を犯し神に逆らって立つ民と、その民を裁いて滅ぼしてしまおうとされる神との間に立った、とりなしの祈りです。詩編一〇六・二三では、それを「モーセが、神の御 前の破れに立った」と表現しています。ダムに亀裂が入ったように、今この破れの部分から、民の上に神様の裁きが下ろうとしています。その裁きの水圧を自分自身の身体で塞いで、破れをふさいで、とりなしているのです。

 破れの狭間に立つモーセの姿は、四段階で描かれています。
1)まず最初に、理性的な、寛容なモーセです。民は、モーセが、シナイ山に登って、神様から十戒を受けているときに、荒野で急に不安になったのか、あたかもモーセが死んだがごとくに、あたかも神がおられないかのごとくに、好き放題の行動に出ます。民はアロンのところに来て願いました。
 一節「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから」
 民は、アロンの指示で、民の間からエジプトから出てくるときに奪ってきた金のアクセサリーをはずさせ、それを溶かして金の子牛を作ります。
 六節「翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民は座っては、飲み食いし、立っては、戯れた」
 あの紅海を二つにわけた奇跡的な神様の救いを見て、まだ数週間しか経過していません。その彼らが、いとも簡単に神を捨てたのです。
 シナイ山にいたモーセには、麓で何が起こっているのかわかりません。まず、事態をご覧になったのは、神です。
 七節「主はモーセに仰せられた。『さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから』」。
 これに対して、モーセは、実に理性的に寛容に嘆願します。
  一一〜一二節「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。……どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください」
 非常に理性的です。あたかも神を諭すかのように静かに落ち着いて訴えています。モーセのどこにそんな余裕があったのでしょうか。実は、ここで冷静に振る舞えたのは、モーセが罪の実態、罪の真相を見ていなかったからです。

2)第二段階で、民が偶像の周りで戯れる姿を見たとき、罪の現場を見たとき、モーセは、完全に理性を失いました。
 一九節「宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった」
 この十戒の板がどれほど神聖で大切なものか、モーセは知っているのです。そして二〇節が語るのは、モーセの逆上した姿です。
 「それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた」。
 偶像を砕くだけでは、気持ちが収まらないのです。モーセは破片を水の上にまき散らしました。それでも気持ちが収まらない彼は、その水を民に飲ませます。そしてモーセは、この罪に陥った民三千人を処刑します。これは、神の命令ではありませんでした。モーセの独断です。
 罪の深刻さを知らなかったときは、とりなしもできました。愛をもって振る舞うこともできたのです。しかし、その本当の姿を見たとき、失望したのか、かーっとなったのか、三千人を裁いてしまいます。
 アメリカで、有名な検事がニュース特番みたいなかたちで、取り上げられていたのを見たことがあります。名前も忘れましたが、有名な人物です。彼が死刑を求刑したら、一〇人に九人は死刑となるという、敏腕検事です。ご存じの通り、アメリカの裁判は陪審員制度です。一般市民が二〇人集まって、有罪無罪を決めます。陪審員の前で、検事と弁護士が、論争を展開して、決断を促すのです。
 なぜ、その検事が死刑を求刑すると、九〇%、求刑どおりの判決になるのか。それは、彼が実際の犯罪の現場を語りながら再現するのがうまいからです。被害者が味わった恐怖、屈辱、恥辱、痛み――この検事はデータをドラマチックに語ることができるのです。それを聞いていた陪審員たちは、あたかもその現場に立ち会ったかのように、むごい事件の様子を聞かされ、そして死刑の判決を出します。
 最初、なぜ神が一〇節にあるように、強い調子で裁きを語り、モーセが一一節にあるように、冷静に説得しているのでしょうか。それは、モーセは、破れの狭間の大きさを知らなかったからです。私たちが、誰かのためにとりなして祈るとき、破れの狭間の実際の大きさはほとんど知りません。それで良いのかもしれません。
 牧師として、よく祈ってください、はいわかりました、と引き受けますが、それは多くの場合、本当の事情・実態を知らないから、大変な課題を、はいわかりましたと引き受けているのです。
 
3)第三段階は、その翌日のことです。モーセは、冷静さを取り戻しました。彼は、再び神のもとに上っていくというのです。今度は、三〇節「たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう」ととりなすために神の御前に立つのです。今度は、罪の現状を知った彼が、本当の意味で、とりなしにいくのです。三一節からこう始まります。「そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。『ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました』」。
 これが三番目の段階です。誰かのために祈る、或いは誰かの罪のためにとりなす、誰かの問題を代わって祈ってあげる場合、必ずこういう段階を通るといっても過言ではありません。

  @とりなし手である私たちは、現状を、実態を、きちんと把握せずに、とりなしている。
  A実態を見せられると、途端に祈る心も、思いやりも、冷静さも、失って、投げてしまうような弱さをもっている。
  Bしかし、決して投げないで、翌日、また主のところに戻って、申し上げる。

 もしも、人のために祈るなら、私たちは、神様とこの世界を、何度も行き来しなければならないのが、モーセを見ているとよくわかります。現状に失望しないで、課題を投げてしまわないで、もう一度気を取り直して、今度はさらに深く実態を掴んで、主のところへ戻って行かなければならないのです。

4)そして、真のとりなしをしているモーセを見てみましょう。
 三一〜三二節「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
 私たちが注目しなければならないのは、この三二節にあるダッシュ(ぼう線)です。祈りが始まります「今、もし、彼らの罪をお赦し下されるものなら−−」。そこまできて、モーセは、口を噤んでしまいました。それ以上、祈りを続けることができません。
 このダッシュが、口を噤んでいるモーセの心中すべてを語っているのです。彼らの罪をお赦し下されるものなら、と祈ったとき、モーセの頭の中に、彼らの罪が鮮やかに、そして深々と巡ってきました。モーセは祈りながら、彼らが叫んで、子牛の偶像の回りを踊って、叫んでいる姿を思い出したのでしょう。途端に、これ以上祈ることができなくなってしまいました。「神よ、もし彼らの罪をお赦しくださるなら・・・」。
 そこまできて、おそらく、モーセの頬には涙があったかもしれません。怒りや絶望があったかもしれません。ともかく、もうそれ以上、祈りを続けることもできませんでした。それが、そのダッシュの意味するところではないかと思います。
 そして、出た言葉が、「しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください」という自分のいのちを差し出す祈りです。モーセは、破れの狭間に自分のいのちを置きました。主よ、裁くなら、私を裁いてください。彼らの罪は、私の罪です。私を裁いてください。モーセは、彼らの罪に自分を重ねて、彼らの罪の結果を自分が背負ってもいいと、神に申し出ました。そこまで深く、イスラエルの実態の中にはいって行ったのです。

 当然、この祈りで私たちは、イエスの十字架のとりなしを思い起こします。
  「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」
 主は、私たちの罪に代わって御自身のいのちを投げ出すと申し出てくださったのです。この御方は、私たちの罪の現場をご覧になって、罪の実態を、その深刻さを御存知で、破れの狭間に御自身のいのちを入れてくださいました。キリストの十字架は、罪人である私たちを救うためのとりなしの祈りそのものだったのです。

 先週、エイミー・カーマイケルを引用して説教を閉じました。今週もう一度、引用します(デニス・キンロー『キリストの心で』いのちのことば社、二〇六〜二〇八頁)。

 百年ほど前、英国の若い女性が宣教師となって、インドに赴きました。彼女の名は、エミー・カーマイケル。インドに到着して船から下りた彼女を待ち受けていた光景は、あまりに衝撃的でした。とりわけ彼女の心を突き刺したのは、ヒンズー教寺院にいる少女たちの境遇でした。当時のインドには悲惨な慣習がありました。夫が亡くなると、妻も夫とともに葬儀の時に焼き殺されるのです。後には親のない子供たちだけ残されます。男の子はまだしも労働力としての価値があり、たいていは親戚に引き取られますが、女の子は引き取り手がないのです。行き場もなく、やむなく寺院に引き取られ、神殿娼婦として扱われるのです。エミー・カーマイケルの胸は激しく痛みました。
「あの子たちを寺院から救い出してあげられたなら、人生を変えてあげられるのに」
そう思い立った彼女は、孤児院を設立し、寺院に住み着いている少女たちのために学校を開きました。
 もちろん、寺院の祭司もおとなしく見ているわけがありません。祭司はまずヒンズー教徒の実業家に訴えます。
「あの外国の女をなんとかできないものか」
 ヒンズー教徒の実業家は、英国人実業家に訴えます。
「あなたの国の女が、厄介な問題を引き起こしている」
 英国人実業家は、母国の宣教師たちに訴えます。
「宣教師のひとりが、地域で問題を引き起こしている。彼女のやっていることを止めさせてくれ」
 そこでエミーの同僚が説得に訪れました。
「もう手を引くべきじゃないでしょうか」
「そうしたら、あの子たちはどうなるのでしょう?」とエミーは聞き返しました。
「かわいそうですが、これは私たちの問題ではありません」
 エミーはそのとき、学校から奪い去られた少女を取り戻すために、ある寺院と交渉中でした。神殿の祭司といえば宗教家です。彼女は人間としてあたりまえの慈悲とあわれみくらいは持ち合わせているだろうと期待して、祭司と面会し、女の子を帰してくれるように訴えました
「もしあの女の子をあずけてくれるなら、私が教育します。そうすれば、きっと彼女も祖国インドのために何らかの貢献ができる大人に成長するでしょう」
 しかし、祭司の頑なな表情と冷ややかな目は、返事が「ノー」であることを物語っていました。少女は寺院の貴重な財源になるのですから、そう簡単には手放せません。エミーは絶望に突き落とされました。もはや彼女の味方はひとりもいませんでした。
 エミーは部屋に戻ると、ベッドのかたわらにひざまづいて祈りました。
「主よ。できる限りのことはすべて尽くしました。でも助けられないのです。お手上げです。これはもう私の問題ではないのです」
 そのとき、突然エミー・カーマイケルは主を見ました。主はひざまづいて祈っていました。ゲッセマネの園のオリーブの木の下ではなく、インドのタマリンドの木の下で。主の頬を涙がつたっていました。イエスは彼女を見つめておっしゃいました。
「そうだよ。エミー。あなたの問題ではない。あなたの重荷でもない。わたしの問題、わたしの重荷だ。けれども、エミー。わたしはその重荷を共に担ってくれる者を探しているのだ」
 彼女は立ち上がると、少女たちを救うための貴い働きに戻りました。何百という少女が、エミーによって無学と病と神殿娼婦の生活から救い出されたのです。

 とりなしの祈り手になるということは、こういうことでhないでしょうか。破れの狭間に立ちますが、破れの大きさに気づけば気づくほど、問題の大きさが分かれればわかるほど、間にはいることもできず、祈ることもできず、厄介な複雑な重い問題に圧倒されるばかりです。そして思うのです。これは、私たちの関わる問題ではない、私たちの力量をはるかに超えていると。しかし、その問題を、私たちは避けて通れても、罪に深く折れ曲がってしまった世界を、神と会わせるために、その罪をご自分で背負った主にとっては、避けて通る問題ではありません。主は、この世界が生み出した罪の痛みを背負っておられます。そして、私たちをごらんになっておっしゃいます。
 「あなたも私とともにとりなせるか? 破れの狭間に立って」
 

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2003.05.08 - 20:41
LAST UPDATE: 2003.05.08 - 20:42

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水野登志子 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 50.99.172.207
夫の信仰回復のとりなしの祈りはどのような祈りをしたら良いのでしょうか?
2019.04.06 - 12:20 
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