12/16アドベントV:「神はあなたを忘れない」ルカ1:46〜55
☆始めのお祈り
1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。 イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。 わたしはあなたの名を呼んだ。 あなたはわたしのもの。 2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、 川を渡るときも、あなたは押し流されない。 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。 (この日の交読イザヤ書43章1〜7節より1〜2節)
恵み深い天の父なる神さま、こんな私でありますけれども、あなたは私を救ってくださり、あなたは天より、心を込めて私を形造ってくださり、なおかつあなたは、私を贖ってくださいました。 信仰をもってあなたという存在を知り、信仰を抱くにあたり、どこからともなく生まれて来た私ではなく、あなたによって形造られ、あなたによって贖われ、あなたによって導かれ、守られ、運ばれて、今年も12月を迎えることができたと実感するキリスト者であることができますように。
今年一年を振り返ると、水の中を渡ることも、川を渡ることも、火の中を歩くことも、私たちの人生であったに違いありません。イエスさま、あなたを信じていればそれらの試練とは無関係だ、とは聖書のどこにも書いてありません。しかし水の中を過ぎるときも共にいてくださる。川を渡るときも、流されないように守ってくださる。火の中を歩くときには、焼かれず炎が燃えつかないほど、あなたは御使いを送ってくださり、私たちのいのちを握りしめていてくださったことを心から感謝いたします。
私たちはクリスマスを迎えるにあたり、また一年の最後のときを迎えるにあたり、振り返ってみますと、そこかしこに、辛い大変な出来事があり、でもどこかであなたに守られていたということを実感しています。その感謝にあふれた12月でありますように。
そして再び、私のために、私を愛するがあまりにいのちをお捨てになったイエス・キリストの愛を心に受け、「わたしの目には、あなたは高価でたっとい。わたしはあなたを愛している」(同4節)と、神のご愛をひしと感じるような日を、時を与えてください。それが礼拝でありますように、今日の一日を祝福してください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。
☆聖書個所 ルカ1:46〜55
46マリヤは言った。 「わがたましいは主をあがめ、 47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。 48 主はこの卑しいはしために 目を留めてくださったからです。 ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、 私をしあわせ者と思うでしょう。 49 力ある方が、 私に大きなことをしてくださいました。 その御名は聖く、 50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、 代々にわたって及びます。 51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、 心の思いの高ぶっている者を追い散らし、 52 権力ある者を王位から引き降ろされます。 低い者を高く引き上げ、 53 飢えた者をよいもので満ち足らせ、 富む者を何も持たせないで追い返されました。 54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、 そのしもべイスラエルをお助けになりました。 55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に 語られたとおりです。」
☆説教 神はあなたを忘れない
12月のアドベントに入りまして、3回連続でルカの福音書の1章の、このマリヤの賛歌から見ていただきました。
第1回目は46節のマリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ」。今年のアドベントで期待されていることは、神を見る私たちの小さな目が少しでも大きくさせていただいて、神さまに大きなことを期待するような信仰者となることができるように。 主を崇めるためには、自分の課題で自分の視界が閉ざされていないで、私たちを愛し、私たちを形造ってくださった大きな神を見続けるような信仰でない限り、主を崇めるということはできないということ(を学びました)。
第2回目に学びましたことは、先週でありますけれども、53節「富む者を何も持たせないで返される」神。クリスマスに向かうアドベントとは、神の前に低い姿勢を取ること、遜ること、悔い改めること。私たちは到底富む者の姿勢では、神の前に立つことは意味が無い。神さまは傲慢な富む者の姿勢を持つ者を、何も持たせないで返される、そういうクリスマスとならないようにという話をしました。
第3回目の今日は、このマリヤの賛歌の中から48節をご覧ください。48節、ご一緒に読みたいと思います。
48 主はこの卑しいはしために 目を留めてくださったからです。 ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、 私をしあわせ者と思うでしょう。
もう一節読みましょう。54節。
54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、 そのしもべイスラエルをお助けになりました。
ちょっと見ていただきたいのは、48節の「主はこの卑しいはしために目を留めてくださる」と、54節の「その憐れみをいつまでも忘れない」――これがマリヤの賛歌に歌われている、私たちがどうしても捉えなければいけない神さまの愛です。 この方は、私に目を留めてくださる。この方は、私のことをいつまでも忘れない。
3つの短いポイントで学んでいきたいと思います。
1)長い間の沈黙、忘れ去られたかのような沈黙
このマリヤの賛歌が出てくるまでに長〜い間の沈黙がありました。長〜い間の沈黙というのは、すなわち忘れ去られたかのような沈黙です。
旧約聖書のマラキで神が最後にイスラエルに語られてから、なんと400年、神の言葉はありませんでした。 (福音書の)400年前の、旧約聖書最後の言葉をご覧ください。マラキ書の4章の5節から6節、ちょっとこれは開くのは簡単ですから、私が5節を読みますから、みなさんで6節を読んでください。
5 見よ。わたしは、 主の大いなる恐ろしい日が来る前に、 預言者エリヤをあなたがたに遣わす。 6 彼は、父の心を子に向けさせ、 子の心をその父に向けさせる。 それは、わたしが来て、 のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
ここに出てくる――預言者エリヤをあなたがたの前に遣わす――これが、バプテスマのヨハネでありました。この預言者エリヤは、バプテスマのヨハネは、救い主の到来のために道を備えて刑死しました。 マラキ書のこの預言からバプテスマのヨハネが現れるまでに、何と400年の歳月を要します。 400年の歳月とは一体どういう歳月か?それは今からさかのぼれば、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本に持ってきた室町時代を過ぎて、そして豊臣秀吉によるキリスト教の弾圧が始まる頃です。ざっと考えてよいのではないでしょうか。
400年間です。その400年間神のことばはありませんでした。400年の間に一体何が起こったのか?イスラエルの人々はバビロンに捕囚にとられ、次に建てられた神殿はものすごく小さく、そして国は依然としてペルシャの支配下にある。 400年の間にダビデの王国の再建のために、何度かマカベアによる革命のような、反乱の出来事がありましたけれども、いつでもギリシャにつぶされ、ローマにつぶされ、どこまで行っても、ダビデの王国の再建は叶うことはありませんでした。 そのことをマリヤはよ〜く知っている。
そして400年経ったある日、天使ガブリエルがマリヤに現れたのです。 マリヤは、自分が受けた祝福を個人的なものとは考えずに、これが民族全体への憐れみであることを悟りました。 ルカの福音書の1章に戻っていただきますと、先程54節を読んでいただきました、「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました」(***とイスラエル全体への主の顧みと捉えています)。
クリスマスのテーマは、「主は覚えておられる」。待ちこがれた人々を覚えておられる。でもそうは思えない、数百年という歳月がある。 新約聖書のUテモテ2:13に「私たちは真実でなくても、主は常に真実である」とあります。あるいは、Tペテロ2:6(***ローマ10:11も)「彼に信頼する者は、失望させられることがない」と。でも私たちは往々にして失望するのです。
聖書の中には、神さまに忘れられたような出来事がいくつも記されています。
●例えば、子どもが与えられ、子どもの数が空の星のように増えて、大きな民族となるとアブラハムは約束を与えられます。 しかし、99歳になるまで、神さまはまるで、そのお約束をお忘れになったかのように沈黙され、一向に子どもは与えられませんでした。
●ヨセフは、エジプトに売られ、ポテパルの妻にはめられ、牢獄で2年。何の動きもない牢獄。そこに入ってきた王の献酌官長を助け、彼が出獄するときに、ヨセフは言います。「どうか私のことを忘れないでください」。 でも、献酌官長はすっかり忘れていて、実際には約2年、ヨセフは忘れ去られるのです。
●ダニエルは、バビロンに捕囚に取られて、一生涯、その地でバビロン、メディア、ペルシャの帝国に仕えます。 彼は一生涯故郷に帰ることはありませんでした。 彼の部屋の窓はいつもエルサレムに向けて開かれて、祈りを続けていました。 しかし、彼という人物とその境遇は、イスラエルの歴史から忘れ去られたようでした。
「神はあなたのことを忘れない」と書いてありますけれども、聖書の中の人物は神に忘れ去られたかのような経験を、みんなしているのです。
●新約聖書には、パウロの手紙がたくさん収められていますが、エペソもピリピもコロサイもテモテも、彼が牢獄から書いた手紙です。 かつてパウロは、伝道旅行でトルコ、ギリシャと何度も巡り、いくつもの教会を建てて行きます。しかしエルサレムで捕らえられて牢獄に2年以上、その後ローマに護送され、また牢獄で、その後のことは聖書には書いてありません。彼は忘れ去られていくのです。 いったい、いつまで待つのでしょうか。 私たちは、いくらなんでもこの人生ですから、400年は待てません。 しかし、長い沈黙を味わうことがあり、そのとき、私たちは1年が400年に感じることもある。
私たち皆そうですよ。例えば、一カ月自分が取り組んでいる課題が全く打開していかない。自分の苦しみが取り除かれない。それはあたかも、旧約聖書一番最後のマラキ書から新約聖書のルカの福音書のマリヤの賛歌に至るまで、400年という歳月があるのです。それは信じられないような歳月ですけれども、実は私たちの人生でも、長いなぁというような歳月が、何年この状態から抜け出すのにかかるのだろうかと(思うような時があります)。
最初のポイントはマリヤはさらっと歌っていますけれども、しかし、イスラエルの歴史の中では長〜い間忘れ去られたかのような、神さまの沈黙があったということです。
2)目を留めてくださる
「目を留める」とは、じっとその人を見ることですね。それ以上に、私はふと思ったのです。その人物が全体から浮き上がる、ということでしょう。その人物がみんなの中に埋もれていないのです。
私は皆さんのご理解をいただいて、大学で講義をしていますね。大学で講義をすると辛いことは、一方通行ですから、聞いてるのか聞いてないのか解らない(笑)。恐らく聞いてないのだろうと思います。
ある時、いのちのことば社の社員の方にアンケートを頼まれまして、それは青学ですが、学生にアンケートをとって、一番人気のあるクラス、一番面白いクラス、一番役に立つクラス、一番簡単に点が取れるクラス(笑)と。私はどれも3位の中に入りました。
キリスト教概論が、一番役に立って一番面白いというクラスの3位の中に入るのは、珍しい。でもその一番楽なクラスの3位に入っているのは、いかにも藤本らしい(笑)。めんどくさいから全部Aをつけてあげる(大笑)。途中で面倒くさくなっちゃうんですね。実際150人ぐらいいますから。
私は一つの使命感を持っていまして、自分のクラスから一人も脱落者を出さない。来ない奴でも、レポート・様々な形で埋め合わせをして、――親の気持ちになってごらん。君がこのクラスをとるために親は一体いくら払っているか(大笑)。にもかかわらず、君はたかだか自給1000円のアルバイトに精を出し、結果的にこのクラスを落とし、それは親からもらったお金をどぶに捨てているようなものだ――そんな説教ばかりしているのですが(大笑)――だからいつでも僕は君を通すと。いつでも通すと。
甘くしますとね、だんだんだんだん、聞かなくなるのです。話を聞かなくなる。どうせこの先生通してくれるから。 最初は新鮮に見えるのですけれども、講義を重ねていくうちに、私の話もつまらないのでしょう、クラスが沈んでいくのがわかるんです。沈んだクラスで話すことほど厄介なことはない。沈んだ教会で説教するほど(大笑)しんどいことはない。 一生懸命、少し心を緩んでもらうために、面白そうな話をするんですけれども、ピクリとも動かないんですね(大笑)。堅いんですね。いったい、岩のような教会で、どうしたらそのたましいにみことばを届けるか、もう苦心して苦心して、汗を流す教会もある。 ところが岩のようなクラスで、数名顔を上げて聴いているのです。すると、申し訳ないんですが、その人ばかり見て話をしちゃうんです(笑)。 神さまだって、そういうことでしょう。私たちは岩のようにしています。私たちをどんなに愛しておられても、私たちは目を留めないのです。 しかし、その中から数名、顔を上げている者に神さまは目をお留めになる。
これが一番よくわかるところがありますので、ちょっと見ていただきたいと思いますが、Tサムエルの9章。 そこを開く前にTサムエルの1章の11節をちょっと見てみましょう。ここにハンナの祈りが出て来ます。 このハンナの祈りをかなりの部分借用して、マリヤは自分の祈りに変えた。ですからマリヤの賛歌は、元になっているのはこのハンナの祈りですが、11節をご一緒に読みたいと思います。
Tサムエル1:11そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
ここに「心に留め」とありますでしょう。ハンナは神さまの顧みを望んで一心に祈っていた。祭司エリがこの女はお酒に酔っ払っているんじゃないかと思うぐらい、講壇に伏して微妙に身体を揺らしながら一心に祈ります。 その一心に祈っている彼女に、神さまは目を留められるのです。 9章の16節に、ことばは違いますが、「心を留める」と同じことばが出てきますので、ご一緒に読んでみましょう。
同9:16「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。民の叫びがわたしに届いたので、わたしは自分の民を見たからだ。」
最後の「わたしは自分の民を見た」というのが、「わたしは自分の民を心に留めた」(ということ)。なぜか?民の叫びがわたしに届いたから。
この世界で神さま、イエス・キリストを知らない人は、神さまにとって岩のようです。皆顔を上げない。 しかしもし、私たちが真実に叫び声を上げるときに、私たちの内側から、「私に目を留めてください。この私に目を留めてください」というオ―ラが出るのです。 この祈りのオーラに神さまは敏感に反応してくださり、そして何百人いようとも私に目を留めてくださる。そして私の祈りに耳を傾け、私の声に耳を傾け、私を見てくださる。
神さまは憐れみ深い方だから、あなたに目を留める。そうでしょう。でもそれだけではない。私たちが神さまによって心を、目を留めていただけるようなオーラを発することです。私に心を留めてくださいと一心に神さまに向かうことです。
3)忘れない
ルカの福音書にもう一度戻っていただいて、(1章)54節。 「主はそのあわれみをいつまでも忘れない」――これがなんと言っても、クリスマスの希望ですね。 そのことを分かり易く説明しているのが、サンタクロースではないかと私は思っています。 サンタクロースはイエスさまに敵対する概念だと思うと、まぁ確かに、世の中ではイエスさまよりサンタクロースの方が知られていますので、あるのかもしれませんが。 でもサンタクロースほどクリスマスのスピリットを表わしているものはない。もちろんそれがギフトであるとか……。こういうことだろうと思います。
サンタクロースは、歴史的な人物に基づいています。 その名は、セント・ニクラスで、紀元280年に、今のトルコで生まれ、9才の時に両親を疫病で亡くして、キリスト教の道に入る。 やがて修道士となって、ギリシャ哲学に通じ、キリスト教神学を学び学者になる。
彼の近所に貧しい家があり、そこに3人の娘さんがいた。 そろそろお嫁に出さなければならない。しかし、その支度金を貧しい親は準備することが出来ない。 それを知ったニクラスは、ふびんに思って、夜こっそり、少しだけ窓を開けて、数枚の金貨を上げる。 彼は、次の夜、そしてその次の夜、ふたりの妹さんのために、同じように金貨を上げる。
このセント・ニクラスの伝説というのはずぅっと続くのです。 やがて宗教改革の少し前になります。果物いっぱいのかごを下げているおじいさんの姿をしているのは、このセント・ニクラス、サンタクロースで、残っています。 それがもうしばらくしますと、ひげを生やし、赤い帽子をかぶって、赤い服を着て、お菓子の袋を背負うようになる。 それがやがて、そりに乗るようになる(笑)。時代の進歩と共にそりに乗るようになる。そして世界的な有名なキャラクターになるのは、コカコーラがイメージキャラに使うから。
もしこのサンタクロースが、ここに現れて、クリスマスの時期に講壇に立ったら、何を語ってくれるのだろうか。 先ず、こういう問いかけから始めるに違いない。 君たち、私がどうしてこんなに人気があるのか、分かるか? 私ほど人気のある人はこの世界にいないだろう。もしかしたらイエス・キリストの人気を上回るかもしれないよ(笑)――と、サンタクロースはそう言うでしょう。
不思議とは思わぬか、どうしてこんなに、年に一回しか出て来ない私に人気があるのか? 私の人気の背後に、世界中の子どもたちの、いや世界中の人々の願いがある。 その願いとは、 *長い長〜い旅をして、万難を排して、愛の贈り物を届けてくれる友。 *裕福な家庭の子どもにも、貧しい家庭の子どもにも、何の差別もなく、暖かな思いを抱いて、毎年忘れずに、一度君のところにやってくる。 *サンタクロースは君が欲しいものをよく知っている。そして間違いなく、その晩、君のところへ来てそれを君にくれる。 子供はみな思うんです。 本当に来てくれるの? 家には煙突もないのに(笑)。 大体お母さん、雨戸閉めてるじゃない。サンタクロースのために少し雨戸開けといてと言いますね。 大体僕の家を知っているのかな?最近番地が変わったというのに(大笑)。友だちにだって知られていないのに。こんな小さなアパート。 僕の誕生日を覚えてくれている人なんか、いないんだ。お母さんだって忘れているじゃないか(笑)。そのサンタクロースが、僕の欲しいものなんかわかるの?――子どもは思うんですね。
解っている人がこの世界にひとりいてもいいじゃないか−―それがサンタクロースです。そのあたりで、サンタクロースはセント・ニクラスに戻ってこう続けるのです。 ――その子どもたちの願いを、人類の願いを、本当に受け取ることができるのは、私ではない。イエス・キリストだ。 万難を排して、君を捨てずに、君を愛し抜くお方はキリストしかいない。このお方はあなたのことをいつまでも忘れない。
だから、私たちは「私のことを心に留めてください」というオーラを、信仰のオーラを発するのです。そしてこの方は、今年のクリスマスも、私たちを憐れむために、天から下ってくださる。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、この世界でいったい誰が私のことを覚えているだろうか。小さな粗末な苦労多き人生の中で、いったい誰がと思いますが、あなたが私のことを覚えていてくださることを感謝いたします。
時にまるで400年間と思うぐらい長〜い間、同じ課題と格闘しているような場合があります。でもクリスマスが一つの突破口となりますように、あなたが導いてください。私たちの祈りと願い、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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LAST UPDATE: 2012.12.17 - 15:38 |
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