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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   心は不思議に燃え
心は不思議に燃え

 ルカ19:1−10
それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」


 昨日5月24日、ウェスレーがイエスさまを信じて救われた日。青山学院で、日本基督教団のメソジストの教会とともに、記念礼拝がありました。
 1738年5月24日から始まって、ウェスレーは馬に乗って英国中を伝道し、野外で説教し、人々をキリストの救いに導き、やがてメソジスト教会の波はアメリカに、アフリカに、アジアに日本に広がりました。現在、ウェスレーに連なるクリスチャンは9千万と言われています。ウェスレーの信仰のもとに設立された学校、大学、病院、貧しい人々の施設は数え切れないでしょう。
 しかし、1738年5月24日以前のウェスレーは、敗北者でした。オックスフォードを卒業、しばらくして助教授になった彼は、信仰に目覚めて、聖く生きることを志した熱心な学生を集めて、神聖クラブを設立して、指導します。その活動だけは、いまだ神の御心にかなわないとせっぱ詰まった思いで、思い切って、いのちをかけてアメリカのジョージアに宣教に出かけます。文明の影響に染まっていない原住民に伝道して、なんとか福音の純粋な力を自分も体験したいと努力の限りを尽くしました。
 しかし、彼の牧会は必ずしもうまくいきませんでした。英国国教会の司祭ウェスレーは、未開地アメリカでは融通の利かない、堅物でしかなかったのです。生まれてまもない赤ちゃんの幼児洗礼を浸礼で行うとして、周囲の批判をかいます。彼は愛のない、まじめな司祭に過ぎませんでした。やがて、恋人であったソフィーとゴールインできず、その腹いせであるかのようにソフィーを聖餐式から閉め出し、裁判に訴えられ、自宅軟禁を強いられ、やがて夜逃げ同然で英国に帰ってきます。
 英国の港に着いたウェスレーは、日記にこう記しました。「私はインディアン族を回心させるためにアメリカに行ったのだが、ああ、だれが私を回心させてくれるというのだ」。
 ウェスレーが地の果てまで行って学んだことは、自分が深い罪人であるということ。彼には教育も学歴も職歴もありました。しかし、アメリカの最も素朴な人々でさえ彼を拒み、牧師でありながら彼らの信頼を得ることはできず、失意の底に英国に逃げて戻ってきます。ウェスレーは孤独にさびしく、船の甲板から神を見上げていました。
 
                        ●ザーカイの心境
 
 その心境は、ここに記されているザーカイのように惨めでした。ザーカイは、2節に「金持ちであった」と記されています。取税人という職業は、当時ローマ帝国の植民地であったユダヤの世界で、ローマ帝国は税金の徴収を自分たちでやらず、ユダヤ人を雇ったのです。普通の人が就く職ではありません。しかし、ザーカイがそうした職に就く背景や理由があったことでしょう。貧乏からはい上がるためか、家族を養うためか、わかりません。背の低かった彼をギリシャ語では「ミクロス」と表現していますから、彼には身体的なハンディがあったのかもしれません。しかし、そんな背景はだんだん消えさり、同胞の反感を買いながら、彼はだんだん孤立していきます。
 このエリコの町をイエスさまが通過されます。ザーカイは珍しく純粋な思いで主を見たいと考えました。一生懸命に見ようとしますが、人垣が邪魔をして見ることができません。自分のしてきたことに対して、人々は冷たく彼に当たりました。ザーカイには家族があり、召使いがあり、部下がいます。しかし、そんなことは今の彼にとって何の意味もありませんでした。つまはじきにされ、無視され、一人木に登るのです。
 持っているようであっても、実は何にも持っていないのです。豊かであるかのようで、実はまったく豊かではないザーカイです。せっぱ詰まった、限界の人生を下を向いて生きていたのがザーカイであり、ウェスレーでした。

                 ●イエスの御心

 すると、5節「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われました」。この世界からはじき飛ばされ、それでも、がんばって、神を仰ぐようにイエスさまを見ようとしたザーカイの、真下に来て、ザーカイの人生を下から支えるように、声をかけられたのです。

「ザーカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから」

 「泊まることにしてある」――独特な言い回しでです。この日、ザーカイはたまたまイエスさまが来られることを知って、一目みたいと思って、人垣をかき分け、それがだめで木の上にのぼり、そして目があったのです。これ以上の偶然がありますでしょうか。ところがイエスさまは、それが偶然ではなくして、神の摂理の中にあった、それは予定されていた、そう決められていた、という物の言い方をされます。
 ルカは、これを言うために、一つの特徴的な表現を使いました。同じ表現が、他の箇所にも出てきます。
 4:43「しかしイエスは、彼らにこう言われた。『ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。』」
 「どうしても、……しなければなりません」――これが「泊まることにしてあるから」と同じ表現です。イエスさまがこの世界に来られた、どうしても、村々、町々をめぐって、どうしても福音を宣べ伝えなければなりません。それと同じような必要性をもって、「どうしても、ザーカイ、あなたの家に私は泊まる」とおっしゃるのです。
 9:22「そして言われた。『人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。』」
 「人の子は、……ねばならないのです」。
 13:33「だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』
 「わたしは、……進んでいかなければなりません」。
 この二つでイエスさまは、十字架が神の定めであることを明確に宣言されます。世のの罪を救うように父なる神が御子イエス・キリストに与えられた定めです。それと同じ定めをもって、主はザーカイにおっしゃいました。「私は、あなたの家に泊まらなければならない」と。
 イエスさまは、私たちを罪から、死から救うという一つの目的を目指して、「今日も、明日も、次の日も進んでいかなければならない」とおっしゃいました。その壮大な目的と平行し、それと同じレベルで、ザーカイにお会いになっておられるのです。
 しかも、それは「今日」でした。それは、この出会いで、ということです。この出会いで、わたしはあなたを離さないとおっしゃいます。神の救いの歴史を動かす、非常に大きな動きの中で、今日は、あなたの家に泊まる計画だ、今日は、あなたのことにかかわる予定だということです。

                 ●心が温められる

 人々に押しのけられ冷たい目で見られていたザーカイを、ここまで心にかけて追いかけ、探して、泊まる、とおっしゃた主は愛は、この夜、ザーカイの心を温めました。イエスさまはおっしゃいました。9節「この人も、アブラハムの子なのだから」。「この人も、神の子どもなのだから」――実のところイエスさま以外、だれも彼のことはそうは思っていないのです。だから放っておきました。しかし、イエスさまはそうは考えませんでした。「あなたも、実は神の民なんだ、愛された神の子どものなのだ」とおっしゃいます。
 「この人」の中に、この「私」もが入っているのです。そして、ウェスレーも自分がその中に入っていることを確信しました。
 1738年5月24日の夜九時、説教を聞いていた彼の心に主の愛が差し込み、あふれました。
 「私は、救われるためにキリストに、ただキリストにのみ信頼した、と感じた。神が私の罪を、この私の罪さえも取り去ってくださり、罪と死の律法から救ってくださったという確証が与えられた」
  ウェスレーは、この日記の記述を、有名な「私は自分の心が不思議に熱くなるのを覚えた」ではじめています。心が不思議に熱くなる――ザーカイもそうだったでしょう。さんざんに無視され、冷たい扱いを受けていたザーカイ。いろいろ持っているようで、実は何にも持っていないことを自分で知っていたザーカイ。罪深い自分、いや益々罪深くなる自分を自覚していたザーカイ。木の上から呆然と神を仰ぐように待っていたザーカイの下に主は来られたのです。
 自由学園の創設者、羽仁もと子さんは「神さまほど、人に踏みつけにされるものはありません」と記しています。人間の罪の歴史とは、神を踏みつける歴史です。人の下に、人に踏みつけられたのが、十字架の主です。イエスさまは、拒絶されることも、無視されることも味わってこられた。しかし、それは私たちの孤独を知っておられるというだけではありません。
 「わたしは、あなたを救うために、あなたにいのちを与えるために、人に踏まれ、十字架にかっかった。だから、わたしの元ですべての重荷を下ろし、わたしについて来なさい。わたしは、あなたを離しはしない。あなたの家に泊まることにしてある。あなたの罪を赦し、あなたの人生を導き、守り、祝福することを決めている」と言われます。
 神に一歩でも近づこうと必死に上を見上げ、上へとのぼっていたウェスレーは、神が下におられ、自分のために、自分の罪のために十字架にかかってくださったのがわかったのです。ウェスレーは、ザーカイのように木から降りて、主の胸に飛び込みました。そのとき彼は、自分の心が不思議に熱くなるのを感じました。
 孤独な人、人生の矛盾を味わっている人、悲しむ人、つらい現実に苦しむ人の心を、不思議に温めてくださる――それが、人に踏まれるように立っているキリストの十字架、そしてそこから流れ出るわたしへの愛です。

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DATE: 2003.05.29 - 10:42

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