名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


394 133 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   12/30 年末礼拝:「救いを腕に抱き」 ルカ2:21〜35
12/30 年末礼拝:「救いを腕に抱き」 ルカ2:21〜35

☆お知らせ

●明後日、新年を迎えます。まぁそれは、よく解っていることでありますけれども(笑)、私たちの教会では、元旦礼拝を非常に大切にしております。今年も元旦礼拝のみことばをしおりにして、渡辺兄姉たちが今日用意されているのが届いています。是非元旦礼拝にお越しいただき、聖餐式に共に与って頂きたいと思います。

●先週のクリスマスの礼拝は今年初めてでした。200名を超えていました。200名を超えて、こんなにというほどびっしりの人たちでありました。
元旦礼拝も非常に混みます。それで11時からでありますけれども、遅れていらっしゃらない方がいいと思います。かといって、あまり早く来るのもなんですので、大体10分ぐらい前にいらっしゃるように心がけていただきたいと思います。
終わるのはいつもと同じ位に時間がかかるわけですが、聖餐式もありますので、ちょっと長くなりますけれども、大体遅くとも12時半には終わると思いますので、講壇が守られ、皆さんの健康が守られ、忙しい中だと思いますけれども、1月1日お待ちしております。

●1月14日(月・祝日):関東4教区合同新年聖会が行われます。場所は中目黒教会で、午後一コマだけ。その一コマの中に、2つの集会が入ります。聖会と宣教会。聖会では高橋正義兄が証しをしてくださいますので、そのことを覚えておいていただきたいと思います。

●礼拝後、元旦礼拝のために聖歌隊の練習を行いますので、ぜひ聖歌隊の方々はお留まりいただきたいと思います。

●こちらの準備室の前に、10人分ぐらい千両があります。田中姉妹が持って来てくださいましたが、(いつもの東戸塚教会のご夫妻のところからです)、一枝ずつ是非お持ち帰りください。

●愛香姉はクリスマス前に帰国しました。皆さんのお祈りを感謝します。

●新しい方々をちょっとご紹介。ちょっと立っていただきます。
・甲府キリスト福音教会のI夫妻(拍手)。甲府の教会は、私(藤本牧師)は10月に聖会の奉仕をさせていただいて、牧師先生の松村先生と大変親しく交わるようになりました。それで、先週の日曜日の、アドベント第4週のみことばは、松村先生が書いてくださいました。
・Tさんといっしょに入って来られた、(長男でございますとT姉)あ、そうですか、じゃTさんでいらっしゃいますね。(拍手)

他に帰省で久しぶりの方もいらっしゃいますし、また帰省でどちらかにいらっしゃっておられる方もいらっしゃいますが、どの教会の礼拝も同じ恵みを神さまは満たしてくださいます。

☆始めのお祈り

1わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
2わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
(この日の交読詩篇103篇1〜14節より1.2節)

恵み深い天の父なる神さま、ダビデのこの詩篇を私たちのたましいに刻み、私たちの祈りとし、賛美として年末最後の礼拝を、忙しい中でありますけれども、また雨の中でありますけれども、守ることのできる恵みを心から感謝致します。

一年を振り返りますと、辛いことも悲しいことも大変なことも、いまだに課題として抱えていることも沢山ありますが、でもそれらすべてにまさって、あなたのみ守りと導き、あなたの助けとあなたの良くしてくださったことは、まさっていることを私たちは覚えています。

主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな(同2節)――忘れ易いものです。つぶやきや不平に流れ易いものです。どうか、私たちの信仰を支えてくださり、いつでも現状よりも、はるかに大きいあなたのみわざを、いつでも私たちの罪と恥よりも、はるかに大きなあなたの憐れみを、思い起こすことができますように助けてください。

一年間変わらず、私たちはちりに過ぎない者でありました。どんな偉業を達成したとしても、それはちりに過ぎないことであります。でも、あなたがちりに過ぎない私たちを心に留めておられ、風前の灯火のような、折れた葦のような存在の私たちを心に留めていてくださる、この事実は私たちの希望です。どうか、背伸びせずにあるがまま、あなたに受けとめていただいている自分を生き抜くことができるように、私たちにつつましい信仰と、同時に、全的にあなたに信頼する信頼を与えてくださることをよろしくお願いいたします。

明後日には新しい年を迎えようとしていますが、今年は前年に増さるところの祝福を私たちはみな期待しています。時に前年に増さるところの課題が存在するでしょう。しかしあなたの善、善にして善をなしたもうあなたの恵みはさらに増し加わっていることを心から信じ、年を越そうとしておりますので、私たちに勇気を与えてください。

しばらくみことばに耳を傾けますが、どうかそのみことばを通して、私たちに様々なことを教え、何よりその信仰を掻き立て、また私たちを慰め励ましてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆聖書個所         ルカ2:21〜35

21八日目が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
22さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。
23――それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」と書いてあるとおりであった――
24また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。
25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
26また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
27彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。
28すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、
   みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
30  私の目があなたの御救いを見たからです。
31 御救いはあなたが
    万民の前に備えられたもので、
32 異邦人を照らす啓示の光、
   御民イスラエルの光栄です。」
33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」

☆説教           救いを腕に抱き

毎年のことでありますけれども、クリスマスの片づけるのは早いですね(笑)。あっという間に。毎年教会でも、こういうことばで申し訳ないのですが、『撤収』という感じで、クリスマス・ツリーから何から全部撤収です。これをすっと済ませませんとねぇ、いろいろ年末のことが進みませんので、祈祷会で、いやその日のうちにでしたかねぇ(笑)、全部撤収致しました。

そうしますと、TVの宣伝でももっぱらお正月の宣伝が増えて行きますので、私たちの心はすぐにそちらに行ってしまうのですが、しかし伝統的にキリスト教会の、いわゆる説教暦(ごよみ)というものがあります。
私は必ずしもそれに全部従ってはいませんが、伝統的にキリスト教会の説教暦ですと、今日読んでいただいたルカの福音書のこの個所というのは、年末最後にやってまいります。

(理由@)それは当然のことで、21節を見てください。イエス・キリストが誕生されて、つまりクリスマスを終えて、「八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれるようになった」と。
そして22節に、「モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて来た」となりますと、クリスマスを超えた迎えた聖日にふさわしい、クリスマス後の礼拝にふさわしい聖書の個所になるということは当然であります。

(理由A)もう一つ理由がありまして、それは、クリスマスの出来事は例えば、ルカの福音書ではマリヤの賛歌から始まります。マリヤは十代の中盤であっただろうと言われていますが、逆にシメオンの賛歌は、シメオンはイエス・キリストを腕に抱いた時に「もうこれで充分です。私の一生の務めは終わりました」というぐらい、彼は老齢を迎えておりました。
そういう意味で一年の最後にふさわしい、晩年の祈り、私たちは晩年を迎えている訳ではないですけれども、しかしある期間を締めくくるのにふさわしい祈りだとも言われています。

クリスマスから八日目、「両親は幼子イエスをささげるために」(22節)神殿にやってまいりました――22節は献児式ですね。
そして24節には、神のいけにえを携えていた。
その時に、神殿に「シメオンという人がいた」(25節)。25節を今日は集中的に一緒に学びたいと思いますので、25節、ご一緒に読んでまいりましょう。

25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。

クリスマスの恵みにあずかった、幼子イエスを礼拝したという意味で、私たちがよく知っているのは、例えば社会の底辺にいた羊飼いたちですよね。あるいは、イスラエルの民ではないですけれども、遠くから旅して来て宝ものを主にささげた東方の博士たち、でもそれだけではない。
ここにシメオンという人物がいます。そして続く36節には女預言者のアンナという人物もいます。れっきとした筋の通った人々です。

クリスマスの恵みにあずかったのは、本当はなかなか神殿に来て礼拝ができない、社会の底辺にいた人々も含まれていますが、そしてイエス・キリストも馬小屋で生まれたわけですが、でも実はそれだけではない。心から主を信じ、そしてまっすぐに生きて来たシメオンやアンナも同じようにクリスマスの恵みにあずかっていますね。

このシメオンから2つのことを学んで、新しい2013年に踏み出す備えをしたいと思います。

1)シメオンは希望の人でありました

25節にもう一回読んで行きますが、「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」。どれほど待ち望んでいたか。29節見てください。

29「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」

これは28節「幼子を抱いた」瞬間に言ったことばです。「安らかに去らせてください」というのは、「神さま、もう死んでもいいです」(という意味)。もうストレートに、自分が待ち望んでいたことが現実となった。これほど嬉しい事はない。私の人生は完了した。もう死んでもかまいません――それほどまでに彼はこの日を待ち望んでいたのです。救い主がやって来られることを待ち望んでいました。

もしかしたら、同じ願いの友人もいたに違いありません。彼らが先に死んで、一人残されていたのかもしれません。本当にその望みが叶うのか。でもそれが叶ったときに、自分は「死んでもいいです」と言えるほどに、シメオンは待ち望んでいました。

5世紀の偉大な神学者、アウグスチヌスという人物がいますね。「告白」という本、今でも私たちは岩波文庫から読むことができます。「告白」という彼の自伝の中で、彼がイエスさまを信じるに至った経緯を記しています。

彼は32歳の時に主の恵みにあずかりました。そこに至るまで、彼の信仰のために、お母さんのモニカが熱心に涙の祈りをささげていた――これは「告白」に出てくる有名な話ですね。
  
モニカの教会の牧師は言いました。
「涙の子どもは決して滅びるものではありません」

これはまた有名ですよね。クリスチャンのお母さんたちはみな、このことばに励まされるわけです。時には、子どもたちのために涙を流しながら祈る。その涙の子どもは、決して滅びることはない。

アウグスチヌスは、32歳の時にイエスさまを信じ、それから8ヶ月後のイースターの夜、アンブロシウスという有名な牧師から洗礼を受けます。
洗礼を受けたその年に、長年我が子の信仰のために祈り続けた母モニカは、シメオンの祈りではないですけれども、その年に天に召されるのです。
その前に、アウグスチヌスは、自分の洗礼を、遠い郷里の母に知らせに行くのです。
        
そのときのことを、彼は「告白」のなかでこう記しています。ちょっと読んでいきますね。
    
「それから、私は母のところに行き打ち明けました。母は大喜びでした。このことがどのようにして起こったかを話すと、母は躍り上がって、神をたたえていました。」

母モニカは、涙と共に願ってきたこと以上のことを(神は)してくださったと、喜びますが、アウグスチヌスはこう記します。

「それは母が望んでいた以上に実り豊かで、私の産むべき肉の子どもたちに期待していた喜びよりも、遙かに尊い清らかな喜びでした。」
            
とても印象的な文章です。「私の産むべき肉の子どもが生まれることを期待していた喜びよりも、はるかに尊いきよい喜びだった」というのは、モニカは、結婚していたアウグスチヌスがやがて子を抱えて帰って来るということを、心待ちにしていたのです。その気持ちはわからないではないですね。

しかし、そのこと以上に、アウグスチヌスが救いにあずかったということを、母モニカはもう喜んで喜んで、そして、その年に亡くなって行くのです。
親であればだれでも、息子が出世するように、息子によい家庭が与えられるように、多くの孫に恵まれるように、祈るのでありましょう。モニカも母親であれば、それを願わないわけはない。
しかし、それらを越えてもっと深く願っていたのは、実は息子アウグスチヌスの救いであった。
              
そして、それを目の当たりにしたときに、モニカも言います。「もう死んでも良い」―――そしてそれが現実になる。
それほどまでに、愛する者のたましいが神の愛に捕らえられ、神のもとに平安を見い出し、神の子どもとなることを、モニカは願っていた。

私たちはいったい、今年どういう願い事をもって、ここまで来たのだろうか? 
人生の中で沢山の願いはありますよ。自分の人生が上手に展開するように。自分の家族が守られますように。この危機を脱することができますように……。
でもアウグスチヌスが言うのですけれども、実は人間には、それをはるかに超えた清らかな喜びもあるのだと。

それほど強く、母モニカも、老人シメオンも「待ち望んでいた」。
シメオンの挫折というのは、何しろ旧約聖書の最後から数えて400年、預言者は出て来ていないのです。マラキからずーっと400年、救い主の現れはない。イザヤから数えますと、500年も経過していて、いまだにイザヤ書で預言されている救い主の誕生を見ていないのです。

しかし決してその望みを失わない。母モニカにしても、アウグスチヌスがますます神から遠ざかっていく――都会に行って、ローマの大学で学びをするようになればなるほど、心は神から遠ざかっていくという現実の中にあっても、モニカは自分の息子アウグスチヌスが救われるという望みを失わないのです。

シメオンはマラキの預言から400年、イザヤの預言から500年経過していても、その幻を離さないのです。自分は必ずこの目でキリストを見る。必ずキリストを見ると思いながら死んでいった人は、他にも沢山いるのかもしれない。

でもここに大切なことばが記されています。25節の2行目から読んで行きます。

25この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。

私はこの後半の方がとっても重要なのじゃないかなと思います。私たちが主の恵みを待ち望んでいる限り、聖霊は希望の力となって、私たちのうちから離れることはない。聖霊は留まり続ける。

あまりにも待ち望んで絶望してしまうという人もいるかもしれない。いつまで経っても自分の願いが叶わないということで、失望してしまうかもしれない。
でも私たちが失望から希望へと励まされていくことは――待ち望む人の上に聖霊は留まり続ける。いかなる問題の解決でも、いかなる状況下でも、神を待ち望む人の上に、聖霊は留まり続けて、その人を励ましてくださる(――この約束のみことばに信頼して立っているのです)。

青年アウグスチヌスは、大都会カルタゴにやって来ます。そこには、彼が求めたものが沢山ありました。――恋愛があり、都会の楽しみがあり、世俗の楽しみがあり、学業の業績があり――それらの虜になっていくアウグスチヌスなのです。
しかしそれでも、聖霊は彼を追いかけて行く。決して彼から離れようとしない。なぜなら、モニカが自分の息子アウグスチヌスの救いを必死で待ち望んでいるからです。
母モニカが待ち望んでいる間、聖霊はモニカから離れず、のみならず、聖霊は息子アウグスチヌスからも離れないのです。
      
その頃のことをアウグスチヌスは振り返って、「告白」の中でこう言っています。
「神さま、あなたは私とともにおられたのに、私はあなたとともにはいなかった。」

悲観的に解釈すれば、「神さまあなたがこれほど愛しておられるのに、私はあなたの愛など何にも考えずに、自分の好き放題のことをしていました」と、そっち(***私たちの罪深さ)を強調する人もいる。

でもその逆を強調することもできて、「私があんなに離れているのに、あなたの愛は私をどこまでも追いかけて、私から離れることはありませんでした」と、(***神の恵み憐れみの深さを)解釈することもできるではないですか。
私たちの気がつかないところで、私たちの家族の気がつかないところで、神の霊はいつも私たちの家族と共にあったということをアウグスチヌスは認め、また私たちも認めるのです。
 
2)シメオンは救い主をその手に抱くのです

28すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。

もちろんシメオンは祭司であろうと思います。ですから「腕に抱き」というのは、献児式の時に、今でも幼子が抱かれるように祭司に抱かれたのだと思います。
シメオンは、自分が抱いた幼子イエスにいったい何を見たのでしょうか。25節、もう一回戻っていただきまして――
    
彼はイスラエルの慰められることを待ち望んでいたのですから、「慰め」を見たのでしょうね。あるいは、30節には彼は「御救い」を見た。そして32節には「異邦人を照らす啓示の光」とあります――「光」を見た、「神の栄光」を見た。
      
でもシメオンはもっと深いことを見るのです。33節、それは、両親も見ていないことでした。

33父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
34また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。

このことばの意味をやがてマリヤは、30数年先に解る。シメオンはいったい何を見ていたのか?
それはこの子どもは、やがてイスラエルの多くの人のための反対のしるし、受難の対象となり、そしてその痛みがお母さんであるあなたの心を刺し貫くでしょう――シメオンは十字架を見ていました。

そういう意味で十字架を通して、主の慰めを見、十字架を通して、主の救いを見、十字架を通して、神の栄光を見た。
だからこそ、苦しみの多かったシメオンの人生の果てに、それは神の救いとなり、慰めになったのです。

私たちにとって、何が本当の慰めであり、救いなのか。
今年一年間振り返って、神さまに感謝することが沢山あるという人もいれば、今年一年間ほどしんどい一年はなかったという人もいると思います。
しかし私たちはシメオンと同じように、主の救いを抱いて、来年へとまたごうとしているのです。
私たちは十字架を仰ぐ時に、私たちは主の救い、神の愛、そして究極の勝利をこの腕に抱いて、2012年に別れを告げ、新しい年へと踏み出そうとしているのです。

その時に一つだけ覚えておきたいことがある。それが25節にもう一回戻っていただくのですが、「この人は正しい敬虔な人であった」。
正しいというのは真面目な人です。敬虔な人というのは、神を恐れ、神を敬う人です。

シメオンだから主イエスを抱くことができたのか?まぁ、祭司ですから他の人は抱くことはできなかったのかもしれません。
でも私たちが覚えておかなければいけないことは、主を抱くのに資格は要らないのです。
なぜなら、ボロボロの、家畜のえさを入れた汚い飼葉桶でさえ、主を抱いているのです。ボロボロの家畜小屋の、そのえさ桶でさえ、主を抱くために神さまは用いてくださった。
だとしたら、私のような罪人でさえ、主を抱くように神さまは用いてくださる。私のように愚かな者でさえ、この胸に主を抱くことが許されている。

でも一つ言えることは、シメオンは「正しく敬虔な人」であったということです。
人生において、人生に対して、彼は真面目であった。
また彼は、敬虔であった。つまり神さまに真摯にへりくだる人であった。

私たちは、飼い葉桶のように汚れた者かもしれません。馬小屋のようにぼろぼろかもしれません。
しかし、信仰的に真面目に主に仕えようと思っています。

私は時々、「先生って自由ですね?」って言われますね。いいか悪いかわからないですが(笑)。
またある時、「先生って、破壊的ですね」「いや何にも壊してないよ」「いえ、そういう漢字ではなくて、「はかい」というのは戒めを破る。先生は破戒的ですね」。
私は牧師の家庭に生まれましたから、自分ではものすごく真面目だと思っています(笑)。自分では。でも反面、戒めに縛られたくないなぁというその反骨的な、反発的な面も強いですから、おおよその既成概念はやっぱり破ってしまおうと思うわけです。

私が高校に入った年、全国で制服が廃止になる公立学校が増えました。私の世代というのは、高校私服世代。大学紛争が一段落し、そして大学紛争のような何かに向かって、正義感にかき立てられて、自分の人生の情熱を使うというよりは、好き勝手させてくれというような世代に育ちましたので、どちらかというと、まじめな人が分からない。

私はよく子どものころから思っていました。人はどうして毎日学校へ行くのだろう(笑)。この疑問を持ち始めますとですね、人生大きくつまずきますね(笑)。人はどうして学校へ行くのだろうとか、人はどうして毎日会社へいくのだろうとか、人は会社に行って何しているのだろうかとか、人生のおおよそしなければいけないルーティーンから、いかに外れていけるかということを考えてしまうのです。

生き方はそれぞれです。でも一旦神さまに向かうとそこには、神さまを恐れるような敬虔な思いがなければいけない。私たちの性格も、私たちの気質も、私たちの育ちも、私たちの世代もみんなさまざまです。
この教会で、年配の方々がわりと真面目で、若い世代がわりと自由で――いえ、そんなことはない。年配の方でも自由な方はいらっしゃる(大笑)。
でも教会という場所って、どういう場所かと言えば、一旦神さまの御前に立ったら、一旦神さまの視線を感じたならば、背筋を伸ばして主を恐れ、主に信頼し、そして信仰的に真面目に主に仕えようと、このことがやっぱり私たちは筋が通っている。

ホスピス病棟がある病院で、こんな報告を出しました。
いま日本でも、海外でもそうですけれども、ホスピス病棟と一般病棟と分かれているじゃないですか。ホスピスの方は24時間訪問できますし、料金体制も違いますし……。
ある時、ホスピスで、完全に末期の人と、一般病棟にいる人と混ぜてみた。
病院側の期待としては、生涯の最後の時期を迎えている人と、そうでない人を一緒の部屋に入れて、共に和やかに、元気に生活することを願って、一緒にしてみたというのです。

しかし、結果的に試みは失敗に終わるのです。それは、最後の時期を過ごしている人から苦情が出たんですね
その苦情とは、非常に単純で、より元気な人が、まじめでない。人生に対してまじめでない。
自分たちはいま、死に向き合っている。そして残された時間をいかに有効に過ごすかを真剣に考えている。
でも多くの普通の病気の方々は、病気が治って退院して、どんな楽しみをしようかということばかりを考えている人が結構多い。もちろんそれだけ生きるだけ元気があるのだろう、生きる希望があるのだろうと思いますけれども、

でも病院側が下した最終的な判断は、まことの生きる元気、生きる喜び、というものは、まじめなものから出てくる。不真面目なものからは出て来ない。
もちろん、どんな苦しみの中にも、ユーモアはある。どんな苦しみの中にも笑いはある。
でも、このユーモアも、真面目に人生に向き合っている人から出て来ないと、力にはならない。単なるお笑いで終わってしまう。

教会はお堅い。もしお堅い部分があるとしたら、まさにこういう堅さです。
私たちは普通の人生を普通に楽しむ我らです。音楽の趣味も違うでしょうし、娯楽もあるいは趣味も、様々な世界で皆さんは楽しんでおられる。
でも一旦神さまを礼拝する姿勢に入ったときに、私たちはシメオンのように真面目で敬虔な人に変わるのです。
それは私たちに二面性があるという意味ではない。でも私たちは神の御前に座した時に、その礼拝する思いに不真面目さは入って来ない。

私たちはシメオンのように敬虔でないかもしれない。
でも覚えておこうじゃありませんか。
馬小屋でさえ、飼葉おけでさえ、主を抱くことができるのだったら、私たちもまた主を抱くことができるのです。そして、私たちは主を抱いているのです。
でも主を抱いている自分の顔を、鏡でよ〜く見るじゃありませんか。それは決して不真面目な顔ではないです。
それはきっと主の救いにあずかっている喜びが、どこかにふつふつと、音を立てながら湧いて来ている。

こんなにつまらない人生かもしれない。こんなに厄介なことが次から次に上がってくるかもしれない。
でも私たちは、主の救いを抱かせていただいているんだというその顔を見たときに、きっと私たちは思うのです。
それはイエスさまを抱いて来たのではなく、イエスさまに抱かれて来たのだと。
この方はシメオンに抱かれているのじゃない。この方は、シメオンを抱いておられる。

そういう真面目な思いをもって、新しい年へ踏み出していきたいと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、どうか、希望の人であり続けることができますように。
特別に、新しい年へと踏み出そうとしているのでありますから、新しい希望に満たしてください。

そして私たちに心から納得させてください。希望を抱いている限り、神を待ち望んでいる限り、聖霊は私たちのもとを離れることはないということを。
そして飼葉桶のような私たちでさえ、主の救いを抱くことが許されていることを。

そんな私たちは主を抱いた時に、神を恐れ、神に信頼するまっすぐな信仰を持つことができるように導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2013.01.01 - 00:45

175.133.12.55 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 6.0; Trident/5.0; SLCC1; .NET CLR 2.0.50727; InfoPath.2; .NET CLR 3.5.30729; .NET CLR 3.0.30729; .NET4.0C; OfficeLiveConnector.1.5; OfficeLivePatch.1.3; BRI/2; BOIE9;JAJP)

Name   E-Mail   Password

 前文 関東新年聖会のお知らせ
 次文 キャンドル・サービスの説教:「救い主は...
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
394Simple view *^^*2/24神の人モーセ(32)契約の血 出... T・Y 2013.02.26 9452
393Simple view *^^*2/17 選ばれた人生を行く 創世記13:... T・Y 2013.02.18 7443
392Simple view *^^*2/3転会式と説教:神の人モーセ(31)... T・Y 2013.02.04 7390
391Simple view *^^*1/27教会総会聖日:「へりくだった主に... T・Y 2013.01.28 9531
390evergreen.pdf [1.2 MB] ダウンロードSimple view *^^* エバーグリーン・子どもゴスペルコンサ... [371] T・Y 2013.01.28 43503
389Simple view *^^*1/20 あるものとないもの 使徒3:1〜1... [1] T・Y 2013.01.21 6660
388Simple view *^^*1/6初聖日礼拝:「再生はあり得るのか?... T・Y 2013.01.07 787
387Simple view *^^*説教音声ファイルがダウンロードできます 牧師 2013.01.03 5758
386Simple view *^^*1/1元旦礼拝・聖さん式:「初めの日から... [1] T・Y 2013.01.03 13915
385関東新年聖会.jpg [663 KB] ダウンロードSimple view *^^*関東新年聖会のお知らせ T・Y 2013.01.02 7355
384現在参照中の文章です...12/30 年末礼拝:「救いを腕に抱き」... T・Y 2013.01.01 5383
383Simple view *^^*キャンドル・サービスの説教:「救い主は... T・Y 2012.12.25 5754
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前の頁はありません 次頁
前へ戻る 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*